愛に狂って死んでくれ
サファイアが、まだ日本人だった頃に愛した男がいた。
彼はサファイアの見つめる画面の向こうで、煙草を吸う男であった。
白く短い髪、赤い目、大きな手、それらが紫煙で隠され、ぼやける。そんな男だった。
どこにでもあるようなヒットもせず大爆死もしない恋愛ゲームの非攻略キャラ。寧ろ、敵キャラと呼ばれるキャラクターだ。ファンがいたかは分からない。サファイアは所謂同担拒否で、彼を愛している女など目にも入れたくなかったからだ。
ゲームの中の彼は、それはもう酷かった。現実世界にいたら絶対に関わりたくないと友人に零すほどに。
彼は人類皆平等に蹴って殴って罵って、酒も浴びるように飲み、灰皿が溢れるほどに煙草を吸い、いつも目の下に隈を作っていた。
最低な犯罪者として、メインキャラクターの一人を攻略する時に出てくる敵キャラ。
けれど、けれど、
───死の間際に、女の名前を優しい声で呼ぶのだ。
『……サファイア………』
彼の設定は多くは語られない。ゲームのキャラクター紹介で「愛しい女を失った、冷酷非道な男」とだけ書かれていた。
それでも、サファイアは恋に堕ちていた。叶わない恋を、ずっと。
サファイアがなぜこんな記憶を持っているのかは誰にも分からない。気がついた時には前世の記憶を持っていた。日本とは思えない世界で、成人の日本人女性の記憶を持って立っていた。
夢現のまま生活していく中で、彼と出会う。
「………」
ぽかん、と口を開けたサファイアを不思議そうな顔で見つめる少年。
ルビーのような赤い瞳がサファイアを射抜いていた。
「……あの、僕の顔、そんなに変かな」
「い、いえ! 違います見惚れてしまって!」
「そうなの?…変な子、ふふ」
少年は、春の花を詰め込んだかのような笑顔で名乗る。
「僕の名前は、レイフ・スカーレット。よろしくね、婚約者さん」
草木を思わせるほど瑞々しい黒髪が、キラキラと輝いていた。
レイフ・スカーレット。
彼は男爵家の嫡男として、裕福な商家の長女であるサファイアと婚約をした。そもそも、恋をした彼の名前など「謎の男」「白の男」としか表記されたことはなく、また、生い立ちなんてものも知らなかった。
知っているのは、荒んだ人間性と高い戦闘能力、そして死ぬことだけ。
だからこそ、こんなにも幸福そうに微笑む少年時代があったとは想像もつかなかった。
今日も彼と午後の木漏れ日が降り注ぐ庭園で、お茶会をしている。
分かることは、彼は案外甘党なことだ。
「それで、サファイアは新しい子猫のために里親を募集したのですよ」
「ふーん、でも親子一緒にいた方がいいんじゃないの?」
「いくらサファイアの家が広くても、十匹以上いる子猫の世話を全部見れるわけじゃありません。サファイアのお父様のツテを頼って、お金持ちに2匹ずつ引き取ってもらうのです!」
「そっか……まぁ、沢山の子猫の健康を全部気を配れるかって言ったら、難しいよねぇ」
のんびりとした口調でレイフは微笑む。美しい容貌の少年はいかにも慈愛に満ちた声をしていた。
今にも小鳥が彼の肩に留まるのではないかとサファイアは思う。この世界の王子様よりも王子様らしい。
「猫だって、たくさんの中の一匹よりも、唯一になりたいよね」
紅茶を飲んで呟くレイフは、本当に優しげに笑っていた。
レイフは当たり前に成長し、当たり前に美しい好青年になった。酒もタバコも嗜まない、健康的な美男子になった。
サファイアとの関係性は良好だ。燃え上がるような恋ではないものの、木漏れ日のような暖かな情が形成されていた。
レイフは貴族用の学校に進み、サファイアは家で家庭教師を迎えながら花嫁修行を行う。
この世界では基本的に、女性の社会進出は少ないため貴族でもない限り学校には通わない。しかし職についている女性も存在している。問題は起きないのだろうか、と考えたが都合の良い乙女ゲームの世界なのだ、そういった問題は聞いたことがなかった。
レイフからは手紙が定期的に届く、学校で学んでいること、友人関係、領地の話、そして、愛の言葉。
優しい言葉で彩られた、水彩画のような手紙。
サファイアは不安になった。
───『いつ、レイフは"彼"になるのだろう』
それはつまり、サファイアがいつ死ぬのかということだ。
「お父様、サファイアっていつ死ぬのですか?」
父親は、ひっくり返って医者を呼んだ。
サファイアの健康が保障された後、レイフとの結婚式の話が纏まり始めた。
異世界でも白いウェディングドレスなのかとぼんやりと思う。
「……結婚式は、無事に行えるといいけれど」
ウェディングドレスを前にレイフが呟く。サファイアはその言葉に首を傾げる。
「レイフがいるなら、きっと円満に行えるわ」
サファイアはレイフの隣にそっと寄り添った。レイフはいつも通りに、優しく微笑んだ。
あ、そういうことか。
ウェディングドレスに身を包み、サファイアは思う。
薔薇よりも深く、太陽よりも濃い色が流れ落ちる。
刺されるとこんな感じなんだなぁとぼんやりと考えた。参列者は死屍累々、両親と義両親が血に沈んだのが視界の端に映る。
「サファイア……サファイア……」
自身もボロボロな癖に、レイフはサファイアの手を握り必死に名前を呼ぶ。何が起こったかなんて理解できなかった。永遠の愛を誓うときに、扉から武装した何者かが現れたのだ。
そして、気づいたら、全員が死んでいた。
「ごめん、ごめん…僕のせいだ、僕の……」
サファイアは何も知らない。
何故こんなことが起こったのか、何故みんな死んだのか、何故、何故何故……
一つだけわかった。
"彼"はこうして生まれたのだ。
幸せの絶頂に、希望の未来に歩むその瞬間に全てを壊された。
悲劇だ、幸福な人間が考えそうな悲劇。
サファイアは……"彼女"は笑った。
「貴方を……ずっと、愛してたの……」
ようやく出会えた、"彼"に。
レイフは呟く。なんて酷い女だ。
ずっと恋をしていた少女は、今ようやく、己を愛したのだ。
いつからか分かっていた、少女は己を通して誰かを愛していた。
でも、政略結婚なんていうものはそういうものだ。"恋"はされていたから、幸福な結婚はできるのだと考えていた。
でも、結婚すらできないなんて。
愛した人の亡骸が冷たくなる感覚をずっと、覚えている。
レイフは煙草を吸い、酒を飲み、女を抱いた。
人を殺し、犯し、罪を重ねた。
髪は色が抜けて白くなり、眠りは浅くなる。
でも、止まるわけにはいかない。
己が恋し、愛した少女の仇を討つまで、止まれはしないのだから。
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「サファイア」
日本に住む成人女性の記憶を持つ症状。
『レイフ』を愛していた。
「レイフ・スカーレット」
男爵の嫡男。
サファイアの婚約者。
位が低いため、商人の娘と婚約することで経済力をつけようという画策。
良い関係だったため、途中から親たちは政略以上の家族付き合いをしていた。
そのことが祟ったのか、単に政治バトルに巻き込まれたのか。
一族を根絶やしにされ、レイフただ1人が生き残ってしまった。
優しい黒の少年にサファイアは恋をしていたが、
苛烈な白い青年をサファイアは愛していた。