義理の妹が帰ってくる2 ~霜月双子姉妹編~
俺は、何気ない普通の高校生だ。
学校へ行き、友達とだべり、勉強をして日々を過ごしている。
彼女無し、恋愛経験無し。かと言って、勉強やスポーツなどで受賞経験があるわけでもない。平凡で浮き沈みの無い受験を控える高校三年生と言えば――間違いなく俺だろう。
まあ、中学生までは転校が多く友達は少なかったけれど、現在はそれも収まり牧歌的な生活を送らせてもらっている。
この日常が少なくとも高校卒業までは続くのだと思っていた――。
しかし、俺の日常は義理の妹によって変化を迎えることになる。
九重美海――天真爛漫な超が付くほど手が掛かる妹だ。
まさか俺がトイレを手伝ったり、服を着させてあげるなんて事をさせられるなんて思いもしなかった。どれだけ大事に育てられればあんな事になるのか……。
流石にあのまま大人にさせる訳にはいかない、と俺は自立を教えた。
しかしながら、家出という形をとっていた美海との時間は、あっけなく終わってしまった。
また普通の生活が始まると安堵すると同時に寂しさを思う中、彼女たちはやって来た。
――俺のもう二人の義妹たちである。
凄然に感じるリビングでテーブルを隔てて俺と二人の少女が対峙する。
一人は愛想笑いしてくれるのに対し、もう一人は仏頂面で頬杖をついている。
彼女たちは二卵性の双子で顔は似ていないが、二人共美形なのに変わりない。
訪ねて来て早々に不機嫌になられるのは困るというか、話し難い。特にヘマをしたようには思えないのだが……。
「それで――なんで家に?」
俺の親父が彼女たちの母親と離婚してから約二年が経過している。それまで一度もここを訪れた事は無かった。今更何か忘れ物などは無いと思うが、美海のこともあって脳内で勝手な想像をしてしまうのは悪い癖になりそうだ。
「別に……」
この不貞腐れているツインテール少女が霜月藍。双子のお姉さんだ。
金髪にしたんだな……。ギャルよりになったが、少し大人っぽくなっている。中学生になったのだから当たり前だろうが、頭の色は中学生デビューだろうか。
「お姉ちゃん……!」
注意するように藍を小突く彼女は、双子の妹の霜月伊央。
髪を伸ばしていたはずだが、ボブカットになっている。清楚な雰囲気と大和撫子然とした佇まいは相変わらずだ。
今の会話だけで彼女たちの関係に変わりないことが窺える。我儘な藍、おっとりと余裕ある伊央の構造があの頃のまんまだ。
「ごめんなさいお兄さん。実は、少しの間わたしたちをここに泊めて貰いたいんです」
「え……和香さん、何かあったのか?」
もしかしてまた家出……じゃないだろうな?
「……」
言うつもりは無いってことか……。
「まあ、別にいいけど……」と言って藍を一瞥すると、伊央は「あはは……」と失笑した。
特に嫌というわけではないけれど、せめて顔くらい合わせて欲しいと願ってしまうのは、甘えん坊妹の美海と関わった代償なのだろうか。
「その、家事とかはお手伝いするので! 任せてください!」
「いや、それはいいよ。ほとんど終わってるし、二人は客みたいなもんなんだからゆっくりしてればいいさ」
「お兄さんは変わらず優しいですね。懐かしい感じがします」
伊央の屈託の無い笑みはとても可愛らしい。まさしく学園に咲く一凛の華のような可憐さだ。
もし妹でなければ――思わず意識してしまいそうなほどである。
勿論、藍も同じくではあるのだが、険しい顔がゆえその片鱗が表に出ないのが勿体ない。
「ですが、やっぱりただでお泊りさせていただくのは気が引けるので、やれる事はやらせてもらいます。お兄さんに甘えて迷惑を掛けるだけなんて、個人的に嫌というのもありますから」
思わず「伊央は偉いな」と言葉が出そうになったところ寸前で留まった。「藍は違う」と捉えられそうだったからだ。
かなり気を遣いそうな一日になりそうだ……。
藍は、二階にある元自分たちの部屋へ上がっていった。
終始ツンケンしているから気を揉んだ。果敢な時期だろうし、あまり余計な事は言わない方がいいんだろうか。
でも、せっかく久しぶりに会ったのだからちょっとくらい以前のように遊べたら――なんて想いを巡らせるのは、俺の一人よがりなんだろうか。
俺は、比較的伊央よりも藍と一緒に過ごした時間が長い。けれど、その頃の時間は無くなってしまったみたいだ。
「わ!」
洗濯機の方に向かった伊央から吃驚が聞こえた。
「どうした?」
「お兄さん……今、一人暮らし――なんですよね?」
あわあわとした伊央が訊ねる。
え、何、幽霊でも見た?
「も、勿論そうだけど……」
「綱吉さんってもう再婚とかされたんです?」
綱吉というのは、水無瀬綱吉――俺の親父のことだ。
「いや、絶賛一人身のはずだけど……」
「じゃあなんで、女もののシャンプーがあるんですか!? わたしたち、出る時全部持って行ったはずですよ!?」
伊央が出してきたのは、女性もののシャンプーだった。
美海、忘れて行ったな……。
「そ、それは……や、安いから、節約の為に俺が使ってるんだよ」
なんで誤魔化した俺――!!? 素直に説明すればいいじゃないか!
伊央には俺に複数の義理の妹がいることはおろか、親父がバツが幾つもついている離婚野郎ということも知らないから説明が面倒臭いという思いもあるが。
「そうなんですか。綱吉さんって今働いていないんですもんね……」
哀れんだように見られるが、円満離婚だったし、貯蓄もあるからそれほどお金には困っていない。それでも俺は、節約するようにしているが。
「お兄さん! 女性ものの下着を見つけたんですけど!!?」
今度は見るのも憚られる下着を見つけてきた。
美海……!!
「それも節約で……」
「そんな事ありますか!?」
「えっと……」
結局俺は、暫く別の義妹と暮らしていたことを吐露することになった。
伊央は怪訝そうにしていたが、俺を下着泥棒や変な性癖を持った変態だとは思いたくなかったようで、渋々信じてくれたようだ。
伊央はまだ物分かりがいいけれど、藍に説明するとなったらこれでは済まないだろう。今の藍なら、罵声を放った上に汚物を見るような目で睥睨するに違いない。
「ひとまずこの下着はお兄さんの目に毒でしょうし、わたしがしまっておきますね」
「あ、ああ……」
「それにしても……大きいですね……。……何もありませんよね?」
「あ、ある訳ないだろ!」
「……怪しいですね」
「そ、そんな事より昼は何か食べに行かないか? せっかく再開したんだし、兄貴がなんかおごってやるよ!」
「賄賂ですか?」
「違う!!」
こっちもこっちで一癖あった……。俺の反応を見てくすくす笑って楽しそうだ。
こんな一面があったとは。
二階から藍が降りてくるので、俺は咄嗟に下着を隠し、微笑んだ。
目が合った藍は、顔を顰める。
「あ、お姉ちゃん。お姉ちゃんも一緒にお昼ご飯行く? 外で食べようかって話してたんだけど」
「……いい」
もしかして嫌われてる? 俺、本当に何かしたのか?
もしくは、親が離婚した時の事、よく思ってないとか……。
有り得る……。あのバカ親父の息子だと思われているのかもしれない。
嫌だあ……おの親にこの子有りと思われるのはチョー嫌だ……!! 俺はあんなに女遊びして風じゃない!
「いさん…………さん。お……さん……お兄さん!」
「え、はい!?」
俺が頭を悩ませている間、呼びかけられていたらしい。肩を叩かれ漸く気づいた俺はビクつく。
「ちょっと頼みたい事があるのですが、宜しいでしょうか?」
「……なんだよ?」
◇◆◇◆◇
次の日の昼――。
俺は、双子が通う中学校を訪れていた。
家からそう遠くない場所にある普通の学校で、朝出掛ける時に伊央が来ていたセーラー服を着ている者が多く行き交っている。
藍は運動着だったので、運動部――それも陸上部だそうだ。
今回の目的はその藍である。
伊央に藍の迎えを頼まれたので、こうして学校まで足を運んだのだが……正直あまり長居したくはない。
中学校に冴えない私服の高校生が来るというのも、なかなかシュールだろうというか、恥ずかしい。
藍も俺が自分の兄だと紹介したくはないだろうし……。
だが、藍がどのように部活をしているのかは気になる訳で、彷徨しながら校庭の方まで進んできた。
すると、石段の前にある僅かな日陰からサッカー部らしき男子の声が聞こえてくる。
「なあ、さっきの見たか?」
「え、何?」
「陸上部の佐伯に決まってるだろ! もおボインボイン揺れてたぜ! お前見てなかったのか?」
「はは……お前、佐伯さん好きな。一昨日も同じ事言ってただろ」
「いやだって、あんなの中学生じゃないぜ。女子からしたらマジで反則ってレベルだよ」
「僕は、霜月さんの方がいいけどな。クールで可愛いし」
「ああ! 霜月双子姉妹な。てかお前、藍の方かよ! 性格的にも体的にも断然伊央の方だろ!」
「どっちも可愛いけど、僕のタイプは藍さんなんだよ」
最初の話題はアレだけど……モテるねえ……。あの見た目なら当然だろうけど。
この先、義理でも俺が兄貴だったって、マジで現実味が無い事のようになっていくんだろうな。
今の内にサインとか貰っておこうかな? 伊央は、美人女優かアイドル。藍は、美人スポーツ選手か美人キャスターとかなりそうだ。
そんなことを考えていると、ふと視界の端に見覚えのあるシルエットが見える。金髪ツインテールをはためかせながら走る女子である。
サッカー部や他にも陸上部の部員がいるにも関わらず、あの目立つ容姿に目を惹かれたのだろうか。
ハードルを身軽に飛び越えながら土の上を軽快に疾走する姿はまるで別人だ。
相変わらず華奢だと思っていたが、その認識は改めなければならないだろう。脚の筋肉においては、俺よりもしっかりしている。
「ていうか――かっこよ! ていうか、はえー!」
思わず声を挙げると、藍が走りながらこちらを振り返る。
俺と藍の目が合った。
「――おに……」
次の瞬間、藍はハードルに足を引っかけた。
体がふわりと浮き上がると、空中で体を丸め、地面を転がった。
「藍!」
倒れ込む一瞬に叩き込まれるような悪寒が藍の代わりを駆け抜けた。
皆が藍に掛け寄る中、俺はいち早く藍の下に移動した。
「大丈夫、藍ちゃん?」
「藍……?」
藍はなんとか体を起こしたが、左脚首を気にしている。更には、痛みが生じるように顔を顰めた。
「藍!」
「誰」という疑問符がそこら中で生じていたが、気にすまいと藍の脚を見る。
「な、なんでいるの……」
「そんな事はどうでもいいだろ。今は、保健室だ。ほら、乗れ」
俺は背中を向けて、乗るように促す。
「え……いや、いいってば」
「いいわけないだろ。捻挫しているかもしれない。陸上は脚が大事じゃないか!」
「すみません、あなたは?」
陸上部の顧問らしき女性教師が訊ねてくる。
「俺は――」の先を逡巡して口籠る。
兄とは言えない。顧問なら、藍の家族構成も知っているはず。それでなくても、後で調べる可能性もなくはない。
今の俺は、義理の兄でもない……。
「あ、あたしの――……彼氏、です……」
顔を赤らめた藍がそんな説明をした。驚き焦って、自然と顔がひきつってしまう俺。
「え、藍ちゃんの彼氏、さん……?」
「でも、この人高校生……ううん、大学生?」
「藍先輩、大人だあ!」
感歎の声があがる中、そそくさと俺の背中に乗ると、藍から「行って」と命令が来た。
「あ、はい! あの、俺、保健室に連れて行きますので……」
「はい……」
女性教師は呆然としていたが、俺はそれ以上何も言えなかった。
気を遣って貰ったんだろうか。俺が彼氏だと思って、だろうけど。
保健室はどこも変わらないらしい。
白く清潔そうなベッドが二つと、それを隠せるカーテンが対になっている。保険教員用のデスクや幾つかの薬品。足で開ける鉄製のゴミ箱。
窓からは、さっきまでいた校庭が覗くことができる。陸上部も部活を再開したらしい。
保健室の先生はおろか、ここには誰もいない。
俺は、ひとまず藍を椅子に座らせた。
「俺、誰か先生を呼んでくるよ」
「待って」
切れ長の目だから勘違いしがちだが、これは別に怒っているわけじゃない、よな?
