paradigm-Ⅲ
違和感なら、最初からあった。
その正体が単純に掴めなかっただけ。
いいや、湧き上がる殺意によってそえーん自ら排していただけ、と言った方がより正確か。
「……お前は、最初から気づいていたんだ」
感情を殺し、起きた現象を純粋な理性によってのみ精査した時、違和感の外殻は呆気ないほど簡単に見えてくる。
例えば、ズリキチが無限の乳房で世界を埋めたその時。
「お前は、快楽堕ちの効果を理解していた————『神隔』を纏うお前の体に、乳の群れが届くはずなんかないのに」
例えば、辺獄が無数の石塊を射撃したその時。
「お前は、最初の衝突でだけ吹き飛んだ————その後の、数百の瓦礫は完全に無効化していたのに」
たった、二つの矛盾。
極限の殺し合いの中で、絶対として君臨するアールマティが見せた、小さな綻び。
ただし、推論を立てるには十分。
矛盾を偶然として切り捨てず、あくまで一筋のルールに則った必然だとして突き詰める。
共通項を並べ、不必要な情報を削ぎ落としていく。
アールマティが快楽堕ちの効果を知っていたのは何故か。
……微かでも、乳房が齎す快楽を感じていたから。
アールマティが吹き飛んだのは何故か。
……瓦礫を撃ち出す、不可視の斥力が届いていたから。
アールマティが数百にも及ぶ瓦礫の砲弾を無効化できたのは何故か。
……それが斥力によって放たれた後の、単なる石塊だったから。
つまり。
アールマティの纏う『神隔』は、
魔法そのものに対して、その絶対性を発揮しない。
だからこそ、届いたからこそ。
アールマティは殊更に不可侵を強調し、機械的な口調を乱すまでの激高を見せた。
『神』に人間が届くなど、許せなかったから。
「考えてみれば当然の話だったんだ。魔法は『神』によって与えられる————それが本当なら、カミサマの力が同じカミサマに通用しないはずがない」
そして、それが真実であることは、
『————我らの力の一端を得たからと言って、見苦しくも増長するその浅薄————』
アールマティ自身の言葉が、証明している。
「…………滑稽、ですね」
ず……、と。視界の端で起き上がる影があった。
「獣が有頂天に何を騒ぐかと思えば、下らない」
土埃一つの汚点すらない純白の衣。
大地を這ってなお傷つかない艶麗の肢体。
「その程度で『神』の底を語るか。片腹痛いぞ————人間」
未だ揺るぎのない存在感をもって、アールマティが立ち上がる。
だが、
「だろうな。だからこれは、半分だ」
「……なに?」
「顔。気づいてねえのか?」
アールマティの頬を伝う、生温かい感触。
輝かしい容貌、その額から、
一筋、紅い血が流れていた。
「 。——ッッッ!!」
ゴッッッ!!!!!!と、音を引き裂いて岩塊が飛ぶ。
当たらない。感情に任せた単調な攻撃が脅威にならないことなど、もう既に証明されている。
想定していた通りの軌道から軽く体をずらしたそえーんの横を砲弾が通過した。
そえーんはそれを振り返ることもせず、
「だからさ、言っただろう。これはまだ半分なんだよ————たまには『人間』の言葉も聞いたらどうだ、カミサマ?」
「……貴様、」
「正直言って、今までの推測が正解だろうと不正解だろうと、どっちだっていいのさ。全部正しかったとして、どうしてお前が廃人になっていないのかって説明もつかないしな。……まあ、なんせカミサマだ。お前が想像を超える快楽を知っていた、なんてズリキチの喜びそうな可能性は考えられるけど、それにしたって根拠はない」
語る。
言葉を紡ぐ。
「だから、大事なのはたった一つ」
謳うように。
なぞるように。
「お前の『神隔』は、絶対の防御なんかじゃない。そこには明確なルールがあって、同時に例外も存在する」
傲慢にも、『神』に教えを説くように。
「それが分かれば、あとは連鎖だ」
ザリ、と。
一歩、アールマティへ踏み込む。
「お前はどうして、遠距離からの攻撃に拘った?」
無限の乳海を駆けた、あの時。
