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FF《フォロワー・ファンタジー》  作者: 疎遠
序章 競合に満ちた明日へ Shoot_oneself
19/43

世界一怖い獣は人間

 ガイジオールスターによる阿鼻叫喚がある程度盛り上がったところで強制終了。

 寝起きで状況を掴めていない三人にかいつまんだ説明をしようとするも、すぐ脱線しだすバカ発言に頭を抱えるなどのすったもんだを経て、現在。


「……いやいや、ないでしょ。それはないですって。だって私達どこからどう見てもヒーロー側ですよ?なんだってそんな怒りの矛先向けられなきゃいけないんですか。寝起きだからってそんな分かりやすい嘘には騙されませんよ私は」

「哀しい……猥は全人類を愛しているっていうのに……とても哀しい……」

「上手くやればくっ殺パイズリとかさせられるんじゃねえのそれ」


 そえーんを含む五人(と一匹)は荒れ果てた室内にポッカリ空いた何も無い床の上で車座になっていた。

 ちなみにホルモンは胡坐をかいた辺獄の膝の上。大好きな辺獄(オニーチャン)が全身傷だらけで帰ってきたことがよほどショックだったのだろう。三日も昏睡状態に陥っていればそれも無理はない話なので好きにさせておいた。

 辺獄としても諸手を挙げて大歓迎なシチュエーションだと思うのだが、なぜかその両手はホルモンに触れるかどうか迷うように宙ぶらりんで放置されている。自分の膝の上は視界にすら入れようとしない徹底ぶりなのだった。


「まあ別に辺獄くんが幸せそうじゃないならそれでいいんだけど」

「そえーんさんって基本的に人でなしなんですね?」


 何をいまさら。フォロワーの不幸は蜜の味、なんていうのは全TLの共通認識だろうに。


「それはそれとして」そえーんは不満気な辺獄を一言で切り捨てて、「とにかく今は時間がない。ラットくんの話が本当ならあと三〇分もしないうちにえあくんの『魔法』が切れる。だからもう手っ取り早くいくぞ」


 よっこらせ、と重い体を立ち上がらせる。

 暴れまわったことによるダメージか、やたらギシギシ鳴る床を横切って、


「……、ふー……」


 一息。カーテンにかけた手とは逆の手を耳の穴に突っ込みながら息を吐く。

 覚悟を決めて、勢いよく開いた。


「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」「……ッッッ!!」


 ジャッ!とカーテンを閉める。


「「「————よし、逃げよう」」」

「うーん、清々しいほどの既視感」

「アイーン……」

「なんで皆さんこういう時だけ息ピッタリなんです?打合せでもしました?」


 なんか言っていたがどうでもいいところなのでスルー。要は方針が固まればそれでいいのだ。判断が早いのは美徳です。これにはどっかの天狗面つけたおじーちゃんもニッコリしてくれるに違いない。


「でも、逃げるって言ってもどうやって?」と、若干引いた様子のラット。「声からして、この家はもう全周異世界の人に取り囲まれているっぽいですけど」


 エアリアルの借家は一階建て。決して狭くはないが、広大とも言えない家屋で出入りが可能な場所は全部で三つ。

 大通りへと抜ける玄関扉、同じく通りへ面した窓、それとは真逆の裏道へ面した窓。そのくらいである。

 ラットの言葉通り、異世界人の叫びは前と言わず後ろと言わずいたる所から響いてきている。これではどの場所から抜け出したところで一発で見つかって追いかけ回されるのがオチだ。

 エアリアルの魔法の効果がまだ残っている現状なら強硬突破するのも手ではあるものの、それも残り数十分の時限性。逃げ切るまでにどれだけの時間がかかるか見通しすら立たない以上、効果時間の制限(リミット)のほうが先だろう。そうなれば数百人、数千人単位を相手に丸腰で逃げ回るハメになる。いくらそえーん以外の三人は魔法を使えると言っても、数で押し切られればジリ貧であることに変わりはない。

 進むも退くもできない袋小路。一手を動かす前に盤面はもう確定された、正真正銘の詰み。

 この先に展望などない。選べる選択肢はこのまま時間切れを待って嬲り殺されるか、逃げ出した先で嬲り殺されるかの二択だけ。いずれにしても、『死』という結末は避けられない。————そう、普通であれば。