「なんでいるの」
いや、やっぱり怒っているかもしれない。
「伊央に頼まれて……」
「伊央を迎えに来たってこと? でも、だったらなんで――」
「違う。俺が迎えに来たのはお前だ」
「え、あたし?」
「藍が誰かにストーカーされているかもしれないからって……聞いてなかったのか?」
藍はコクリと頷いた。
伊央のやつ、言っておくって言ってたのに。忘れたのか?
「……ストーカーなんてされてない」
「そうなのか? それならいいけど、もしかしたら伊央が気付いたってことなのかもしれない」
「へー、それはいいとして。おかげでお兄を彼氏にしちゃった……」
「うん、ごめん……」
ん? あれ……?
「あたしに兄がいるなんて誰にも言ってないし、ああ言うしかなかっただけで……か、勘違いしないでよ! 別に、告白とかじゃないから!」
「それは分かってるよ。俺も自分を兄貴だって言っていいのか自信なかったし、助けられたというか……。でも、藍からしたら嫌だよな」
「そ、そんなことはないけど……」
なんて言ったのか聞こえない……。
「でも、漸く話せて嬉しいよ。ここまで来た甲斐があった」
「はあ……っ? そ、そんな事で嬉しいなんて、どれだけ不幸な人生なのよ……!」
そっぽを向かれてしまった。
怪我して俺が嬉しいなんて言ったと思われたのか?
「てか、俺のこと従兄とか言えば良かったんじゃないか? 流石にそれなら誰も判らなかっただろ」
「……う、うるさい!」
「いて!?」
俺は脚を蹴られる。
しかし、藍が出した足は捻った方で「うぐ」と小さい呻き声が挙がった。
「な、なにすんだよ……」
「だったら、お兄が自分で説明すればよかったじゃん!」
「……」
まじまじと顔色を窺うと、藍は「なに」と訝しむ。
「……やっぱり、俺のことまだ兄だと呼んでくれるんだな」
「え……? 呼んでないし」
「さっきも呼んでたぞ」
「いいじゃん別に……」
「俺のこと、嫌いになったのか? だったら俺は、できる限り関わらないようにする。勿論、家には居て貰って構わない」
「――嫌いになんてなってない!!」
「本当か? じゃあなんでずっと避けるような行動ばかりするんだよ。もしかして、家に来た事と関係あるのか?」
「それは……」
藍が口籠ってふと窓の方へ視線を泳がせる。すると、にやにやした顔の女子生徒がこちらを覗き込んでいた。
「藍の友達か?」
「円香!」
藍は、左脚を庇いながら立ち上がる。
俺は、咄嗟に藍の体を支えた。
すると、藍は顔を赤らめながら窓を開けた。
「仲がよろしいようですねえ? 喧嘩しているように見えたけど、痴話喧嘩ってヤツ? 羨ましいですなあ」
「ち、違う!」
「お邪魔しちゃったようだけど、ジャージ持って来てあげたから許してん」
そう言って、彼女は紺色のジャージを手渡した。
「……絶対、誰にも言わないで」
「分かってる分かってる。嘉穂と杏子にしか言わないから」
「それもダメだから!」
「じゃあ、保健室でイチャイチャしてたことにする?」
「やめてってば……」
「冗談だよ!」
とりあえずいい友達がいるってことが分かったな。
「彼氏さん!」
「?」
「藍のこと、よろしくね!」
「……はい」
「何真面目に答えてんのよバカ!」
今更変えられないだろうと思ったけど――じゃあなんて答えればよかったんだよ……。
◇◆◇◆◇
俺は、予定通り藍と共に帰路に就いた。
閑静な住宅街は、休日だというのに変わらず静かだ。疎らに子供たちの声がするが、それでも思わず藍との距離感を考えてしまうほど何も無い。
変わらず不機嫌な藍。あれから友人に俺のことをしつこく訊かれたようで、部活してた時より疲れているんじゃないかと思えてしまえる。
溜息を吐くけれど、藍は俺の顔色を窺うように見上げてきた。
「……まあいいか」
何がだろう……?
「お兄は彼女とか、親しい女友達とか、いる?」
「へ? なんで?」
「ただの世間話。察してよ」
「そ、そうか! 俺は、そうだな……」
藍なりに距離を詰めようとしてたのか。中学生女子といえばありきたりな話題だろうし他意は無いだろう。
伊央には他に妹がいるとは言ったが、美海は妹なわけで、もう当分関わりにならないだろうし、そもそも友達と言えるかはあれだ……。
篠宮はどうだ? でも、ご近所付き合いしてくれたのはきっと、美海を心配していたからで、友達と言えるかどうかは……。
そう考えると俺、知ってはいたけど女っけねえなあ……。
「いや……」
俯く俺を案じてか、藍は困った顔をした。
「どうしたの?」
「そういうお前はどうなんだよ。俺が彼氏じゃ嫌ってことは、好きな相手くらいはいるんだろ?」
「は、はあ!!? なんでそんな話になるの!? あ、あたしは別に、嫌いなんかじゃ……じゃなくて好きな人なんて、い、いるわけないでしょ!」
慌て過ぎて何言ってんのか判らん。しかし、この反応は好きな人くらいいそうだ。しかも、伊央や友達にも言っていないと見た。
「本当はいるんだろ? 俺にだけは言ってみろ。もし困ってんなら相談乗ってやるぜ」
「い・ら・な・い!!」
「あ、そうですか……」
唇を尖らせて怒ってしまった。
地雷を踏んだらしい。話題を変えよう。
「そういえばさ、お前ゲームのピコモン好きだっただろ? この前最新作出たじゃんか。俺、もう全クリしたんだぜ!」
「……あたしだって全クリしたし……」
怒りながら答えてくれてる……。
「じゃあ裏レジェンドモンスターは? ゲットしたか?」
「……まだ……。だってあれ、すごく強いじゃん」
「俺が手伝ってやろうか? ゲーム機持ってきただろうな!」
「じゃあ……お願いしようかな」
「おう、任せろ!」
◇◆◇◆◇
(お姉ちゃん、ちょっとは機嫌直ったかな?
お兄さんには、お姉ちゃんがストーカーされてるなんて嫌な嘘付いちゃったけれど、これでお兄さんとお姉ちゃんが前みたいに仲良くなれば、お兄さんも生活しやすくなると思うし。
お姉ちゃん人見知りだからって、数年会ってないだけで関係性リセットする癖直して欲しいなあ。おばあちゃんにだってあれだから……おばあちゃん、内心では困ってそうだったし)
「ただいまー」
玄関に入ると、室内から二人の声がした。
(お姉ちゃんたち、仲良くなったみたい。
流石お兄さん、わたしはちゃんと仲良くなってくれるって信じてましたよ。元々仲良かったしね)
「ただいま…………」
リビングではテレビが点き、テーブルにはゲームコントローラーが置かれている。
藍と繋がテレビゲームをしているらしかった。
しかし、伊央は何かおかしいことに気付く。
藍は、布地の薄いラフな恰好だ。そこはいつもと同じだが、その恰好で繋に抱き着いている。
「お兄……また失敗したな!」
「ごめんごめんって! 許して、死ぬから! 死ぬ!」
藍が楽しそうに繋を懲らしめるようだが、伊央にはそうは思わなかった。
僅かな胸を背中に押し当てながら後ろから抱きしめているようにしか見えなかった。
(ん!!? ――仲良くなり過ぎてない……!?
たった1日――ううん、数時間だけのはずなのに、お姉ちゃんとお兄さんに一体何があったの?
ていうか、お姉ちゃんのあの顔――もしかしてお姉ちゃん…………)
◇
◇
◇
ゲームを終えて藍が自室に戻る頃合いを見て、伊央は藍の下を訪ねた。
部屋は一緒だが、夜間を除き伊央は基本的に部屋には居ない。家事の手伝いなどをして、部屋にはそれほど用事が無いが故である。
そんな伊央が部屋に来るので、藍は訝しんだ。
しかし、彼女が自室に居るというのは悪い事ではない。ここで何かを言えば、過剰反応と捉えかねない。
少々気になりはするが、藍はベッドに寝そべりスマホをいじり始めた。
すると、伊央は部屋の扉を閉めて話を切り出す。
「お姉ちゃん、お兄さんと仲良くなったんだね。良かったよ」
「別に、どっちでもいいじゃんそんなの」
藍は関心が無いようにスマホを見ながら適当に答える。
「他人とか、特に男の人には全然心開かないお姉ちゃんが珍しいね」
「ただゲームしてただけで仲が良いとか訳わかんない。伊央はゲームしないからそう思うだけでしょ」
「……そうかな……」
「……何が言いたいの?」
しつこいと感じ、藍は起き上がって伊央をねめつける。だが、伊央も藍に真摯な眼差しを向けていた。
「っ……あたしが家の空気悪くしてたから、そうしないようにしただけじゃん! そしたら今度は逆ギレするとか訳わかんないし!」
「お姉ちゃん、お兄さんに恋とかしてないよね?」
「――は、はあ!? そんなわけないじゃん! なに言ってんの!?」
「顔赤いし。それに、さっきは凄い楽しそうだった」
「気のせいでしょ!」
藍の目が泳ぐ。
「ここに来ようって最初に言ったのはお姉ちゃんだった。もしかして初めから……ううん、お母さんが離婚する前からお姉ちゃんは――」
「しつこい!」
嫌気が差した藍は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
「お兄さんはダメだよ。お姉ちゃんに相応しくない!」
「……だいたいなんで伊央にあたしの好きな人をとやかく言われないといけないわけ!? 伊央に何の権限があるっての!!」
藍は扉を強く閉め、出て行った。
(権限ならあるよ。お姉ちゃんがお兄さんと恋人になるなんて――許せない!!)
◇
藍が血相を変えて外に飛び出してしまった。
二階で伊央と口論していたみたいだけれど、何かあったのだろうか。
――兄として見過ごす訳には行かない。
そんな使命感に駆られ、伊央を訊ねてみることにした。
二人の部屋の扉をノックすると、中から返答があったので開ける。
元々ここは一人部屋が2つあったのだが、引っ越してきた時に壁を壊して二人部屋にした。今はそれほど物がないため、より広く感じるのだろう。
ほぼ左右対称に並ぶ机と椅子のセットと、ベッド、それと壁に埋められた何も置いてない本棚。
そこに伊央だけがすんとした表情でベッドに腰掛けている。
彼女を見て、俺はより心配になってしまった。その表情がとても寂しそうだったからだ。
てっきり怒っているのかと思っていたが、伊央のことだから隠しているだろうとも思った。けれど、そのどちらでもないかもしれない。
「何があったんだよ、喧嘩か?」
「そんな感じですね……」
溜息混じりに呟くと、伊央は向かいにある藍のベッドを眺める。
喧嘩の原因はなんだ? 部屋に隠してたお菓子かなんかを藍が食べちまったとか、そんなところか?
「お兄さんは、お姉ちゃんのことどう思いますか?」
取り留めもない問いかけに逡巡する。一体、何を訊きたいのか判らなかった。
「どうって、どういう意味だ? そりゃあちょっと癖はあるかもしれないけど、根は前と変わらないと思うぞ」
「そうじゃありません。女性として、どう思いますか?」
「ん? 可愛いと思うぞ? 金髪にしたのには驚かされたけど、あれなら学校じゃ結構モテてるだろ」
学校でも男子生徒がそんな会話してたからな。節々で告られているに違いない。
うんうん、と頷く俺を他所に伊央は満足したのか立ち上がった。
「そうですか。では、そのままでいてくださいね」
「そのままって何?」
「……いえ、なんでもありません。
どうせその内帰ってくるでしょうし、わたしは夕飯の支度でもしようと思います。お兄さんは、部屋で勉強でもしていたらどうですか?」
「え、それだけ?」
「はい」
結局、何が訊きたかったんだよ……?
部屋を出ていこうとする伊央は途中で足を止めた。
「そうだ――一応言っておきますけど、あまりお姉ちゃんに近寄らないでください。お兄さんがかかずらうと、面倒な事になりかねませんから」
っ――!!?
一瞬、伊央が俺に敵愾心の孕んだ口調で言い放ったように思えた。
目は虚ろで、まるで伊央が伊央じゃないような。
……気のせい、だよな……?
