第三話 琥珀の夜
そして夜がやってきた。
私は寝室の机の前で、うんうん頭を捻っていた。
机の上には、二つのベルが置かれている。
これが何を意味するかは、説明する必要はあるまい。
「うーん」
悩みながら、ちらりと時計に目を向ける。
時計の針は、午後八時を指し示している。現代基準では寝るにはあまりにも早すぎるが、娯楽……テレビもインターネットもゲームもないこの夢の中では、まあ割かし妥当な時間だ。電気もないので、日が沈んだら蝋燭が唯一の便りである。毎日使う事を考えたら、夜更かしそのものが贅沢の極みだ。
メアリは、遠回しに九時までに決断するように伝えてきた。あと一時間あるが、悩んでいたらすぐに過ぎてしまいそうだ。
勿論、これが夢であるのは分かっている。
だが、楽しい夢なら出来るだけ長く見たいだろう? 自分の手で終わらせる事はあるまい。
それに旅の恥はかき捨て、とはちょっと違うか。どの道他の人間に憚る事など何もないのだから、人道など気にする必要もない。
だから悩む必要などないはずなのだが。
「むぅ」
結局決断できず、私はコインを一枚、手に取った。
気が付けばポケットの中に入っていた。私の優柔不断を見越したような、一枚の金貨。少なくとも、現実には存在しないものだろう。表側には複雑な魔法陣のような文様が刻まれ、裏にはこの領地の名前らしき文字が刻まれている。 『ドリームワールド』。それがこの地の名前だろうか。そのまんまである。
しばらくの間、私はコインを見つめていた。
「さて、と」
コインを人差し指に乗せる。
表は宮子ちゃん。裏は雫ちゃん。そう決めて、親指でコインを弾く。
宙に舞うコイン。クルクルとまわる金貨が、蝋燭の明かりを受けて煌めいた。
ぼす、と毛の長い絨毯にコインが落ちる。
私の曖昧な決断力を嘲笑うように、コインはどこからどう見てもはっきりと表側を指し示していた。
私は一息ついて金貨を拾い上げると、からん、と小さな鈴を鳴らす。
時計の針は、八時半を指し示していた。
「宮子です。……お呼び頂き、ありがとうございます」
彼女は呼び出しを受けてから、さほど間を置かずに現れた。
昼と同じメイド服。白いヘッドドレスに、紺色の地味なドレス。質実剛健というか、肌の露出は皆無、スカートも足首までかかるような長いロングスカート。クラシカルで奥ゆかしいメイド姿。
それが何のためにこの部屋を訪れたかというのを考えると、なんだかドキドキしてくる。
肝心の宮子ちゃんの顔色はというと……正直、薄暗くてよくわからない。昼と同じ済ました顔のようにも見えるし、緊張で固まっているようにも見える。
彼女は手にボードと、グラスを二つ、そこに載せていた。
ワイングラスとかではない、装飾の無い武骨なショットグラス。中には、琥珀色の液体が浅く満たされている。
「それは?」
「侍女長からです。……その、少し、酒があったほうがいいと……」
「ああ、それは、うん。助かるな。机に置いてくれるかい」
ベッドの脇に置いてある机を指で叩くと、宮子ちゃんはそこにボードを置いた。差し出されるグラスを受け取り、ベッドに座ったまま舌を湿らす。
……ウィスキーか。飲み慣れていない酒だ。柔らかい味の日本酒が好きな私には、このスモーキーな酒はピリリと辛く感じる。それもストレート。ガツンとくる。
グラスを手に、ベッドの脇をぽんぽん、と叩く。
意図を察して、宮子ちゃんもそこに座る。
少しだけ、距離がある。まあ当然だよね、仕方ない。
「宮子ちゃんはお酒は飲める年齢?」
「……い、一応。でもまだビールぐらいしか……」
「じゃあ、チャレンジという事で」
促されて、おずおずとグラスに口をつける宮子ちゃん。ちびり、と口にした彼女は、露骨に顔をしかめた。
「う……っ」
「ちょっときつい?」
「……はい」
だよね。ウィスキーのストレートは初心者が飲むような物じゃないだろう。ただ、この場は酒を飲む場ではないので、そう考えるとメアリなりの判断なのかもしれない。
ぐい、とグラスを傾けると、かあっとアルコールが喉を焼くような感じがした。本物の酒飲みならこんなの一口で飲み干すのだろうけど、私にはちょっときつい。
そんな私の飲みっぷりをみて真似たのか、宮子ちゃんがぐい、と大きくグラスを傾ける。直後、彼女は激しく咳き込んでグラスを取り落とした。
「けほっ、けほっ」
「大丈夫?」
声をかけて背中を撫でてやると、彼女は涙目で頷いた。
グラスは……絨毯の御蔭で割れずに済んだようだ。毛の長い絨毯が少し汚れているが、グラスの中にはほとんど酒は残っていなかったらしい。
とんとん、と軽く背中を叩いてやると、けほっ、と最後に一つ咳き込んで、宮子ちゃんは落ち着いたようだ。
「す、すいません。思ったよりきつくて」
「少しずつだといけそうな気がするけど、一気にいくときついよね」
「はい……」
涙を拭う宮子ちゃん。その頬は、酒精にか赤く染まり、瞳は潤んでいる。
そこで気が付く。
最初にあった距離はすでにない。私と彼女は、まるで抱き合うような距離にいた。
「あ……」
それに彼女も気が付いたのだろう、ちいさく声を上げる。
私は……。
「あっ」
私も酒が回っていたのだろう。自分でも驚くほど大胆に手が動いた。
背中を撫でていた手を腰に回し、ぐ、と彼女を抱き寄せる。宮子ちゃんは抵抗しなかった。
二人の間にあった距離が完全にゼロになる。
目を見開いた彼女が、恥じらうようにそっと顔を伏せる。
私は右手にもったグラスを机に戻し、小さく彼女に尋ねかけた。
「……ご要望は?」
「…………優しく、しないでください……」
おかしな事を言う。そこは普通、優しくしてください、だと思うが。
まあいい。
これ以上は、頭を回すのも野暮な気がする。
私は彼女の顎先に指をそえて、くい、と上向かせた。




