黒聖者
子供が寝る前に本読みをねだった。毛布から首だけ出して言うのはいつものタイトルだったが、その「いつも」のせいで親の方が飽きていた。子供の隣で、腰のあたりまで毛布に埋め、いい加減新しい話にしないかと退屈気味に提案すると、子供は興味津々だった。
ちょうどクリスマスも近づいている。「違う話」に食いつくことが半分予想外だった親は、自身にまつわる話をすることに決めた。クリスマスは親の誕生日なのだ。
「私が生まれた瞬間を覚えていることを誰かに話すのは初めてだ。どうかな、君は覚えているかな……そうだね、覚えている方が珍しい。私は今まで誰にも言えなかった。口にすることが恐ろしかった。不思議よりも怖いと思われると考えていた。私はね、とても感動したんだ。ああ、最高だって思った。皮膚が刻々と冷えていく、吐く息が風に吹かれて、白く線を引いては引き延ばされて薄れていく、今まで見ていた物が何もかも新鮮でしかたなかった」
親の話声は尻上がりに上ずっていった。暗い部屋だ。子供には親の顔が見えない。しかし何となく自分が泣き出してしまいそうな時と似た雰囲気を感じ取っていた。子供は黙っていた。親が落ち着くまでは静かにしていようと、顔の半分くらいまで毛布で覆った。これは物心ついてから身に着けた処世術だった。子供の知っている「親」というのは、たいてい静かに過ごすか怒鳴り散らして喧嘩するか、そうでなければメソメソと泣くものだった。運が悪ければ、泣いている親は癇癪を起して暴れるのだ。
子供はじっと待った。何も起きませんようにと祈った。静かに、静かに、気配だけを頼りに視線だけを親に向けていた。子供は覚えていないが、これをするのはほとんど一年ぶりだった。
「私には産まれる前があった。間違いなくあったけど、誰も覚えていない。具体的にどうだったのか誰も知らない。産まれる前の私は私じゃなかった、ということだ。あの凍えるような日に、夜道を這いつくばるまでの私は私じゃなかった。それまでの私は、やりたい事も出来ることも無かった。ひたすらに自分を探していた」
ようやく出てきた言葉だったが、子供にはよく分からなかった。なんとなく欲張りなのかもしれないと思った。
「……じゃあ、いつの間にか眠ってしまう話より、早く寝てしまいたくなる話をしようか。世の中には死んだ方が良い人間がいるよね。実際に殺してしまえたら、とても気分が良くなると思うんだ。きっと、私が感じたあの天井知らずのトキメキは、そのことが助けたのかな。君は知るべきじゃない感動だけど」
親は人を殺したらしい。その一点は容易く理解できた。嘘だと思いたいが、信じ込ませようとして白けるいつものピエロ風味が感じられなくて、どうしてか、叱られているような息苦しさがあった。恐怖心を、言い訳を重ねて包んだ時のような、あのよく分からない感じがずっとずっと子供の中にグルグルと渦巻いて止まらなかった。
「寒いな」
親は首まで毛布に埋め、子供を抱き寄せた。じゃれ合うよりもずっと重苦しく包むのは、牢獄が閉じるようだった。
親の腕は温かい。しかし、氷柱が知らず知らずの内に背を伸ばすように、俄然覚えてしまって深々心に突き刺さる違和感は、子供の芯とその皮膚とを隔てた。何かが違う。子供が思うのは、そればかりだ。具体的には親の体に包まれて、自分に誰かが触れて来る事の冷たさを思い出してしまった。そもそも自分の知っている親というのは、こんな絵に描いた優しい存在ではない。
いつもの親ではない。得たのはそれだった。しかしいつからだろう、いつから自分の親はこうだったのだろう。
子供は忘れていた。とっくのとうに、自分の親がそうなってしまっていた事には気付いていた。去年のクリスマスだ。偽物にはマッチを擦るより実があったから、捨てられずに積もった欲の奥の奥で真っ黒に固まった純粋物が、磁力で引き合うようパズルらしく、すっぽり穴を埋めてしまったのだ。埋めてしまえた事の満足感の前には、緊張感も恐怖も泡が膨れていくようなものだった。
子供は不幸だった。しかしある日幸せになった。求めていた親が自分の下にやって来た。そして幸せになったから、不幸に戻ることを恐れて、不幸であったことを忘れて、知らない誰かを親にした。
この親は偽物だが自分の求めた親である。自分を幸せにしてくれる温かい存在だ。
恐怖の泡が湧きたったから、子供は親を抱き返していなかった。しかし、ここ一年の幸せを思い返せば、親が偽物だなんてことは全く些細な事なのだ。だから、もう躊躇いは無かった。蛇が獲物に巻き付くような湿っぽさを伴いながら、子供は親を抱きしめたが、それもやがて弱まった。
「……おやすみ」
親は、「親」になるまで怪物だった。世の中にいるという、誰かにそっくりな、本物を求めて彷徨い続ける偽物だった。せっかく本物に成り代わっても、「子供」を目にするまでは見た目以外のありとあらゆる情報が欠けていた。偽物は本物を追いかけること以外に何も知らなかった。親は「親」を知らなかった。だから、子供が求める「親」の姿を演じてその身の空白を埋めることにした。
「おやすみ」
親は再び子供を抱き寄せた。閉じるように引き寄せた、その体温で満たされていった。
そうして一年が経とうとしている。