第二十五話 湖畔の語り
森の道の終わり。
そこに広がっていたのは……。
「わあ……」
「湖か」
ムタが歩み出た先。そこには、森の中に切り開かれた広い空間があり、大きな湖が存在していた。湖の周囲には木々は生えておらず、代わりに柔らかな草花が生い茂っている。湖面は並み打ちながら陽射しにきらきらときらめいていて、その下でちかっ、ちかっ、と魚らしき影が時々明るく光りながら身をひるがえしていた。
湖畔の避暑地、という言葉が脳裏に浮かぶ。
穏やかの森の先に、ふさわしいロケーションだった。
「おや……?」
と、そこでムタが足を止める。何事かと見ていると、ムタは湖のほとりにしゃがみこむと、はむはむと草葉をむさぼり始めた。ゆっくり噛みしめるように、大きな口で少しずつ葉っぱをかみちぎっていく。
どうやら、お食事の時間らしい。
「ムタはここでちょっとお食事みたいだね。……おりよっか、邪魔したらいけないし」
「そうですね」
宮子ちゃんと申し合わせて、鞍から降りる。
えいよっと飛び降りると、ふわふわのみずみずしい草花がクッションになってくれた、膝にほとんど痛みを感じない。足裏に感じる地面は、水気を帯びてはいるがぐちゃぐちゃとはしておらず、ちょうど衝撃を受け流してくれるいい塩梅だった。
「ほら、宮子ちゃんも」
「え、えと……」
少しためらっている様子の宮子ちゃんに手を刺し伸ばす。彼女は少しためらった後、私の手を取りつつ、スカートの裾を押さえてふわり、と飛び降りてきた。とん、と地面に降りた拍子にぐらつく彼女を、引き寄せてささえる。
「大丈夫かい?」
「は、はい。……で、でもすいません。私、侍女なのに……」
「いいっていいって。ここにはメアリの目もないんだし、侍女だっていうなら私のやりたいようにさせてくれないかな」
まあ我ながら苦しい言い訳だが、一応雇用主と雇われの関係である。これぐらいは多めに見てほしい。
宮子ちゃんは私のそんな言い分に一瞬きょとん、としたあと、小さく口元に手を当てて笑ってくれた。
「なんですか、それ。ふふふ」
「まあまあ。雇用主を気持ちよく接待するのも、お仕事の一つという事で。ね?」
「はい、わかりました、旦那様。ご主人様のお望みのままに」
わざとらしくかしこまった演技で頭を下げる宮子ちゃんに、私も調子にのって「よきにはからえ」と返す。
私達は顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「少し、湖でも見ていこうか」
「はい。魚とかいるんでしょうか?」
「たぶんね」
二人そろって、ほとりの草の上に腰を下ろす。清涼な水気に満ちた草の香りが漂う中、のんびりと湖を見渡す。
湖はキラキラ光りながら、静かに輝いている。ムタの手配をしたのはメアリだし、たぶん、危険な生き物もいないのだろう。
「釣竿とかもってきたら、釣りができたりするのかな」
「ふふふ、大物が釣れたら、料理長に料理してもらうのはどうでしょう?」
「そうだな。何がいいかな、塩焼き? ムニエル?」
そんな他愛もない事を互いに口にする。
ここでは、時間さえも私を拘束できない。現実ではありえない、あらゆるしがらみやストレスから解放された時間を、私は心からしみじみと味わった。
輝く湖面から魚だろうか、小さな影がちゃぽん、と跳ねて水滴を飛ばす。宝石のように煌めいたその残像を目で追っていると、不意に宮子ちゃんが小さく身を私に寄せてきた。
「その……旦那様。旦那様の……領主のお仕事って、どんな感じですか?」
「領主の仕事かぁ……」
私は顔を上げて空を見つめながら、少し考えた。
雲の切れ間に覗く青い空を眺めながら、少しばかり、表現の為に言葉を選ぶ。
「そうだなあ……私のやっているのは、そう難しい仕事ではないんだよ。いまだに、領主としての責務の大半はメアリがこなしてくれている。私は少しばかり、ちょっとした書類に決裁をするだけさ。何せ、まだ駆け出し領主だからね」
「でも旦那様、いつも難しい顔で机に向かっていらっしゃいますが……とても、そんな簡単な仕事には」
「そうだね。なんていうのかな……本当に、私に渡される判断はそう難しいものではないんだ。ただ、この紙きれ一枚の向こうに、等身大の人間がいるのだと思うと、なかなか判断が重たくてね」
私はいくつか例えを並べながら宮子ちゃんに説明した。
