第五十七話 残された人々
雫ちゃんが居なくなった。
その事を私が知ったのは、宮子ちゃんと本当の意味で結ばれた翌朝、朝食の場での事だった。
気もそぞろに朝食を機械的に口に運び、私は執務室に籠って考えを整理する。
まず。彼女の姿が見えない事に疑問を抱いた私への、メアリの解答は端的なものだった。
「雫さんは館を辞されました」
だから、正確には彼女は失踪したのではなく、退職したという事になる。
退職。
まあ、あり得る事だ。就職したなら、退職していく事もある。出会いがあれば別れもある。
問題は、それがあまりにも唐突な断絶であった事だ。充分な説明もなく。
当然メアリにも理由を問いただしたが、どうやら彼女は雫ちゃんの意思を確認しただけで、その訳までは知らないし興味もないようだった。
正直言うと、ショックだ。私なりに、雫ちゃんとは良い関係を築けていたという自負があった。下手をすれば、宮子ちゃんよりも、互いに胸襟を開いていた、そのように考えていた。
それが、何も言わず、一晩にして。
今までの私であったら寝込んでいたかもしれないし、正直今でも思考は混乱している。
だがそれでも取り乱さずにいられたのは、私以上にショックを受けている人が、すぐそばにいたからだ。
「だ、旦那様……これって、やっぱり……」
「落ち着いて、宮子ちゃん。君のせいじゃない」
「だ、だって……」
私の部屋でソファに座る宮子ちゃんは、可哀そうなほどに狼狽えていた。侍女としてふるまう余裕もなく、今は私がメアリにも許可を取って、執務室で落ち着かせている。とてもじゃないが、今の彼女に仕事をさせる訳にはいかない。
メアリも良い顔はしなかったが「仕方ありませんね」という感じだった。多少は人の心を介する侍女長で助かる。
「きっと、私のせいなんです。私が旦那様に告白して結ばれたから……彼女だって、旦那様の事、好きだったのに決まってるのに……っ。わ、わ、私が、雫さんから、旦那様を奪ったから……
「いいから落ち着いて、ね?」
顔面蒼白で自分を責めている宮子ちゃんを見ていられず、私は席を立つとその隣に腰かけると、彼女の肩を引き寄せた。
抵抗せず胸元に抱き寄せられる彼女を抱えるように抱きしめて、あやすように背中をぽんぽん、と優しく叩く。
「いいかい、そもそも、宮子ちゃんと話すように勧めてくれたのは雫ちゃんなんだ。これまでも、何度も雫ちゃんは宮子ちゃんとの間を取り持つように背を押してくれた。恋敵だと思っていたなら、そんな事をするはずがないし、それを理由に屋敷を黙って出ていくなんてありえない。君のせいじゃないよ、宮子」
「で、でも、だって、じゃあ……なんで?」
「……そうだな。なんでだろうな」
そこは、私もわからない。
どうして宮子ちゃんの背中を押すような事をしたのか、私達二人が結ばれるように仕向けたのか。それでいて、どうして自分も積極的に私に絡みにきていたのか。
彼女の行動は合理的なようでいて、矛盾に満ちている。しかしそれは私と宮子ちゃんから見た視線であって、恐らく、雫ちゃんからすると何か、道理の通った理由があるのだろう。
その視点、理由には興味があるが……それよりはまず、いなくなってしまった彼女をどうするかだ。
雫ちゃんは、自分からこの館を出ていった。
彼女もまた現実の人間であり、宮子ちゃんと同じく、望みを以て侍女としてこの屋敷に努めていたというなら、それはつまり、彼女の願いはかなった、もうこの夢の館は必要ない、そう考えた、という事だ。
その事実の一点のみで見れば、それは良い事なのかもしれない。
哀しい夢に救いを求める事は、もう必要ないという事なのだから。
……本当に?
「少なくとも、はっきりしている事。どんな理由があって。雫ちゃんが、何か答えを得たのだとしても。……逃げるように黙って姿を消した。この一点は、変わりない」
本当に、満足を、答えを得た者が取る行動か?
むしろ逆だ。黙って姿を消すなど、逃亡者、敗北者の振舞だ。あの物静かだが意思の強い女が、そんな情けない真似をするだろうか?
「じゃあ、や、やっぱり、私の……」
「はい、そこ。無限ループに陥らない。……大体、この夢の世界でそういうの気にする必要がある? これまで通り、三人で楽しくやっていけばいいじゃないか。そもそも、これまでそうしてきたんだから。どうして突然、身を引く必要がある? 不自然だ」
「そ、それは……あうち」
またしても自責のループに入ってしまった宮子ちゃんを理屈で言い負かしつつ、私はそのおでこを優しく指ではじいた。
目を白黒させて額を両手で押さえる宮子ちゃんにくすりと笑う。
全く。自罰を求めるあまりにこんな夢に迷い込むだけあって、一度ネガティブ方向に舵を切ると際限なく落ち込んでしまうのは宮子ちゃんの悪い所であり可愛らしい所だ。
そのおかげでこうして結ばれたのだから悪い事だと私は考えるべきではないのだろうけど、そのせいで彼女自身を苦しめているなら本末転倒だ。
そう。本末転倒というなら、雫ちゃんもそうだ。
「宮子ちゃんが雫ちゃんの事を理解しているように、彼女も君の事を理解していたはずだ。こうやって不意に姿を消す事で、宮子ちゃんが苦しむのも彼女は理解しているはずだ。にも関わらず、結局こんな事になっている。恐らく、雫ちゃんもあまり冷静じゃない。本人に自覚があるかどうかは置いといて……それはすなわち、本意ではない、という事だ」
「だ、だったら……」
「うん。せめて、一度会って話をしないとね。その結果どうなるにしろ、このまま終わらせる訳にはいかない」
大体、私だって傷ついたんだ。目の前で宮子ちゃんが哀れなほど取り乱してるから冷静っぽく振舞えてるだけで、心は傷だらけ、ロンリーハートという奴である。
「しかし、困ったな。だとしても、現実……いやこれは夢だから、夢想問題として、雫ちゃんを探す方法がない。彼女はもう、この夢の世界には物理的に存在しないだろう。だったら現実世界で探すしかないが……」
それはほとんど不可能だ。
身体的特徴だけで、1億人以上いる日本人の中から、たった一人の女を探し出すなんて、理論上可能、という話に過ぎない。
確かに雫ちゃんは目を見張る美人だから、候補はもしかしたら百万人ぐらいに絞れるかもしれないが、南は沖縄、北は北海道まで、探索範囲が広すぎる。私が現実でも大富豪だったら可能かもしれない、というレベルの夢想に過ぎない。
「あ、あの。それでしたら、私がなんとかできるかもしれません」
「え?」
「雫さんとは同じ部屋で寝泊まりしてたので。結構お喋りもして……それで、現実での生活の話も少し。だ、だから、彼女が大体どのあたりに住んでいるかはわかります!」
懊悩していた所への突然の提案に吃驚するが、いや、しかしおかしな話ではないか。私と違って、彼女達は最初からこの夢と現実の関係を理解した状態だったから、そりゃあ二人きりならそういう話もするだろう。
思わぬところで光明が見えた気がする。
「そうか! じゃあ、頼む、宮子ちゃん。もう一度、雫ちゃんを私の前に連れてきてくれ!」
「はい! 私も、このままじゃ納得がいきません! 私にお任せください!」