『神』アールマティとの死闘を乗り越えたガイジは発想どころか目の付け所からして一味違った。


「ズリキチちょっと手貸して。そこのタンス運びたい」そえーんは部屋の一角を指さす。

「別にいいけどお前、俺は怪我人だぞ。あんなデカいの持ち上げられるほどの力なんて無いけど」

「そりゃ僕も同じだよ。元引っ越し屋さんの運搬スキルを舐めるでない」


 言いつつ、そえーんは残骸となった家具の墓場からテーブルクロスと思しき大きめの布を拝借。躊躇なく縦半分に裂く。

 エアリアルが「アイーン!?」と悲鳴らしきものを上げていたが知ったことではない。そもそも原形すらとどめないほど荒れ果てた部屋でこれ以上何を気にするというのか。

 半分に裂いた布をタンスのちょうど四分の一、両端から均等に距離をとったラインで表裏を通すようにして上下に回す。

 二本の布を背面できつく結んだそえーんは、タンスを挟み込むように横から両手で布を持ち、強度を確かめるように何度か上げ下げ。


「……うーん、ちょっと滑るけど。大した距離でもないし、まあ許容範囲だろ。ほらズリキチ、そっちの布持って」

「はいよ」


 二人がかりで布を吊る。かかる圧力が分散したタンスは、その見た目とは裏腹に呆気なく上がった。

 そのまま横に移動すること数歩、そえーんの合図と共にタンスを下ろす。


「ん、この辺でいいだろ————よっ、と」


 軽い掛け声と共にタンスの上へよじ登るそえーん。タンタン、と軽く足場を確かめると、おもむろに天井へ手を伸ばし、


「そいや」



 ベキャリ、と。

 躊躇なく天井板を引き剥がす。



「アイーーーーーーーーンッッッ!?!?!?!?」

「んだようるせえな。いいだろこんなボロ家、どうせもう戻ってくることもないだろうし」

「アイ、アイッ!アイーーーン!!」


 またぞろエアリアルが何か喚いていたがもう気にしないことにした。どうせ借家がどうの敷金礼金がどうのみたいな話だろう。そもそもその元締である大家だって外で喚いている群衆の中にいるに決まっているのだ、命を狙われているというのにそんな小さいことに構っている場合では無いのである。

 そんな訳で半分以上サルと同化したエアリアルは無視。ベキベキメキャメキャと板をひっぺがしていく。

 これで案外天井というものは脆い。詳しいことはそえーんも知らないが、そもそも屋根というのは「外から内を守るもの」である。内側からの破壊など設計段階からして想定されていない。

 木造建築であれば、体重をかけて引っ張ってしまうだけで結構簡単に壊せるものなのだ。


「というか、そえーんさんはどうしてそんなに手馴れてるんです?」

「昔とった杵柄、とだけ」


 流通の発達や家財の省スペース化などの煽りを思いっきり受けているのは実は引越し業界だったりする。今どきのお引越し屋さんはただお引越しだけ出来ればいいというものでは無くなっているのだった。

 キッツイあれやこれやも思わぬ所で役に立つもんだなー、などと昔を思い出してしんみりしてみたり。

 そうこうしているうちに、天井には人一人が余裕で通れるくらいの大穴が空いていた。


「………、」


 ひょこっ、とモグラ叩きのモグラみたいな形で屋根の上へ顔だけ出すそえーん。

 どうやら屋根をぶち抜く音は暴徒達自身の怒声でかき消されて届いていないらしい。思った通り、家のほぼ中心となるこの位置なら全周どの位置からも死角になっている。姿勢を低く保っていれば、脱出する姿も見られる恐れはないだろう。


「……ふん、これが頭脳プレイと言うやつだよ。知能指数の差を思い知れ愚民どもめ」


 ふっはっはー!とそえーんは無駄に勝ち誇ってみる。

 だがその実態は天井ぶち抜いただけの脳筋パワープレイだったりするので、階下から見上げる仲間の目は冷ややかだった。


「……んだよその目は。なんか文句でもあるって言うのか」

「いえ、別に。安全に逃げられるなら別に文句とかないですけどね。ないですけど、素直に褒める気にもなれないって言うか」と、ホルモンを抱き抱えたまま冷たい目を向けてくる辺獄。

「ほざけ性犯罪者。昼間っから女児の臀部をガッツリまさぐりやがって。もう残れ、お前だけ残れ!お前だけ別の罪で異世界人に撲殺されろ!!」

「いちいち反応が過激!そもそも異世界ルールで離れられないんだから私だけ置いていこうなんて許されないが?」

「……ていうか、ホルモンちゃんのお尻まさぐってることは否定しないんですね……」

「これは合意の上での不可抗力なので問題なし」


 ええー……と戸惑いながらも、ラットが屋根の上によじ登ってくる。その後に卿、ズリキチ、エアリアルと続き、最後に(非常に不本意ながら)ホルモンを抱える辺獄を引き上げて全員脱出。


