蓮コラ許すまじ
打ち倒された。
最端を読み、最善を選び、最優を以てして、なお打ち倒された。
————だけど。
それは紛れもない結果だ。それは変えることの叶わない結末だ。
————それでも。
十指を数える。肢節を曲げる。
沈んだ体は、まだ動く。求める心は、まだ折れてはいない。
————ならば。
ならば、それは。その結末は。
決して、
敗北という終末ではない————!
「————理想を描き、理念を突き詰め、理屈を極め」
紡ぐ三節。世界の壊れる音がした。
辺獄は魔法が存在すると言った。
「————研がし澄ました無数の研鑽」
重ねる一節。世界を塗りつぶす音がした。
疑うことは無い。恐れる必要も無い。
「————至りし境地は此処に、求めし極地は未だ彼方に」
結ぶ二節。世界を創り上げる音がした。
心のままに。己こそが正しいのだと、単純明快なその傲慢を、
「なあ、そえーん。お前如きに、俺の道は折れないよ」
突き通せ。
「顕現しろ————無限乳挟射艶世」
六節を以て世界を染める。
顕現するのは夢想の果て。辿り着いた現在。
吹き荒れるは暴風。広がるは見果てぬ荒野。前も後ろもなく、進むべき指標は絶無。正しさは不知、故に間違いもまた不在。
ただ、辿った足跡だけを物語るように、
無数のおっぱいが咲いていた。
「————はァ!?」
そえーんの喉から遠慮会釈のない怒号が溢れる。
「これは俺の選んだ道だ。歩んだ覇道だ。積み重ねてきた忠道だ。————来いよ凡俗、格の違いを教えてやる」
「うるせえバカ!もうバカ!ほんとバカ!!くたばれキチガイ!なんでお前こんなギャグテイスト一直線の風景でドシリアス顔ができるんだ!!」
「ついに視覚すら狂ったか。それとも惨めな現実逃避か?なんにせよ哀れだな。この光景のどこがギャグに見える」
「わあ驚いた!狂ってる奴って笑いのセンスすら共有できねえのな!!」
むしろギャグじゃなかったらなんだと言うのだ。新手のスプラッターホラーか?
もうホント、意味がわからなかった。微塵も、欠片も、理解する気さえ起きなかった。
だっておっぱいだ。
もうこの際、果てしなく続くこの荒野はなんなのかとか、なんでそんな魔法みたいな不思議パワーが唐突に出てくるのかとか、そういうのはいい。どうせろくな答えなんか返ってきやしないのだから、それはもういい。
でもおっぱいはダメだ。ただでさえドリフだのJRAだのを敵に回してるのに、この上コンプラまで踏み越えたら取り返しがつかない。トラブっても何とか許してもらえるのはおっぱいが二つまでだからだ。無数のおっぱいとか流石にスクエア編集長でも止めると思う。
ていうかもうなんか、ここまでくると全体的にキモイ。集合体恐怖症になりそうだった。
「つーわけで、こちらにご用意させて頂きましたえありあるくん」
「なんか凄く雑に引っ張り出された……」
「うるせえ職務怠慢ゴミクズ社会不適合者野郎!一人だけ知らねえうちに逃げ出しやがって、罪を償え犯罪者!!」
「ツッコミ放棄しただけでそこまで言います?」
そんなことを言ってるから甘いのだ。ボケが過剰積載されている世界でツッコミを放棄するということがどれほど重いのか全くわかっていない。全部押し付けて楽しようという計画が潰れたでは無いか。
「最後人でなしな思惑漏れてたが?」
「僕の苦しみはお前のもの、お前の苦しみはお前のもの。僕ら友達だろ?シェアしてこうぜ」
「それ単純に自分だけ被害こうむってますが!?」
「めんどくせえな。いいから魔法で何とかしちゃえよ。えあくんのなら行けるでしょ、魔法展開キャンセル条件式とか」
「無理ですけど」
「……いやいや、いいってそう言う悪あがき。ドーンってやっちゃってくださいよ先輩」
「いやホントに」
「……、え?ウソ、マジで?」
「『其は悪行にて焦身へと至る』はあくまで先手必勝の術式なんで。起きてしまった事象に干渉することは原理的に不可能なんですよね」
「……つまり?」
「発動しちゃった魔法のキャンセルとか無理です」
「ホンットにやる気ねえなこの世界!!」
なんという誤算。切り札が肝心な時に役立たずとかいったいどこの少年漫画だ。変なところだけフィクションのお約束を踏襲する世界にそえーんは軽く殺意を覚える。