◇◆◇◆◇
日が落ち行く薄暮――近くの公園に居る藍を見つけた。
伊央には近寄るな、と言われたけれど、そうはいかない。兄として、放っておけるはずがないのだ。
もしも精神状態が人間の行動に影響を及ぼすのであれば、現在の藍はそれに該当するだろう。変なに誘われれば、無意識に承諾してしまうかもしれない。意識が判然として、事故に巻き込まれるかもしれない。
流石に想像の行き過ぎだとは思うが、それを置いておいても、藍からも話を聞きたい。伊央からはあまりいい話を聞けなかったし。
伊央と話している時間と探す時間を合わせ、十分考える時間はあっただろう。もしくは何も考えない時間。
藍はブランコに揺られながら俯いていた。
前から好きだったよな、ブランコ。
俺が目前に移動するまで気付かなかったようだ。
「……お兄……」
俺は、目線を逸らして訊ねる。
「伊央と何かあったのか?」
「……さあ?」
この双子は明確な返答をするということを知らないのか。
藍は双子の姉だが、どちらかと言うと伊央の方がしっかり者のイメージだ。藍は、年相応としている。素直で、あどけない。そして、伊央よりも嘘が苦手だ。
だからだろうか、気付かれないようにとぼける癖がある。伊央もとぼける時はあるけれど、顔色を窺ってからかうように振舞う。藍はというと、目を合わせないようにして「気付かないで」と願っているみたいだ。
俺は隣のブランコに腰掛けた。
「なんで来たのよ、バカ……」
ぼそっと呟いた言葉は聞こえなかった。
ここで事情を訊こうとしても藍を追い詰めるだけだ。同じ手だけれど、また話題を変えよう。
「ゲーム、楽しかったな。藍と久しぶりにゲームできて、良かったよ」
疑問符を生じさせるが、一拍の間を置いて答える。
「……うん」
「ちゃんと裏レジェンドモンスター、捕まえてやったし、これでお前も少しは強くなれたんじゃないか」
「……でも、何回もやってた」
「あれは、お前のモンスターが弱いからだ。もうちょっとレベル上げてあれば、もっとすんなり捕まえられてたさ」
「うるさいわね! これでも頑張って育てたんだから!」
「悪い。言い訳だ」
「言い訳?」
「そうだ……」
「ぷっ……あはは! そこは認めるんだ?」
噴飯する藍につられ、俺も笑った。
「しょうがないだろ。もう少しかっこつけたかったんだよ!」
「全然かっこよくないし! 人のせいにして、むしろかっこ悪いし! あ〜あ、お兄ってばかっこ悪いの!」
「うるせい。
でもまあ、笑う気力が戻ってよかったよ。わざわざ何回も負けた甲斐があったってもんだ」
「なにそれ。わざと負けたって言いたいみたいじゃん」
「まあな!」
「実力でしょ。お兄のスキルの問題! 期待して損したし」
「な……じゃあ勝負するか?」
「いいよ。あたしが勝ったら、駅前のパフェ奢ってよ!」
「え!? マジかよ……」
「何か賭けないと面白くないじゃん。それとも、勝つ自信無いの? お兄、弱虫だったんだ?」
「そんなことねえし! いいぜ、だったら俺が勝ったら伊央と仲直りするか!?」
つい口から出てしまった。
「……え?」
藍は、戸惑った表情をした。虚を突かれて再び目を逸らし、葛藤しているようだった。
「いや、やっぱりいいよ。無理矢理させるもんでもないしな」
「……いいよ」
「え、いいのか?」
「うん。だってあたし、お兄の言うこと聞けるもん」
顔を綻ばせた藍は、以前と何も変わっていなかった。
引っ越してきたばかりの頃、藍は友達がいなくてよく俺とばかり遊んでいた。
伊央は友達がいて遊びに行ったりしていたが、俺もあまり馴染めなくて藍と一緒に居る時間が長かったのだ。
藍は俺によく懐いてくれ、その頃によくこんな屈託のない笑みを浮かべていた。
ちょっとツンケンしていても、変わっちゃいないんだな。
◇
◇
◇
「怒ってごめん……」
藍は、俺との賭けに負けて伊央に謝罪した。目を合わせず、半ば強引という雰囲気は否めないが。
でも俺は、賭けはなんとなくわざと負けたんじゃないかと思っている、
伊央は俺をみるや、あまり嬉しそうではなかった。藍に近寄るな、という警告を無視したからだろう。
悪寒を感じたが、藍との仲直りには応じるようだ。
「わたしもごめんね、変なこと言って。これからはもっとよく話して、お互いのこと分かり合っていけたらいいな」
「……うん」
ともかく仲直りできたのは幸いだ。
「これでまた三人で飯が食えるな!」
「じゃあお姉ちゃん、一緒にお風呂入ろ。仲直りに印に」
「まあ、いいけど?」
「良かった。そうだお姉ちゃん、今度服買いに行こう? お姉ちゃんも偶にはオシャレしたいでしょ」
「まあ……」
……無視っすか。
しかし、これ以上は言うまい。二人で仲良くができていればそれでいいのだ。
「さあて――俺は食器とか出せばいいのか?」
中途半端に料理が並べられたテーブルを見て、独白した自分が情けなく思えた。
俺、一応今は兄貴ってことでいいんだよな……?
◇◆◇◆◇
珍しい事もあるものだな――と、感心している内に俺たちはゲームセンターに赴いていた。
藍が俺をゲームセンターに誘ったのだ。
ゲームで遊んだのが影響したのかもしれないな。
藍は俺だけを誘うつもりだったようだが、伊央がそれを良しとしなかった。
俺はどちらでもいいのだが、さっきから伊央の様子が変なのが気になる。ゲームセンターに入って早々に伊央が俺と藍の間に割って入って提案する。
「まずは、プリクラを撮りに行きましょう!」
「……」
何故か藍が伊央を睨みつける。
しかし、今もどこか咄嗟の行動のように思えてならない。急に出てこられてビックリしたほどだ。
驚かせるなよ……。でも、プリクラか。そういえば、この二人と撮ったことはなかったな。
思い出になるかもしれない。俺も普段は写真とか嫌いだからあまり撮らないし。
「じゃあ行く?」
藍も承諾し、俺たちはプリクラを探し始めた。
◇
危ない危ない……。
もうお姉ちゃん、隠すつもりないみたい。わたしがいるっていうのに、いきなり手を握ろうとして……。
恋愛に走る年代なのは分かるけど、相手がお兄さんなんて看過できない。
ひとまず餌で注意を引くことが出来たけれど、いつまでも融通が効くとは思えない。
――お姉ちゃんは本気だ。わたしが守らないと!
その為にはまず……。
◇
プリクラを探していると、伊央に腕を引っ張られた。
そのままクレーンゲームエリアに連れられ、藍とははぐれてしまった。
もしかして狙ったのか?
「なんだ?」
伊央は、周囲を見渡してから俺に壁ドンしてきた。
近くでクレーンゲームをしているカップルから見られているけれど、あれはいいのか? 結構気にされてるけど……。
「お兄さん、分かってますよね? お姉ちゃんには手を触れないようお願いします……!!」
「分かってるよ。お前は俺をなんだと思ってんだ?」
あれ? この会話どこかで…………ああ、篠宮か。
俺ってそんなに幼気な女の子を襲う男に見えてんの……?
「約束してください。お姉ちゃんは今、凄く傷付きやすいんです。変な事したら、警察に訴えますから!」
「そこまで!?」
承諾しろ、と伊央は目で訴えてきた。
俺は嘆息しながら答える。
「変な事なんかするわけないだろ。俺はお前たちの兄貴だぞ」
「今はもう違うじゃないですか……」
「……伊央はそう思ってんのか……。けど、俺にとっては一度妹になった子はいつまでも妹だ。俺が妹を傷付ける事はないし、幸せでいて欲しいと思っているし、今日は楽しんで欲しいと思って来た」
「それがお兄さんのポリシー……いえ、兄としてのプライドというわけですか」
「ああ、そうだ」
「そのプライドに嘘はありませんね?」
「男に二言は無しだ!」
「……分かりました、信じます」
伊央は、漸く離れてくれた。
「お前が何を考えてるのか俺には分からないけど、約束するからお前も楽しめよ。藍だけ楽しんで、お前が気張ってつまらなかったなんて不公平だろ」
「……この世に公平なんてありませんよ」
そう言うと、伊央は行ってしまった。
それも一理ある。けど、俺は平等だってあると証明したい。
藍は、伊央と共にプリクラの台の前にいた。
楽しむ……か。俺が楽しませないとな。
「悪い、遅れた」
「どこ行ってたの?」
「えっと……花をつみに……」
「そ、そっか……て――女の子に変な事言わないでよ、気遣うじゃん!」
「悪い……」
藍は顔を羞恥に染めて顔を背けた。
本当は伊央に呼び出し食らったからだけど、言わない方がいいんだろうな。
「では、入りましょうか!」
伊央が藍を押して台の中に入る。
さっきとテンションが全然違う。伊央はもっと朗らかだと思っていたが、裏の顔ってやつか。美少女たちはよく分からん。
中では、俺を待つ二人が迎える。奥に藍、手前に伊央という布陣。伊央は俺を警戒して、この配置になるよう藍を押して入ったのだろうと推察できる。
台に足を掛けると、俺は逡巡する。
なんか、ここに居ていいのか感が痛々しく突き刺さるような……。
だってこれ、中学生たちが夢見る瞬間というやつだろう!? きっと他から見たら美少女を侍らせる冴えない男――と見られるに違いない!!
パッとしない俺がここに居たら、金でもあげてるんじゃないかと――
「早く入ってください」
藍には隠しながら伊央がジト目を放つ。
「いや、俺はいない方がいいんじゃないか? だって――」
伊央が失笑した次の瞬間、藍が俺の腕を掴んだ。
「伊央も言ってるし……早く!」
顔は下向きで見えないが、どこか声が震えている。
藍の切実に思えた訴えを拒むことなど出来なかった。
そのまま引っ張られ、俺は藍と伊央の間に入ることとなった。
嘘……だろ?
目の前の画面に映るリア充に、そんな感想を抱いた。
おそらく誰でも綺麗に可愛くなるのだろうプリクラ。しかし、そんなことは関係無しに見る現状に感嘆した。
すると、左足の痛覚が警笛を挙げる。
伊央が顔を顰めながら俺の足を踏んでいたのだ。
気付けば、藍が俺の腕に自分の腕を絡めている。まるで恋人のように。
「ほら、撮ろう?」
藍が片方の手でタッチパネルを操作し始める。
プリクラのアナウンスが何か言っているようだが、俺の耳には届かなかった。それよりも藍の横顔を呆然と見続けた。
伊央がこれだけ警戒してるのって、もしかして……?
いや、ないだろ。ないない、何考えてんだよ俺は……。
「そうですね。ぱっぱと終わらせて、さっさと出ましょう。他の人がつっかえているかもしれませんから!」
プリクラのカウントダウンが始まり、藍が恥ずかしそうに俺にくっついた。
すると、今度は伊央が俺の腕を強く引っ張ってくる。
「もっとこっちに来てください。さもないと社会的に殺しますよ!?」
自覚があるかは知らないが、胸が当たっている気がする。
当たっているよな……?
美海ほどではないにしろ、一番最初に視線を奪われたくらい目に見えて成長している。
どちらのかは知らないが、いい匂いがして感覚があっちそっちに行って落ち着かない。
ていうか、動きづらい。
伊央が過剰反応だと言える状況でもなくなってきた気がする。藍の目的ってなんなんだ……?
そうこう考えているうちに最初の撮影が終わったらしい。いつの間にか藍が俺にハートマークを作ろうと「ん!」と手を差し出してきていた。
すると、伊央がすかさず藍の手に自分の手をくっつけ、俺の前でハートマークを作った。
藍が伊央をねめつけるが、伊央は強かな笑みを浮かべる。
これ、俺邪魔じゃないか?
