2.家族愛
案内されたのは、少女の家ではなく、二十四時間営業のネットカフェだった。入口に近い箇所を押さえているのだという、少女は受付に会釈をすると、慣れた様子で個室に入り、デスクトップパソコンの前に座った。
「隣、どうぞ」
「……恐れ入ります。お邪魔します」
「ねぇ、南、さん? あんた年、いくつなの」
「二十歳。大学生です」
「はぁ? 私より三つも年上? なのになんで敬語使ってんの」
少女の口調や歪めた顔は、明らかに俊樹に苛立っていることを表していたが、俊樹はそれに気づきながらも、曖昧に応えてやり過ごした。
ネットカフェという場所柄、あまり会話をするには適さないとは少女もわかっている。少女は仕方なく、昼間借りたDVDをパソコンに収納し、二つ置かれているヘッドホンのうちの片方を俊樹に差し出してから、また席を立った。
「飲み物、何にする。コーラか、メロンソーダか、ウーロン茶あたり」
「あ、いや、俺が行きますよ」
「いいって。慣れてる人に任せとけば」
「じゃあ……、ウーロン茶」
「了解。本編が始まる前には戻るから」
自動的に再生が始まったパソコンの画面には、制作会社のロゴやスタッフのテロップが流れ始めていた。少女は、それを一瞥すると、俊樹を置いて個室をあとにし、受付の左横にあるドリンクバーの前に立つ。
「……はぁ」
少女が席を外してはじめて、手が震えるほど緊張していたと悟った俊樹は、握りしめた右手を心臓の位置に置いて、その胸の高鳴りを鎮めようとする。
鼻孔をかすめた香りは、懐かしくもおぞましい少年時代に自分をいざなうようで、俊樹は、少女が戻る前にこれをどうにかしなくては、と焦った。
たまたまかそれとも選んだのか、再生中のDVDは『かぞくあい』だった。八年前の作品と若干古く、重いテーマなことから、俊樹がTSURUYAでバイトを始めてから今日まで、少女の他に借りる者はいなかった。
俊樹も、いつかの棚卸しの際にジャケット裏のあらすじを読んだ程度で、映画本編を見るのははじめてだ。何せ、「家族」を扱った作品を見るのは、勇気がいる。
ふと視線を下に移すと、そこには少女の荷物が積み上げられていた。見るからに重そうなので、ネットカフェまでの道中、「持とうか?」と声をかけたが、すっぱりと断られてしまった。
上からのぞく状態と量から察するに、それが生活道具であることは、間違いない。俊樹の脳裏に、エイジの言った「ロクなもんじゃない」という言葉がちらつき、確信に変わった。そうだ、彼女はきっと、一人なんだ。
「ちょっと、勝手に人の持ち物、見ないでよ」
「あ……、別にそういうつもりじゃ」
振り向いた先には、紙コップを二つ持った少女が立っており、俊樹は咄嗟に否定はしたものの、それ以上は何も言わなかった。少女もしつこく問いつめるつもりはないようで、俊樹の前に乱暴にウーロン茶を置くと、自分はコーラを飲みながら、古くギシギシと軋む椅子に腰を下ろす。
「家に、帰ってないんですか」
少女がヘッドホンを装着する直前、俊樹は、前を見つめたまま、そう呟くように言った。画面には、『かぞくあい』の冒頭部が映し出されている。聴こえなかったかもしれないし、一番答えたくない質問かもしれない。そして、少女が話す気配がないことをみとめた俊樹は、自分も画面に集中するのだった。
映画も終盤、いよいよクライマックスといった頃だろうか。少女が俊樹の肩を指先でトントンと叩き、ヘッドホンを外して口を開いた。
「よくある話よ。母親の彼氏が家に居座っててね、私は邪魔者ってだけならまだしも、あの男に襲われそうになったの。母親はフルタイムで働いてて、あの男と二人になる時間が長い。はじめは、学校が終わったらすぐ、夜までバイトを入れて凌いでた。でも、高校生は十時までしか働かせてもらえない。街をうろついてれば補導される。事情を話しても、警察は事件が起こらないと動かない。自分の身は、自分で守るしかないのよ。誰も助けてなんかくれないんだから」
唇を噛みしめて震える少女の瞳には、恐怖ではなく、怒りが宿っている。その強い憎悪を表した横顔を、雷が明るく照らしたかと思うと、予報にはなかった大雨が、あらゆる音をかき消したが、二人にはなぜか互いの声がよく聞こえた。
「話してくれてありがとうございます。でも、なんで俺にそこまで? 男を嫌っているのではなくて?」