同時、
「————快楽を知れ、人類」
小さな、ズリキチの呟きが耳朶を打った。
それに反応を返すよりも早く。
無数に咲き誇るおっぱいが蠕動、次いで暴発。
「————!?」
その光景をいったいどう表したらいいだろう。
全てを押し流す波の激震か。万象を押し潰す軍勢の激動か。
どう言葉を尽くしても、目の前の現象は正しく捉えきれないだろう。
ただ————進撃する。
「————?ォ、アアアア!!!???」
受付嬢が呑まれた。
双丘が彼女のしなやかな脚に絡みつき、
「オッ……、ォォオオオオオッッッッ♡♡♡♡♡」
その声は、もはや人が上げていいものでは無い。
蠢くおっぱいの山から漏れ出す悲鳴は、いっそ獣じみていた。
「……嘘だろ」
時間にして僅か三秒。崩れた山の残骸で倒れ伏す受付嬢の姿を見てそえーんは絶句する。
言葉による説明など、不要。
恍惚とした表情で半開きの口から涎を垂らすその姿は、もはや人とは呼べない。
即ち廃人。たった三秒で、受付嬢だった者はただの物と化す。
「……待て。待て待て待て待て待て待て!!おいふざけんな、なんだありゃ!!」
「自分に聞かれても分かりませんよあんなトンチキ!!」
何が何だか分からないが、とにかくあれに捕まるのはヤバい。
揃って一八〇度方向転換。もうあんなの、逃げの一手しかなかった。
「ていうかえあくんまで一緒に逃げてどうすんの!?誰がアレ止めるんだよなんとかしろよ異世界二年生だろ!!転生者はあの手の魔王みたいなやつ止めるのが仕事じゃねえの!?」
「全部ブーメランどころかその魔王すら転生者なんですが!!」
脱兎の如く荒野を蹴る。出口のない荒地に逃げるアテなど無い。ただ迫り来る脅威から一歩でも遠く、一秒でも速く距離をとるための逃避行。
「ちょっとそえーんくんどうなってんのこれ。まだ賭け金の徴収終わってないんやけど」
「なんかいきなり情報量が凄いんですけど!もうちょっとで妹見つけられそうだったのにどうしてくれるんですか!!ここまで来てお預けされるなら私は本格的にラットさん妹計画を視野に入れますよ!?」
「なんか我だけ別方面からも危機が迫ってるんですけど!!」
「……ほんとお前ら凄いよね。この状況でもブレない姿勢とかいっそ尊敬できる気がしてきた」
どこからともなく合流してきたバカ二人(と人外一匹)に呆れつつ更に加速。後方を視線だけで振り向くと、冒険者風の異世界人達が次々おっぱい呑み込まれていくのが見えた。恐らく卿辺りにちゃっかり見捨てられた者達だろう、哀れなことではあるが今は人のことを気にしている場合ではない。
「そもそもなんでズリキチはナチュラルにこんな不思議現象起こしてんの?僕ら魔法のレクチャーとか何も受けてないはずなんだけど!」
「多分レクチャーとか関係ないんじゃないですかね。魔法って世界に対する催眠術みたいなものらしいので、極論『自分のルールが正しい』っていう意志の強さと『転生者』っていう要素があれば使える物ですし」
「そういう大事なことは前もって説明しておこうなドリフ崩れ!!」
ざっくり説明聞き流してた人がそれ言います?というエアリアルのツッコミはあえて黙殺。ちゃんと納得させるような説明をしなかった方に責任があると思います。
ギルドにたむろしていた冒険者はもはや半数も残っていない。いかにも中世風の剣や盾で対抗しているようだが、斬った端から押し寄せてくるおっぱいの群れ相手ではそう長くはもたないだろう。
どう見てもジリ貧。このままでは全員おっぱいに貪り尽くされて廃人コースがオチだ。
絶望的な状況に切羽詰まる頭を気力だけで回転させる。一手でいい。活路を生み出す一手があればそれでいいのに、その一手が見当たらない。
そも、魔法が発動した時点でもう盤面が詰んでいるのだ。触れるもの全てを瞬く間に廃人と化す、なんて言う能力デタラメすぎる。リアル快楽堕ちの結界なんて、異世界人だろうと転生者であろうと人である以上対処できるはずも、
「……、あれ?」
そこまで考えて、そえーんは小さな引っ掛かりを覚える。
人である以上?
