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およそ25年前からの祈り

 いつも黄金色だった。眩い黄金の中、ぼうっと眼前を眺める。目の前には少年がたたずみ、じっとこちらを見つめている。逆光のせいで、顔はよく見えない。彼に触れようと、ゆっくり手を伸ばしてみる。


 ケイは、はっと目を覚ました。また、同じ夢だ。

 ここ数日、眠りに落ちるといつも同じ夢を見る。黄金に輝く世界で、ひとり少年が佇む。もちろん、彼が誰なのか、どこなのかも分からない。ケイ自身、不思議に思うところはあったが、所詮はただの夢。それに、この黄金の夢には悪夢特有の嫌な感じはしなかったので、不快に思うことはなかった。

「お客さん」

 不意に声をかけられ、ケイは顔を上げる。かっちりした紺色の制服に身を包み、目深に帽子をかぶった男は、呆れたように笑って、言った。車掌だ。

「終点に着きましたよ」

「あ、すみません……! 」

焦ったように顔を赤らめて席を立つケイに、駅員は笑って降車口を案内した。

「ごゆっくりいただけたようで、何よりです。いってらっしゃい」

「……はい! 」


 機関車の走る音、煙突から勢いよく吹き出す蒸気、印象的な力強い汽笛ーー。そのすべてが、ケイの故郷とは別物だった。ケイは、黒レンガとダークオークの木組みが特徴的なホームを通り抜ける。浮ついた足がもつれた。

 小さなトランクを引っ張りながら、どうにかして駅を脱出する。この駅は高台に位置していたようで、駅を出るとすぐ、眼下に市街の光景が広がった。

「わあ……」

 言葉にならない、とはこういうことなんだろう。カラフルな屋根瓦を連ねた民家や店が立ち並ぶ街だった。テラコッタの道路や壁面には色とりどりの石が埋め込まれていて、明るい日の光を受けてきらきらと輝く。広場では大道芸人が人形を操り、曲がりくねった路地では子どもたちが走り回っている。ケイの心臓が強く脈打つ。興奮からか、こめかみから滴る汗が止まらない。

「これが……」

活気あふれる美しさが、街の至るところから見てとれた。なまやさしい感動などではない。

「これが芸術の国、ルーベンス……」


 ルーベンスは、大陸の最西に位置する大国だ。南北に大きく広がっており、大洋の暖流と偏西風、雪風を遮る山脈のおかげで、国の大部分は年中暖気に包まれており、災害も少ない。そういった風土は、国の人々に牧歌的余裕を与えた。その結果、ここルーベンスでは芸術が発達し、世界でも唯一の芸術大国となった。芸術の国、という言葉は、もはやこの国のものだ。


 ケイがまず目指したのは、南方にある下宿先のアパートだった。どうにもこの街は入り組んでおり、坂道も多い。通りを行く人に地図を差し出し、道を尋ねながら進んでいく。もっとも、興味をそそられる建築物や雰囲気の良い路地裏があると飛びついてしまっていたので同じ道を堂々めぐりすることも多々あった。が、地図と喧嘩しつつもやっとの思いでそれらしき建物にたどり着いた。予定よりもだいぶ遅い到着になってしまったことを反省しながら、木々が茂ってトンネル状になった坂道を上る。開けた場所に出ると、右手に三階建てのこぢんまりした建物が見えた。看板らしきものには「アパートメント カモミール」と掘られてある。ここか、と思いつつ入口を目指していく。歩きながら、建物の外観を観察する。はっきり言って綺麗だとは言い難かった。漆喰の壁はひび割れていたり黒ずんだりしていて、建物の周囲は雑草やツタが伸び放題。管理はどうなっているのか、疑いたくなるほどだ。しかし、大陸の真反対から来た貧乏留学生に安い家賃で部屋を提供してくれるアパートメントは、ここ以外になかったのだから、仕方がない。

 ケイは、重厚な装飾の扉を恐る恐る押し開けた。外見はああだったけれど、中は清潔にしているようで、アンティークな雰囲気が漂っている。艶のある暗い色の床材に赤い絨毯が映えており、その絨毯も、踏めばふかふかとした心地がして高級感を感じさせる。見かけによらないな、とケイは先ほどの自分の評価を反省した。

