祖母の手
土曜日の午前中、僕は自室の机で数Ⅱ問題集を解いていた。
週明けから始まる中間試験。数教科分の試験問題をゲットしたとはいえ多少は勉強しなければ、と焦燥感に駆られる。
(…眠い)
そんな気持ちとは正反対に睡魔がやってきて舟を漕いでしまう。起きてから三時間弱しか経っていないというのに。シャーペンを握る力が弱まっていく。何とか堪えて不等式を
***
(どうしていつもこうなんだろう)
変わらず自室の机に座っているが、夢に入ってしまった。
何でそんなに眠るんだ、と昔から散々怒られてきたが自分でも本当に嫌になる。どんなに抵抗しても睡魔は僕を嘲笑うかのように意識を飛ばす。デフォルトで覚醒していられる人が羨ましくて仕方ない。
机に広げたノートは先ほどまで書いていたそのまま、不等式の証明途中で蚯蚓文字になっている。夢で学習したことは記憶に残るため勉強の続行は可能だ。しかし、ノートに書いた文字や図形は現実に持ち越せない。勉強をしたという目に見えた証が残らないのは地味にキツいものがあり、やる気が削がれるのだ。
(そもそも勉強したところで大学受けないし、こんな体質じゃ就職もまともにできるわけないし…)
日によって波はあるが、僕は一日に十三時間は眠る。死ぬまでこれが続くとなると人生の半分以上を睡眠に取られる。寝ぼけていたり睡魔に抗う時間も含めれば、頭がクリアな状態で過ごせる時間はもっと少ない。大して活動できない世界で将来のために勉強したところで何になる?
『いつも寝て現実逃避ばっかり!もう一生寝てればいいじゃない!』
昔言われた言葉を思い出す。現実から逃げる気はない、むしろもっと現実で生きたい。それが無理ならいっそずっと寝続けて、途切れることなく夢世界で暮らしたい。どちらも不可能なのは分かっている。
(もう、死んじゃおうかな)
今日は思考が悪い日だ。
(生きてても他人に迷惑かけるだけだし、自分が過ごせない現実の時間を見せられ続けるのにも疲れた。…死ねば何も考えずゆっくり眠れる)
発端は試験勉強中に寝てしまって嫌気が差しているだけ。きっかけはよくあることでも、過去の苦い記憶まで這い出てきて、この方向に行くと戻れない。歳を重ねるにつれ将来を憂いて落ち込む時間も増えた。普通の人は脳を休めるはずの睡眠中が考える時間となってしまっているのも、こういう精神状態の原因なんだろう。
(…起きたら死のうかな。苦痛が少なくて他人の迷惑にならない方法、考えてこっちで実験して…)
トン、トンと階段を上がってくる足音が聞こえた。
耳に馴染んだ、この世界の聴覚でも判別できる家族の足音。廊下を歩いて部屋に向かってくる。近づいてくる気配は僕に安堵感をもたらす。
だが視界がぼやけてきた。起きてしまうようなので、こちらの世界では話せなさそうだ。足音が夢と現実で重なり、強くなっていく。部屋の扉が開き、誰かに頭を撫でられた感触がしたところで瞼を開けた。
***
「なんだ、起こしちまったか」
机に突っ伏して眠っていた孫が起き上がったことに気が付き、部屋から出ていこうとしていた祖母は振り返る。手にはお茶と羊羹を乗せた盆を持っていた。
「田辺さんから貰ったお土産でな、寝てたから後で出そうと思ったんだが」
「ありがとう。今食べてもいい?」
「ええけど寝起きだろ?無理せんでもええよ」
「ううん。甘い物欲しかったし、お茶も冷める前に貰う。ありがとう、ばあちゃん」
盆を受け取り、適温のほうじ茶を飲む。香ばしい味に安心してホッと息を吐いた。
「もう少ししたら昼飯にすっからな。何か食べたいもんあるか?」
「ん、何でもいいよ。家にある残り物で」
「買い物行くから好きなもん作ってやるぞ。勉強頑張ってんだろ」
「…頑張ってなんかないよ。今だって居眠りしてたの見たでしょ」
祖母はそれには答えず皺の増えた顔を緩ませて言った。
「眠理、あんまり無茶すんでねえぞ。婆ちゃんってのは孫の寝顔見てるだけで幸せなもんなんだからな」
祖母にこの体質について詳しく話したことはないが、幼少期の言動から何かを察してはいると思う。それでも何も聞かずに接してくれる。
「…うん、大丈夫。買い物、僕も着いてっていい?」
「そりゃ助かるが、勉強はええのか?」
「平気。気分転換に外出たいし」
羊羹を平らげてお茶を飲み干した。祖母にゆっくり食べろと叱られながら、出かける支度をする。
先ほどまでの陰鬱とした思考はもう消えていた。