「何言ってんの? 私はもうあの男に会いたくない。それだけ。性別で一括りにするなんて、自意識過剰もいいとこ。私はあんたが、同類だと思って話したの」
ずっと、彼女のことが気になっていた。初めて店に訪れた時から、ただならぬ存在感で自分の心を掴み、映画の趣味が気持ち悪いくらいに合う、彼女のことが。
今日一日で、何度あの光景をフラッシュバックさせただろう。俊樹は、少女と時間を共にする、それ自体が害悪なのだと思いつつも、彼女の誠意に応えるために顔を上げる。
窓の外では、絶え間なく黒い空が光り、唸り声のような雷鳴が辺り一面に轟く。そこに共鳴するかのごとく、地面に叩きつけられる雨音は、思いのほか静かだった。
「……学校は?」
「一ヶ月前から行ってない。バイトも、居場所がバレるし」
「お金は、どうしてるんですか」
「わかるでしょ。デートだけでくれる、善良な人もいるよ。どうしても無理なおっさんとかは、約束すっぽかしたり、連絡取り合う時点でブロックしたり。それでも、家にいるよりマシだから。自分で選べるだけ、ずっとマシ」
そう自分に言い聞かせ、少女は俊樹の、視点のはっきりしない瞳をじっと見つめる。「同類」だと言った、確信した、その話を俊樹にしてほしいのだ。自分が俊樹にだから語っているのと同様の、秘密の話を。
「危険ですよ。ネットで知り合った人とそんな……。運が悪かったら殺されるかもしれない」
「そうだね。だったらリアルで知り合ったあんたにも、今この場で殺される可能性もあるわけだよね。結局、人が誰と知り合って、どう行動を共にするか、その行方なんてわからない。『かもしれない』で閉じこもってたら、自分の道は閉ざされたまま。私は、そんな人生、まっぴら。今だけ我慢して、お金貯めて、好きなように生きてやる」
数年前、生物学的に、女性は男性より強いということが立証された。
少女の確かなまなざしに捕えられ、俊樹はその正しさを実感しつつ、いよいよ追い詰められたふうに目を伏せる。
たった一ヶ月、互いの顔を認識していたというだけの少女が、ここまで自分の身のうえを語ってくれたのだ。それに敬意を払うため、俊樹は田舎に置き去りにしてきたはずの、自らの過去と向き合わなければならない。
でも、果たしてこの子は、俺の罰に耐えられるだろうか。俊樹はなおもためらい、いるはずのない影に怯え、口をつむぐ。ただただ、怖かった。簡単にあの時に引き戻されそうで、少女に嫌われてしまいそうで、怖かった。
「だとしても、自分を大事にしない行為は、よくないです」
「じゃあさ、あんたが買ってくれるわけ?」
「……え?」
「お金がないの。お金がなければ生きていけない、当たり前でしょ? 私は私という商品を売って、その対価を得てる。なのにあんたは、人の事情を知っても変わらず『やめろ』と言う。そんな権利ある? ならあんたが買ってよ。以降私は、あんたとしか寝ない。これは契約という名の恋愛。解決ね」
少女は俊樹の手を取り、それを自分の胸に押し付ける。途端に俊樹は動けなくなり、引き剥がそうと頭では考えるも、どうしても女の身体に触れることが出来ない。
「あんた、いつも私のこと見てたよね。寂しそうに、その視線に気づいてほしそうに。ねぇ、私のこと、どんな奴だと思ってた? さっき助けてくれたのは、私だったからなの? 私で何回抜いた?」
「やめ……てくだ……」
何度も似たようなことをしているのだと目に浮かぶほど、少女の誘惑は慣れていた。強く掴んだ俊樹の手で、自分の肉体のあらゆる箇所をまさぐらせ、耳元に濡れた声を吹き込んで惑わそうとする。そして自身も興奮に呼吸を乱し、俊樹の背中に腕を回すと、片手を迷わず股間に持っていった。と同時に、手のひらに広がったある違和感に、ぴくりと指先を反応させ、少女は身体を離して、俊樹の哀れな姿を見下ろした。
「無理なんです。ごめんなさい。ごめんなさい……」
映画のラストは、娘に殺された父親の首から流れる血が、畳にじわじわと沁み込んでいくシーンだった。俊樹はそれを視界に映しながら、自分の弱さや惨めさを思い知り、少女とは目を合わせられないまま、消え入るような声で言う。
「勃たない、から……、俺は、あなたを抱くことは出来ない」
肉体を交えるのが、少女を救える唯一の方法なら、卑しい男の欲望ではなく、愛情で包んでやりたかった。だが俊樹は、気持ちの面でしか少女に寄り添えず、それはそれは恥ずかしさや無力感でいっぱいだった。
デスクに置かれている二つのヘッドホンから、もの悲しい音楽と、作品を象徴する台詞が聴こえてくる。