俺は一人、二人のハートの上でハートを作った。
何やってんだ俺……。
◇
◇
◇
プリクラを撮り終えた後、伊央は物憂げな顔をしていた。
「ちょっと外しますね……」
……お疲れ様です。
あまり楽しめなかったか? でも、結構パワフルに動いてたけど。
「お兄」
プリクラの完成品をまじまじと眺めていた藍が、シールを手渡してきた。
「ありがとな」
「ううん、ちょうど良かった。お兄と一緒に写ってる写真持ってなかったし」
確かに家族写真はあっただろうが、個別で持つような写真は無かったかもな。俺も写真自体あまり好きじゃないから、二人と写真を撮るなんて本当に無かった。
「お前も意外に可愛いところあるじゃないか。俺も嬉しいよ」
「べっ! 別にあたしは、う、嬉しいとかじゃないし……!!」
「え、そなの……?」
「ちょっとした遊びなら、伊央の我儘に付き合うのは姉として普通の事じゃん! だからこれはついでで、お兄と一緒の写真が欲しかったとか、そういうんじゃないから!」
「でも、これで漸く俺たち兄妹の思い出が形になったな。
もう遅い気もするけど、遅すぎることってないよな……」
「遅いわけないじゃん。じゃなきゃ……あたしたちはまだ中学生だよ。お兄だって高校生じゃん。大人にもなってないのに、遅いなんておかしいでしょ」
「そうだな。こうして俺たちは一緒にいるんだからな。
よし、次は何しようか?」
「――あれ!」
藍は、ハツラツと答える。
指差す方向にはエアホッケーの台があった。
ほう……? 俺にあれで挑むとは、恐れ知らずもいいところだ。
「いいだろう! 俺が買ったらジュースでも奢ってもらおうか」
「なら、あたしが買ったらベリーベリーソフトロベリーパフェ!!」
「げ……」
なんだ、その呪文詠唱……。
「言い出しっぺはお兄だよ、今更引き下がるなんて許さないんだから!」
「……まあいいだろう! 掛かってこい!」
◇
伊央が御手洗から戻ると、藍と繋がエアホッケーで遊んでいた。
二人とも熱を帯びて楽しそうにしている。
それを見て、伊央は羨ましく思った。
と同時に、諦めを思う。
(お姉ちゃん、もう決めてるんだね。お兄さんのこと、そんなに好きなんだ。あんな顔、久しぶりに見た)
下唇を噛み締めた伊央は、悔恨に拳を握る。
(わたしのせいだ……。わたしが友達のいないお姉ちゃんを蔑ろにして、一人の時間を作ったから余計な感情を持たせたんだ。
――自分の責任は自分で果たさないといけないよね……。
渡さない……お兄さんにお姉ちゃんは渡さない!!)
◇◆◇◆◇
伊央の運動神経は目を見張るものがある。とても帰宅部同然の俺が太刀打ちできる相手ではなかった。
帰り際、藍と伊央に駅前のパフェを奢ることになった。
きついのは、何かを奢るチケットが今回限りではないこと。
あの後、他のゲームでも勝負をして10戦2勝8敗。2勝分は打ち消しとして、今回二度使ったので残りは4回……小遣い制でないとはいえ、この夏はかなり出費している気がする。
しかし、一番気になるのは伊央の方だ。プリクラ以降は何も無かった。
疲れたのかもしれないが、ずっと冷笑して心情が表に出ず、俺と伊央の勝負を静観していただけだ。
家に帰ってきても何も無い。夕食も普通に食っていたし、食欲が無いわけでもなかった。
あいつも何考えてるか分からない。その上時折やばいこと言ってくるからタチが悪い。おかげでずっとビクビクするはめになった。
てか、あいつらいつまでいるつもりなんだ? 夏休みの間ずっと居るつもりか?
うーん…………明日の朝聞いてみるか。今日は疲れたし、もう寝るとしよう。
◇
藍は部屋に一人でいる。
ベットにうつ伏せになりながら、今日の戦利品を物色していた。
それは――プリクラのシールである。
そこには、藍と繋が腕を組んでいる写真もあり、徐々に相好が崩れていく。
体をくねらせたかと思うと足をバタバタさせてご機嫌だ。
時より「にへへ」とご満悦な声が漏れる。
藍はそれを胸の中にしまい、仰向けに天井を見上げて夢想する。
(お兄との思い出……やっと……。それに可愛いって…………。
――このまま時間が止まればいいのに……)
◇
瞼を閉じてからどれだけ時間が経っただろうか。
勝手に身体が動いているのを悟り、意識が闇の中から息を吹き返していく。
不意に湿った何かが耳に触れる。
俺は、驚き起きた。
全身をビクつかせたが、不自然に身動きが取れない。腕がつっかえた。
瞼を開くと、目の前に霜月伊央がいた。
窓から月明かりを浴び、神秘的な綺麗さを思わせる白い肌が反射している。ただの半袖のパジャマだというのに、布を押し出す胸の膨らみと表情が妖艶に思わせた。
彼女は蠱惑的な笑みを浮かべていた。
耳元から顔を上げたのを見て、なんとなくされた事を悟ってハッとする。
「何、してんだ……!?」
伊央は微笑むだけで何も答えてはくれない。
これが夢ではないかと訝しんでしまう。
俺は漸く自分の状況を理解する。俺は、ベットの端に座らされて手足をビニール紐で固定されていた。
「え、本当に何してんの!? 俺、何されてんの!?」
「大きい声を上げないで」
そう柔和に呟きながら伊央は上着を脱ぎ始めた。
白い下着と胸の谷間が露わとなる。もはや彼女を覆うものは下着しか無く、驚きを禁じ得ない。
「な、ななな、何してんだよ!!?」
「お兄さん、わたしのこと――好き?」
「はあ!?」
「夢を叶えてあげる」
膝立ちになる伊央は、俺の後頭部に手を置き、ゆっくりと自分の胸に誘った。
雰囲気がいつもと違う……本当に伊央なのか!?
「はあん!」
わざとらしい嬌声が耳に響く。
柔らかい。浮き沈みする。反発があり、ちゃんと膨らんで艶かしい。
しかし――
何されてんだ俺――!!?
けして俺が望んだことじゃない。ましてや強制している訳でもないし、感覚が伴っていることから夢とも考えにくい。
暫く戸惑いながら伊央の奉仕は続き、終わったかと思えば火照った表情の伊央が顔を合わせた。
「どう? 気にいった?」
――どういうこと!??
呆然とする俺に、伊央は顔を近づける。
瞼を閉じる顔から瞬時にキスをしようとしていると悟る。
「待て!」
咄嗟に叫ぶと、伊央はゆっくりと目を開いた。
「何してんだよって聞いてんだろ。ていうかおかしいだろ、どう考えてもこんな状況! どうしちまったんだよ伊央! 笑える限度を余裕で超えてんぞ!!」
伊央は、まるでサキュバスだ。小悪魔的な笑みでにじり寄り、ブラを外し、体を重ねる。
そして耳元で囁くのだ。
「お兄さんは分からなくていいの。ただ、わたしを享受して、溺れて」
首筋にキスをされ、震えた。
全身を包み込む伊央の柔肌は冷たくて気持ちいい。胸に宛てがわれる、膨らみの中にある突起物には意識を持っていかれ、脳を侵される。
「お兄さん、わたしのこと、好きでしょ?」
即答しかねて踏み留まる。
――俺、何やってんだ!?
このまま押し切られて伊央の思い通りにしたらいけない気がする。
俺は、筋金入りの兄貴だ! 伊央は美人だし可愛いしめちゃくちゃエッチなこともしたい……。けど、俺は兄である以上、間違いが起きそうなら正してやらねばならない!!
「――伊央」
「ん?」
「やめろ。俺は、そんな事を望んじゃいないし、変な関係になるつもりもない」
「…………そう……。
けれど、お兄さんの意思なんて関係無いの。わたしが欲しいのは、お兄さんの答えじゃない。
今のお兄さんがどうあろうと、直ぐに気が変わるわ。わたしという誘惑に勝てる男なんていないんだから」
「っ……なん!? 何考えてんだ! お前、別に俺の事なんかどうとも思っていないだろうが! なんでこんなことしてんだよ!!」
「……お姉ちゃんをあなたに渡したくないからに決まっているでしょう」
ポツリと呟かれた答えをなんとか聞き取って、俺は目を見開いた。
「お前が変な行動ばかりするから、もしかしてとは思っていたが……まさか本当なのか? 藍が、俺のこと……」
「じゃなきゃこんな事しない」
「俺がお前を意識するようになれば、藍の気が変わるかもしれないってことなのか!?」
「いいえ、正しくはお兄さんがわたしの恋人になれば――よ。お姉ちゃんは、わたしの物を盗ろうとはしないはずだから」
「バカ言うな! 自分の身を考えろ、俺がお前に酷い事したらどうするんだよ!!」
「そう出来ないようにしているでしょう。お兄さんは、抵抗できず、尚且つ襲う事もできない傀儡。だから全部わたしの思い通りになるの」
「そうかよ……こんなもので高校男児を抑えておけるなんて思ったら大間違いだ!!」
俺は思い切り体を引っ張り力む。
「何してんの。手首がちぎれるわよ」
「こんなもん、妹躾するためならへでもねえ!!」
机の脚に縛っていたようで、机ごと動いた。
おかげで机の上にあったものが落ちるが、俺はそのまま伊央の腰を掴む。
「へ!?」
「詰めが甘かったな! どうだ、これなら俺はお前に何でもできるぞ!」
「ふ、フン……お兄さんの性格なら知ってるわ。お兄さんがこの状況で何もできない木偶の坊だって計算も入って――」
プツン、とどこかで線が切れる音がした。
俺は伊央の唇にキスをした。
伊央は負けじと対抗してきたが、やがて力が抜けて骨抜きなるのを見抜く。
伊央の目に涙が浮かぶのを月明かりの反射で判然とし、現実に引き戻された。
体を放すと、緊張が解けて微睡んだ顔を露わにする。
「ど、どうだ……こうなるんだ。それに、もし藍が俺のことを好きだったとして、今後もお前の気に入らない相手を藍が好きになったら、またお前は藍から奪い取ろうと同じ事をするのか。それは、お前の自己満足でしかないってわかってるだろ……!」
伊央は歔欷してしまった。
や、やばい……やり過ぎた……!!?
いや、伊央は一度目を覚ますべきだ。
だからと言ってやっていい事ではなかったかもしれないが……。
まったく……なんでこんな事になってんだよマジで。自制が効かないにも程があるぞ。伊央の誘惑に目が眩んでないなんて言えない……。
正直、伊央の行動理由が全く理解できない。
掛け布団で伊央の体を覆うと、伊央は目元を拭いながら徐々に泣き止んでいった。
儚げな表情を浮かべる伊央に罪悪感を覚える。
不思議な焦燥感に煽られたとはいえ、これでは兄貴失格だ。しかし、伊央がこんな愚行に及んだ理由を知らなくては気が済まない。
憂鬱な溜息混じりに口を開く。
「藍のことよりもまずは自分だろ。それにもっと他に方法があったはずだ」
「……お姉ちゃんがお兄さんを好きになってしまったのは、わたしのせいだから。自分の身を斬るのは、当然のことでしょ」
「なら、もうこんな事はやめろ。そんな事は藍も望まない」
「…………お姉ちゃんは、もの凄く可愛いの」
「ああ…………ん?」
急に何言ってんだ?
「もしわたしが男だったら、お姉ちゃんに恋をしてる。そうでしょ?」
「いや、同意を求められても……」
「お兄さんだってお姉ちゃんに好かれてるって言われて、嬉しかったんでしょ」
「ま、まあ……人並みには? 人に好かれて嫌に思う奴なんていねーよ」
「お姉ちゃんくらい可愛いと、その気になればどんな男でも好きにさせられる。お兄さんも今はなんともないような顔をしているけれど、そう遠くない内に目がハートになるに決まってる!」
「いや、そんなことは――」
「ある! あんな可愛いことされておいて、何言ってんの!!」
もしかして俺、伊央に叱責されてる?
「お姉ちゃんがお兄さんを求めるのには理由があるの。きっとお姉ちゃんは、お母さんのことで……」
「お母さんって、和香さんか? なんで……もしかして、お前たちがここに来たことにも繋がっているのか?