「頭上げるなよ。イメージはほふく前進で」


 そえーんの指示の元、六人と一匹は長屋風の平べったい屋根上を這うようにして進む。

 幸いにしてこの場所は住宅街だ、後は隙を見て屋根伝いに飛び移って行けば見つかることなく逃げ切れるだろう。

 これぞ完璧な脱出劇。スパイ映画とか出れるんじゃねえの僕、とそえーんはにんまり笑う。

 と、そんな彼の耳に卿のこんな声が聞こえた。


「なあなあ、そえーんくん」

「んだよ、見つかったらヤバいんだから静かに動けよ」

「うん、いやまあ、それはええんやけどね?」

「?」

「これさ、死角になってるのは家の真ん中だからやんな?自分達から端に寄ってったら見つかっちゃうと思うんやけど。なんか考えあんの?」

「——、あ゛」

「……、え?」


 そえーんが潰れたカエルみたいな呻きを漏らす。

 同時、思いっきり開けた視界で、眼下から見上げる異世界人のおっさんと目が合った。


「…………、」

「…………、」

「……………………、えへ」

「……………………ッッッ!!」


 可愛らしく小首を傾げてみたけど全然ダメだった。

 おっさんが何かを叫ぶ。異世界人の目がグリンッ!と一斉にそえーん達を向いた。


「うぉぉぉぉぉおおお逃げろ逃げろ逃げろぉぉぉぉぉおおおオオオオオッッッ!?!?!?!?!?!?」

「ああうん、結局こういう形になるんですね?いえもうなんとなく分かってましたけど!」


 ホルモンを背負った辺獄の悲鳴を背に、隣の屋根へと飛び移る。着地の勢いを殺さずそのまま前へ。

 地面から飛んでくる叫び声に追い立てられるような形で屋根上をダッシュダッシュ。

 猛然と駆けるそえーんの視界、次に飛び移ろうとしていた屋根の端を掴む無数の手が見えた。


「ヒィ!?なんかめちゃくちゃ登ってこようとしてませんかあれ!?」

「構うな!こっちにはえあくんの魔法がある。僕らに近づけないように設定されてるなら勝手に落ちてく!」


 叫びつつ助走をつけて跳躍。石張りの硬い感触を踏むと同時、よじ登ってきていた異世界人が暴風に煽られたように転落する。

 その安否を気にしている余裕もなければ、気にする義理もない。落ちていった異世界人などには目もくれず、空いたスペースを一直線にひた走る。

 そのまま数軒、立ち並ぶ民家の上を駆け抜けつつ、そえーんはチラリと視線を下に投げる。

 追い立ててくる怒号は、最初の約半数と言ったところか。

 所詮民間人、訓練を受けた追跡のプロフェッショナルでもなければ統率の取れた軍隊でもない彼らに集団的な動きなど土台不可能。まして、エアリアルの借家の中へ全意識を集中させていたところに突発的な脱出劇である。ひしめく群衆が出足を鈍らせるのは当然の成り行きだった。

 だが、その混乱を抜け出した数だけでも三桁は下らない。まともに相手取るには数の差がありすぎる。


「ち、くしょ……っ!どんだけいやがるんだアイツら!!」

「めんどくせえ、もう全員まとめてヤっちまおうぜ」

「やめてね?お願いだからやめてね!お前の『魔法』なんか使ったら死屍累々!冤罪が冤罪じゃなくなる!!」


 再び跳躍。錐の形に切り立った側面に足をつける。

 止めたものの、ズリキチの『無限乳挟射艶世』でまとめて行動不能にしてしまうのも手としてあるにはあった。

 だがそれでは意味が無い。

 冤罪がどうのこうのという問題以前の話だ。

 異世界人をまるごと快楽堕ちさせる程の世界を展開するとなれば、そえーん達自身も身動きが取れなくなる。『無限乳挟射艶世ズリ・サプリマ・オービス』をいつまで持続出来るかは定かでないが、無制限ということは無いだろう。結界が解けた時に取り囲まれていればそれで終わりだし、考え難くはあるものの、ズリキチの想像力を超えてくる異世界人がいるとも限らない。不確定要素の多い博打に頼りすぎるのは、かえって自滅をもたらすだけだ。

 残る手札は辺獄の『過法迭追・選妹治世』くらいのものだが————、


「……ッ!……………ッッッ!!」

「ッだぁもうクソうるせえ!意味わかんねえよ日本語喋れ!!」

「今のは『死ね』とか『降りてこい』とかいう感じです!」

「頼んでない翻訳をありがとう!そういうのいいからとっとと走れサメ頭!!」

「これで全速力!!我の体見て!ほぼ三頭身ですけど!?」

「そりゃご愁傷さま!いざとなったらテメェ見捨てていくからよろしくな!!」

「いくらなんでも無慈悲すぎる!」


 見捨てずに看病してた我への感謝とかはー!?などという叫び声は意図的に無視して、次の屋根へと飛び移る。

 オーソドックスな三角屋根の天辺部分、人ひとりがどうにか通れる程度の平坦を前だけ見て疾走。

 ————切れる手札は辺獄の『過法迭追・選妹治世』のみ。だがそれを切ってしまえば最後、今でさえ極小の和解という可能性は完全に潰えるだろう。

 そもそもあれは攻撃的すぎるのだ。排除する、弾き飛ばすというだけの斥力場に恐らく威力の調節といった概念はない。それで万が一にでも死人が出たらいよいよそえーん達は言い訳のしようも無い殺人者だ。今でさえ頭に血が上りきった異世界人達へ火に油を注ぐ結果になってしまう。


