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「今晩はいかがなさいますか?」と侍女は囁く  作者: SIS
第二部 彼女達の贖罪

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第五十四話 境界線を踏み越えて


 本日の夕食は、見事な鮭のバターソテーだった。


 たっぷりと脂がのりほんのり塩辛い鮭の切り身を、まろやかなバターの風味が包み込んで舌触りを柔らかくしている。バターでサクサクに焼き上がった焼き面と、柔らかに解れる身のグラデーションを楽しみながら、私はナイフを入れて少しずつ口に運ぶ。


 背後には、いつものように侍女達が控え、無言で私からの指示を待っている。だが、その空気はいつもと少し違う。


 理由は言うまでもない。いつも無言ながらも朗らかにしていた宮子ちゃんが、今は冷たい大理石の彫刻のように、シンとした冷たい空気を放っているからだ。それは拒絶というよりも、自らの内に向けられているように見えた。自分自身を、圧縮しようかという、抑制。彼女の周囲の空気が、彼女自身にむけて収縮された事で、空間の温度が下がっているような。


「宮子ちゃん、水」


「はい、畏まりました」


 指示を出せば、打てば響くように反応はある。まるで待ち構えたかのように、柑橘類の輪切りを浮かべた水差しから、コップに水が移される。


 しかし、その仕草には聊か距離がある。エプロンドレスの裾一つ私に触れる事の内容な、丁寧な仕草。それは、ある意味では侍女として正しい対応ではあるのだが。


 不可思議な気持ちだ。見た目以上に態度に距離を感じるのに、これまで培った関係性がなせるかのように彼女の対応は阿吽の呼吸だ。呼びかけこそ必要なものの、私が何を望んでいるかわかっているように、具体的な指示を出す前に彼女はすでに水差しに手をかけていた。


 くすぐったいような、こう、手の届かぬ所にかゆみを感じているようなぎこちなさ。


 その違和感を、私はバターソテーの濃厚な残り香と共に、爽やかな香りの水で喉の奥に流し込んだ。ディナーも、懊悩も、一度腹に流してしまえばあとは一緒だ。


「ご馳走様。美味しかったよ」


「それはよろしうございました」


 侍女達がしずしずと片付けを始めるのに任せ、食堂を後にする。


 ……今晩。


 今晩で、宮子ちゃんの本心を聞き出そう。


 私は襟元を少し緩めると、まずは浴室に向かった。






 そして、夜。


 鐘を鳴らした私の呼び出しに応えて、小さくドアがノックされた。


「旦那様、宮子です」


「ああ、いらっしゃい。鍵は開いてるよ」


「……失礼します」


 扉の音一つなく、しずしずと部屋に入ってくる長髪の美女。ゆれる蝋燭の灯に、少し俯き気味の顔が闇の中に浮かび上がる。


 彼女は私から心なしか距離を置いて、両足をそろえて立ち止まった。


 遠い……というには、いささか近くはある。私が今腰かけているベッドの縁。そこから立ち上がって、手を伸ばしてギリギリとどかない、という距離だろうか。


 あるいは、それは彼女の躊躇いを表している距離なのかもしれない。虚勢、とは違うが。薄皮一枚ひっかけば破れそうな、薄っぺらな形だけの拒絶。


 そこに彼女の本心を見たような気がして、私は少しだけ勢いを得る。


 だけど焦りは禁物だ。慎重に、蝶が蜘蛛の糸に絡みつくのを待つ蜘蛛のように、機を伺い、されどその時が来れば大胆に。


 そのための確信は、彼女達が与えてくれた。


「よく来てくれたね。てっきり、来てくれないのかと思ったよ」


「旦那様の御命令は絶対ですので。ご要望があれば、応じさせていただくまでです」


「まるで、ここに来るのが不本意みたいな言い分だね。ま、いいよ。こっちにおいで」


 私が呼び寄せると、彼女は一瞬、瞬きほどの間を置いて、私の方に踏み出してきた。そのまま、体二つ分ぐらいを空けて腰かけようとする彼女に、私は駄目だしをした。


「違う違う。こっち」


「え……」


 自分の太ももをぱんぱん叩いて合図する私に、宮子ちゃんが惚けたように小さく口を開いて、すっ、と顔を背ける。その頬は、微かに赤に染まっているように見えたが、彼女は私に注視されるのを恐れるように、急ぎ足で立ち上がり、私の膝へと腰かけた。


