第三十六話 時と場合による
「だ、大丈夫?!」
「は、はい、私は大丈夫です、旦那様。あ、でも、お召し物が……」
雫ちゃんの軽い体は受け止めたものの、彼女が手にしていたグラスの中身が私の服に浴びせかけられてしまっている。仕立ての良いシャツを黒く染める水の染み。炭酸水だからか、肌にチクチクする。
「あらら。まあ、ただの水だから大丈夫大丈夫。着替えはどこに?」
「着替えはその……外に出ないと……」
「あらら」
そりゃそうか。着替えを持ってきていてもそれは荷物の中。旅行バスでも積み荷を入れるところは座席と別である。
「うーん。ここで馬車を止めさせるのも悪いし、いいよ、このままで。タオルぐらいはあるよね?」
「は、はい。その程度は」
「じゃあ悪いんだけどちょっと貸して。拭けるだけ拭くから」
シャツの前を外しつつ、雫ちゃんが差し出してきたタオルを受け取ろうとする。
が、私がそれを手にする直前で、不意に雫ちゃんはそれを引っ込めた。私の指先が空振りする。
「え?」
「申し訳ありません旦那様、どうか、私に挽回の機会をお与えくださいませ」
タオルを手ににじり寄ってくる雫ちゃん。え、もしかしてそういうつもり?
「え、い、いいって、自分でやるよ。この年になって誰かにしてもらうなんて恥ずかしいし」
「いいえ、いいえ。私が濡らしてしまったので……ほら、ばんざーい、してくださいませ」
「え、ちょ」
意外と強引にシャツを脱がせにかかる雫ちゃん。哀れ、私は忽ちのうちに上半身を裸にされてしまう。
固まる私に、雫ちゃんが体を寄せてくる。
「……あら、よい匂い」
顔を寄せた雫ちゃんの口元に、ぬらり、と赤い色が映える。その赤に目を奪われた私は、ぬらり、とした生暖かい感触にすっとんきょうな声をあげさせられた。
「うひぃ!?雫ちゃん!?」
彼女はあろう事か、私の胸元に顔を近づけると、肌を濡らすソーダをぺろり、と舌で嘗めとりはじめていた。
指とは違う、ぬるりとしたコシのある感触に背筋がぞくぞくとする。え、何、なんなのこの状況?!
どうすればいいのか、困惑に固まる私とは対照的に、雫ちゃんはあっさりと顔を離すと何ごとも無かったかのようにタオルでごしごし体を吹いていく。
「これでいいですね。……濡れてしまったシャツは、しかたないですね。タオルで挟んで水気を取って、ソファにかけて干しておきましょう。旦那様はそのあいだ……そうですね。バスローブでも羽織っておいてくださいな」
「着替えがないのになんでそんなものがあるの……?」
ふかふかのピンク色の布地を手渡されて、未だに衝撃から立ち直っていない私はとりあえずそんな突っ込みを入れるのが精いっぱいだった。
そんな私を見て、クスクスと笑う雫ちゃん。
「ふふふ、動揺しすぎですわよ、旦那様。夜は、もっとすごい事を私にするくせに」
「TPOというものがあるでしょ……」
なんだろう。
思っていた雫ちゃんのイメージと全く違う側面を見せつけられて、正直困惑する私。てっきり深窓の令嬢だと思ってたら、サキュバスでベッドに引きずり込まれたみたいな気分だ。
わ、わからん。女の子というのは本当にわからん。
私は困惑しつつも、バスローブの前をぎゅっと腕で抱き寄せてソファに座る。そんな私の姿を見て、ますます雫ちゃんはクスクスと微笑むのだった。
と、不意に馬車がガクン、と揺れる。
ギシギシと音を立てて、少しずつ馬車が減速しているのを感じる。カーテンを少しだけ捲り上げて外を覗くと、いつの間にか空は赤く染まり、いくつかの粗末な家々が立ち並ぶ景色が広がっていた。のどかな村落、といった様子のその光景に、私は目的地に到着した事を理解した。
馬車の外から、バタン、ギィ、という音が響いてくる。続いて、トントン、とドアがノックされた。返事をすると同時に扉が開かれ、首無し侍女長が半日ぶりにその姿を見せた。
「旦那様。本日の宿であるデシメーターにつきましたが……うん? 何故そのような格好を?」
「はは、いや。ちょっと水を零してしまってね……」
「……ふぅん?」
メアリは微かに首を巡らせるような仕草をして、私と、そして雫ちゃんに視線を向けた。
そして、一言。
「お盛んなのは何よりですが、スケジュールは考慮してお願いします」
「い、いや、ちがっ」
「はい、申し訳ありません、侍女長」
しずしずと雫ちゃんが頭を下げて、二対一になってしまった私は押し黙った。
いや、そう思われる事で何か不利益がある訳ではないはずだけど……納得いかない。というか今回弄ばれたのは私の方では?
