第四十四話 猛獣
鼻をつく血の匂いに顔をしかめながら、藪をかき分けて進む。
その先、開けた草地に、一匹の獣が倒れていた。
「うぉ。こいつは……」
「まあ、凄い」
草地を真新しい鮮血の赤で染めているのは、鹿のような獣だった。茶色い毛に、くりくりとした黒い瞳。ただぱっと見では顎はなく、白いひげのようなものが口周りにたっぷり生えており、角は角質ではなく蟹か蜘蛛のようなトゲトゲのある甲殻のようなもので出来ていた。頭に、逆さになったズワイガニか何かがくっついているような、この世界らしい奇妙な見た目だ。
その獣の胴体の真上に、白鷹がとまってクルクル鳴いている。
「すごいな、質量何倍ある獲物なんだ? ていうか、どうやって仕留めた?」
半ば呆然としながら、手にする肉片を差し出すと、白鷹はそれを受け取ってむっちゃむちゃと食べ始めた。その嘴も触手も、爪も血で塗れており、相当な激戦だったのが見て取れる。
っていうか、
「いや、それはともかく、お前、怪我してないか? 無茶してないだろうな……?」
『ケェー』
右の籠手を差し出すと、白鷹が自分から飛び乗ってくる。近距離でまじまじと見るが、怪我をしている様子はない。ちょっとほっとする。
「旦那様、旦那様。これを」
「ん? ……うわあ」
いつの間にか死体のそばにしゃがみこんで検分していた雫ちゃんが、横向きに倒れる鹿? の頭をちょっと持ち上げて、その裏側を私に見せた。
みると、傷らしい傷がない表と違って、裏は血塗れだ。目玉があった所がぽっかりと相手、そこから大量の血と肉がほじくり出された形跡がある。
「ええ……つまり頭につかみかかって、眼窩から脳みそほじくり出して仕留めたって事ぉ? すごいなお前、やばい事するじゃん」
『ケェ』
私が褒めたたえると、もっと褒めろ、と言わんばかりに白鷹が胸をぷくぅ、と膨らませて胸を逸らした。鳩胸ならぬ鷹胸という奴だろうか。
「それにしても大物ですよ、旦那様。これは旦那様が優勝まったなしです」
「そ、そうかな? そうかも……?」
なにせ鷹狩の得物なんて基本ウサギとかキツネである。見ていた限り、他の鷹も似たり寄ったりであり、鹿みたいな大物を仕留めた鷹は見ていない。
これは確かに、優勝が狙えるかもしれない
「お手柄だぞペルセポネ。ふふ、本当に優勝したらお前の像でも立てないといけないかな? しかし、どうやって持ち帰ろう、こんな大きな獲物。ムタに引きずってもらうか?」
「一応獲物を詰める袋は貰いましたが、入りませんね」
雫ちゃんがヒラヒラさせる袋は、角を落としてようやく鹿の角がはいるかどうか、といった感じだ。これでは何の役にも立ちそうにない。
かといって一度戻るのもな。他の人がこれを見つけて横取りされても困る。そういう人が居るか居ないか、私はまだあの権力者の皆さんの人柄を見極められていない。
「しょうがない、ムタに引きずってもらうか。おおーい、ムタ、こっちにこれるか?」
とりあえず、あの賢い騎獣なら呼びかければ答えてくれるだろう。そう思って、私は藪ごしにムタに呼びかけるが……。
返ってきたのは、嘶くような低い声。それに加え、藪の向こうで、何やらせわしなくそわそわとムタの巨体が足踏みしている。
ムタとはそう長い付き合いではないが、こんな風に落ち着かない様子は初めて見る。
「なんだか様子がおかしい……?」
「鹿の死体にびっくりしたんでしょうか?」
「いや、来るときは普通だった。人間の鼻でもはっきりするぐらい血の匂いがしてたんだから、そこはびっくりしないと思うが……」
とりあえず、ムタはこっちに来る様子はない。一度引き返して、手綱をひっぱってこっちにつれてくるべきか?
どうしようか、と鹿の死体とムタの間で死線を往復させていると、不意にがさごそ、と近くの藪が蠢いた。
他の参加者かな。丁度良いかもしれない、助けてもらえないか聞いてみよう。
「おおーい、良かった。ちょっと助けて欲しいんだが……えっ」
「……ひっ!?」
最初、私はそれを黒い毛皮みたいな人かと思った。
柱のような太い腕、丸太のような足、涎を滴らせる避けた口元。あれ、おかしいな、なんか違わない、という違和感が危機感に変わったのは、強い獣臭が鼻をついてからだ。
今回鷹狩に集まった人々は、私からみれば異形であれど、皆立場を持つ貴人の方々。身だしなみはちゃんとしており、香水をそれとなく効かせて体臭も整えていた。
となると、これは。ただの。
「獣……熊みたいなもんか!?」
『グルルルル……』
唸りを上げてにじり寄ってくる猛獣に、私はとっさに左手を広げて雫ちゃんを庇った。彼女の細い指が縋りつくように私の肩を掴むのを感じながら、じりじり、とすり足で後ずさる。
右手の籠手の上にとまるペルセポネが、毛を逆立てて低く唸るのが見えた。それを見て、少しだけ気持ちが落ち着く。
どうやら、この忠義者の白鷹は、私を見捨てるつもりはないらしい。その事になんだか元気づけられる。
「し、雫ちゃん、落ち着いて。背中を見せたら襲われる……こっちにも、備えがある、と思わせるのが大事だ……」
「はい、旦那様……」
辛うじて口調は震えていないものの、肉を抓り千切らんばかりに肩に食い込んでくる細い指からも、彼女の恐怖がありありと察せられる。
私も正直背中を見せて叫んで逃げ出したい所だが、それをなんとか理性で抑え込む。駄目とわかっていてもそうしたくなる、熊害の被害者の気持ちがこんな形で分かってしまうとは。
一方、黒い獣はすんすんと鼻を鳴らしながら、倒れている鹿の得物に近づき、なにごとか物色しているようだ。その虚無のような黒い視線がこっちにむいていないおかげで、私にも相手を観察する余裕が幾ばくか戻ってきた。
見た感じ、相手は熊に似ている。が、腕は異様に肥大化しており、ナックルウォークのように歩いている様子をみると、体形はゴリラのほうが近いのだろうか。
ゴリラ+熊。なんだそれ、強い奴同士の掛け合わせじゃん、ずるすぎる。
そんな頓珍漢な感想を抱いていると、鹿の匂いを嗅いでいた獣が不意に顔を上げ、私はその顔を真正面から見てしまった。
……唇の無い、牙がむき出しの凶悪な顔つき。さっきは気が付かなかったが、顔の周りだけ妙に毛が薄い。そのせいで、まるでケロイドのように赤い地肌がむき出しになっており、ぎょろりとした光のない黒い瞳と相まって、まるで顔に大やけどをした人が牙を剝いているようにも見えた。
ぎっ、と肩にしがみつく雫ちゃんの指の力がいや増す。
その時だった。
『ブモ、ブモモ……ッ!』
藪の向こうで、切羽詰まった呻きと共にムタが駆け出していく気配。狂暴な猛獣の気配に耐えきれなくなったのだろう。それを責めるつもりはないが、しかし、タイミングが悪い。
一瞬だけ、藪の向こうに獣が視線を向ける。が、その注目は直ぐに目の前の私へと戻る。
そして唸り声を上げながら、まっすぐこちらに向かって走ってきたのだ。
『ギシャアアアア!!』
「う、うわああ!!」