 一階の入り口付近はロビーのようだった。小さなカウンターを見ると、60代ほどのふくよかな女性がずっしり構えていた。彼女はこちらに気付いたようで、新聞紙に注がれていた視線を上げた。

「あんたがケイ・ナガセ? 」

「はい、そうですけど……あなたは? 」

女性は、親指で自身を指し示した。男勝りな仕草だった。

「あたしはローズ。管理人よ」

「今日からお世話になります」

「あんたの部屋は201。2階の角部屋ね」

そう言うと、ローズは鍵を軽く投げてくる。ケイはえっと驚いたが、飛んでくる鍵をなんとかキャッチした。見ると、鍵には201と簡素に彫られたタグが付いている。

「さっさと行きなさい」

「そうします。ありがとうございます」

一礼すると、ケイは階段に向かう。なんの変哲もない階段だったが、踊り場の壁に小さな絵が飾ってあるのが見えた。三輪のバラが、シーツの上にそっと置かれた、静物画だった。直射日光が入らない飾り位置で、額縁に埃ひとつも被っていない。大切にしているだろうことは一目瞭然だった。

「ローズさん、あれは? 」

「死んだ旦那が画家だったんだよ。そいつの作品さ」

その声色には寂しさや悲哀が一切含まれておらず、むしろ関心を持ってくれて嬉しい、というような具合だったので、ケイは微笑んだ。

「そうですか。ローズさんのために描いたんでしょうね。素敵です」

ローズは、そこで驚いたように目を見開いた。「あら、どうしてわかるの」

「勘です」

笑いながらそう言って、ケイはトランクを持ち上げて上階へ消えていった。

「不思議な子が来たわね」

カウンターに残ったローズは、感心したようにため息を吐いて、再び新聞紙に目を落とした。


 201の扉を開けようとすると、右隣からぎい、と古い蝶番が動く音が聞こえた。ケイが顔を向けると、ちょうど隣ーー202の部屋から、住人が出てきたようだった。

 柔らかそうな赤毛の髪を、ふたつのゆるい三つ編みにして下げているのが印象的な女性だった。ケイが見入っていると、女性はその視線に気づいたようで、ケイの顔を見返す。丸眼鏡の奥に、翡翠色の吸い込まれそうな猫目。意志の強そうな凛々しい眉。ケイの心臓がどっと音を立てて鼓動を早める。ともなって、血の流れが滝のように荒々しくなった。なんだこれは。

「……引っ越してきた人? 」

彼女は訝しむようにケイを窺う。

「えっと、はい。ケイ・ナガセと言います」

声が裏返った。恥ずかしさに、耳の裏側まで熱くなるのを感じる。彼女はそんなこと気にも留めないといった風に、ふうん、と鼻を鳴らした。そのあと、身体をこちらに向け直して、腰に手を当てる。気の強さを感じさせる仕草だ。

「あたしはアンジェ・カロン。よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

身体を緊張させながら、ケイは深めに一礼する。会釈にしては深すぎたな。絶対、変な人だと思われた。あまりにも挙動不審だ。そういった事柄が早々と脳内を流れていき、それらを払拭しようと、かぶりを振る。早鐘を打つ心臓を落ち着かせつつゆっくり顔を上げると、アンジェは消えていた。消えていた、というより、既に階段を降りてしまったようだった。

 ケイは、いまだにばくばくとうるさい胸に手を当てながら、これまでに感じたことのない心情に戸惑いを隠しきれなかった。甘酸っぱい期待、ばかりではない。彼女の存在が、ケイ自身の運命を大きく動かしてしまうような、そんな予感があった。この邂逅は、一目惚れというより、革命と言い表すほうがいっそ正しい気がした。


 ケイは6畳ほどの部屋に入ってトランクを床に放り出すと、備え付けのベッドに思い切り飛び込んだ。普段ならこんなことはしない。風呂に入って体を清潔にしたかったが、故郷からルーベンスまでの旅程は少なからぬ疲労を伴うものだった。海上機関車をいくつも乗り換えながらの、計6日の長旅だったのだ。硬いベッドに薄い毛布だったが、そんなことも気にならいつほどの疲労は強い睡魔を誘う。ケイはそれに抗うことなく、目を閉じた。