なあ、話してくれ。お前がこんな奇行に出るきっかけになったのなら、俺はそれを知るべきだ!」
「……分かった」
物分りの良さには不気味さを感じるが、少しは話を聞くようになったようだ。
それから伊央は家へ来ることになった経緯を話してくれた。
双子の実母である霜月和香さんは、とある癖があるという。それは、俺たちが家族となる前からあった癖で、結婚してからは大分収まっていたらしい。
和香さんの癖というのは、男漁り……なんだとか。
俺の親父と離婚するきっかけになったのもそれらしい。
確かに離婚間際じゃ親父は仕事で忙しくなってあまり家に帰らないことが多かった。そのせいだと和香さんは言っていたようだ。
とはいえ、伊央がそれを知ったのも最近の話で、家に知らない男が上がり込んでいて最初は彼氏かと思ったが、次の時は別の人で困惑したようだ。
問い詰めたところ白状し、自分たちの母があんな人だとは思わず失望して家を出た――というところだろう。
こうなるのも無理はないと思うが、和香さんも酷なことを二人に押し付けたものだ。中学生の二人にとっては、どれほどの衝撃だったのか考えが及ばない。
もしかしたら伊央は、藍もそうなってしまわないかと危惧したのかもしれない。それが意識的でないにしろ、和香さんのことが脳裏に散在しているのは間違いないだろう。
「――分かった、俺がなんとかする」
「な、なんとかって……やめて! お兄さんには関係の無いことでしょ!!」
伊央は激高した。
「関係なくはないだろ。どちらが悪いのかはっきりしないとはいえ、俺とお前たちが離れ離れになった原因の1つだろ!」
「お兄さんにこれ以上わたしたちの間に入って来て欲しくないの!! 責任も持てないくせに、いい迷惑なのよ!!」
「な……だったらこのまま、ここに座るつもりか!? 和香さんのことを蔑ろにして、藍の想いも押し隠させて、自分の我儘も打ち消して! それが、誰の為になるってんだよ!!」
「……お兄さんには家に泊まらせて貰っている恩を感じてる。だから事情も話した。けれど、関与するかどうかは別の話。それじゃ」
そう言うと、伊央は部屋を出て行った。
俺は頭を抱えた。
「はあ……何をやってんだよ俺は。思いつめているやつを相手に説教だ? どれだけ自分勝手なんだ俺は……」
だけど、このまま放置なんてできない。
伊央がああなった原因が母親にあるってんなら、あいつらが頼れる相手は少ない。だから俺の所に来た。
「俺がなんとかしてやれればいいけど……」
◇◆◇◆◇
数日後のお昼過ぎ――。
俺は、街のファミリーレストランでとある人たちと食事に来ている。
霜月双子姉妹は、ここにはいない。彼女たちには内密で来ている。
というのも、もし言えば伊央がまた誤解などして盛大にやらかしてくれるだろうと予想したためだ。
テーブル席の向かいに座るのは、厳格に眉を顰める男性老耄と、朗らかな印象の女性。
この老夫婦は、霜月双子姉妹にとっての祖父祖母にあたり、俺の元祖父祖母でもある霜月吉永さんと霜月雅代さんだ。
吉永さんは、目が釣眼で声が低く誤解しがちだが、言うことはそれほど強張っていない。孫想いのいい人だ。
雅代さんは五十を超えているとはいえ、あまり皴のない四十代と言われても信じられる若々しい容姿である。
俺は、席に座って早々に話題を切り出した。
「電話で話した通り、現在家で藍と伊央を預かっています。家出してきたようで……ですが、喧嘩したとかじゃないんです。和香さんが……」
言葉が詰まった。
誰かのせいにして現在のことが起こっている。その誰かが元義母なため、葛藤を生じさせる。
「……前にもあったの。というか一度、相談を受けていたのよ」
雅代さんがしんみりと話し始めた。
「あの子――和香は昔から寂しがりやで、必ず誰か近くに居て上げないと落ち着かなかった。一人暮らしなんてできない子だったの。けれど、結婚して所帯を持つと、それも気にならなくなった。
でも、それも長くは続かずに、6年前に事故で当時の夫を失くした。当分はわたしたちも一緒に子供を育ててたけど、いつからか子供を寝かしつけるか、わたしたちに預けて誰かを探すように彷徨し始めた。いけない事だと自覚しているけれど、もうあの子の心の穴を埋めるのは、わたしたちでは不可能だった。その頃に相談を受けて、新しい人を探すことを進めた。
何人か恋人は作っていたみたいだけれど、長くは続かなかったの。そして見つけたのが、あなたの父親である綱吉さんよ」
俺の親父は、何人もいる男の中の一人だったわけか……。
「結婚までしたと聞いた時は、漸く収まってくれると思っていたけれど――離婚してしまって……心配していたけれど、もう、だったのね……」
口ぶりからして、離婚しても直ぐには起こらないと思っていたようだ。でも、事が起こっていたのは離婚する前からだ。その間ずっとと考えると、どれだけ和香さんが孤独を感じていたのか……。
けど、だからって娘たちを蔑ろにしていいのかよ……!
「アレはもうダメだ。藍と伊央に悪影響を与えかねん」
「実は、またこっちで藍ちゃんと伊央ちゃんを預かろうと思っているの。その前に和香――あの子たちの母親とも話そうと思っているわ。
繋くんには悪いのだけれど、もう少しあの子たちを預かってくれないかしら。二人共、あなたに懐いていたし、こんなお願いをするのは違うとは思っているけれど、どうかこっちの事は気にしないように遊ばせてあげてくれないかしら。勿論、その間の工面はするから」
「はい、それは勿論構いません。むしろ俺の方が遊んでもらってるくらいで」
まさしく遊ばれているんだが……。
「ですが……和香さんは、どう思うでしょうか。裏でこんな事して……また卑屈になって欲しくはないんですけど……何か、できればいいんですが」
気持ちなのか、想いなのか、俺には理解できないことだと思う。でも、和香さんに空いてしまった穴を塞ぎたいという気持ちもある。それがあの二人にとって最良のはずだ。
けれどそんな大それたこと、俺には到底不可能だ……。
「アレのことは任せなさい。人にはできる事とできない事があり、できる中で自分の役割を模索していく他ない。君の役目は藍と伊央を問題なく生活させてあげることだ。違うかね?」
「はい……」
「大丈夫、任せて頂戴。あの子のことは、わたしたちがいつも見てきたんだから」
「……すみません、お願いします」
なんで俺の方が元気づけられているんだ。虚しい想いをしているのは、親である二人の方なのに。
落ち込んでなんていてたまるか! 俺が、二人の頭から家のことなんて忘れさせるくらい楽しませてやる!!
◇◆◇◆◇
外は夏真っ只中の太陽をこれでもかと下界にいる下々へ浴びせ、意気揚々と佇んでいる。
こんな天気に外に出ようものなら、肌が焼かれ、たちまち氷は水に、豚はローストチキンにでもなることだろう。
そんな日には家でのんびり、クーラーを点けながらアイスでも食べるのが至高なのかもしれない。
しかしだ、俺には受験という枷があり、勉強をしなくてはならない。日々の積み重ねが受験当日に活きてくると思っている。
とはいえ、俺は受験生でありながら不遇な境遇にある双子の兄である。頭に元が付いてしまうが、今はそんな事はどうでもいい。
俺が受験や勉強のことを考えている中、二人は人生のことを考える。そう思ったら、俺は教科書を閉じ、この前使ってからしまっていた水着を手に取っていた。
――と、長々と自己嫌悪と兄としての使命で葛藤をしていたのだが、つまりは――屋内プールに来た。
夏に遊ぶなら海などが思い浮かぶが、プールもその一つのはずだ。ここなら、親子の問題を忘れさせて楽しめるのではないか――と思ったわけである。
そして図らずも……図らずも! 美人双子姉妹の水着を目の当たりにした。
スポーティだが、成長し可愛げを残す藍。いつもと違ってポニーテールなのが新鮮である。清楚な印象の中に色気を感じさせるビキニを着る伊央は迫力すら感じる。二人ともプール中の視線を浴びる的となっている。
伊央はあまり機嫌が良くない。
まだこの前の事根に持ってんのか?
「なんでプールなんですか。水着ですか? 水着なんですね。嫌ですね、プールとか海にいけば簡単に露出の少ない格好を見れると思ってるお兄さんは!」
「人聞きの悪いこと言うなよ。まあ、そんな事を言いながらもビキニを着てくる伊央は可愛いがな!」
「な、何言ってんですかぁ!」
伊央は赤面しながら過剰反応する。
今日は褒めると決めたのだ。伊央は厄介だが、なんとか警戒を解いて楽しんでもらわないと!
「ですが残念でしたね。お姉ちゃんはビキニじゃないですし」
藍は図星を突かれ、モジモジし始める。
「何言ってんだ。いつもと違う藍が見れて俺は嬉しいよ。ポニーテールも似合うな!」
「そ、そっかな……」
よし、照れている。藍の満足度を上げるのは、やはり難しくない。
「変態ですね……」
問題はコイツだ。
冷ややかな目は、もはや猫かぶりをやめた面倒な女に成り下がっていることを証明している。
正直、伊央がこれほど融通が利かない妹になるとは思ってもみなかった。
「よし、とりあえず流れるプールに行くぞ!」
そう言いながらガイドのように先頭を歩き始めると、藍から呼びかけがあって振り返る。
「お兄」
「ん? なんだ?」
「ま、迷子になるかもしれないし、手――繋いであげてもいいけど!?」
明後日の方を向きながら手を差し出してくる。流石はツンデレというやつだ。
「おう、いいぞ」
「ちょっと待ってください! わたしも迷子になりそうなので!」
藍と手を繋ごうとすると、伊央が間に割って入ってくる。
いいですよね、と微笑みかけられるが、目が笑っていない。
「はい……」
伊央が藍と俺との間でそれぞれ手を繋いだ。
「皆で思い出作りできていいですね!」
猫をかぶるのか、かぶらないのかどっちかにしてくれ……。他意は無いと藍に思わせたいんだろうが、俺から言わせれば不自然だ。
流れるプールは疎らに人がいた。
流れるプールと言う割には水流が弱い気もするが、年少の子向けなのかもしれない。
あまり大人がいないのはそういうことか。
となれば、二人の顔色が気になるが……
「じゃあお兄、ついてきて!」
水に入って早々、藍は目を輝かせている。
藍は問題なさそうだ。
「おい待て。泳ぐ必要ないだろ」
「いいじゃん、流れながら泳いじゃおうよ!」
「とは言ってもな……ここにカナヅチが……」
水に入るとテンションが下がる伊央は、藍と対比するのにこれ以上無い例だ。浮き輪を使っているというのに、いつもの余裕が皆無である。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫ですから!」
そう言いながら伊央は震えている。
「どこがだよ……。
お前、水苦手だったのか?」
「そんなんじゃないです。ただ、溺れた事があるだけですけど!!?」
「トラウマになってんじゃねえか!?
無理すんな。なんなら、あっちで休んでてもいいぞ?」
伊央は、藍の方を一瞥してから深呼吸をした。
「大丈夫。お姉ちゃんが泳げるんだから、わたしにできないはずない!」
「……分かった。そこまで言うなら、俺が先導してやるから、藍のとこまでいくぞ」
「……お願いします……」
俺は浮き輪についている紐を引っ張り、伊央を運ぶ。
「にしても、お前にできないことなんてあるんだな!」
「噛みつくわよ!?」
「冗談だって。怖いから脅すのやめろよ……お前の悪いとこだぞ」
「お兄さんが変なこと言うのがいけないんでしょ」
「よし、着いたぞ。待たせたな、藍――」
て、あれ? いつの間にか藍の表情が曇りがかって……仏頂面になってる。なんで!?
「ごめんねお姉ちゃん、待たせちゃって」
すると、伊央がまるで自慢話でもするかのように活き活きと話し始めた。
「……」
藍は無言を呈するが、機嫌はあまり宜しくないように思える。
まあ、年頃の子供の機嫌は浮き沈みが激しいもんだし、何かあったのかもな。まさか伊央の言ってたことが当たっているわけはないだろうし……。
「お兄さん、わたし泳ぐのが苦手なので合わせて貰えますか?」
そう依頼しながら伊央は俺の腕を自身の胸に誘った。
ん!!??
何してんですか、何すんですか、どうしたんですか!!???
胸に自信があるのか!? だからって何!? 知らんけど! 俺は別に気にしないですけど!?