ちらり、と雫ちゃんに視線を向けると、彼女はにっこりとお上品な笑みで私を見返してきた。
「旦那様、何か?」
「い、いや、なんでもない……」
もしかして、これまでの報復をされているのだろうか。そんな考えが頭によぎって、私はぶるりと肩を震わせた。
「ほらほら、そんな恰好をしているから。それでは村の人々の前にも出られません、着替えを持ってくるので少しお待ちください」
「あ、ああ。頼む」
パタパタとメアリが馬車の後部に走っていく。ドアを閉めて彼女を待ちながら、私は窓から静かな村の様子を観察した。
……この夢の世界で、館の使用人以外と顔を合わせるのは初めてだ。どんな人達が住んでいるのだろうか。
不安と期待が入り混じった感情を膨らませながら、私は人々の顔を想像した。
「お待たせしました、旦那様。さ、着替えて、村長に顔を見せに行きましょう」
「う、うむ」
いややっぱ不安だ。不安しかない。
渡されたシャツの着替えを雫ちゃんに手伝ってもらいながら、私は乱れた前髪を整えた。
変じゃないよね?
◆◆
「今日は、デシメーターへとお越しくださいまして、ありがとうございます領主様。村の一同、領主様の滞在を歓迎させて頂きます」
「う、うむ。苦しゅうない」
メアリに付き添われて、私は村の中で一番おおきくて屋根の高い建物に案内された。玄関口には複数の人影が私達を待ち受けていて、一歩入るや否や、仰々しく挨拶をしてきた。
それに鷹揚に応える私。いや、上位者としての振舞いなんて全然わからん、というのもあるが、出迎えた村人の姿にかなり気を取られていたのだ。
「それでは、どうぞこちらに」
そういって私を屋敷の奥へといざなうのは……なんていうのか。緑色で、つるりとした肌の……ううん、野菜? そう、歩いて喋る根菜というか……。
ほら、SNSの面白写真に、人型に見えなくもない奇形の人参だの大根だのが投稿される事があるだろう? あんな感じ。一見すると愛嬌があるし滑らかな躍動感すら感じられるが、やっぱりどうみても野菜、みたいな感じのアレ。
それが今、私の目の前で着物を着て歩いている。
どう反応すればいいのか、よくわからない。
「旦那様、どうなさいました? ぼっとして。早くいきましょう」
「あ、ああ……?」
しかしメアリは何とも思わないようで、私を促して屋敷の奥へと歩いていく。残された私は雫ちゃんと目を合わせた。
幸いな事に彼女は私と同じ認識のようで、泳ぎまくった視線が私をみてすっと定まったのが見て取れた。狂気の世界に一人きりではない事に安心する。
「……どう思う?」
「……とりあえず流されておくのが良いかと」
そうか。
私達は互いに頷き合い、おっかなびっくり、メアリに続いて館の奥に上がった。