 軽い体重が太ももに乗る。


 ……雫ちゃんと比べると背も高く、運動神経もよさそうな宮子ちゃんだが、やはりきゃしゃな女の子であるのは変わらない。お世辞ではなく、本当に軽い体重に、小さく口元に笑みが浮かぶ。


「こ、これでいいですか……あっ」


 無言で、彼女の腰に腕を回して、逃さないぞ、とホールドする。肩を小さく跳ねさせる彼女の肩、豊かな黒髪に顔を埋めるようにして、私は小さく息を吸った。


 いい匂いがする。シャンプーと、ほんのり香水の匂い。


 彼女を今日呼ぶのは伝えていなかったから、事前に準備していた訳ではないだろう。恐らく、今日呼ばれても呼ばれなくてもどっちでもいいように、きっと念入りに髪を洗って、香水をさしていた。部屋の中、鐘が鳴るのを心待ちに、狭いベッドの中で待っている宮子ちゃんの姿が瞼の裏にありありと描きだせる。


 そして、それに加えて、微かな女の匂い。幾度となく夜を共に越えてきたそれ。


 彼女が顔を背けていてよかったかもしれない。多分、今の私はにちゃっとした感じの嫌らしい笑みが浮かんでいたかもしれない。まあ、いやらしい事をするんだから大目に見て欲しい。うん。


「ん……旦那様、お戯れ……をっ」


「まだまだ全然、これぐらい序の口でしょ? いつももっとすごい事してるんだし。それとも、本当は嫌だった?」


 宮子ちゃんの柔らかい体を楽しみながら、ぐっと強く抱き寄せる。我ながら、なんていうか悪い遊びを覚えてしまったものだ。


 ただ、私の中でも、意味合いが変わってしまったのも事実。かつてはこれは夢であり、彼女達は都合のいい幻想だった。だから、どれだけ楽しい時間を過ごしても、それは結局、私の脳内で処理された都合のいい幻想、一人遊びに過ぎなかった。そう思う事でやりすごそうとしていた。


 今は違う。私は認めた。


 君は? 宮子ちゃん、君にとって、私はなんだい?


「は……ん、旦那様……?」


「まあ、嫌じゃないはずはないよね。口ではなんだかんだいっても、見知らぬ男に触れられるのは、怖くないはずないよね。痛いし、気持ち悪いし……」


「…………」


 私の言葉に、宮子ちゃんは応えない。


 それは私の言葉が事実だから? それもあるだろう。だけどそれだけではない。


「でも、今はそれだけじゃない。私の己惚れでなければ……違うかい?」


「っ、旦那様、私の立場ではお答えしかねま……ぁっ」


「宮子ちゃん。その、旦那様が聞いているんだ。答えなさい」


 口答えする彼女の言葉を途中で遮って、私は強く問いただす。


 普段、彼女達に囁く事の無い、強い命令口調。


 ひく、と怯えるように宮子ちゃんが体を震わせた。


「そ……それは……い、言えません……どうしても……」


「私が言え、と言ってるのに?」


「うっ。も、申し訳ありません、本当にゆるして……」


 いやいや、と顔を背けたまま頭を振る宮子ちゃん。その声色は本当にせっぱつまっていて、今度こそ本当に強い拒絶を感じた。


 だけど、ごめんね。


 今日は、その一線を踏み越える、と決めたんだ。


「そう。なら……しょうがないねっ」

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