密着すると何故か、伊央の躰を見てしまう。
引き締まったボディと歳離れした胸、男を堕とす谷間にしなやかな四肢。まだ中学生とは思えない、全てが綺麗で不備の見当たらない容姿には感嘆する。
思わずガン見していた暫時に藍はそっぽを向いて泳ぎ始めていた。
「あ、藍待てって! ちょ、伊央、何のつもりだ!?」
藍が離れたと見るや伊央は俺を突き放し、命令してきた。
「決まってるでしょ。お姉ちゃんに変な虫が付かないようにしているのよ。ていうか離れて、さっさと紐引いて!」
なんなんだよこいつ……やりたい放題か。
「藍につく虫なら俺だけじゃないだろ」
「虫という自覚が芽生えたのであれば重畳ね。それだけでもこんな場所に来た甲斐があったというものね」
「二重人格かよ……」
「何か言った?」
「……別に」
何言っても聞き耳持たないって分かってるし、言うだけ無駄だろ。
「けれど、お兄さんの言うことも一理あるかもね。早く追うのよ! さあ、連れてって!」
「連れてってくださいだろ! お前は何様だ!」
「連れてってくださいお兄さん」
「今更可愛げ見せたって誤魔化されるわけないだろ!」
流石の早変わりで健気さを滲み出す伊央。しかし、俺はもう乗り気じゃない。
伊央と一緒に藍の所に行くと録な事にならなそうだ。ここは一喝しておいた方がいいな……。
「伊央、もうこんな事はやめるんだ」
「説教するつもり? 聞かないけど」
「ああ、説教だ。だが、聞け!」
「嫌!」
目を逸らす伊央の手を掴み、無理やり話を聞かせた。
「いいから聞けって! こんな事したって、お前と藍の仲が悪くなるだけだろ!」
と言って、周りの視線が気になった俺は手を離し、浮き輪の紐を持って端に寄る。
「もういい。離して、自分でなんとかする!」
背中を向ける伊央に俺は語り続けた。
「あいつが俺を好きかどうかなんて決まったわけじゃない。やりようはもっとあるはずだ。こんな事で藍との絆を壊していいのかよ。ちゃんと自分のことも考えろ」
「お兄さんには、わたしたちのことなんて分からないでしょ」
「分からないのはお前だよ。
てかお前、本当に霜月伊央なのか?」
◇
何も分かってない人が分かった気になって喚いたところで、わたしがやる事は変わらない。
わたしとお姉ちゃんの間が壊れるかもしれないなんて最初から分かってた。でも、それでも……わたしがやらなくちゃお姉ちゃんは……。
そこは譲れない。わたしは、そんなの許さない。
お兄さんが兄としてのプライドを持っていたとしても、お姉ちゃんが止まる理由にはならない。
これはお兄さんをどうこうするだけじゃ終わらない。お姉ちゃんを変えないと! わたしが――
「わたしは――」
わたしが振り返ると、そこにはもうお兄さんはいなかった。
「……お兄さんには何も分からないでしょ……」
◇
騒然とした人々の中から藍を探すのは難しかった。
なんとか見つけた時、藍は水から出て壁際で縮こまっていた。
周りから心配された視線を浴びる丸まった少女はつまらなそうに俯いている。
俺は安堵の息を吐き、藍の隣に座る。
しかし、藍からの反応は無い。俺かどうかを一瞥した後、再び俯いてしまった。
俺は、藍の肩を小突いて訊ねる。
「大丈夫か?」
「……うるさい」
「気分悪くなったんなら、医務室にでも連れてってやるぞ」
「……」
暫く無言となった後、藍は俺にしなだれかかってきた。
「お兄……伊央のこと、どう思ってんの……」
「え、何が?」
「……やっぱいい」
「……妹だと思ってるよ」
藍は少し眉を動かしてから、少しだけ顔を綻ばせた気がした。
「ちょっと、お兄たち待ってる間休んでただけ。全然泳げる!」
「そうか」
俺は立ち上がり、藍に手を差し伸べる。
すると藍は微笑して、俺の手を取り立ち上がった。
「伊央は?」
「ああ……」
反省してればいいが……そんなはずないか。
「置いてきちまったから、探しに行くか」
暫く藍と歩いていると、休めるベンチに腰掛けた伊央がナンパに遭っていた。
小麦色に肌が焼けた金髪の男、爽やかな印象の大学生ぽい男、小太りの眼鏡をかけた男の三人。最後は別だが、二人共体つきがよく、俺よりもイケている。
しかし、それぞれが個別で声を掛け、誰が伊央の相手をするかで揉めているようだ。
「俺こそが彼女に相応しい男だ、横入りしてくんな!」
「はあ? 俺が先に目をつけてんだよ。横から出てきたのはお前だろ!」
「何を言うか。私こそがエンジェルちゃんに相応しい男だひ!」
「「誰だその有り得ない名前は!?」」
伊央はそれを困り笑いしながら傍観していた。
「なにやってんだか……」
藍には同意見だ。
やがて俺たちと目が合った。
「すみません。友人が戻ってきたので行きますね」
社交辞令をしてからこちらに小走りしてくるが、三人は気付いていないようだ。
面倒になりそうなのでありがたい。
「お待たせしました!」
「ごめん。先行ってた」
「ううん。わたしが遅いのが悪いんだよ、お兄さんに探しに行ってもらって助かりました。ありがとうございます、お兄さん」
「……ああ」
ナンパされてご機嫌なのだろうか。伊央の笑みにはつくづく裏の思考があるのではと勘繰ってしまう。
「あれ!? あの子がいないぞ!」
「なにー!!?」
「エンジェルちゃん……」
「「だから誰だよそれ……」」
◇◆◇◆◇
大人でも遊べるような広めのプールへやってきた。ボール遊びなら泳ぐ必要も無いので伊央も遊べるのではないかと考えたのだが。
伊央は相変わらず藍への当てつけを続行した。
泳げないという理由で俺の隣に位置した伊央はボールを追うフリをして、俺に抱きついてきた。
「ごめんなさいお兄さん。ボールを追ってたらぶつかってしまいました……」
「……」
こんな事間違ってんのに、なんで分かってくれないんだよ伊央……!
すると、唐突に藍が訊ねた。
「ねえ、伊央」
「なあに、お姉ちゃん?」
「もしかしてあたしの邪魔してる?」
「……え? 何言ってるの?」
緊張感が迸る。周りから聞こえる雑音が低くなり、ここだけが別の空間になったかのような寒さを感じた。
しかし、流石と言った方がいいんだろうか。ポーカーフェイスにおいては、伊央は誰にも負けないだろう。
でも、藍はたぶんもう……。
「そんなにあたしのする事が不満? あたしがヤケになってるとでも思ってんの?」
「何言ってるのお姉ちゃん。さっきから話が見えないよ?」
「これ以上見過ごせると思う? 好きでもない人にわざと体触らせる理由なんてあんたにとって1つしかないでしょ」
「人聞きが悪いよ。わたしは、お兄さんは家族だと思ってるし、普通のことだと思って――」
「嘘。あたしにあんたの嘘を見抜けないと思ってんの? こっちに来てからずっとあんた、からっぽみたいだよ」
「……はあ? わたしがからっぽ……?
――だったらお姉ちゃんはなんなのよ……! からっぽなのはお姉ちゃんじゃない! 何も無いからその穴をお兄さんで埋めようとしてるんでしょ!?」
溜めに溜めた焦燥感を発散するように伊央が憤慨した。
「それは違う」
「違わないよ! だったらなんで、今までその事を黙ってたのよ!」
「……あんたもお兄のことが好きだと思ってたから」
「……へ?」
「でも、さっきので分かった。伊央はお兄のこと全然好きじゃないって。ずっと演じてたんでしょ、そうかもしれないって思うように――あたしを騙してた!」
「……お姉ちゃんの為だよ……」
「意味が分かんない」
「だって、悪影響だよ。お兄さんは確かにいい人かもしれないけど、そこには絶対線を引かないと。お兄さんは、お姉ちゃんに相応しくないんだから」
「そんなの、あんたが決めることじゃないでしょ!」
「わたしじゃなきゃ誰が決めるって言うわけ!? 家族じゃなきゃ決められないことよ。
わたし以外に拘るなら、お母さんに言ってみるの? 許してくれるかもしれないけど、お母さんの二の舞になるだけじゃない!!」
「二人とも落ち着け! ここでそんな話……大衆の面前だぞ!」
「お母さんとあたしは関係無い!
――これは家族でも、他の誰でもない――あたしが決めること。あたしが自分で決めて、もしそれで同じ事になっても悔いは無い。だってあたしは、お母さんの気持ちが理解できるから!」
「……わたしは分からない……」
伊央は、そう言って離れていく。
「どこに行くんだ?」
「お兄さんには関係ないでしょ。一人にして!」
「……」
「ごめんお兄……姉妹喧嘩に巻き込んで、困る、よね……?」
顔色を窺うような眼差しは憂愁すら映っている。
「そんな事気にする必要はねえよ。俺は、兄貴としてお前たちの面倒を見る義務があるからな。
にしても伊央のやつ、かなりの頑固者だ。ちょっくら話聞いてくるから、待っててくれるか?」
先程の会話で藍の気持ちになんとなく気が付いた俺は、顔を合わせることが困難だった。故に俺は、適当な方を向いて、聞いていると思って話した。
俺の愛想笑いに、藍は気付いていることだろう。
それでもまだ今は、そこに踏み込むことはしない方がいい。それは、俺も藍も同じ気持ちだったのかもしれない。
耳に入った「うん」という同意の後、俺が伊央を追うのを呼び止められなかった。
しかしいつか……いや、そのうち直ぐに俺は藍を向き合わなくてはならない――。
◇◆◇◆◇
伊央は鬱憤に任せ足を進めていた。
何処へ向かっているのか自分でも分かっておらず、喧騒とした人の間を縫って歩くだけである。
姉と喧嘩したことで、頭の中はそれだけに支配されていた伊央は度々溜息を漏らした。
(お姉ちゃんは何も判っていない。お兄さんもお姉ちゃんももっと先を考えて欲しい。どうしてわたしの言っている意味を理解できないの? 誰より正しいのはわたしでしょ!?)
水着を着た美しい淑女が苛立ちを含んだ息を吐けば、それが気になる男も寄ってくる。しかしそれは得てして軽く、余計な事を考えていない。
「ちょっとそこのキミ」
しかし、周りは元より姦しい。たった一言が伊央の耳に入ることはなく、男は伊央の腕を掴んだ。
「待ってって」
色黒で金髪の男がそこにいた。
伊央は眉を狭めながら訊ねる。
「……なんですか?」
「なにかあったの? 溜息なんか吐いて……もしかして彼氏にフラれた?」
(何この人。これっぽっちのナリでわたしに声掛けてんの? 分かっていないようね、月とすっぽんっていう言葉があること)
「マジ? ラッキー! それなら俺と付き合ってよ、今相手いないんだ!」
男が歩み寄ると、伊央はたたらを踏んで離れようとする。
すると――伊央の足に違和感が走る。
何かを踏み、カチャと音がした。
振り返り見るそこには、眼鏡があった。
(やば……なんか、誰かの眼鏡踏んだんだけど……)
しかし、男の誘いは止まなかった。
「じゃあちょっとあっち行こうか? これからのこと、色々と決めたいし!」
「ちょっと……」
「お゛お゛いっ!!! なにやってんだお前!! 儂の眼鏡を壊したなあ゛!!!」
唐突に放たれる怒声が周辺を蒼然とさせる。
誰よりも威圧された伊央が肩を竦めた。
強面の老人が憤慨して叫んでいた。
「な、なんだよあんた?」
「これは儂の眼鏡だ、いくらしたと思っているんだ!? 貴様のようないかにもな安月給野郎に払える額とは思えんがなあ!!!」
「おいおい、なに言っちゃってんの? 壊したのこの子だし、俺関係ねえし!」
「あ゛あ゛!!? 貴様かあ!!」
「え……あ……」
男は一目散にその場を離れていった。
伊央は取り残され、老人からは捲し立てられ、凍えるように体を震わせた。
「これじゃあ儂はどうやって帰ればいいんだ!? 壁にぶつかりながら車運転しろってか!?」
「いや、あの……」
(なんでわたしのせいになるの!? 人が歩く所に眼鏡を置いたあなたのせいでしょ!
なんでこんな事になるの……! こんな事になるなら、こんな所、来なきゃよかった……。お姉ちゃんと喧嘩して、他人の物壊して叱責を受けて……なんなの……)
「なんだよおい。聞いてんのか! あ゛あ゛!!?」
(……お姉ちゃんの邪魔した罰が当たったってこと……。酷いよ、どうしてわたしだけ……)
「ちゃらちゃらしやがって、今時の子供に責任の取り方を教えてやろうか。弁償してもらうぞ!」
「ちょっと待ってください!」
「――え……?」
◇
伊央の後を追ったけれど、人が多くどこに向かったのか見当が付かなかった。
そんな時だ。どこか違和感のある衆が在る場所を見つけた。一帯の人たちがこぞって同じ方向を向いているのだ。
何してんだ?
出し抜けに怒鳴り声が聞こえてくる。
怒り狂った男が誰かに説教しているようだが、その相手の後ろ姿には見覚えがあった。
ていうか、伊央じゃねえか!