 ーー黄金。

あたりを見回せば、地平線の先まで、どこまでも黄金に覆われていた。空は赤みがかった陽の光で満ちている。放射状の光線がうっすらと見え、薄く伸びる層雲が広がる。夕刻の空だろうか。自身の下半身を見ると、ケイの腰のあたりにまで黄金が浸食していた。風が吹くと、そのリズムに合わせて黄金は波のようにさざめく。耳を澄ませると、近くに川があるのだろうか、水の流れる音がする。改めて眼前を見やると、いつも通り、少年の影がある。少年の真後ろに太陽が鎮座しているため、逆光に阻まれてその顔は窺えそうにない。ケイは少年に向かって手を伸ばす。歩みを進めながら、ゆっくり。もう少しで届く。もう少しで……。


 ケイは、はっと目を覚ます。天井にまっすぐ伸ばされた腕は、何物も掴めずにいた。ケイは腕を降ろし、ゆっくりと上体を起こした。またあの夢だ。

額を押さえて、ため息を吐く。あの夢は、確かに嫌な気分はしない。だが、じれったい気持ちはある。いくら捕まえようとしても、あの少年には指一本触れられないのだ。それが毎晩続くとなると、気が滅入ってしまっても仕方がない。

 ふと時計を見ると、午前10時を過ぎていた。このアパートメントに到着したのが昨日の午後6時だったので、半日以上も寝続けてしまったことになる。何か用事があるというわけではなかったけれど、それでも、時間をいくらか無駄にしたと思うともったいない気がする。ケイは入浴と身支度を済ませて、足早に部屋を出た。


 1階のロビーに降りると、ローズが退屈そうに新聞を広げてくつろいでいた。おはようございます、と声をかけると、おはようと眠そうな声が返ってくる。

「ローズさん、ひとついいですか」

ケイには、ここに到着する前から考えていることがあった。大学が始まるのは9月からだが、今はまだ6月。3か月もぶらぶらと生きていくわけにはいかないし、生活費も十分にあるとはいえないので、アルバイトを探さねばならなかった。

「なんだい」

「仕事を探しているんですけど」

「なるほどねえ。まあ、ここらは観光地だし、引く手あまただと思うよ」

ローズは新聞から目を離さずに、煙草をふかしながら呟いた。そうですか、とケイが相槌を打つと、ローズは思い出したように声を上げた。

「そういえば、アンジェがバイトを探してたわね」

「えっ、ア、アンジェさんが!? 」

その勢いと緊張を見てとってケイの胸中を察したのか、ローズは快活に笑った。

「ああ。もう顔を合わせてたんだね。今度会ったら、話を聞いてみな」

「アンジェさんは、なんの仕事を? 」

ローズは興味津々なケイの言動を、微笑ましく思う。表情がコロコロ変わるこの青年は、わかりやすくて、愛嬌がある。

「誌社で働いてるのよ」

「誌社? 」

「正式名称は、国営美術誌社。月に2,3度、国内最新の美術トピックを取り上げて記事にしてるんだよ。芸術の国ならではの仕事だけど、アンジェは人手不足だーって、嘆いてたね」

「へえ……! 」

ケイは、ルーベンスの国立美術大学への入学が決まっていた。アルバイトで美術を学ぶ機会が得られるのなら、素晴らしいことこの上ない。というのは建前で、アンジェが働いていることこそ、素晴らしいことこの上ない。

「気になります。アンジェさんに話、聞いてみたいです」

「そうしてあげて。ネコの手も借りたい、って感じだったわ」

ケイは素直に嬉しかった。これで、アンジェに話しかける契機が生まれたし、うまくいけば彼女とともに働けて、それで……。と夢想したところで、にやにやとした顔のローズに見られているのに気づき、赤面した。ローズは本当に愉快だというように破顔する。さらに恥ずかしくなる。

「これ、持っていきな」

ローズはカウンターに平置きにされた新聞紙の中紙から一枚を取り出して、ケイに差し出す。白黒の印刷物で、『巨匠ミネルヴァの作品復元を視野に』といった見出しが目についた。

