思い出の中の貴方
騎士達が店を襲撃するより前。
女主人は埃まみれのバックヤードで酒のグラス片手に一息ついていた。
まだ真っ昼間だというのに今日は客がひっきりなしで、なんだか異様に慌ただしい。
客から聞いた話だと、どうやらここが閉店してしまうとかいう変な噂が流れているらしかった。
資金繰りがうまく行ってないだとか、店主が病に倒れただとか、裏の取引がお偉いさんにバレたとか……
全く迷惑な話だ。
そんな根も葉もない事を言い出したのはどこのどいつだか。
手にしたグラスに映る顔。
やつれてこけた頬に深く刻まれた皺。
ひどいものね。まるで老婆じゃない。
まだアタシそんな歳じゃないんだけど。
アタシはここ、バー『オン・ザ・マン』の店主。
夜の店よ。お陰様でそれなりに繁盛してるわ。
これでも、昔はね。真面目にお屋敷に仕えてたのよ。
侍女はアタシ入れて五人いて、その中でも最年長でリーダーだったの。
みんななかなか癖の強い子ばっかりだったけど、なんとかまとめてうまくやってたわ。
要領が良くてよくサボるベティに、そそっかしくてよく皿を割るルーシー、おしゃべりで手が止まってばかりのアンナ、どんくさくて泣き虫のヘレン……
こうして思い出すと懐かしいわ。
毎日ハプニングばかりでバタバタ大変だったけど、なんだかんだ楽しかった。
そんなアタシ達侍女をまとめていたのが執事。
確か五才か六才くらい上の……まぁ、若いあんちゃんだ。今思えば。
まだまだ青臭い男だったんだけど、その頃まだ十代だったアタシらにはとても大人に見えてね。
確か、上に姉が二人いたんだっけか……なもんだから女の扱いに慣れてて。
さらに顔付きもなかなかなもんだったから、アタシ達の憧れの的だった。
極め付けは何かでアタシが転んだ時。
彼が引き上げてくれたの。優しく声をかけながら、そっと壊れ物でも扱うかのように……
さらには足をくじいて動けないからってお姫様だっこなんてされちゃってね。
それで、もう心の中はいつも彼でいっぱい。
寝る前に彼の表情や一挙一動を思い返して、ベッドの上で悶えて転がったり。
恋の成就するまじないだとか、でたらめな噂を信じて片っ端から試したり。
彼との将来を勝手に妄想したり……二人の子供の名前まで考えてたっけね。
そんな可愛らしい時代がアタシにもあったのさ。
ところが。
そんなある日、晩酌の仕度が終わると彼から早めに寝るよう言われたの。
明日は朝早くから作業があるから、って。
作業って何よ、ってね。
今のアタシならすぐそう切り返すけどね。
何かを隠してるような、いかにも不自然な言い方だったわ。
誰でもすぐ見抜けるような。
でもあの頃のアタシ達は誰も疑わなかった。すっかり惚れ込んで彼を神格化しすぎてたから。
彼の事だしきっと何か考えがあるんだ、って勝手にそう解釈して。ちょろいもんだね。
もちろん、それを聞いた私はそうするつもりだった。
久々に早い就寝だから寝る前にちょっと本でも読もうかな、なんてちょっとウキウキしながら。
でも、そういう時に限って何かあるものなのよ。
みんなと屋敷の自室に向かう途中でアタシは忘れ物に気づいた。
慌てて一人だけ引き返していって、リビングの脇を通り過ぎようとしたら……ドアがね、ほんの少し開いてたの。
あれ?と思いながら閉めようと近づいたら、隙間から見えてしまった。
その屋敷の旦那様と奥様の体が熱っぽく絡み合うところから、執事の亡骸が力なく椅子から滑り落ちるまで……その一部始終を。
年頃の娘だったからね。突然始まった情事に釘づけになって、結局最後まで見てしまったのさ。
それがまぁ、まだ純粋だったアタシにゃ刺激が強すぎた。
顔がカッと熱くなって、手が震えて。
喉はカラカラ、心臓は太鼓みたいにドカドカ鳴って……
見てはいけないものを見てしまったような背徳感と、年頃ゆえの好奇心。
飲んでもいないのにまるで酔っ払ったみたいにひどく興奮していた。
そしてなによりとどめは、あれほど恋焦がれてたあの執事が……まさか奥様に思いを寄せていたなんてね。
衝撃なんてもんじゃなかった。
色気にドキドキして高揚した気分がそこでストーンと落とされて。底の見えない暗闇に真っ逆さまに落ちた気分さ。
彼はそこで息絶えてしまったから、もうアタシの想いをぶつけることすらできなくて。
溢れる感情。でも、どうする事もできなかった。
そうして気持ちの整理がつかないまま、アタシはそのまま逃げるように部屋に戻っていった。