四の裂帛で大地を蹴った、あの時。
思考を塗り潰す殺意のままに疾走した、あの時。
常に迎撃の第一射は、詰められた距離を無に帰し彼方へ放逐するような物ばかりだった。
まるで、そえーん達に近付かれることを嫌ったかのように。
「『神隔』の防御があるのなら、わざわざ距離を離して攻撃する必要なんかない。十分に引き付けた上で、丸ごと押し潰す方が遥かに確実だ。なのにお前はあくまでも距離を取り続けた」
だったら、そこにはそうせざるを得なかっただけの理由がある。
大地全てを手中に収める規格外の存在が、それでも距離を取り続けなければならなかった理由。
そんなもの、あげられる可能性は数える程にもない。
そして、なにより。
「『神圧』は意味を為さない————お前が言ったんだ。他の誰でもない、お前が言ったんだぜ」
その言葉は決定的だ。
大地を操る力以外で、唯一見せた攻撃的な能力。人も物も区別なく街全てを押し潰した暴威は、何故かそえーん達だけをその影響範囲から除外した。
『神圧』と『神隔』。同じく『神』を冠する、たった二つの名がついた能力。その類似から、根源を同じくするものだと推測するのは難しいことでは無い。
であれば、
「————お前の『神隔』も、僕等に対しては意味を為さない」
単純だった。単純すぎる理屈だった。
あまりにも単純すぎて、見過ごしてしまうほどに。
音速を超える数百の瓦礫すらも無意味へ返す対物防御。
しかし、頑強無比のその盾は、
矮小な人間の爪先からも、その身を護れない。
「…………、なるほど」
アールマティは長い沈黙の果てに、そう呟いた。
温度の欠片もない、声だった。
「これが『彼等』の招いた兵器ですか……まったく、敗残の身で厄介な置き土産を残してくれたものです」
先程までの、恣意的に作られた機械的な口調とは違う。
感情を秘めるのではなく、捨てたかのような。真性、何一つ含むところの無い、完全な無感情。
それは、嵐の前の凪に似ていた。
「……いいでしょう。もはや救済は投棄しましょう。教戒も折檻も捨て去りましょう。ただ一柱の『神』として————貴方がたを脅威と認めます」
アールマティが顔を上げる。
正面から、視線を切り結ぶ。
「『地母神』アールマティ」
「『人間』そえーん」
宣言——交錯。
そして、
嵐が、吹く。
「————、」
右から左へ、境界線を引くように。
艶めいた左腕が一閃。土壌の組成をどう操ったのか、腕の後を追うようにそえーんの足元が爆発する。
「……ッ!」
臆さない。怯まない。
ここで後退すればアールマティの思惑通り。『神隔』の壁を貫くのがそえーん自身でしか有り得ない以上、距離を離せば離しただけ勝機は遠のく。
だから、大きく一歩。全身のバネを沈ませ、強く前へと踏み込む。
アールマティとの距離は凡そ十メートル。背中を叩く爆発の衝撃を推進力へ変えて、さらに一歩。
残り、三歩。
「七天より抄出————地よ、原初を顕せ」
ビシリ、と大地が悲鳴をあげた。
無数の亀裂が地表を走り、
噴出。
天を突くか如く噴き上がる煌炎の正体は、溶岩。地殻を割り、幾多もの炎柱が立ち上る。
空気が、灼けた。
赤熱する岩漿は、振り撒く残滓だけで数百度。その本体に至っては摂氏数千度にも及ぶ。
原初の焦熱。踏み込めば燃焼、直に触れれば燃えることすら許されず溶解する。人の身など、数秒と形を保てない。
ただし、
「な——?」
数秒あれば、充分。
驚愕に目を開くアールマティの眼前、溶岩の柱が乳房によって侵食される。
『無限乳挟射艶世』によって展開される夥多の乳群は、その対象を選別しない。その形ある限り増殖し続け、触れる全てを侵し尽くす。
燃え尽きるより早く、溶け落ちるより前に。溶岩の表層を包み食らう人肌が、力技でその豪熱を抑え込む。
残り、二歩。
踏みしめると同時、アールマティが口を開く。
「祖より下命。開闢を刷新せよ、生命」
そえーんの知り得ぬ話ではあるが。
