横綱の品格
僕は夏殿くんと別れた後桂大錦親方と共にフセイン・サーガル湖のほとりのビーチに行った。水面にハイデラバードの夜景が写っていた。
「あんたも大きくなったわね...どのくらい背が伸びたかしら。」
親方はゆっくり、穏やかに言った。
「そうですね...今185cm120kgといったところですかね。」
僕は返した。角界に来てもう5年になる。今でもまだ優柔不断なところはあるけど心身ともに強くなったと思う。これもひとえに親方のお陰だ。
「あんたうちに来た時は本当に小さかったものね。アタシの股下くらいだったんじゃないの?」
そう言いながら親方は僕の肩を叩いた。股下は流石に冗談だが、当時の僕は協会の体格基準に載せるのがやっとな体だった。
「それにしても色々ありましたね。」
僕は呟いた。入門の経緯から異端だった。中1の夏に親方の荷物を起き引きした。当時、僕は飢えていた。物心ついた頃から母しかおらず、父は居なかった。母は死んだと言っていたが、今になって蒸発したのだと気づいた。そしてその母も病んでしまい、カルト宗教に献金をしていた。当然ご飯も碌に食べれず、盗みを繰り返していた。僕はその起き引きで当時の付き人に捕まり、少年院に入れられた。
面会で、親方と初めて対峙した。当時、親方は横綱として全盛期を迎えており、史上初めて年間完全勝利を成し遂げた年でもあった。僕はその巨大なシルエットを見て改めて改めてとんでもない人に喧嘩を売ってしまったのだなと思った。親方は座った後、ゆっくりと頷いて
「あんたがアタシの荷物を取ったのかしら?」
と言った。僕は正直に
「はい。」
と言った。
「それじゃあ、どうして取ったのかしら?」
親方はそう言うと軽く僕を見回した。
「お金がなかったので...」
と僕は言った。ここで嘘偽る理由もない。親方はふーんと言った後、何度も頷き
「そうなのね。でも、罪は罪、盗みは盗みだから償ってもらわないと困るわね。いいわね?」
と言った。その通りでしかないので僕は
「はい。」
と言った。すると親方は
「出所して中学も出たら、アタシの部屋に入りなさい。」
と言った。僕は小さく
「え?」
と漏らした。親方は続けた。
「力士になって関取になりなさい。あんたがアタシに償う方法はそれだけよ。」
と言って去って行った。これが僕の入門の経緯だ。
入門してからもほぼノンストップでスピード昇進をしたとは言っても序の口で二連続の負け越しを経験もした。コロナ禍で過ごした取的時代、日々の稽古や雑用がしんどいだけではなく、孤独だった。帰る家もなくスカしたまま自殺しようともした。
コロナは明け、地位も関取になった。その頃にはある程度自信もついてきた。僕にも付き人がついたが今度は付き人が重大な過ちをやらかした。八星会の組員数名に暴行をふるい、1人殺した挙句金もくすねたのだ。僕は思わず
「なんでそんなことしたんや!!」
と怒鳴りつけてしまった。経済的に苦しくもないのにギャンブルで八星会からヤミ金を借り、返済の催促が来たからこのような事件を起こしたとのことだった。僕は初めて腑が煮え繰り返る思いを体験した。手も出そうになった。
やがてその付き人は解雇された。しかし当然八星会からは敵視された。そこに巧みに広墨組が入り込み表上は和解に至った。しかし当の広墨組と八星会が対立状態に入り、その結果この件もぶり返され、それどころか寧ろあることないこと言われて事を大きくされた。恐らく大金も動いていたのだろう。そのせいで昨今の騒動に至った。
しかしここまでなんとか堪えて横綱になれたのは親方の技術面のみならず精神面でもサポートしてもらえたからこそである。
「そうねぇ。目まぐるしかったわねぇ。いつか来るとは分かってたけど遂にこの日が来ると実感が湧かないわねぇ。」
横綱はそう言うとふーっと息を吐いた。
「“横綱”ですか....品格とかも全然分からないです。」
僕は言った。横綱の品格なんて正直、全然分からない。必死に雑踏を掻い潜り走り抜けた先にただだだっ広い荒野が広がっていたような気持ちだった。
「“横綱の品格“ねぇ...あんたが分かるわけないわ。だってアタシも分からないんだから...って言いたいところだけど、そんなことは言わないわ。」
親方は言った。
「えっ、横綱の品格ってそんな答えとかあるんですか...?」
僕は拍子抜けした。横綱は誰しもが品格、相撲道を永遠に追求し続けて答えを持っていないものだと思ったからだ。
「えぇ。もし本当の答えは見つからなかったとしても、答え続けないといけないのよ。だって、それをしなければ無責任でしょう?何の為の神の依代なのよ。」
親方は言った。ところで親方の出した答えはなんだろう?勝つこと?綺麗な相撲を取ること?
「それで親方の答えはなんですか?」
僕は聞いた。親方は
「えーっとね...うーん、やっぱり教えない!」
と言ってふふっと笑った。そして一息ついた後、少し険しい顔をして続けた。
「それよりもアタシ、あんたに伝えないと行けないことがあるんだ。よく聞いてちょうだい。実は...」
その時、轟音が聞こえて悲鳴が響いた。音の方には煙が上がっており、大惨事が起きたようだった。
「この話は後にするしかないようね、助けに行きましょう。」
親方は言った。僕達は轟音の鳴った方向へ向かった。




