第三十九話 疑惑の目
なんとか、地獄のような時間を乗り越えて私は部屋に戻ってきた。
味なんか何もわからない、楽しむ所ではなかった。
それでもとりあえずは、最後まで奥方達を訝しませないよう、笑顔の演技は維持できたと思う。仕事で滅茶苦茶な罵詈雑言を叩きつけられている中でも、表向き平静な態度を保った経験がこんな所で役に立つとは思わなかったね。
にしても、なんというか。
みぞれ鍋といえば、本来胃腸にやさしい料理のはずなのだが。胸のこのむかつきは、どうしたものか。まるで他人の胃液を飲み干したような不快感とむせかえるような苦痛。胸の中をひっくりかえして洗いたい気分だ。
階段を上り、家の人達から完全に視線が途切れた、そう判断した瞬間に膝が砕ける。傾ぐ私を、侍女達が慌てて支えてくれた。
「う、うう……」
「だ、旦那様、しっかり……」
雫ちゃんとメアリに抱えられて、いつの間にか敷かれていた布団に身を横たえる。
喉がひどくイガイガする、すすぎたい。
「み、水……」
「は、はい、ただいま!」
雫ちゃんがとたとたと走って部屋をでていく、食堂かどこかで貰ってきてくれるのだろう。考えてみれば現代の旅館だから、電気ポッドとかそういう便利なものはない訳だしな。
「うう……」
「大丈夫でございますか、旦那様。背中をさすりましょうか?」
「頼む……」
俯せ気味に身を起こした私の背中を、さすさすとメアリが優しく撫でてくれる。それに落ち着く心地の一方、居心地の悪さも私は感じていた。
「ご立派でございました、旦那様。まさかみぞれ鍋がああまで苦手でいらっしゃったとは、申し訳ありません、このメアリ、存じ上げておりませんでした。ですが、素晴らしいポーカーフェイスでした、家の者達は気がついてはいなかったでしょう。本当にご立派でした」
「…………メアリは、なんとも思わなかったのか? あの、鍋の事……」
「? いえ、とくには。この村の特産品は、野菜類でございますし」
つまりは、そういう事か。
ははは。夢らしいというか、ブラックジョークというか。悪夢の類じゃあないか。ここではおかしいのは私のほうか?
と、そこに駆け足で戻ってくる足音。雫ちゃんだ。
「旦那様、これを」
「ありがとう……」
受け取った水を、少しずつ喉に流していく。本当は一息で飲み干したい所だが、何度も彼女を往復させる訳にも行かない。喉のイガイガを、少しずつ水で洗い流すようにコップを空にしていく。
むかむかする胃液を洗い流して、ようやく私はひと心地つく事ができた。
「……メアリ、悪いんだけど、フォロー頼めないかな? 奥方達に、お鍋は絶品でした、と伝えておいて欲しい」
「畏まりました。万事、このメアリにお申し付けください」
私の頼みに、メアリは優雅にカーテシーを決めると、静かに部屋を後にした。
静かな部屋に残されているのは、私と雫ちゃんのみだ。
「雫ちゃん」
「っ、は、はい……」
私が呼びかけると、びくり、と肩を跳ねさせて彼女はいそいそと傍にやってくる。布団の上に転がっている私に合わせて膝をつき、身を寄せてくる。その距離がいつもより近いのを、私は敢えて指摘しなかった。
彼女の顔は青い。今にも泣きだしそうな彼女の肩にそっと手を置き、私は彼女を胸元に引き寄せる。
雫ちゃんは抵抗しなかった。
「……吃驚したね」
「は、はい……。い、いくらなんでも、あんな……。わ、悪い冗談かと、思ったのに、最初は……っ。で、でも、侍女長も、奥さんも、当然みたいな顔で……」
いつになく口数が多い雫ちゃん。その気持ちは分かる。
私は逆に、彼女が酷く動揺しているのに安心感さえ抱いていた。そうか、彼女は私と同じ常識を共有できているのか。
話が通じるというのがこんなにありがたいとは。頭ではわかっていたつもりだったが。
「いやほんとね……。良かった、雫ちゃんまで平気な顔してたら、私ももうどうしようかと……」
「は、はい……。私も、旦那様が同じ考えで、ほっとしました……」
雫ちゃんはもうちょっと涙声だ。よくもまあ、一連の流れの中でボロを出さなかっただけでも大したものである。まあ、先に私がへばったから、それどころじゃなかったのかもしれないけど。
冷静な雫ちゃんでこれなのだ、宮子ちゃんは割と直情的な所あるから、彼女を連れてきていたら大変な事になっていたかもしれない。そういうつもりで雫ちゃんを選んだわけではないが、結果的には大正解だったらしい。
とんでもない地雷もあったもんである。
ただ、それはそれとして、今までも考えすらしなかった一抹の不安は過ぎるのだが。
「一つ聞くけど、館での食事もああだって事は……」
「な、無い無い、無いです! それだけは誓って! お野菜だって、中庭で育てている奴ですし、お肉とかお魚も、一応ちゃんとしたのを外から運び込んでいるのを見ました! 使用人の誰かを料理とかは……してない、はずです……」
「ふぅ。それを聞いて心底安心した。……じゃあ、あくまで館の外での常識、という事かな」
とはいえある程度の注意は必要か。メアリが、私を他の使用人と顔合わせしない理由がこれ絡み、なんて可能性が無い訳ではない。
……いや、それはないか。メアリはしれっとした顔をしていたし、私が体調を崩した理由も思い当たっていなかった。常識の違いに気が付いていないなら、隠す必要もあるまい。
「……いや、違う? 館の中が普通なんじゃなくて……」
館の外、この村のような有様がこの夢では普通ならば、どうして館の中ではそれが守られていないのだろう?
何か、とても重要な疑惑に行き着いたような気がして考えを巡らせるが、それは不意に飛び出た咳に遮られた。
「えっほ、げほっ。ああもう、まだ喉がいがいがするな」
水でちょっと洗い流したぐらいじゃこのむかむかした感じは消えそうにない。
私はため息をついて、雫ちゃんを胸元に抱きかかえたまま布団の上に横になった。
ちょっと体温が低めの、それでもほんのり暖かい彼女の体をぎゅう、と抱きしめる。
「え? ええ? 旦那様???」
「悪いけど、しばらく抱き枕になってくれ。ノルマは達成済みだけど、今はちょっとこう、一人じゃ眠れそうにない」
「……はい。わかりました、旦那様。正直、私もちょっと、こう……。なので、お気になさらず」
気恥ずかしさに目を閉じていると、瞼の向こうで雫ちゃんがクスリ、と笑う気配。布団が肩まで引き上げられたかと思うと、そっと彼女の手が、私の腰を抱き返してきた。
そのまま互いに抱き合うようにして眠りにつく。
とくん、とくん、と自分以外の心音が聞こえる。雫ちゃんの心臓の音。ささやかで、慎ましく、でもしっかり自己主張をしてくるような。
これは……なんか。……いいな……。
そうして、私の意識は速やかに眠りの闇の中に落ちていった。
「ただいま戻りました、旦那様。……あら?」
「旦那様はお休みになりました、お疲れだったようでして……。それで、その……どうしましょう? 手を放してくれなくて……」
「仕方ありませんね。明日の朝にはちゃんと湯汲するように、いいですね?」
「はい、侍女長」