「これ、アンジェさんが書いたんですか? 」

「そう。興味があったら、読んで」

ケイは再び記事に目を落とし、さらりと斜め読みしてみてから、ローズを見据えた。

「ありがとうございます」

どういたしまして、とローズは機嫌よさそうに左の口角を引き上げた。それじゃあもう行きます、とケイが会釈する。ローズはそれに片眉を上げて応答するのみだったが、ケイはその仕草を認めると歩みを進め、アパートメントを出た。ローズから受け取った記事を、上端と下端がしっかり揃うように二つ折りにしたあと、しわがつかぬよう慎重に鞄にしまった。


 ここは、首都セザンヌ。ルーベンス随一の都市であり、朝から夜まで華やかな明かりに満ちている。

 アパートメント「カモミール」は、高台の上にある。セザンヌの街が上からよく見え、昨日の駅からの眺めを連想させた。首を振って、改めてセザンヌの街をよく観察する。

 四方を低い山に囲まれた、盆地状の地形になっていた。盆地は中心に向かって緩やかに下り坂になっているようで、街の中心には巨大な塔がそびえたつ。ポール・タワーといって、この国の象徴でもあり、世界に名を馳せる観光地のひとつでもある。トラス構造の美しい造りが遠目から見てもよく分かる。何度見ても、この光景に飽きることはないだろう。圧巻の光景にため息を吐くと、すっとした空気を肺に取り込んで、ケイは歩き出した。


 行く宛はなかった。せめて周辺の道や露店を把握しておきたい。

 アパートメント前の通りを下る。急勾配の狭い坂になっており、柑橘類の爽やかな香りが鼻をかすめた。光沢のある厚い葉を持つ木々がトンネル状に連なり、日陰がひんやりして気持ち良い。目下の大通りに出る。賑やかなこのあたりでは、テラコッタ調の石をメインに通りがデザインされている。ペールオレンジを基調として、露店ののぼりや屋根はカラフルに彩られており、明るい雰囲気だった。通りの中央には噴水があり、市民の憩いの場となっているようだ。しばらく通りを歩いたところで、ケイは朝餉を済ませていなかったことを思い出す。左手にサンドウィッチのレストランが見えたので、ケイはちょうどよかったと店内を覗く。

 落ち着いた雰囲気の店内はカウンターを中心に円弧状のレイアウトをしている。ガラス張りの壁付近に設置されたテーブル席に、見覚えのある赤毛がゆらめくのが目に入った。ガラス越しに正午の光を受けて、赤毛は金色の絹糸のように柔らかく見えた。ーーアンジェだ。