記憶を辿る。ズリキチは確かに言った。『快楽を知れ、人類』とそう言った。
もしも、その言葉に偽りがないのなら。
「ちょっと。ちょっとラットくん、こっち来る」右隣を並走するサメ面を軽く手招き。
「……?なんです?」
純真無垢な表情で軌道修正してくるラットが真横につけてきたのを確認して、
「はいよいしょー」
思いっきり後方へ蹴り飛ばす。
「ちょ————ぇ、ええええええええええええええええ!?!?!?!?!?!?!?」
乳海の速度は根本的にそえーん達より上だ。元よりそれほど引き離せていなかったところへ自ら後方へと下がれば、待っている結果など自明。
つまり。
瞬と待たず、ラットはおっぱいに覆い尽くされた。
「なんでっ、ちょ、ウソ……あ、ァアアアアアアアアアア!!!!!!!!」
絶叫が響く。断末魔が木霊する。
その姿は、もう視認することすら不可能。
完全な終わり。
三秒後には快楽によって心を壊された結末しか待っていない。
「……そえーんくん、いつかやるとは思ってたで。やっぱ君はガチサイコだったんやな、サイテー」
「これは流石にない。そえーんさん酷すぎ」
今回ばかりはガチでドン引きしている卿や辺獄の言葉の方が正しい。エアリアルなどは、あまりの暴挙に言葉を失っている。
そう、その反応は正しい。
本当に————その結末しかなかったのであれば。
「————アアアアアアァァァァ………、あれ?」
不意に、絶叫が途切れる。
双丘の山は未だ健在。優に十秒は経過しているが、崩れる気配すら見当たらない。
「あれ?ぇ、我どういう状況なんです、これ」
ベリベリとまとわりつくおっぱいを剥がしながら顔を出すラット。疑問を発している時点で、その精神も無傷なのは見て取れた。
「……やっぱな」そえーんは不敵に笑う。「魔法って言っても所詮この世界のシステムの一つなんだろ?人間相手には必殺って言うなら、システム上人間じゃない奴をぶつけてやればいい」
そう、単純な話だ。
リンゴが下にしか落ちないように、ハサミで岩は切れないように。人間では目の前の現象に勝てないというのがルールなら、人外によって叩き潰すまで。
サメ面の毛むくじゃらが人であるかどうかなど、それこそ議論する余地もない。
「しかもこの乳、快楽堕ちさせるまで全部のタゲが一人に向くっぽいし。これなら活路が開ける!」
「……え、でもそれって確証とか何も無いですよね?間違ってたらラットさん廃人になってたんじゃ」
「活路が!開ける!!」
エアリアルがなんかごちゃごちゃ言っていたがそんなもん知ったことではない。失敗したら失敗した時、人生は冒険やって動画で見たし。
「というわけで卿ちゃんよ」
「なんよ」
「僕は今からラットに乗ってズリキチに止め刺してくる訳だが————ラットくんがおっぱいを引き剥がしながら一秒に進める距離は五メートルというところだ」
「……ズリキチまでの結界半径は一〇〇メートル」
「つまり、」
「「二〇秒あればいける!!」」
「なんかすごくよく分からないノリで我が巻き込まれてる!!」
おっぱいを引き剥がしつつ慌てふためくラット。だが方策はこれしかない。有無を言わさずしゃがみ込ませ、そえーんが肩車。
「痛っ、ていうか重っ!?一体何するつもりなんです!?」
「ズリキチに突っ込む」
「正気ですか!?おっぱいに取り憑かれますよ!?」
「その前に辿り着ければいい!」
反撃の火種は整った。
残るは狼煙を上げるのみ。
「さあ————行くぞ、カタフラット!」
「だからなんなんですかそのノリ!!」
* * * * *
渦巻く暴風と積み上げられた双丘の山で、ズリキチは小さく溜息を吐く。
「……こんなものかよ」
暇つぶしに手を出してみたゲームが大して面白くもなかった程度の。それでも確かな、軽い失望。
実の所、『無限乳挟射艶世』には明確な弱点があった。
快楽によって精神を堕とす無限の絶海。だがその快楽の基準は、あくまで術者であるズリキチ自身の想像力に依存する。
つまり、ズリキチの想像と同等、もしくはそれを超える快楽を知っている者には根本的に意味を為さない。
即ち、パイズリの極地。
本物の亜人や異種族が跋扈するこの世界であれば、あるいはそこに辿り着けるのではと期待したが、蓋を開けてしまえば呆気ないものだった。
「……ああ、なら」
もう、いい。
ズリキチは放棄することにした。
世界を跨いですら、極地は見えない。荒野の果てへは至れない。ならばもういい。世界に期待するのは諦めよう。
あと数分もすれば、掃討は終わる。
笑いすら浮かばなかった。
終わるのだ。彼の夢はここで終わるのだ。
理想は理想のまま、実在することのない夢想まま。残る命は、それでも良いのだと空虚な言い訳を抱いて荒地を進むことにのみ費やしていく。