俺は早歩きで伊央の下へ急いだ。
「ちょっと待ってください!」
生え際の後退したよぼよぼ肌の男が指を差しながら伊央を怒鳴っていた。俺はその間に割って入り、宥めようとする。
「なんだ貴様は!? こいつの連れか?」
「お兄さん……」
「こいつの兄か。それなら、貴様に責任を取って貰おうか! こいつは、儂の眼鏡を踏みつけて壊したんだぞ!!」
「本当か?」
伊央に訊ねると、暗澹した表情で頷いた。
「勿論です。俺が弁償させて頂きます」
「な……なんでお兄さんが……」
「そんなに甘やかして自分の妹がそんなに可愛いか? ええ? 儂ならもっときつく躾てやるがな!!」
「それはこっちでやりますから勘弁してやってください。俺の方から後で言っときますんで。そちらもこれ以上注目を浴びたくないのでは?」
「ん? ……まあ……」
老人は周囲を見渡して漸く自分が目立っていることを理解したようで、眉間を狭めていた。
「ちょっとあんた、何してるの!!?」
甲高い声が響いたかと思うと、ふくよかな化粧の濃い女性が出てきた。どうやら老人の知り合いらしく、怖々とした形相の彼に詰め寄っていた。
老人は彼女にたじたじで、さっきとは打って変わって身を竦めている。
「いや、儂の眼鏡を壊されてしまったんだ……」
「どうせその辺に置いてたんでしょ、いつものことじゃない! だからあれほど眼鏡はロッカールームに置いてきなさいって言ったのに! また恥の上塗りをしてないでしょうね!?」
「な、なにを言っとる。壊したのは儂じゃなく、この嬢ちゃんだ……!」
「ばあか言ってんじゃないよ! 眼鏡を付けてたら壊されることなんてないでしょう! ごめんなさいねえ、うちの亭主がバカやったみたいで本当に」
「あ、いえ……落ちていたところを踏んでしまったのは本当のことなので。弁償させて頂きたいと思ってます」
「あら、いい男じゃない。彼女さんを護ってあげてるの? 可愛いわね」
「あ、いえ……」
「弁償なんて必要ないわ。眼鏡なんてうちにもいっっっぱいあるし、今日もね代えを持って来てるのよ」
「いえ、ですが……」
「子供がそんな事気にしなくていいの。全部うちの亭主が悪いんだから」
「ちょ、おま、勝手に決めるな……!」
「どうせどっかに落として、踏まれたって勝手に責任押し付けただけでしょ! いい加減にして頂戴!!」
「うっ……」
女性が小突き、老人はもはや牙を抜かれた狼と成り果てていた。
なんだか上手くまとまりそうだ……。
「それより楽しいところを邪魔しちゃってごめんなさいね。本当なら思い出を台無しにしてしまったお詫びをしたいところだけど――」
「いえ、そんな……悪いのはこっちですし」
「まあ、弁償というならそのお詫びでチャラってことにしておいて」
「え、いや……」
「それよりあなたは、彼女さんを楽しませてあげて。男なんだし、できるわよね?」
「……はい!」
「じゃあ、ごめんなさいね」
そう言うと、女性は老人の腕を引っ張って行ってしまった。
いつの間にか周囲の注目も無くなっているようだった。
はぁ……ひとまず解決だな。悪いことしたみたいだけど、おばさんが良い人でよかった。
「あの、お兄さん……」
「ん?」
「どうして助けてくれたんですか? わたし、お兄さんに悪いことしかしてないのに……」
「言っただろ。俺には兄貴としてのプライドがあるんだ、妹のお前を助けるのなんて当たり前なんだよ」
俺は伊央の頭を優しく叩いた。
「まあ、悩み事があるなら一緒に悩みたいってのが本音だけどな」
◇
鬱陶しいと思っていたはずなのに、お兄さんが逞しく見えてしまっている。
ううん、それどころかまるで――
違う。これは違う。いわゆる吊り橋効果。怖くて逃げだしたいところを助けられたから。
でも、なんで……吊り橋効果ってこんなにすごいものなの? もうお兄さんが、王子様にしか見えないなんて……。
「よし、もう迷子になるなよな」
「あ……」
手を握られた。硬いけれど温かくて、安心感のある手がわたしの手に馴染んでくる。
さっきも握っていたのに、全然違う。
恥ずかしくてもどかしくて、ふとお兄さんの顔を見上げてしまった。
何故か初めて見る気がするお兄さんの顔は、普通の域を出ないはずなのに、どうして――。
恋愛――実はあまり経験が無い。告白を受けることはしばしばあったけれど、わたしが誰かをというのは一度も無かった。
これが恋愛脳ってものなんだ……お兄さんの顔がカッコよく見える。
「どうした?」
「いえ!」
見ていたのがバレて咄嗟に目を逸らした。
え、気付かれた!? わたしが!?
お兄さんって勘あまり良くないよね? お姉ちゃんの恋心にも気付いていないみたいだったし、わたしのも気付かないよね?
っ〰〰〰〰顔隠したい! なんだか暑い。絶対顔赤いよわたし〰〰!
「おい、大丈夫か? もしかして眼鏡割った時に足を怪我したとか!?」
「ちがっ、違います! なんでもないですから!」
いつもの平静が全然戻ってこない。顔が見られない。身振り手振りが多くなってる。
どうなっちゃってんのわたしの身体!?
◇
伊央が変だ。さっきの事件が衝撃だったのかもしれないが、妙な反応をされる。足じゃなくて頭突きでもしたのか?
いや、藍のことをまだ気にしてるのかもしれないな……。
すぐにどうこうできるわけないだろうし、藍と再会させる前に少し話を聞いておいた方がいいか。
「何か飲んでいくか。遊び過ぎたし、喉乾いてるだろ」
「え、あ、はい……」
(お兄さんが優しい! めちゃくちゃ紳士に見える。なんで!?)
フードコートへとやってきた。
水着を着た人たちが集い、昼食などを楽しんでいる一見異様な光景だ。しかし、ここでは当たり前なので俺と伊央も水着だけれど、ちょっと肌寒さを感じる。温風がどこからか出てはいるのだが、食がファミレスなどを想起させて服が無いという危機感を増長させているのだろう。
昼食は後で藍も一緒に取るとして、ひとまず水分を取らせる。
ちょっとでも藍へのつんけんした態度を和らげられたらいいのだが。
そんな憂いを持ちつつ買ってきたウーロン茶を手渡すと、伊央は一気に飲み干してしまった。
「そんなに喉乾いていたのか?」
「は、はい!」
どこか力が入っている。何を言われても動じないという気概なのだろうか。
さて、どこから話せばいいだろうか……。
何故かもじもじしているし……ああ、トイレか。見えるところにあるのだが、どうしたんだ?
「あの……」
「ん?」
トイレか?
「お兄さんは、お姉ちゃんのこと……本当の本当はどう思ってるんですか。その……彼女にしたいかどうか、の、話……なんですけど……」
「何言ってんだよ、妹と付き合うつもりはない。何回も言ってる通り、俺は兄貴で藍は妹だ。それ以上の関係になるつもりはない」
「でもほら、わたしたちってもう兄妹じゃないわけじゃないじゃないですか?」
おう……伊央の滑舌がどんどんおかしくなっていってる?
「他人から見れば彼氏彼女に見られたっておかしくない年代ですし、高校生にもなればわたしももっと成長してるでしょうし……いつかは彼女候補になるのかな、なんて思っちゃったりしますけど……」
「……そうだな。けど、その時にはもう俺のことなんか見ちゃいないだろ。こんなどこにでもいるヤツより他の男を選ぶさ」
「そうですね……。ですが、万が一! 億が一でも! そういう可能性があったら――お兄さんは元義妹と付き合うことができますか!?」
テーブルを叩いて前のめりになる伊央。
どこか切実な訴えとは裏腹に俺の視線は思わず揺れて覗ける谷間へと向いた。
俺は咄嗟に視線を逸らした。
「なんでそんな話になるんだよ、お前は俺と藍に将来的に付き合って欲しいのか?」
「答えてください!」
「……」
この前、美海に告白を受けた時、俺は大人になってその時まだ美海が俺のことを好きならその時考えると言った。
あれはでまかせなんかじゃない。俺はそこまで不誠実ではないし、自分の言ったことに責任を持つ男だ。
正直に言えば、藍も可愛いしそのうち皆顔負けの美人になるのは疑いようもない事実だろう。
とはいえ、俺と藍は元で約2年の付き合いだったとしても兄妹だった。しかし、ここで妹とそんな事は有り得ないと突き放すことになれば、俺は美海に嘯いたことにならないだろうか……。
「無い――とは、言えない」
「じゃあ、今付き合ってる人はいますか!?」
「いない」
「好きな人は!?」
「おい、なんで俺の恋愛相談みたいな話になってんだ!?」
「お願いです、答えてください」
なんでこんな必死そうなんだよ。まあ、藍が関われば普通のことなんだろうが、まるで口説かれてるみたいじゃないか。
「……いない」
転校を繰り返すうちにそういう感覚が薄れていった自覚はある。それよりも可愛い妹の世話を焼く方が日常だった。
いやだって、俺の妹になる子、皆可愛いし。クラスメイトより全然……て、シスコンみたいな思考は消えろ!
「そうですか、良かったです」
伊央は胸を撫で下ろし、何かが解決したようだった。
へ、何が……!?
なんなんだよおい……。
◇◆◇◆◇
結局、伊央と藍は仲直りしなかった。帰りもお互いに黙り込んでしまい、俺も時間が必要と判断した。
てっきり伊央が何か話すもんだと思っていたのだが、何も無かったのは意外だった。
姉妹喧嘩だし直ぐに収まるだろうと思った俺は浅はかだったのかもしれない。
いや、まだ同じ想いではあるが、せめて霜月家の方が決まるまでには仲直りさせてあげたい。
しかし、期限はすぐ目の前まで差し迫っていた――。
「明後日、迎えに行くって二人に伝えて貰える?」
霜月祖母から電話が掛かってきた。
俺は一拍の間を置いてから「はい、分かりました」と答えた。答えるしかなかった。
これはある意味俺が選んだことで、二人にとって最善であるからだ。
雅代さんは、それ以上事情について話さなかった。俺も聞いていいことなのか判然とせず、そのまま当日のスケジュールを聞いて電話を切った。
あと1日しかないと考えるのか、あと1日もあると考えるのか。
学校の先生が言っていた言葉を思い出しながらぐったりとソファに腰掛ける。
藍と伊央の二人と共にいた時間は、他の妹たちと比べると短い方だ。知っていることはそれほど多くないような気がする。
それでも、俺は兄貴で何かできることがあるはずだ。
ある、よな……?
悩んでいても仕方が無い。当たって砕けろ! それくらいの時間はまだ残されているはずだ!
◇
部屋で一人となった伊央は、うつ伏せとなり枕で後頭部を押さえ、悶絶していた。
(何やってるの、わたしは〰〰〰〰!!
お兄さんのことが好き!? 何を普通の女の子みたいな恋愛をしようとしているの!? わたしはただの女の子じゃなくて、誰よりも可愛くてお兄さんみたいな普通の男性じゃなく、もっと漫画的なイケメンの人とがいいのに!!
……いいのに……なんであんなにお兄さんの近くにいると胸がドキドキするんでしょう!!?)
足をバタバタさせ、葛藤していた。
そんな折、藍が部屋を訪れる。
咄嗟に伊央は足を止め、スッと枕を置いた。
藍は部屋に入ると、伊央の方を見つめ、小さく溜息を吐いた。
「……何してんの?」
「……なんでも、ない……けど……」
「言っとくけれど、あたし、お兄のこと好きだから」
「……知ってる」
「それだけ?」
「……なんでそんなに好きになったの?」
藍は自分のベッドに座ると、頬を赤らめながら話し始めた。
「気になるきっかけになったのは、お兄が中学生の時のマラソン大会。引越ししたばかりで、あたしはまだお兄とちゃんと話したことなんてなかった。でも、あたしはお兄の走りに見惚れたんだ。かっこよく走るお兄の走りはいつまでも見ていられる気がした」
「その頃、わたしたちは小学生。足の速い人のことを好きになるってありがちだね……。だから陸上部?」
「うるさい。
……伊央は好きな人、いないの?」
「……」
(なんで今、お兄さんの顔が浮かんだ!? 違う違う! わたしは――)
「お兄さんのことなんか……」
「……え、今、お兄……?」
「え、違う!!!」
「もしかして伊央……お兄のこと、好きなの?」
「違う! お兄さんのことなんて、全く好きじゃないもん!!」
「あたしに嘘をつく時の癖、出てるよ……。
いつ? さっきまで全然そんな感じじゃなかったのに……!」
「……違うもん! 全然好きじゃないもん! わたしはもっとイケメンが好きだもん!!」
「なら、あたしがお兄と付き合ってもいいよね」
「それはダメ!」
「……どうしたいの……?」
「お兄さんにお姉ちゃんと仲悪くなるのは間違っているって言われた。それは正論だと思うし、わたしも反省してる。でも、お姉ちゃんとお兄さんが必要以上に親しくなるのは嫌……じゃなくてダメ!