「辺獄くん!お前の『引力』で高速移動とかできねえの!?」

「無茶言わないでください!周りは人工物ばっかりですよ!?引き寄せられる前にあっちが崩れます!」

「とことん使えねえなお前!ロリのケツばっか触ってねえで多少は使える能力とかに目覚めやがれ!オラ目覚めろ、今目覚めろ!」

「理不尽!!ていうかさっきからお尻のことばっか!さてはアンタお尻大好きだな!?」


 どうやらここはどこぞの蜘蛛男が飛び回る世界ほど甘くはないらしい。これでは本格的に手詰まりだ。


(……クソ、どうする。こっちから手出しはできない。かと言ってこのまま逃げるだけじゃジリ貧だ。そもそもどこまで逃げ続ければいい、この街に出口はあるのか?それ以前に、この街を出たところでそれ以上追ってこないって保証はあるのか?)


 この状況での打開策は。生き延びるための一手は。正解は。不正解は。そう思考を加速させて加速させて加速させて、



 ガクンッ、と。

 なんの前触れもなく、膝から力が抜けた。



「————え、」


 疑問が、

 墜落する。


「そえーんさん!?」


 頭上、踏み切ろうとしていた屋根の端から覗く辺獄の顔が、やけにゆっくりと流れる視界の中で映った。なにをそんな焦ったバカ面をしているのだろう、と思ってようやく状況に理解が追いつく。

 ズリキチとの殴り合い。

 アールマティとの殺し合い。

 度重なるダメージは確実に蓄積され、水面下からそえーんを蝕んでいた。まるで、寄生虫が宿主を内部から食い潰していくように。

 その身体は、もう限界なんてとっくに超えていた。

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 今の今まで走り続けていられたことの方が、異常。

 そんな状態の身体を無理矢理酷使し続ければ、待っている結末など誰が考えたってすぐに分かる。

 すなわち転落。

 限界を無視して与えられ続けた負荷が許容量を超えた。

 動かない。屋根上へ伸ばそうとした腕も、姿勢を制御しようとした足も、不自然に痙攣するだけでなんの役目も果たさない。


(……————あ、死んだな。これ)


 場違いなほど他人事じみた感想が脳裏を通過して、


「……ガ、ッ!?」


 ドゴッ、という鈍い音が背中から衝撃となって伝う。

 一体なにが、と疑問を巡らせるより先に、皮膚を削り取られるような痛み。石に粗いヤスリをかけるような音が、耳ではなく骨を伝って脳へ届く。

 だがそのおかげで落下は減速を果たしたらしい。

 硬い砂地に尾てい骨を叩かれて、自分が生きていることを知った。


「ってぇなクソ……」


 呻きながらぎこちなく首を回す。

 そえーんの命を繋いだのは、古ぼけた石壁だった。民家どうしが大した距離もなくひしめいていたのが結果として幸いした形か、落下途中に隣の壁へ激突したのだろうと当たりをつける。

 何はともあれ、逃走中に転落死なんていう間抜けな死に方は回避できた訳だ。命があっただけありがたいと思うべきか。


「……とか、言ってる場合でもねえんだよなこれ」


 ふらつく脚で立ち上がる。

 背後から迫る群衆はもう足音が聞こえるくらいにまで近づいていた。

 恐らくエアリアルの魔法が持続するリミットはあと数分もない。このまま追いつかれれば出口を固められて終わりだ。

 そえーんは踏み外した屋根上を見上げ、


「へるぷみー」


 覗き込む五つのアホ面目がけてここ一番のキュートな顔でお願いしてみる。

 優しいフォロワーはきっと仲間を見捨てたりしない。しかもこんないたいけな雰囲気とか醸し出しちゃっているのだ、それはもう一目散に引き上げてくれるはずである。

 目とかちょっとうるうるさせて両手を広げるそえーん。その姿を見た五人は静かに立ち上がった。


「そえーんくんの尊い犠牲を忘れてはいけない!」

「私忘れませんから!そえーんさんの口悪いところとか!いい所あんまりなかったけど!!」

「なんでもいいけどその顔キモいぞ」

「アイーン!!」

「我ってば三頭身なんで届きませんごめんなさい!」

「せめて少しは迷えよ畜生ガイジ共め!!」


 やっぱりこうなるのだった。フォロワーなんて所詮ろくでなしの人でなしのクソ野郎だ。

 そえーんは手近な位置にあった窓に体当たり。ガラスの破片と共に室内へと転げ入って周囲を見回す。

 至近距離で騒ぎまくっていたのに誰も顔を覗かせなかった時点である程度確信はしていたが、中はもぬけの殻だった。どうせここの家主も血眼になって殺せだのなんだの叫んでいる内の一人なのだろう。