『それが愛ではなく、支配だったと認めるのには、長い年月が必要だった』
俊樹がうわ言のように呟いた数秒後、八十七分という短い映画が幕を閉じた。来るべき時が来たとわかった俊樹は、もう迷わなかった。
「六歳でした。十二歳も年上の姉は、共働きの両親に代わって、俺の面倒を見てくれました。俺は姉に遊んでもらい、勉強を教わり、姉の作ったご飯を食べて育ちました。中学校の教師をしている母親は、仕事熱心で息子に構う時間はなく、俺は余計に、姉に対して母親を求めていたんだと思います」
俊樹はそこで一度言葉を切り、少女がどんな様子か見るために、顔を上げた。何か不穏な空気を感じとったのだろう、少女は真顔で頷くと、続きを話すよう俊樹を促す。
「小学校に上がると、友達が出来ました。でも姉は、学校が終わったら早く帰れと言います。周りの子たちは放課後も友達と遊ぶので、数人の仲良しグループが量産され、俺は次第にクラスで孤立していきました。そんなある日、姉が『私の部屋で遊ぼう』と俺の手を引きました。普段は外でボールを使ったり、水鉄砲で遊んでいたので、その日も外に出たかったけど、『いいものを見せてあげる』という姉の誘いに乗ってしまったのです。お姉ちゃんは何かすごいものを持っているんじゃないかと気になって、わくわくして」
俊樹の笑みは自嘲を含んで重苦しく、少女は話の先を理解してか、笑い返すことはない。ただすこしでも俊樹が話しやすいようにと、椅子ごと下がって距離を取り、はっと息を吸い込んだ。
「姉は本棚からトレーディングカードのファイルを取り出し、俺に手渡しました。表紙をめくると目に飛び込んできたのは、限定で千枚しか作られていないカードでした。クラスの男子はみんなこのトレーディングカードを集めていたけど、それを持っている人はいません。俺は興奮して、姉に言いました。『すごいよお姉ちゃん! こんなレアなカード、どこでゲットしたの?』すると姉は、質問には答えず、そのレアカードを俺にくれると言います。俺は幼いながらに思いました。これを持っていれば、クラスで人気者になれるかもしれない。休み時間、みんなと一緒に遊べたら……。俺は浅ましい少年でした。姉は、カードをあげるから、じっとしていてほしいと囁き、俺を抱きしめました。俺は、立ち尽くしていました」
忌わしい過去の記憶を呼び起こし、俊樹の組んだ手は小刻みに震えていた。もう何度目かの雷鳴が闇夜に響き渡ると、デスクの上で沈黙するウーロン茶の水面がゆらゆらと揺れる。
「姉は俺の身体を散々撫で回したあと、シャツの裾から手を入れてきました。背中、胸、腹部……、初めはくすぐられているようで、俺も笑っていたし、家族だから平気でした。でも、そのうち床に押し倒され、ズボンを脱がされた時、いやだなと直感したんです。でも言えなかった。カードがほしかったからではなく、姉に嫌われたくなかった。姉は、俺の存在意義そのものでした。姉に嫌われてしまったら、俺が俺でなくなってしまう、そんな恐怖。すこしの我慢だと自分に言い聞かせ、俺は天井を見上げていました」
俊樹は言いながら首をのけ反らせ、精神病院のように真っ白い天井を、ぼんやりとその眼に映す。それから一分、二分、俊樹は少女に続きを語るべきか考えているようだった。少女は、黙って待っていた。俊樹の気持ちが決まるその時を、ただ待っていた。
「ことが終わったあと、姉は俺の唇に人差し指を当て、『お父さんとお母さんには言っちゃダメだよ。二人だけの秘密ね』と言いました。当時の俺は、その行為が何を意味するのかわかっておらず、でも言われるまでもなく、両親には知られたくないと思っていました。姉のそれは、俺が小学校を卒業するまで続きました。気まぐれに自分の部屋に誘い込んでは、俺の身体に触り、キスをし、服を脱がせ……性器をしゃぶるのです。俺は歯を食いしばって耐えました。少しでも早く終わるように。傷つかずに済むように。何度も、悪い夢ならいいのにって……」
「もういいよ」
俊樹のまぶたに浮かんだ涙が、少女の手の甲に落ちた直後、あれほどうるさかった雷雨がぴたりと止み、あたりが無音に包まれた。しばらくしてしとしとと降り始めた雨の音に載せるようにして、少女はやさしい声で言う。
「つらかったね。ごめん、あんた、私なんかよりずっと……」
「ごめんなさい。俺は、能がなくて」
