第十六話 望まれる者
目覚めは、いつになく清々しいものだった。
ふかふかの広いベッドで目を覚ました私は、半身を起こしてまず窓を見た。植木の向こうで顔を出したばかりの太陽の光が、空をうっすらと青く染めているのが見える。
傍らから小さな寝息が聞こえてきて、視線を戻す。すると同じベッドの中で、華奢で儚い少女が、すやすやと寝入っているのが見て取れた。私が身を起こした拍子にずれたシーツを、引っ張り上げて元に戻す。
「……んん」
部屋の床に目を向けると、脱ぎ捨てた衣服が散乱している。明らかに元の形を失っている黒いエプロンドレスの残骸を見て、私は思わず顔を押さえた。
少し興奮しすぎたというか、なんというか。
いや、あれは流石に雫ちゃんが悪い。あんな言葉で挑発するなんて……多分、本人はそういう意味でいったのではなかったのかもしれないが、同じことだ。今回ばかりは、自省する気にはならない。
世の中の男性は皆同意してくれるはずである。多分。
それはそれとして、服をびりびりにしたのは不味かった。メアリに怒られる……。
充実感と罪悪感がないまぜになった奇妙な感想を抱いていると、傍らでもぞもぞ、と人の動く気配があった。
「ん……」
「あ。お、おはよう、雫ちゃん」
「え……あ、きゃっ」
無防備に身を起こした雫ちゃんが、私の挨拶にぼんやりしていた目を見開く。咄嗟にシーツを引っ張り上げて体を隠しつつ、彼女は小さく頭を下げた。
「おはようございます……」
「うん。よく眠れた?」
「そ、それは、もう……」
こくこく頷く雫ちゃん。実際はどうか分からないが、まあ寝不足という感じではない。
「ええと。……寝顔、見ました?」
「ばっちりと」
「は、恥ずかしい……。また侍女長に怒られてしまいます……」
がっくりと肩を落とす雫ちゃん。まあ、確かにメアリは、主人より後に起きてくるとは何事ですか、とか言いそうではある。
「大丈夫、大丈夫。この部屋での事は私が黙っていればわかりはしないよ。それよりホラ、メアリか宮子ちゃんが朝の挨拶に来る前に、部屋を出た方がいいよ」
「そ、そうですね」
雫ちゃんは少し躊躇ってから、足元側を迂回するようにベッドから降りた。朝日に照らされる彼女の白い肌が、羞恥にかほんのり色づいているのが、私の位置からはよく見える。
申し訳ない。流石に、ここで目を塞げるほど、私は紳士には慣れなかった。
不躾な視線を浴びているのには気が付いているのか、急ぐように下着を拾い集める雫ちゃん。身を隠すように素早く足を通し、ホックを閉じて……そこで、彼女はメイド服の惨状に気が付いた。
「あ、あ……っ」
「その、御免……」
顔を真っ赤にして、残骸を手にしたまま固まる滴ちゃん。
流石に、下着姿で廊下に出す訳にはいかない。私は気まずい気持ちでベッドから降りると、壁にかけていたバスローブを手に取った。
「その、これ……」
「あ、ありがとう、ございます」
男用のバスローブは彼女には大きかったが、少なくともこれで肌は隠せる。
「そ、それじゃあ、私はこれで……」
「う、うん。じゃあね」
挨拶もそこそこに、足早に部屋を出ていく雫ちゃん。私も散乱している自分の衣服を拾い集め、最低限の身だしなみを整える。
「さて、シャワーでも浴びに行くかな……ん?」
そこでとんとん、というノックの音。
返事をすると、宮子ちゃんが台車を押して入ってきた。乗っているのは、一杯の珈琲セットだ。
「あ、朝の珈琲をお持ちしました……」
「どうも、ありがとう」
こんなサービスこれまであったっけな、訝しみながらも受け取った私は、そこで宮子ちゃんの顔が真っ赤な事に気が付いた。そしてその理由もすぐに思い当たる。
タイミング的に、彼女は見たのだろう。私の部屋から、下着の上にバスローブを羽織って足早に出ていく雫ちゃんの姿を。
それに加えて、部屋の中に散乱している黒い布切れ。この部屋の中で何があったか想像するのは容易い。
たちまち私も気まずい気分になる。これもメアリの差し金だろうか。
「そ、その……無理やりじゃないからね?」
「わ、わかっています……。その、コーヒーカップはあとで回収しますので、ごゆっくりどうぞ」
心なしか、いそいそと部屋を出ていく宮子ちゃん。
残された私は気まずい空気からは解放されたものの、この後の事を考えて頭痛を覚えた。
カップを傾けるも、正直、気分は珈琲の味どころではない。
まさに、やらかしてしまった、としか言いようがない。
これから雫ちゃんと宮子ちゃんに、どういう顔で接すればいいのか。
「……そんなもん、そしらぬ顔でこれまで通りに振舞うしかないよなあ……」
ある意味、こういうのも男の甲斐性だろうか。あまり内面の弱さを剥き出しにするのは、相手に譲歩を求めているようなもの。それは流石に情けない振舞だという事ぐらいわかる。
逆に言えば、情けない男、と思われたくない程度には、私は雫ちゃんと宮子ちゃんの事を異性として意識している。
……今更だな。
中世の貴族は使用人を同じ人間だと思っていなかった故、その前で裸になっても平気だったというが、その境地には到底私は到達できそうにない。
「……彼女達は、どうなんだろう?」
二人は、納得済みで夜の相手をしてくれている。彼女達にそれを許容させているのは何か?
乱れたベッドを見下ろして、少し私は分かった事がある。
当事者の雫ちゃんは勿論、ここで何があったか察した宮子ちゃんも、その事に羞恥は見せたが嫌悪感や拒絶は見せなかった。そして、彼女達の普段の言動。どこか事務的で壁があるようで、しかし親し気に語りかけられるのを振り払えない、曖昧な距離感。
それらを考えると、彼女らの行動原理が見えてくる気がする。彼女達は……。
「……私に、何を望んでいる?」
自らの口をついて出た言葉に、私はしばし思い悩んだ。
カップの底に黒い液体を僅かに残して机に戻す。
「そうだ……彼女達は今の関係を受け入れている。それは何故か……彼女達の望みに、近いからだ。それは何故だ? こんな、退廃的で一方的な関係のどこに、彼女達の望みがある……?」
現実でも同じ話はある。例えば大金の為に、体を売る女性は珍しくもない。借金がある、あるいは単純に贅沢な生活がしたい、あるいは他に選択肢がなかった、理由はいくらでもある。だがそれと、そういう商売を選ぶのは、また別の話だ。
全ての人間が、お金の為なら何もかも我慢できる訳ではない。何かしらの“やりがい”があるから、続けられるのだ。
では、彼女達のやりがい、とはなんだ?
言うまでも無いが、私に抱かれる事ではないはず。自分で言って悲しくなるが私は女性経験が殆どない素人で、彼女達を喜ばせられているとは到底言い難い。おしゃべりだって上手ではない。だがそこに彼女達は何かの意味を見出している
それはなんだ。
「……わからない」
結局、謎はまた謎に行き着く。堂々巡り。
その懊悩は、朝食にメアリが呼びに来るまで続いた。




