時の流れは残酷で
「隊長?」
突然の声にびくりと肩が跳ねる。
過去の幻影がするすると遠のいていき、目の前に現れる廃墟。
振り向くと、部下が不思議そうな顔でこちらを向いていた。
先頭をスタスタと歩いていた上司が、いきなり魂を抜かれたかのように一歩も動かなくなってしまったのだ。不審がるのも無理もない。
それもなぜか朽ちた屋敷をじっと見つめながら……なもんだから、彼の目には相当不気味に映ったのだろう。
「隊長……あの、何か?どうかされましたか?」
「いや、すまない。少し考え事をしていただけだ」
こうやって懐かしむために来た訳ではない。私には仕事がある。
名残惜しいが、その場を後にする。
向かったのは商店街の狭い路地。
地面を横切っていく鼠達に頭上を飛び回る蝿の群れ。
辺り一帯ドブのようなひどい臭いが充満していた。間違えて下水道通路に来てしまったかと思ったくらいだ。
通りすがる人々はジロジロと物珍しげにこちらを見ながら、時々意味不明な音で話しかけてくる。
何語を喋っているとかおそらくそういう次元ではないのだろう。
近寄ると独特な臭いがする。薬に浸かった者の臭気。
以前からその評判は聞いていたが、思った以上に荒れ果てていた。
あまりの変貌ぶり。豊かな緑の楽園から、この世のゴミ溜まりに。
このままこの混沌に足を踏み入れてしまっていいのか……
部下達も暗澹とした雰囲気にやられて、気が滅入っているのかなんだか元気がない。
正直な気持ちとしては、今すぐ引き返してしまいたい。
どこか森でも行ってこの心を洗いたいくらいだ。
しかし、我々は引き返してはいけない。この光景も後で報告せねばならない……この街の未来のために。汚れは取り除かねばならない。
気を引き締めて奥へ。奥へ。
黙々と歩き続けふと顔を上げると、先行部隊が向こうから手を振っているのが見えた。目的の店を見つけたようだ。繁華街の端の方、ひっそりした小さな店。
入り口には店名が大きく書かれた派手な看板が、傾いたままぶら下がっている。
よし、後は悪党どもを捕まえるだけだ。
剣と盾を構え直しお互い目で合図すると、集まった仲間数人と一斉に乗り込む。
バー『オン・ザ・マン』。
想像通り中はそういう店だった。
大量の酒瓶と下品な格好の女達に囲まれた客の男。胃液が込み上げてきそうなほどの甘ったるい香りが充満している。
こちらを見るなり男達は一斉にあたふたと逃げ出した。ズボン片手に一目散に駆け出す様はなんとも情けない。
店員らしき女は隅に全員固まってヒソヒソ小声でなにやら話しながらこちらの様子を伺っている。
このままでは埒が開かないので、私から店員に話しかけた。
「店の主人はどこにいる?」
苛立ちの滲む声にざわついていた場がしーんと静まり返る。
しかし、当の彼女達は一斉に下を向いて誰ひとり口を開こうとしない。
ずいぶんと面の皮の厚い奴らだ。シラを切るつもりか。
「主人を出せ、さもなくば……」
煮え切らない態度の女達に向かって剣を突き出す。
ぎらりと光る剣先に怯えたのか、ようやくもたもたと動き出した。
奥から連れてきたのは気難しそうな顔の女。
白髪頭で皺まみれの顔、その声は酒や煙草で枯れていた。
その腕には注射の痕がはっきり。それもいくつも。
『やっている』のは確実だ。確認するまでもなかった。
あとは麻薬取引の証拠が見つかれば捕縄だ。
部下に店内の捜索を任せ、私は一人そこに残って店主を見張る。
「アンタ、なかなかいい男だね。名前は?」
何の前振りもなく店主は唐突に話しかけてきた。ヤニまみれの歯で薄ら笑いを浮かべながら。
一言発するたびに広がる薬の臭いにおもわず顔を背けたくなるが、咳払いをして堪える。
「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗る……違うか?」
「ははっ、アタシかい?アタシはメアリー」
「メアリー……」
「なんだい、知り合いでもいるのかい?」
メアリー。まさか、いやまさかな。
鎧をきっちり着込んでいるはずなのに、背中に冷たい風が通り抜けていく気がした。
彼女はゴワゴワの髪を指にくるくると巻きつけたりほどいたりしながら、黙り込む私の次の言葉を待っていたようだった。
しかし、待てど暮らせど無言のままの私に痺れを切らしてこう続けた。
「そんなに珍しい名前じゃないんだろうけど、この街じゃアタシ一人だけだ」
「……っ!まさか、あの屋敷の……」
「おや、よく知ってるねぇ。そんな昔の事なんて」
「嘘だろ……そんな……」
目の前で虚な目をしてへらへらと笑っている女、これがあのメアリーだというのか。
純粋で穢れを知らない、あのメアリーが。
真面目で一生懸命な、あのメアリーが。
屈託のない笑顔が眩しい、あのメアリーが……
メアリーが袖で必死に隠していた右手首の火傷の跡。
その形までそっくり同じ。
嘘だ。
嘘だろ。こんな……