それならそれでいい。結局のところ、世界という受け皿では彼の理想に小さすぎたと言うだけの話。
だから。
なのに。
「————届かせたぞ、ズリキチ!!!!!!」
轟音と共に。
壊滅を渡った、不遜なそえーんはそう吼えた。
* * * * *
(……痛っ、)
足元から来る強烈な衝撃に、そえーんは顔を顰める。
実際のところ、かなりギリギリだった。
ラットの駆ける速度と群がる乳の引き剥がしにはそれなりの余裕を見ていたつもりだったが、それはあくまで机上の計算。突撃の前から全力で走り詰めていたことによる体力の消耗や、慣れない二人羽織状態での減速までは読み切れていなかった。最終的にラットを踏み台にした跳躍でなんとか帳尻を合わせたものの、後数歩ズリキチまでの距離が空いていれば二人揃って乳海に呑み込まれていただろう。
それでも、届いた。
ズリキチを中心に描いた約一メートルの円。無限に広がる殺界の中で、唯一の安全地帯。
ここにそえーんが立った時点で、ラットは十分に役目を果たしてくれた。
ならば残る障害はそえーんの受け持つべき物だ。
「……何をしに来た」
「答えがいるのか?」
質問に質問を返す。
継ぐ声はない。ことここに至って、言葉など不粋。
故に、宣告は短かった。
「潰すぜ、夢想家」
「やってみろ、愚物」
荒野を抉る。
互いに満身創痍。度重なる殴打を受けたズリキチはもとより、全力疾走を重ねたそえーんにも余力など残っていない。
だからこその、最短。
小手先の欺瞞は要らない。互いが互いを否定するために、最速を以て正面から交錯する。
「ッ————!」
姿勢は低く。重心は常に前へ。
踏み込む一歩すら、彼方。
「ッ、ラァ!」
ズリキチの右拳がそえーんの頬を打つ。構わない、意識は既にその先へ。振られる重心の勢いを利用して無防備な側頭部へ回し蹴りを捻じ入れる。
足りない。
ズリキチは咄嗟に残った左腕を振るい、急所だけを的確に覆う。姿勢を崩したそえーんにその隙を撃つ術はなく、不完全な護りでは衝撃を殺しきれなかったズリキチも次の一手には繋げられない。
一秒を更に分割した、膠着。
「フ、————ッ!」
先に破ったのはズリキチだった。
鋭い呼気と共に、膝をつくそえーんに向けて蹴りを放つ。瞬きすら致命となる次元において、その射程を正確に見切ることなど不可能。
故に、そえーんは回避を視野にすら入れなかった。
半歩分、全力で上体を横に逸らす。
直後————ズガンッッッ!!と、急所を避けてなお重く体幹を貫く破壊が全身を走った。
だが、
「……掴まえた、ぞ」
「テ、メェ————!?」
その蹴撃を引き戻すことは許さない。
呼吸すら覚束無い状態で、それでも。両腕でズリキチの脚を固縛するそえーん。
その姿は、奇しくも最初の激突と真逆だった。
霞む視界にズリキチの焦った顔を捉え、彼は嗤う。
獰猛に。
「泥臭くいこうぜ。喧嘩だろ?」
引きずり降ろす。
万力を込めて、そびえる巨躯を地に落とす。
技術はもう要らない。先読みなど投棄した。対応ならば己の矮躯で為せばいい。
一秒でも、一瞬でも速く。ただ純粋な意思だけを載せて、相手を否定し切るために。
————拳を、振りかざす。
……そうして。
何度振り下ろしたか。何度振り下ろされたか。問いかけに意味が無くなるほど繰り返して。
「……ようやく、か」
そえーんは血の味を噛み締めながら呟いた。
右目はもうほとんど開いていない。頬は腫れ、不自然な熱を放っている。重心はかしぎ、感覚という感覚はもう消え失せた。
指先一つで倒れそうなほど、その体は限界だった。
それでも、
「ようやく、終わりだ」
残る左目で、見据える。
「なァ————ズリキチ」
彼と同等に、ボロボロの男を。
「……、ふざけろ」
応える声は頼りなく揺れていた。
「俺の、夢を終わらせるのが……、俺以外なんかで、たまるかよ」
そえーんにその言葉の意味は分からなかった。
熱に浮かされた頭で理解できるとも思えなかったし、きっと他人が理解していいものでもないのだろう。
だから一言。そうか、とだけ答えた。
それが引き金となった。
「————ッッッ!!」
示し合わせたかのような、同時。
大地が爆ぜた。
正真正銘、これが最後。
それを分かっているからこそ、両者の思考はたった一つに絞られる。
先のことになど思考を割くな。余分な感情など後でいい。
————ただ、今は。
目の前の敵だけが在ればいい————!
たった、一度の淀みすらなく。
激突。
そして、
「……、そうか。そうだった、な。————お前の、道には……おしっこ、が……あったんだったな……」
咲き誇る無数の夢が、崩れ落ちた。