 ケイは慌てたように扉に手を掛け、店内に転がり込んだ。いらっしゃいませ、と言う店員に軽く会釈をしつつ、ケイはアンジェに向かって小走りに駆け寄る。

「あのっ、ア……カロンさん……? 」

出会ってすぐ名前を呼ぶのは馴れ馴れしいかな、と思い直し、どもりつつも苗字で呼びかける。

ケイに声をかけられたアンジェは、目線をケイに向けると丸くくりっとした瞳をさらに見開いた。

「昨日の子ね えっと……」

思い出すように視線を右上にやるアンジェを見て、ケイは再び名乗った。「ケイ・ナガセです」

「そう、ケイ。アンジェでいいわよ。それで、何しに来たの」

アンジェの口調は、とても柔らかいとは言い難かった。しかし、意図的に冷淡にしているわけではなさそうで、むしろ彼女の理知的さや賢さが垣間見える。

「ローズさんに、あなたがバイトを探しているって伺ったので……お話を聞いてみたいと思って」

アンジェは、そう、と片眉を上げてミステリアスに笑うと、向かいの椅子に手を向けた。着席を促しているようだ。「時間があるなら、話してあげるけど」

「ぜひ」


「それで、ローズからはどこまで聞いたのかしら」

「国営美術誌社での執筆の仕事……と、聞いています」

「まあ、概要はそんなとこね。細かく言うと、取材と執筆作業。印刷は新聞社に任せてるけど」

取材、というのはケイにとって魅力的に思えた。色々な立場の人間の美術的アプローチを見聞することができるのは興味深い。そう伝えると、アンジェは満足気に頷いた。

「意欲的な若者が名乗り出てくれるのは、こっちとしてもありがたいわ。1度所長と会って、彼があなたを気に入ったら採用になるでしょうね」

「そんな簡単な流れでいいんですか? 他に応募してる人は……? 」

「いないのよ」

「いない? どうして」

アンジェは諦めるようにため息を吐いて、言った。「求人、出してないのよ。色々あってね」

色々ってなんですか、という質問は呑み込んだ。大人の事情というものがあるのだろうと、なんとなく思ったから。

「ところで、あなた出身はどこ? この国の人じゃないでしょう」

「はい。ミズホから」

言うと、アンジェは目を見開く。心底驚いたようで、ケイにとっては彼女のわかりやすい感情を目の当たりにしたのはこれが初めてだ。興味深そうにケイの方へ身を乗り出してきたので、思わず背がのけぞる。

「ミズホって……大陸の真反対じゃないの!? 遠いところから来たわね。留学? 」

「ええ、そうです。国立美術大学に」

アンジェは身を引いて、椅子の深い位置に座り直す。その後、まじまじとケイの顔を観察し、「へえ、偉いわね」とため息を吐いた。言うと、彼女のゆるやかに上がった口角が柔らかく頬を押し上げ、目元を緩ませた。ケイは目を見開く。そんな表情をするとは、意外だった。宗教画の聖母の微笑みが、ケイの脳裏をよぎった。

「それじゃ、知識も問題なさそうね。仕事は、いつからできそうなの」

ケイが瞬きをすると、聖母は消え去り、再び淡泊な顔色に変わってしまった。若干の無念を覚えつつ、ケイは「いつからでも」と答える。アンジェは簡単に頷くと、席を立った。左手の内側に巻き付けた腕時計をじっと見て、考え込むようにしばらく黙り込んだあと、ケイに視線を移す。

「……ねえ、今から来る? 」

「え? どこに」

「職場」

「今から? 」

「そう。誌社へ」


 来てしまった、というより連れてこられた、という方が正しい。

 国営美術誌社は、セザンヌ中央区の大通りに面している。小さな建物だったが、石造りの洒落た雰囲気が目立つ。一階のロビーは市民が自由に出入りできる場となっており、誌社はその二階にあった。

 「え? 時間あるって言ったじゃない。日程合わせるのも面倒でしょ」

が、アンジェの言い分だった。

「でも、ほら所長さんの都合もあるでしょう」

「あの人、いつも暇してるのよ。あたしに仕事押し付けちゃって」

「その言い方はちょっと……」

ふたりは厚い扉を前にして言い合う。誌社の扉だった。

「おい、アンジェ」

低く重い声がしたと思うと、誌社の重厚な扉が音を立てて開いた。アンジェとケイが扉に目を向ける。大柄な、浅黒い肌の男が、戸の縦枠に凭れて立っていた。足先で、扉が閉まらないよう支えている。口元を歪ませ、こちらを見下ろす。

「聞こえてんだよ」

ケイの顔からさっと血の気が引く。彼が誰であろうと、誌社の一員であることは間違いない。第一印象は最悪なはずだった。対してアンジェは、この段階に来ても相変わらず涼しい顔をしていた。

「あら、本当のことでしょ」

ねえ、とアンジェはケイに共感を求めてくる。そんなこと言われてもケイには何も分からないし、ここではいと答えても目の前の男性に失礼を働く気がしたため、ケイは曖昧に、はあ、といった風に声を出した。とにかく今はこの居たたまれなさをはぐらかしたかった。

「そいつは? 」

男性はケイを認めると、アンジェに尋ねた。彼はケイの体を下から上まで眺め、目が合うと、歯を見せてにやりと笑った。アンジェはケイの背中を押して、男性の目の前に押し出す。

「ローガン、こちらケイ。新入社員」

そう言うと、ローガンと呼ばれた男は、顎のざらついた髭に手を当てて、ほうと呟いた。身を屈めるようにケイの顔を覗き込んで、見定めるように目を見つめた。彼のアンバーの瞳は、そらそうともそらせない力強さがあった。獅子に似ている、と思う。