 そうとなれば遠慮も要らない。ドタドタうるさい天井の足音を追いかける形で室内を駆け抜け、通り過ぎざまに小ぶりの椅子を拝借。不気味な音をたてて軋む腕の筋肉に構わず、


「ふんっっっ!!」


 勢いのままぶん投げられた椅子は見事天井の一角にクリーンヒット。『ひぁ!?』とかいう間抜けな声と共に足音が止まる。

 その隙に玄関脇でポツンと立っていたコート掛けと思しき銛のような形の棒を掴み取って、


「どっせいっっっ!!!!」


 天井というものは、内からの衝撃に対して非常に弱い。

 突き上げられたコート掛けの先端が呆気なく板を通過した。

 だがそれでは足りない。そえーんは素早くコート掛けを引き抜いて、所構わずぶち破っていく。


「せいっ!せいっっ!!せいっっっ!!!!」


 普段ならばいざ知らず、今は天井の上に合計約三〇〇キロ以上の重量が乗っている状態。そんなところにあちこち穴をあけていけばどうなるか。

 結果は火を見るより明らかだった。

 メキッ、という嫌な音が走る————直後、轟音を立てて天井が崩落。ついでに落ちてきたバカ五人の捕獲に成功。


「獲ったどー!!」

「何訳のわかんないことして訳のわかんないこと叫んでるんですか!?私達まで道連れにしようとするな!生贄は生贄らしく墓場に帰れ!!」

「誰が生贄だファッションシスコン!!僕らは皆一蓮托生!生きるも死ぬも一緒なんだぜ!!」

「誰のシスコンがファッションですって!?」


 憤慨したように喚く辺獄。その背中では、落下の瞬間に慌てふためいた彼によって放り出され、危うく頭から墜落しそうになったホルモンが目をぱちくりさせていた。


「そえーんくんが人でなしのクズ野郎やってことは分かってたけどここまでなんて……くわばらくわばら、ガイジ怖い」

「……あの、卿さんいい加減我の背中から降りてくれませんか。ていうか落ちる時迷いなく我を下敷きにしましたよね?」

「そんな……ラットくんまで猥を悪者扱いするの……?猥がそんな酷いことできるわけないやん」

「嘘だ!その顔は嘘をついてる顔ですよ!!」

「アイーン!」

「ほらエアリアルさんもこう言ってる!!」

「何言うてん。エアさんは可哀想な猥を慰めてくれてるんやで、曲解はいけません」

「アイーン!?」


 ついでに辺獄の隣は隣で大変そうだった。卿相手にはラットとエアリアルの二人がかりでも旗色が悪そうだ。敗因はエアリアルの語彙力不足だろうか?などと、コントじみたやり取りを眺めながら考えるそえーん。

 と、そこで我関せずといった様子でのっそり立ち上がっていたズリキチが口を開く。


「お前ら喚くのは勝手だけどさ、いいのか?」

「なんが?」


 何故かホルモンを視界に入れたがらない辺獄にグイグイ少女を押し付けつつ、そえーんが首を傾げる。

 ズリキチは窓の外を指して、


「もうすぐそこまで来てるけど、異世界人(アイツら)

「そういうことはもっと早く言いなさいよ!!」


 そうだった。今追われてる真っ最中だった。

 無意味な遊びで時間を浪費している場合ではない。号令も何も無く、全員競い合うように玄関扉を目指す。

 派手な音と共に通りへと飛び出して、

 そえーんは、見た。


「……、」


 前方、通りを埋め尽くす人の波。


「…………、」


 後方、路地に溢れかえる人の壁。


「……………………、」


 上方、屋根上から見下ろす人の山。


「………………………………………………………、」


 それらを順繰りに一通り見回して、ゆっくり視線を前に戻す。

 なんだかそこはかとなく遠い目をした彼は、どんよりとした雰囲気を滲ませたまま問いかけた。


「…………解説席のラットさん。これ、どう見ます?」

「四方八方から殺すの大合唱。絶体絶命って感じですかね」


 ですよね。

 実に簡潔で分かりやすい解説通り、どこもかしこも濃縮還元今からお前らぶっ殺します一〇〇%って感じなのだった。

 しかも皆さん斧やら剣やら槍やらで完全武装済み。中には棘がビッシリ生えた鎖付きの鉄球まで構えている奴もいる。こちらは全員ステゴロ一本勝負なのだが、どうやら異世界人にフェアとかいう概念は無いらしい。

