君の声
一生懸命書きます。
大した話じゃないと思いながら読んで頂きたいです。
僕には霊感はないし、おばけの存在を信じているわけでもなかった。
でも、彼女はたしかにそこにいた。
2020年 3月31日 午後11時00分
僕は、10年前に卒業した母校の校門の前にいた。
いかにも田舎の学校らしい木造二階建ての校舎。
今は廃校になってしまったこの学校は、校門が開きっぱなしになっており、地元の子供達がよく肝試しに訪れているらしい。
真っ暗な校舎の中を、スマホのライトを頼りに歩き、2階まで上がった。
2年生と3年生の教室が並ぶ長い廊下の1番奥。
中学生生活の最後の1年を過ごした3年C組の教室。
暗くてよく見えないけど、あの頃のままだと思った。
懐かしくて、懐かしくて、胸が苦しくなった。
ライトを足元に向けると、少し先に、黒板消しが落ちていた。
それを拾って、粉受の真ん中辺りに置いた。
教卓に立ち、ズボンのポケットからホームセンターで買ってきたチョークを出して、反対のポケットにスマホをしまった。
それから黒板に縦書きで、大きく自分の名前を書いた。
一文字目が大きすぎて、バランスが悪くなってしまった。
一度消して書き直そうと思い、黒板消しを手に持ったその時。
「何してるのー?」
背後から、女の子の声が聞こえた。
心臓を内側から叩かれたような衝撃の後、嫌に冷たい汗が背中をダラダラと流れた。
体は氷漬けにされたようにピクリとも動かなかったが、心臓だけは激しく音を立てて動いていた。
黒板の方を向いたまま動かないでいると、声は背中のすぐ後ろまで近づいてきた。
「おーい、こっち向いてよー」
そう言って、彼女はフフッと笑った。
僕は覚悟を決めてゆっくりと振り向いた。
案の定そこに女の子なんていなくて、そのかわりに、また声が聞こえてきた。
「やっぱりだ!」
意外な言葉だった。
何が「やっぱり」なのか想像もできなかったし、その言葉を言いたかったのは、むしろ僕だった。
そう考えながらも、僕は未だに声を出せずにいた。
そんな僕にはお構いなしに、彼女は続ける。
「今日って、何月何日なの?」
理由はわからないが、その質問で彼女に敵意はないのだと判断した僕は、乾燥してパサパサになった口を開いた。
「今日...今日は、3月31日、です」
そう答えると、目の前の席の椅子が、ガタッと、誰かが引いたように動き、その時初めて彼女はそこにいるのだとわかった。
「明日から4月なんだー。じゃあちょうどいいね!」
彼女は嬉しそうに言ったが、その言葉はまるで独り言のようで、僕は置き去りだった。
少しずつ余裕が出てきた僕は、おそらく彼女が座るその席を見つめ、聞いてみた。
「何がちょうどいいの?」
「明日から4月でしょ?だから、明日から1学期!」
「1学期?」
「そう!ちょうどいいでしょ?明日から授業!」
「授業...?」
「授業!」
ようやくまともに会話ができた気がしたけど、見た目だけの短いラリーだった。
すると、彼女が続けて言った。
「先生なんでしょ?」
僕は、反射的に答えた。
「う、うん」
「やっぱり!」
本当は、違う。
僕は、そう呼ばれることに憧れているだけ。
でも、姿が見えなくてもわかるぐらいに、嬉しそうな声でそう言った彼女に、僕は真実を伝えることはできなかった。
彼女は机をガタガタと揺らして、おそらく喜んでいる。
その様子を不思議に思い、僕は思い切って尋ねた。
「あの、君は?」
机の揺れがピタッと止まり、少し間を置いて彼女が答えた。
「あ、まだ名前も言ってなかったね。浅海夏希です。よろしくお願いします」
「浅海、夏希..?」
「うん...」
頭が何かを思い出す前に、心臓がざわつき始めた。
10年前、いや、もっと前から知っていたその名前。
名前だけじゃなく顔も、家だって知ってる。
「忘れちゃった、よね?」
忘れてない。
いや、さっきまでは忘れてたかもしれない。
けど、今は彼女の顔だって浮かんでいる。
「夏希...」
10年前たしかに目の前にいた彼女
頭の中の引き出しが次々と開き、飛び出した中身が辺りに散らばっていく。
春夏秋冬、それぞれの季節からはみ出してしまうほどの大量の記憶を、今までどうやってしまっていたのだろう。
彼女は、確かに今目の前に存在している。
聞こえてくる10年前の声が、僕の記憶に色をつけ、音を乗せていく。
色鮮やかになっていく思い出とは裏腹に、僕は暗く深い喪失感に呑み込まれそうだった。
「うん、夏希。思い出した?」
少し期待したような、彼女の声が聞こえた。
「うん。覚えてる、覚えてるよ」
震えた声で答えた。
「本当?よかった!でも、私はすぐわかったよ!」
そう言って、彼女がまた机を揺らしている。
彼女とは年が同じで家も近かったこともあり、小学生の頃は、一緒に登校し、放課後もよく遊んでいた。
特別な感情も、持ってたと思う。
そんな彼女が、おばけになっていた。
いつも明るくて、いつも優しくて、いつも可愛かった。
彼女に何があったのか、聞きたいけど知りたくない。
そんな気持ちで、頭の中はいつまでも整理がつかないまま、結局最後まで聞くことはできなかった。
「ねえ、今何時?」
いつのまにか机を揺らすのをやめた彼女にそう聞かれ、しばらくぼーっとしていたことに気づいた。
ポケットからスマホを取り出して時間を見た。
「もうすぐ12時だよ」
そう答えると、彼女は椅子が後ろの机にぶつかるほど、勢いよく立ち上がり言った。
「え、もうそんな時間?早く帰らないと!」
「あ、そうだね」
早く帰らないといけないのが彼女なのか、僕なのか、そんなこと考えずに答えた。
「じゃあ先生、また明日。授業は、8時50分からでお願いします。もちろん、夜の、ですよ」
そう言って彼女は、ドアのほうに向かっていったのだろう。
数秒後、彼女の「さようなら」という声と共に、教室の後ろのドアが、ガラガラと開いた。
慌てて「あ、また、また明日!」と声をかけると、彼女はフフッと笑い、ガラガラとドアを閉めた。
静かになった教室で、しばらく頭の中を整理しようと、さっきまで彼女が座っていた席に座った。
散らかった頭の中に、10年前の彼女の笑顔が浮かぶばかりだった。