「じゃあ入れよ」

ローガンは挑戦するように片眉をあげ、首を傾げてみせた。戸の縦枠に凭れた身体を起こし、扉を押し開けて、部屋の奥を親指で指し示した。入れと、暗に言っている。

「面接、してやろう」

 誌社は思っていたより狭苦しいところだった。16畳ほどの部屋だったが、窓以外の壁に本や資料がぎっちりと詰められているせいで、より狭く見えた。奥のデスクや作業机は印刷物で溢れかえっており、足元にも資料らしきものが散乱している。薄いコーヒーの香りが鼻をかすめた。

 ふと気になって、ケイはあの、と尋ねる。

「他の社員さんは? 」

「いない」

「お出かけなんですか」

「いや。誌社の社員は、俺とアンジェの、二人だけだ」

「え? じゃあ、所長さんって……」

「俺だ」

ローガンは、入口左手にある応接用のソファに腰掛けた。ローテーブルを挟んで反対にあるもう一組のソファを指さす。ケイは軽く頷いて、腰掛ける。床のものを踏まないよう慎重に足を運んだ。

「こっちの言葉は喋れるようだな。出身は? 」

「ミズホです」

ローガンはそうか、と頷く。アンジェのように好意的な反応を示してくれるかと若干期待していたが、淡白に済まされてしまった。

「文字は書けるか?」

「書けます」

よし、とローガンは再び頷く。

「まず、やってもらうのは雑用。慣れてきたら取材も行ってもらうが、初めは雑用だ」

「具体的には、何を? 」

「掃除に決まってるだろ」

ローガンは、後ろ手に部屋を指差す。見てわからないのか、とでも言いたげだ。

「あとは、執筆の補助。滅多にないが、お客様に茶を出したり、な」

「それなら、おれにもできそうです」

「そりゃよかった。……よし。じゃ、面接終わり」

「終わりですか」

思った以上にあっけなく、ケイは驚いて聞き返す。

「そうだ……と言いたいとこだが、最後にひとつだけ」

「はい? 」

ローガンは、懐から3枚の写真を取り出し、ローテーブルの上に並べた。見ると、絵画を写した写真のようだった。ケイの知っている作品ではない。

「これは? 」

「とある画家の作品だ。今後、記事にしようと思うんだが……おまえは、どう思う? 」

「えっと……どれも素敵な作品だと思いますけど。本当に同じ画家の作品ですか? 全部、画風も筆触も違う気がします」

3作品は、それぞれ水彩の風景画、アクリルの抽象画、女性を描いた油絵だった。

「そうだ」

「そうですか……まあ、生涯に何度も画風やモチーフを変化させていく画家もたくさん居ますし、どれも表現力は秀でているので、素晴らしい方なのかと思います。こちらでは有名な方なんですか」

「まあ、そこそこ名は知れてるな」

ケイは、「へえ」とも「はあ」ともつかない曖昧な返事をした。というのも、この作品群に対する違和感が拭えなかったからだ。なんとなく、モチーフを主体に描いていないような気がした。つまるところ、何らかのメタファー的要素が隠されているのではないかと勘繰った。同時に、ローガンがこれらの写真を提示してきたことの真意を考える。美術への審美眼を試すつもりなのだろうか。それならば、些細な違和感でしかない、賞賛とも言い難い感想を伝えるのは憚られた。そこでケイが言えたのは、

「勉強になります」

の一言だけだった。もう少し何かを喋ろうとも、うまく言葉を紡げない気がしたので、黙ってしまった。これだけの言葉がどれだけの印象を与えるのだろうか。あと数語でも喋ったほうがよかったのだろうか。額が汗ばむ。

 ローガンは「そうか」とだけ言うと、再び胸ポケットへ写真をしまう。ケイが見たところ、この男性の表情からは、あまり感情が読み取れない。アンジェと話すのとは別の意味で、緊張する相手だ。