 もう心底げんなりしながら群衆を眺めるそえーん。

 と、偶然。包丁のバケモノみたいなものを握った髭面と目が合った。


「————ッッッ!!」

「えっなに怖!!」


 それがきっかけとなったのか、髭面がさらにヒートアップ。昂る感情のまま、猛然と踏み込んでくる。

 目が合っただけでキレ方が凄い。昭和のヤンキーとかでももうちょっと段階踏むもんじゃ無いのか!?などとビビるそえーんだったが、その実あんまり焦ってはいなかった。

 なにせこちらには『其は悪行にて(フィリップ・)焦身へと至る(サンクチュアリ)』とかいう不思議パワーがついているのだ。いくら怒り狂って向かってきたところで、所詮弾き飛ばされて終わ


「……、あれ?」


 弾かれない。

 飛んでいかない。


「……?」


 どうやら髭面もその矛盾に思い至ったらしい。

 立ち止まり、眉を顰める。そのまま数秒。

 先程とは打って変わって慎重に、おずおずともう一歩。立ちすくむそえーん達に向かって歩を進める。

 起きない。

 何も起きない。

 最後の盾となっていたエアリアルの『魔法』は、もうその効果を終えていた。


「………、」

「………、」


 一瞬の静寂。

 示し合わせたかのように叫び声が止む。

 耳が痛くなるような静けさの中、そえーんの背後から「アイーン……」と間抜けな声が響いて、


「「「————————————ッッッッ!!」」」

「ほぎゃぁぁぁああああアアアアアア!?!?!?」


 いちいち追い詰めてくるとか、殴り込んでくるとか、もうそんな生易しい物じゃなかった。

 投擲。

 一本でもそえーん達を殺してお釣りが来るような武器の数々が剛速で宙を舞う。

 逃げようにもそんな時間はない。それ以前に逃げられる隙間もない。

 辞世の句がドリフ崩れのしゃっくりとかマジかーッ!?と最後まで無慈悲な世界に心で叫んで、


「————『過法迭追・選妹治世』!!」


 瞬間。

 逆再生でもしたかのように、武器の数々が弾き返される。


「……、ぇ」


 ひゅんひゅん、と。

 風を切って回転する切っ先がやたらゆっくりと動いて見えた。

 切っ先はそのまま吸い込まれるように群衆の中へ。

 ドゴォッッッ!!とかいうド派手な音と共に異世界人達が吹っ飛ぶ。

 どう考えても死人が出る勢いだった。


「何してんだ辺獄テメェーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!」

「だってこうでもしなきゃ死んじゃうじゃないですかーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!」


 叫びながら一八〇度方向転換。脱兎のごとく地面を蹴る。

 倒れ伏す屍の山と呆然とする生き残りを掻き分けて全力逃亡。


「どうするのこれ!ねえどうするのこれ!!冤罪だったはずのものが思いっきり有罪!もう完全に殺っちゃったよ!!言い逃れできないよあれ!!!!」

「だったらどうしたら良かったんですか!?あのまま大人しく殺されろとでも!?」

「やーい辺獄くんの人殺しー!」

「こんな時まで煽ってくる神経どうなってんですかニコニコ笑顔のサイコパスめ!!」


 半狂乱で喚き合いながら入り組んだ裏道を猛ダッシュ。

 体はボロボロ。積もり積もったダメージと疲労で手足は不自然な痙攣を繰り返している。その上、ありもしなかった罪にこれでもかと余罪を重ねるだけ重ねて結局逃げるだけの展開に逆戻り。好転するどころか悪化しかしていない。

 本格的に取り返しがつかなくなってきた現状にそえーんはもう半分涙目だった。


「……なあ、そえーんくん。なあなあ」

「なんだよこっちは世界の悪意とか感じるのに忙しいんですけど!」

「憎しみ満点で追いかけ回されるのゾクゾクしない?猥ちょっと興奮してきちゃった」

「黙れ!お前もう黙れ!ていうか死ね!!」


 全力疾走とは別のところでハァハァ言ってる卿へ本気のビンタ。痙攣するほどボロボロな割にはめちゃくちゃいい音が鳴った。怒りってすごい。そえーんは自分の右手を見ながらちょっと感心。

 同時、空気を震わせる咆哮が背後から響く。

 見なくたって分かる。群衆の生き残りが怒り狂っているに決まっていた。


「なにあの獣みたいな叫び声!?なんかさっきより怖くなってる気がするんですけど!!」思わず振り返った辺獄が顔を引き攣らせる。「うぎゃあ!?めちゃくちゃ追いかけてくる!!」

「全部テメェのせい!!こういうことになるから手は出すなって言ったじゃん!!」

「そんなこと一言も聞いてませんけど!?」

「言われなくても考えりゃ分かるだろ!頭使えよマニュアル人間かテメェは!この脳無し木偶の坊の無駄飯食らいが!!」

「なんで私に対してだけ悪口のボキャブラリーが豊富!?」


 相変わらずどうでもいい所ばかり食いつく奴である。いちいち取り合っていたらただでさえ残り少ないスタミナがすぐ尽きるので、そえーんは無視して速度を上げる。

 乱れる息で視線だけを後方へ。

 群衆との距離はおおよそ五〇メートル弱。手にはやはり仰々しい武器を構えているものの、投げつけてくる様子はない。さっきの今だ、怒りで理性を見失っているとは言え警戒は当然。であれば、そう簡単に距離を詰められる恐れもない。————こちらの体が万全の状態ならば、だが。