庭を接する家同士での諍い。
お金を貸した貸していないだの。
男女の痴情の縺れに端を発した家同士の抗争。
そういった問題に白黒をつけるのが私の仕事だ。
「……なんか、裁判所みたいですね」
「中世においては、貴族こそが裁判官だったからね。それに実際の所、これらの問題は正しいかどうか、というのを決めるものではないのだと思う。正義を問うのではなく、当人達で収拾が付けられなくなった問題に、上から権力で強制的に終わらせる、トラブル解決の方に意味があるんだろうね」
「それは……旦那様が、当事者たちに恨まれてしまうのではないでしょうか?」
私は目をぱちくりさせた。
宮子ちゃんは、どうにも私の事を心配してくれているらしい。
いや、嫌われている、と思っている訳ではないが。そうだな、嫌いでないのなら、相手の心配をする事ぐらいは普通か。憎んでもない相手の不幸を願う方がよっぽど不健全である。
現実があれだから、普通の人の有り様というものをちょっと忘れていた。
「ありがとう。でも残念ながら、当事者全てが納得いく結論、というのはないものだよ。トラブルはとくにね。それに正当性があろうがなかろうが、黒になった側は判決者を恨むものさ」
「そうでしょうか……」
「そうだとも。だから現代では、法の裁き……判断の是非の大半が、人間から切り離されている。文章をいくら憎んだところで報復する事はできないからね」
まあ最も、それすらわからない人間も多いのだが。
「そういう意味では、あー……貴族と、その領民の間に距離があるのは健全かもしれないな。互いに触れようがなければ、恨みつらみが原因のトラブルもないだろう」
「……辛い仕事なんですね」
「うーん、ま、どうなんだろうな。辛いといえば辛いかもしれないが……」
私は視線を空から湖に戻し、そして宮子ちゃんに向けた。
「やりがいがある、といえば、あるしね。こうやって美味しい思いをしている対価だと思えば、まあ、正当だと思うな」
「え……」
「私は根が小市民だからさ、なんていうか単純に何の対価もなく良い事があると不安になっちゃうのさ。こうやって可愛いメイドさんと出かけたり、屋敷で一角の人物として扱われたり、美味しい料理を食べたり、夜にごにょごにょ……する対価が、ああいった仕事である、っていうならむしろ気が楽かな」
それは偽らざる本音だ。
勿論、現実において等価交換などあり得ない。苦労したから報われるなんて、特にない。それでも対価と報酬、というものがやはり一番分かりやすいし、納得がいく。メアリあたりに聞かれたらまたお小言を貰うかもしれないが。
まあそんな、幸せを幸せと素直に受け取れなくなっただけのひねくれ者の精神防御論でしかない私の持論ではあるのだが、何やら思いのほか宮子ちゃんは響くものがあったらしい。
彼女は少し物憂げに目を伏せながら、私の詭弁に小さく頷いて見せた。
「そう……ですね。相応しい罰がないと、やっぱり、生き辛いですよね」
「いや別に仕事は罰って程でもないんだが……」
罰というなら現実の仕事の方がよっぽどである。が、まあアレについて語ると完全に愚痴になってしまうので、私は意識して口を閉じた。
可愛い侍女に、あまりみっともない所は見せたくない。
「ま、あまり深く考えないでくれ。私は私で楽しんでるからさ。まあそれでも気になるというなら、今晩、部屋でちょっと晩酌にでも付き合ってもらおうかな?」
「え……?」
きょとん、と私の顔を見つめ返した宮子ちゃんが、みるみる間に顔を赤く火照らせる。
今晩。部屋。晩酌。
言うまでもなくそういう意味だが……ちょっと、セクハラっぽかっただろうか。
「……言い方が不味かったかな?」
「い、いえ! そ、その……私でよろしければ……はい。御供、させていただきます……」
女の子座りで、股の間に手先を隠すようにしつつ、もじもじと宮子ちゃんが顔を赤くしてそっぽをむきながらも、確かに頷く。
うーん。照れる女の子って、なんでこんなに可愛いんだろうね……。
とまあ、いつまでも浸っていられない。
あんまり過ぎると、今度こそハラスメントになってしまう。
「ははは、じゃあ、楽しみにしてるよ。さて。ムタもなんかお腹いっぱいになったようだし、続きといこうか」
「は、はい」
私達は立ち上がって草を払うと、ムタの所に戻る事にした。