「それじゃあ、帰っていいぞ。アンジェに送らせるか」

「い、いいえ! とんでもない」

「また、アンジェに連絡させるから」

「承知しました。失礼します」

ケイは足元の資料を踏みつけないようにソファから立ち上がり、扉へと向かう。アンジェが扉を押し開けてくれていたので、ありがとうございます、と会釈しつつ部屋を出る。ケイが廊下に出たのを認めると、アンジェは「じゃ」と言って、なかば乱暴に扉を閉めてしまった。そのあと、軽く口喧嘩するような2人の声が聞こえた。ケイはそのまま立ち尽くすのもいけないと思い、建物を出る。

 何か失言をしてしまわなかっただろうか。そもそも、第一印象が最悪だった。ケイは街中を歩きながら、そんなことを堂々めぐりで思案していた。考えて答えが出るわけでもないが、それでも。


 「採用よ」

「え……」

その晩、アンジェが201号室にやってきて、開口一番にそう言った。

「え、何? ドキドキしてた? とんでもないことやらかさない限り、不採用なんてないわよ! うち、ゆるいからね」

ケイのげっそりした顔を見て、アンジェは噴き出した。

「で、いつから来れそう?」

「いつでも…! 明日からでも、大丈夫です」

「そう。じゃあ、もう寝なさい。明日は、9時頃迎えにくるから、早起きしなさいよ」

「はい、ありがとうございます」

アンジェはケイの返事に頷くと、用は済んだとばかりに体を翻し、隣の部屋のドアへ向かっていく。アンジェがドアノブに手をかけたところで、こちらを横目に見た。

「何よ」

つい、目線で追ってしまっていた。

「あ、いえ。なんでも……おやすみなさい」

ケイが会釈すると、アンジェは冷たくおやすみ、とだけ言った。彼女が音を立てて扉を閉めたのを見届けると、ケイも部屋へ戻る。

 早く寝なさい、と言われたので、素直に従うことにする。玄関のほうから、電灯をパチパチと消していく。最後に、硬いベッドに潜り込んだあと、サイドテーブル上のシェードランプの紐を引っ張ろうとして、ふと思い出す。ベッド脇に放置していた鞄から、アンジェの記事を取り出して、広げてみる。ぱきっとした折り目がついていた。

 巨匠ミネルヴァは、およそ150年前に活躍していた画家だ。ルーベンスを代表する芸術家の一人で、彼の作品は昔から高値で売り買いされる。そんな中、10年前の内乱に巻き込まれ彼の作品の4割は焼失してしまった、とのこと。近年では倫理上の観点から彼の作風に批判的な意見も増えてきており、作品修復は見送られてきたが、芸術振興を推し進めるため、今期から修復開始が決定された。

 記事の内容を要約すると、こういった内容になる。後述には編集者ーーアンジェ本人の見解も記述されていた。

 「ミネルヴァの作品には北方人種への差別的表現ともとれる描写が多い。これは排他主義と優生思想が現代より顕著であった近世の価値観が反映されており、わが国の負の歴史を写し出す鏡と言ってもよい。彼の作品を修復することは、芸術振興を促進するためだけではない。歴史を再評価し、過去を学ぶためでもある。私個人は、今回の芸術保護連盟の決定に強く賛辞を送る」

 アンジェの意見は正しい。ケイも彼女の立場だったら、同じようなことを述べるはずだ。もしかしたら、自分とアンジェの価値観は似ているのかも。そう思うと、胸がざわざわとして、心なしか嬉しい。

 ケイは記事をサイドテーブルにそっと置き、シェードランプの紐を引っ張る。部屋から光が消える。明日はどうなるだろうか、どんな人と出会うだろうか、とぼんやり考える。ルーベンスに来てから出会った人々の顔を脳裏に逡巡させていくと、頭の中がとろりとしてきて、瞼が重くなる。頭の回転はゆるやかに遅くなり、もはや考えることもままならなくなった、そのとき。瞼の裏の漆黒は、夕刻の光を抱き始める。重力に抗って目を開けると、そこはやはり、黄金の世界だった。


読んでくださってありがとうございます。

不定期更新ですが、大方のプロットはできているので、最後まで書ききることを目標にがんばりますね。

初めての執筆なので、あたたかい目で読んでくださると嬉しいです。

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