「くそったれ……」


 酸欠で明滅しだした目を細める。

 どれだけ距離があろうと、傷だらけのそえーん達と異世界人では速度差が歴然。

 脚の感覚は既に無い。一歩前進した慣性をどうにか次の一歩に繋げて走り続けているようなものだ、次止まったらもう確実に走れなくなるだろう。

 ただ逃げ続けるだけではジリ貧。それは分かっていたことだが、いよいよ限界が見えてきた。

 そえーんは小さく舌打ちを零して、


「……しょうがねえ。辺獄くん、『魔法』でアイツら吹っ飛ばせ」

「さっき手は出すなって言ったばっかりでは!?」

「もう出しちゃったんだから手遅れなんだよ!ただし殺すな。斥力だけでよろしく」

「あの距離までは届きませんよ!結構範囲狭いんですからねあれ!」

「だったら届く所まで下がればいいだろが!」

「無茶言うな!私にあの猛獣の群れへ近づけと!?」

「……まあ落ち着けよ辺獄くん」おもむろに声のトーンを落とし、そえーんは背後を指さす。「よく見てみ?二本の腕に二本の脚、頭は一つ。ほら、お前のことが大好きな妹の集団に見えてきただろ?」

「ええー……」


 振り返りながら困惑の声を漏らす辺獄。

 そこへ、


「ほいっ」

「ひぎゃぶっっっ!?!?!?」


 並走していたズリキチがおもむろに足を突き出す。

 見事に躓き顔から転倒した辺獄を尻目に、そえーんとズリキチはハイタッチ。


「いえーい」

「なん……、っ!?酷過ぎるでしょアンタら人の心がないんですか!?」

「うるせえ!さっきはよくも人のことを生贄扱いしやがって!今度はテメェの番だざまあみろ!!」

「ただの私怨じゃんチクショウ!————ヒィ!?めっちゃ来た!!ちょっ、やめて!来ないで!!……うおぉぉお!?!?!?おまんも妹!!!!」


 珍妙な叫び声と共に後方の集団が吹っ飛ぶ。

 あの様子なら心配は要らないだろう。辺獄が間に立っている限りこのままつかず離れずの距離を維持できる。

 いっそこのまま一気に異世界人を引きはがしてどこかに隠れられれば楽なのだが、それには辺獄を完全に足止めとして切り捨てる必要がある。発動条件の不明瞭な異世界ルールがある限り実質不可能に近い。

 追走してくる姿を何度か振り返ることで距離を測りつつ、入り組んだ裏道を駆ける。


「辺獄さん大丈夫なんですか、あれ?」


 そえーんの前を走っていたラットが速度を緩めて並んだ。


「あいつがそうそう簡単に折れるタマかよ。自分の命がかかってるとなれば死ぬ気で踏ん張ってくれるさ、辺獄くんの『魔法』は使い勝手いいしな」

「……、最初からそう言ってあげればいいのに」

「何言うてんのラットくん。性格捻くれたそえーんくんがそんなこと言えるわけないない」

「横から嬉々として悪口挟むな」


 言うだけ言って素知らぬ顔の卿を睨みつける。

 だが実際そえーん自身にも自覚はあるのだろう。それ以上は何も言わず、不満気な鼻息一つで話を変える。


「つっても、しょせんあんなの時間稼ぎにしかならない。いい加減本気で打開策の一つでも見つけないとやばいぞ」

「なんだお前、もうバテてんのか?粗ちーんにでも改名したらどうだ」人の悪い笑みを向けてくるズリキチ。

「……言ったろ、ふざけてられる状況じゃねえんだよ」珍しく、そえーんは激昂することもなく静かに応えて、「この中で一番やばいのは僕とお前だろうが。……重心傾いでんぞ、やったのは足首か?」