「あんたは何も悪くない。身内のことを否定されるのは不快かもしれないけど、悪いのはお姉さん。長い間、誰にも言えなくて、一人で抱え込んで、苦しかったでしょう。これからは私がいるから安心して」
挙げた左腕に、強く握った拳を置き、少女は俊樹に味方がいると主張する。俊樹は、そんな少女の慈悲に曖昧に微笑み、告げられた文句を繰り返した。
「これから……?」
「あんたみたいに凄惨じゃないけどさ、私もレイプされかかった経験の持ち主だし、そういうのって似た境遇の人同士しか、わからないと思うのね。なぜ自分を責めてしまうか、誰にも言えないのか、知られたくないのか……。あんたは私を選んでくれた。嬉しかった。あんたをおちょくった償いとして、出来ることをしたい。そばに、いたいと思った」
少女の真摯な顔つきは、俊樹の病んだ心を大きく揺さぶり、癒した。恥ずかしいことを言ってしまったと後悔している少女の正面に座り直して、ゆっくりとお辞儀をし、俊樹は、目尻に光る涙を拭う。
「ありがとう」
そうだ、あの目だ。俊樹は、急に思い出したように表情を明るくし、少女を見つめる。
これを言ったら少女は嫌がるかもしれないが、彼女が初めて店を訪れたとき、運命を感じたのだ。それも恋愛的、男女間で交わされる何かではなく、「お互いがお互いの唯一である」というものだ。
その勘が意味する未来は読めなかったが、いま少女を前にし、俊樹は理解する。自分と少女が、暗く淀んだ目をしていたことを。そしてそれが、相手を前にして希望に変わったことを。
「さわっても、いい?」
「はい」
その返事を聞いてから俊樹の肩に触れ、少女が俊樹をそっと抱きしめる。俊樹は、少女の腕の中で少しも動かず、そのまま静かにまぶたを下ろした。
ばらばらだった心音が、やがて重なり、二人は自分が生きている今日に喜びを感じる。人のぬくもりはやさしく、切なく、母親からの愛情であるかのように、彼らを包んだ。
街が眠りから覚める寸前、早朝に踏みしめた地面は、滲み込んだ雨でぐっしょりと濡れていた。水たまりを覗き込み、そこに顔を映して遊んでいた少女は、俊樹が背後に立つと用意していた台詞を吐く。
「これからどうしようかな」
契約していたネットカフェからは、ついさっき引き揚げたばかりだ。さすがに先払いの部屋代は返してもらえなかったが、更新日があさってと近かったので、それほどの痛手はない。
少女の生活道具一式を両手と背中に抱え、俊樹は彼女の小さく頼りなげな背中を見下ろす。そして自分も、それを見越して準備していたことを言いながら、照れてそっぽを向いた。
「うちで……暮らす?」
あるいは期待していたのかもしれないが、少女は本気で驚いたふうに振り返って俊樹を仰ぎ、口をパクパクと動かす。
「男の一人暮らしだから、狭いし散らかってるし、期待はしないで。父さんが仕送りをしてくれるから、少しだけど貯金もあるんだ。部屋は好きに使ってくれて構わない。強制も反対もしない。ただひとつだけ。もう身体を売るのはやめてくれ」
「言うと思った」
少女が自分と向き合うと、俊樹はようやく視線を戻す。至近距離で見た少女の瞳は、透明感と神秘に溢れており、俊樹は、少女が汚れてなどいないと改めて思うのだ。
「お金のために仕方なくよ。誰が好き好んで、知らない男とやるかっつの。住むところが出来るのは、ありがたい。掃除でも料理でも、何でもする。よろしく……お願い、します」
「ふふ、こちらこそ」
「なに笑ってんのよ」
東の空に陽が昇り、少女は眩しそうに目を細めて、顔に手をかざす。すると、逆光で見えなくなった俊樹の輪郭を探す少女の前に、綺麗な手が差し出された。
「俺は南俊樹。名前を、聞いてもいいかな」
ついさっきまで利用していたネットカフェから、ぞろぞろと人が溢れ出て来る。少女は俊樹の手をしっかりと握り、これから守り、守られるべき命を実感するように、喉を震わせて言う。
「……マユ」
生きている心地のしない日々だった。いつか自分がこの家庭を壊すのではないかと怯え、黙り込み、それでも幼い俊樹に逃げられる場所などどこにもなかった。だがこれからはマユがいる。手の届く場所に、助けられる人がいて、自分もマユと一緒に過ごすことで、心に負った深い傷を癒すのだ。
夜通し起きていた彼らの前に、輝く朝日はとても眩しく、二人は同じように顔をしかめて見つめ合う。するとそのすぐあと、樹の枝から零れ落ちた雨露に驚いて、飛び上がった俊樹を指差し、マユは笑った。