第四十五話 追撃
「うわあああ!」
ドスドス地面を揺らして向かってくる黒い獣。
逃げないと、と頭ではわかっているものの、足が地面に張り付いたように動かない。恐怖に強張った筋肉が、脳の命令を受け付けてくれない。
絶体絶命のその瞬間、右の籠手から白い翼が羽ばたいた。
『クケェー!』
ペルセポネ。
真っ白な猛禽が、力強く翼を打ち鳴らしながら羽ばたいた。そのまま獣の頭に向かって飛び掛かると、鋭く爪でひっかき、体格差もものともせずに掴みかかる!
『クケエ、ケエ!!』
『ギシャアア!!』
「っ! 今だ、雫ちゃん!」
ペルセポネの突貫で、獣の足が止まる。私はそこでようやく我に返り、雫ちゃんの手を引いてその場を逃げ出した。
「ペルセポネ、無理はするな、適当なところで引け!!」
『クエッ!!』
その甲高い鳴き声を肯定の意思と受け取り、あとはもう、振り返らずに直走る。藪をかき分け、雫ちゃんの手を引いて、とにかく距離を取ろうと遠くへ直走る。
「はっ、はっ、は……っ!」
「ふっ、ふ……っ」
何年振りかの全力疾走で息が乱れる、胸が爆発しそうだ。息が切れるまでひた走って、私はある大きな木の根元の裏側に回り込んで、足を止めた。
「ぜぃ、ぜぃ、ぜぃ、じずぐちゃん、だいじょうぶ……?」
「はっ、はいっ。な、なんとか……」
情けなくも息が乱れ切っている私と違い、雫ちゃんはそこそこ余裕があるようだ。これは、うーん、みっともない。
恥も外聞もなく汗をだらだら流しながら息を整えていた私は、そういえばずっと雫ちゃんの腕を掴んでいた事に気が付いた。
「あ、ごめん。握りしめていたくなかった? 離すね」
「あ……っ」
握手みたいな形でつないでいた手を放そうとするも、何故か私が手を開いても途切れない。みれば、雫ちゃんの細い指が、離すものかと私の指を握りしめている。力を入れすぎて、ただでさえ白い指が青白くさえ見える。
雫ちゃんが恥ずかしそうに顔を伏せるのを見て、私は小さく笑みを浮かべた。
「はは、ごめん。もうちょっと繋いでいても、いいかな?」
「……あ、ありがとう、ございます……」
「ん? なんのことかな、私がまだ繋いでいたいだけだけど」
まあ考えてみれば、いきなりあんな獣に襲われたんだ、びっくりもするよね。私もびっくりしたけど。
なんでも冷静にこなす印象があった雫ちゃんだけど、さすがにあんな猛獣は許容範囲外か。これで怖がる様子が女の子らしい、と表現するのは流石にちょっとずれているだろうというのは私にもわかる。
「いやあ、びっくりしちゃったよ。あんな獣がいるなら事前に教えて欲しかったけど……いや、どこからか紛れ込んだのかな。参加者の人があれをどうにかできるとは思えないし」
「そう、です、ね……。怖かったです……」
「そっか。……ペルセポネ、無事かな」
手をつないだままの雫ちゃんの手の甲を親指でさすりつつ、私は逃げてきた方を見やった。何かが暴れている気配はない。
あの白い鷹は上手く逃げてくれただろうか。まさか、あんな獣にまで向かっていくほど恩義深い鳥だとは思わなかった。相手の強さや、挑む事のリスクがわからないようなはずはない。ペルセポネは下手な人間よりよっぽど賢い。
それでも時間稼ぎに出てくれたことに深く感謝しながら、私はあの白い翼が無事である事を祈った。
「賢い鷹だから、私達が離れたら逃げたと思うけど……」
「そうですね。ペルセポネさんには後で、お礼をしないと」
「館の主人としてご馳走奮発してやらないとね。メアリにも文句は言わせないぞぅ」
あえて茶化すように言うと、くすり、と雫ちゃんが小さく笑う。少しは緊張がほぐれてきたかな。
「うし。息も落ち着いてきたし、もうちょっと距離を取ろう。そのうち、誰かが異常に感づいて対応してくれるでしょ」
「そうですね……きゃっ!?」
緑のコケに覆われた地面を歩き出した途端、雫ちゃんが姿勢を崩した。慌てて彼女を引き寄せるように支えた私は、彼女が何故躓いたかすぐに気が付いた。
「崖……?!」
見れば、地面の境界線が苔に覆われて分かりづらくなっていただけで、どうやら今立っているのは崖っぷちだったようだ。数歩踏み出すと、数メートル以上の大きな滑落がある。ここから落ちたらとてもじゃないが自力では這いあがれそうにない。地面の隆起で上手く隠れていて気が付かなかった。これだから山は。
「危ない、危ない。ぞっとするなあ。たまたまここで足を止めなかったら、そのまま下に真っ逆さま、か」
「あ、ありがとうございます、旦那様……」
「いいの、いいの。しかしどうしようかな、いっそこの場を動かないほうが安全かな……」
やはり知らない場所でうろうろするのは危険かも。ここで救援を待とう。
「すいません、旦那様。一度ならずとも、二度までも助けて頂いて……」
「なんのなんの。メアリなら何か言ったかもだけど、ここには居ないからね。二人だけの秘密という事で?」
「ふふふ、はい」
こわーい侍女長を思い返して、息を潜めて互いに小さく笑う。
そんな時だった。
小さく笑みを噛み殺しながら周囲を見渡した私は、しかし黒い影を藪の中に見出して笑みを凍り付かせた。
一体、いつから居たのだろうか。
雫ちゃんの背後。
木陰の藪の中に、浮かび上がるケロイドのような顔。
顔に多少の切り傷を作った、感情を伺わせない真っ黒な瞳と虚無のような赤い口が、闇の中に浮かんでいる。
「……雫ちゃん!!!」
「きゃっ!?」
そいつが腕を振り上げるのが見えた瞬間、私は反射的に彼女を抱きかかえるようにして体を反転させていた。咄嗟に盾にするように背中を向ける。
直後、横殴りの凄まじい衝撃に、私の体が宙に浮いた。
ふっとばされた……いや、違う。
地面が、無い。
「う、うわああああ?!」
「きゃああっ!!」
地面にぽっかりと口を開けた大きな奈落。突き飛ばされるようにその上に身を投げ出した私達は、そのまま斜面を転がるようにして下へと落ちていった。
激しく回転する視界の中、獣が崖の上から覗き込むように私達を見ていたのが、一瞬だけ目に焼き付いた。
しかしそれも、すぐに闇に閉ざされる。
そのまま私達は、どこへ続いているかもわからない闇の中へと、転がり落ちていった。