「…………、」


 顔をしかめて口を噤むズリキチ。そえーんは呆れたように溜息を吐く。

 ラットとエアリアルは別にしても、アールマティ戦を経た四人の体に蓄積されたダメージはほぼ同じ。

 だが、それは完全に同値という意味ではない。

 体格差、生命力、治癒速度————そうした個人差以前の話として、単純に数が違う。

 ギルドでの殴り合い。唯一その過程を当事者として共有するそえーんとズリキチは、他の二人より確実に蓄積されているものが多い。

 些細な差だ。『神』などというもの相手に死にかけたことも加味するならば、本当に取るに足らない程度の差。

 それでも、

 極限状態において、その差は天地を分ける歪みになる。


「……最初に落ちるのは、やっぱ……僕かお前か」

「笑わせんな。俺をテメェみたいな……早漏と、一緒にするんじゃ、ねえよ」

「息切れせずにそれが言えたら認めてやってもよかったけど、な!」


 努めて普段通りのやり取りを交わしながら裏道から更に細い路地へ。

 もはやどこを走っているのかも分からない。曲がりくねった裏路地では方向感覚さえ失った。

 背後から追いすがる群衆の数は減っている。辺獄の活躍によって行動不能になったのであれば喜ばしい限りではあるが……、


「————ッ!!」

「そうなるよなくそったれ!!」


 前方。そえーん達の進路を塞ぐように、建物の陰から異世界人が溢れ出してくる。

 彼らからしてみればこの街は文字通りのホームグラウンド。網目状に広がり交差する道がどこと繋がりどこに続くかなど、知り尽くしていて当たり前だった。

 完全にアウェイのそえーん達はどうしても後手に回らざるを得ない。

 咄嗟に手近な角を曲がり、


「ちくしょうこっちもかよ!!」


 奥からなだれ込んでくる人波を見て即座に転回。

 元きた道を駆け戻る。路地の交差地点まで躍り出て、


「————、」


 全方位から向けられる切っ先に、足が止まった。

 思わず一歩、後退る。

 何かが肩に軽くぶつかる感触。視線だけで振り向くと、ホルモンを背負った辺獄と目が合った。


「……、辺獄くーん?」

「しょうがないでしょ……私の『魔法』は、エアさんみたいに長続きするものじゃないんですよ」


 どうも発動し直す隙を狙われたらしい。別に首が飛んだわけでもあるまいし、さっさと発動し直しちまえよと普段のそえーんなら言うところだが、同じく至近から剣先を向けられているこの状況ではそんな気にはなれなかった。

 具体的に言うとめちゃくちゃ怖い。ちょっとでも変なことをしたら速攻殺されそうな雰囲気がビンビン伝わってくる。


「…………、」


 そえーんは縋り付くように視線を彷徨わせた。

 ズリキチ。無理だ、今更『魔法』を使わせてくれるほど異世界人達が甘いわけが無い。殺される。

 卿。無理だ、無茶に動き回ったせいで傷口が開きかけている彼はきっと立っているだけでやっとだ。殺される。

 ラット。無理だ、ろくに喧嘩もしたことが無い者に何を期待できる。殺される。

 エアリアル。無理だ、不眠不休で『魔法』を使い続け憔悴しきった状態で動いたところで意味が無い。殺される。

 ……無い。状況を覆せる手段が、どこにも無い。

 詰んでいた。予見していた終わりがここにあった。

 それを、自覚する。


「…………、」


 鈍く光る鉄色に、視界が眩んだ。

 頬を伝う泥のような冷や汗に、臓腑が軋んだ。

 分かっていた。最初からこうなることなど分かっていた。

 だけど、それがこれ程怖いものだなんて分かっていなかった。分かるはずなんてなかった。

 何か。なんでもいい。生き延びるための何かを。そう本能が絶叫する。

 動かない。冷えきった手足は、何も応えない。

 いい、しかたがない。手足は元より限界を超えていた。動かないものに拘泥している場合ではない。

 四肢が潰れようと、口は動く。言葉は紡げる。何か、空転する脳が打開策を弾き出すまでの時間稼ぎで構わない。だから何かを言おうと、


「…………、」


 言おうとして、気づく。

 震えていた。

 隠しようもなく、誤魔化しようもなく、どうしようもなく……震えていた。

 歯の根が合っていない。口内はヒリつくほどに乾ききっているのに、唇は凍りついたように冷たい。

 その感触で、ようやく理解した。

 今の今まで平然と振る舞っていた理由。あたかも普段通りのような軽口まで叩き合っていた理由。

 全部、現実逃避だ。

 数百、数千の人間が明確な殺意を持って追ってくる。そのような現実、認識してしまっては心が折れる。目を背けなければ自分を保てなくなる。

 だから逃げて、逃げて逃げて逃げて————もう、逃げ場はどこにも無くなった。

 これ以上目を背けることはできない。

 これ以上逃げ続けることはできない。

 それを理解させられて、


(……ああ、もう)


 本当に。完膚無きまでに。呆気ないほどに。

 心が、折れた。

 強ばっていた体から力が抜ける。

 噛み合わない歯が立てる音が止む。

 ぼんやりと。焦点の合っていない、いっそ穏やかにも見える表情で、そえーんは突きつけられる切っ先を見つめる。

 永遠だったか、数秒だったか。壊れた心は時間の流れさえ感知できない。

 ただ、虚ろな空白だけがあって。

 鋭く研ぎ澄まされた刀身が、ゆっくりと上がる。


「………。」


 誰かが、意味のわからない何かを呟く。

 それが最後だった。


 直後。

 薄暗い路地裏に、鮮血が噴いた。

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