わたしは……お兄さんなんか嫌いだもん!」
「……まあどっちでもいいけど。あたしは今日、お兄に告白するつもりだから。お兄も気があるみたいだし、絶対受け入れてくれるよね?」
「……は、はあ!? だ、ダメ! そんな事させない!」
「邪魔しないって話だよね?」
「だ、だって……だって……わ、わたしもお兄さんのこと好きだもん!」
「嫌いなんでしょ? あたしが好きだからって無理しないでよ!」
威圧的に睥睨する藍に伊央は唇を噛み締める。
まるで期限間近を迫られる状況で伊央の答えは一直線に進んだ。
(好きじゃないって蓋していいの? これが本当に恋心なら、ただお姉ちゃんの恋愛を否定するだけで終わりたくない)
「ほ……本当なの……。わたし、お兄さんのこと……本当に好きみたいなの」
「え?」
「たった一瞬だけかもしれない。この気持ちがいつまで続くか自信も無い、けど……だからって気にしないなんて無理! わたし、お姉ちゃんには負けないから!
ていうか、お姉ちゃんには無理じゃないかな。わたしが相手だし!」
「はあ?」
「わたしの方が可愛いし、胸もあるし、スタイルいいし!」
「むっ……胸はあれかも、だけど……スタイルはあたしの方がいいに決まってるじゃない!」
「お姉ちゃんのは筋肉質なだけ。ごつくてお兄さんが可哀想だよ」
「鍛えた体の方が長持ちするし、キレがあるんだから!」
「キレって……お姉ちゃんいつから筋肉のプロみたいな……」
「それに、お兄はきっと胸が大きくても小さくても気にしないから、あたしの方が有利でしょ! うん!」
「そんな事ないもん! お兄さん、わたしの胸に顔埋めたら鼻の下伸ばして襲い掛かって来たもん! こんなまな板よりも……」
(あれ、ちょっと大きくなってる……?)
伊央は藍の胸を触ってそう思った。
「ちょっと……」
「お姉ちゃん、体比べ――してみる?」
伊央の不敵な笑みにカチンときた藍は、強かな笑みを返した。
「いいけど!」
◇
伊央は藍への尊重がああいう形で表れているだけだ。
藍も昼間の言い回しからして、姉として振舞い伊央と向き合っている。
仲直りの道はそう遠くないと思っているんだが、どちらもプライドが高い。
ただ、原因となっている俺がどう切り出したらいいものか……。
ひとまず話のネタから作ってみるか――。
意志を決し、伊央と藍の部屋の扉を開ける。
「お前ら――」
ガチャリという音が一瞬で吹き飛んだ。眼下に飛び込んで来た光景が俺を絶句させる。
艶やかな白いブラとスポーツブラによって包まれた胸部が押し付け合っている。加えて、霜月姉妹が互いの腰回りをさすり合っているという異様な構図だった。
頭を悩ませていたところに飛び込んでくる状況としては衝撃的過ぎる。俺は持ってきたお茶のペットボトル2つを落としてしまった。
なんだ……これ……。
「なにやってんだお前ら……?」
恐る恐る訊ねると、固まった二人が目を見開いて俺を見る。
「な、ななな……」
「お兄さん!!?」
唖然する藍は固まり、伊央は体を隠して屈んだ。
とりあえず仲直りしたってことでいいんだよな……?
次の瞬間、藍の拳が飛んで来た。
「バカ――――!!!」
◇◆◇◆◇
「とりあえず仲直りはできたみたいです」
「まあ……」
俺がぶたれた頬を氷で冷やしている中、伊央と藍が恥ずかしそうに報告してきた。
他人事なのが気になるが……。
俺が見たものは無かったことにして欲しいらしい。
流石の俺も勘違いで姉妹愛まで妄想しない。しかし、いじりネタができたのは間違いない。これで伊央にも負けることはないだろう。
「なら良かったよ。漸く俺もちゃんと話せる」
「……何を?」
二人で顔を合わせてから藍が訊ねる。
喧嘩したままだったなら話すのは憚られた。少し寂しいが、手間が省けたと思えば重畳か。
いや、双子は仲が良くてなんぼっていうのが俺の考えだ。元に戻ったことを素直に喜べばいい。後は、この稀有な生活に終止符を打たなくてはならない――。
「伊央に家の事情を訊いた。伊央には何もするなって釘を刺されたけれど、俺はただ大人しくしていられない性質なんだ。悪いとは思ったが、二人に黙って色々と動かせて貰った。雅代さんたちと話して和香さんのことを任せてきたんだ。その後のことは聞いてないが、明後日お前たちを迎えに来るらしい」
「それって……あたしたちがいると迷惑だから……」
「ちげーよ。お前たちにとってそれが最善だと思ったからだ。これからも親の重荷を背負って生きていくのは辛いだろう」
「それはお兄さんが考えることじゃありませんよ」
「考えたんだ、もし俺がお前たちと同じ立場だったならって。俺だったら路頭に迷って、何をしでかすか分からない悪ガキになっていたかもしれない。でも、お前たちは違う。二人だし、俺を見つけた。頼ってくれたのは本当に嬉しかった。
そして俺は、次へバトンを渡す役目だ。直接なんとかしてやれないのは不甲斐無いけれど、きっと解決する。いつでもここに来ていいからな」
「そこまで考えててくれたんだ……。ありがとう、お兄」
「お姉ちゃんいいの? もうここに居られなくなるんだよ!? お姉ちゃんはお兄さんに逢いたくてここに来たんじゃないの!?」
「もう逢えたよ。次逢ったらもっといい女性になって帰ってくるから」
「……」
この気持ちに今の俺は応えることができない。けれど、向き合うのはずっと前から決めている。
「それならわたしも一緒に考えておいてくれますか? わたし、お姉ちゃんよりも尽くしますよ」
「伊央!?」
「え……なんでお前が!?」
「え、て……お兄さん、わたしのことどう思ってるんですか!」
「はあ!? 今言うことかよ!」
「今度は真面目です! わたしも……て、そういうことはお兄さんから言ってください!!」
「は、はあ……?」
いつもの冗談、だよな……?
「……お兄とは、あたしの方が一緒に居る時間長いし」
「わたしの方が家庭的ですよね?」
「ん?」
なんか始まった?
すると――伊央と藍が立ち上がり、俺の両隣に並ぶ。互いに睨み合いながら俺の腕を攫った。
「なん!?」
「では、残りの時間お兄さんに尽くさせて頂きますね!」
「お兄、明日ゲームして遊ぼ!」
どうしたってんだあ!?
◇◆◇◆◇
雀の鳴き声で目を覚ます。
朝日がカーテンの隙間から射しているのが判る。
今日で双子姉妹ともお別れか――。
そんなことを思っていると、体に触れる何かを感じた。
両腕に巻き付く柔らかい何か。それはおそらくこの甘い匂いと関係あるのだろう。
ゆっくりと確認すると、左に藍が、右に伊央がいた。俺の腕を抱えて眠っている。
と思ったが、相好を崩しながら頬を擦り付けてくる伊央が狸寝入りだと気付くのは難しくなかった。
忠告しようと思ったが、その前に胸の谷間が覗けた。わざとはだけさせているのだろう。腕から伝わるおっぱいが邪念を植え付ける。
いやいや……この前反省したばかりじゃないか。落ち着け俺!
すると、左から頬をつねられる。狸寝入りは藍もだったようだ。細い目でねめつけられた。
「何見てんの……!」
「いや……藍の可愛い寝顔が見られて嬉しいなと……」
「は、はあ!? そ、そんなことで騙されないからね!」
そう言う割には顔を赤らめて照れている。
咄嗟に口から出てしまった……。
「お兄さんになら、また触らせてあげてもいいですよ? この前みたいに強引なお兄さんもカッコいいと思います」
「お兄……!?」
胡乱な眼差しを向けられた。
「いや、触らねえって!」
(不思議……お兄さんの躰に触れながらどんどんお兄さんのことが好きになっていくみたい。どうしようわたし……お兄さん、超タイプかも)
「お兄さん、またキスしましょう。前はびっくりしてしまいましたけれど、むしろあれがあったから好きになったのかもしれないですし、もう一度お兄さんを感じたいです」
「キスって何……?」
「な、なあに言ってんだお前は!!?」
「お兄さん……」
恍惚な表情で迫られ、左に寄るが。
(伊央、もしかしてあたしに隠れてお兄と何かしてたの!? ダメ……あたしの方が好きなんだから!)
「あたしも!」
藍も負けじと唇を差し出してきた。
な……俺は、義妹と変な関係になる訳には……。
逃げ場なく固まっている間に両頬にキスを受ける。
「好きです、お兄さん」
「好きよ、お兄」
そう言うと二人は満足そうにしなだれかかって来た。
……やべえ……雅代さんたちに顔向けできる気がしねえ……。
◇
◇
◇
藍と伊央の間に出来た隔たりは解消され、むしろ前より仲良くなったみたいだ。俺の出る幕も無い程に二人の仲は睦まじい。
まだ中学生なのに不幸な人生を背負っちまった。本当なら俺が近くで支えたいくらいだが、それは本来の霜月家の事情から外れてしまう。俺がかかずらう一線を引くべきだ。特に今は……。
家の前に停まった吉永さんの車に乗る二人はどこか寂しそうだった。そう思いたい俺の身勝手さがそう思わせているのかもしれないが――俺は寂しい。
けして声に出して言えることではない情けない話だけれど。
「ありがとう繋くん」
雅代さんが感謝してくる。そこには安心感があって、俺には無い器の大きさを感じた。
こういう所が、俺じゃダメだと思う理由なんだろうな。
「あの子たちが私たちじゃなくて、あなたを選んだ理由、分かる?」
「えっと……」
これに気付くまでかなり時間が掛かった。いや、俺にしてはマシだったのかもしれない。
「へえ? 分かってるんだ」
「いや……」
ほとんど言われたようなもんだし、勘違いする方が無理ってな話で――なんて、恥ずかしくて言えない。
「また面倒見てくれるかしら? 今は受験で忙しいでしょうけれど、少し時間が経って解決したらでいいから。
和香はあんな風になっちゃったけれど、恋をすることって素敵なことだと思うの。それに、あなたは勝手にどこかに行っちゃうような人じゃないって信じているから」
知ってるのか……流石は祖母ってところか。
「……期待し過ぎじゃないですか」
「歳を取るとね、期待をしたくなるのよ。あなたがどっちを選んでも、私は祝福するわ」
「あはは……」
期待が重すぎやしないですかね……。
「藍、伊央!」
女性の叫ぶ声が聞こえた。真剣で強い想いの乗った――それは、確かに母親のものだった。
和香さんだ。髪はボサボサで、とても人前に出られるような恰好とは言えないが、かつて俺の義母として共に暮らしていた面影は残っている。
肩で息をして、どれだけ走って来たのだろうか。
藍と伊央は車から出て来て、顔色を曇らせた。
「……」
和香さんはある程度近づくと息を整えるが、それ以上近づかず、それ以上口を開かない。
「和香、お前……」
吉永さんが車から出て憐れみに顔を歪める。
しかし俺は、よかったと思わずにはいられなかった。
藍、伊央……よかったじゃねえか――。
お前たちは捨てられたんじゃない。和香さんはきっと戻って来ようと頑張ってる。
「待ってるから」
「ずっと待ってます」
いつかきっと元通りになる。
あいつらも、俺も、そう信じている。
「うん……!」
◇
◇
◇
この夏は色んなことが多すぎた。
しかし、受験勉強の方が少し疎かになっているのは言うまでもない。これからは自分の道も見据えないとな――。
ピンポーン。
そんな矢先だ。あのチャイムが俺をまたもや非現実へと誘う。
……今度は誰だ?
玄関を開けて直ぐに俺は吃驚した。
そこにいたのは今や日本中の注目の的であるアイドル――
「――ANEちゃん!?」
陰ながらテレビで応援していたのは、音楽が好きだとか、顔が好みとかだけじゃない。
また義妹かよ!!?