最古の一神教であるゾロアスター教神話において、アールマティは大地を司る神である他にもう一つの側面を持つ。
人類の母。原点たるマシュヤグとマシュヤーナグを生み出した最初期の祖。
では、その意味をもう少し穿った目で見てみよう。
人類とは何か。概念的、観念的な抽象性を除外して大きな括りで分けた時、その存在は『生命』として再定義できる。
そして、同時に。
ゾロアスター教神話は、他の神話体系と比べて『生命』の誕生に関する記述が異様な程に少ない。
その中にあってほぼ唯一、アールマティは人類という明確な『生命』を生み出した。
つまり。
だから。
大地と共に『生命』を司るアールマティが言葉を紡いだ時。
無名の土塊は、命を持った。
せり上がる巨影。ゆうに五〇メートルを超える全長が四肢を描く。
巨神兵。灰色の岩石によって築かれた巨躯が、アールマティとそえーんの間を阻むように生み出される。
「————ッッッ!!!!」
空気を震わせる咆哮。
神の被造物として生み出された『生命』は物理限界の壁を容易に壊し、音速を超える挙動で拳を振るう。
全ては親たるアールマティを守護するため。
自律する岩塊は歪曲する軌道を描き、敵対者を排除する。
そえーんは回避を視野に入れなかった。
ただ前へ。
巨大すぎる故に大きく隙間を開けた股下。潜るようにして一歩を詰める。
意味の無い一歩。音速で動く巨人がその脚を上げて落とすだけで、絶命は必至。
だが、
「————!?」
音速の挙動は、同じく音速で制止する。
バオッッッ!!という、圧縮された空気が暴風となってそえーんとアールマティを打った。
二人の間には、もはや幾許の距離もない。巨足を踏み下ろせば、そえーんのみならずアールマティさえも巻き込む。
例え、纏う『神隔』によってアールマティにはなんの痛苦も与えなかったとしても、
意思持つ巨像は、その意思故に、
護る者に対して破滅を向けられない。
残り、一歩。
「権能より裁定。愚劣を贖い、塵へと還れ」
岩塊が舞う。
そえーんを取り囲む数十の岩石。錐状に造成されたその矛先が、たった一人の青年に狙いを定める。
地上に咲く乳房は不可視の力によって空間に固定される石錐を喰らうことは出来ない。無為の岩石は無為であればこそ、意思を逆取った制止の余地などない。
それは、
戦端を切り落とした時から、アールマティが最も多用した手法。
一度も対処ができず、それ故に青年が最も恐れた手法。
単純な、なんの捻りもない、物量による圧殺。
だが、それでも。
「……知ってるさ」
そえーんは小さく呟く。
証明された不可避の死を前にして、なお。
傷だらけの身体で、
焼け爛れた肌で、
土埃に塗れた頬を歪めて、
不遜に、不敬に、不敵に、不朽に————なにより不屈に。
笑った。
「それはもう、見飽きたよ」
ズガガガガガッッッ!!!!と暴虐の嵐が席巻する。
間隙のない絶殺。
それは正真正銘、不可避の死だった。
不可避の死、であるはずだった。
なのに、
なのに、
なのに、
青年は、そこに立つ。
あるいは屈み、あるいは体を逸らし、あるいは一歩踏み込むことで、嵐の全てを避けきって。
————簡単な、本当に簡単な話だ。
単純ななんの捻りもない物量による圧殺。ただし、その殺戮は全てアールマティの権能によって行われる。
だから、それを予測しただけ。
意思持たぬ岩塊に制止は効かない。だが、幾度も頭ではなく体に染み込ませる形で覚えてきた攻撃の積み重ねから、それを操るアールマティ自身の意思を読むことはできる。
たとえ他の全てを乗り越えられなくとも、
最も打ち倒されてきたその偏差だけは、手に取るように読み切れる。
そして、
「……終わったぞ」
最後の一歩は、もう潰れた。
アールマティは目前。そえーんの手は既に届く距離にあり、アールマティに打てる手はない。
趨勢は決した。
大地を操る能力も、『生命』を司る権能も、もはや関係ない。
全ての破壊はアールマティ自身の防壁によって無効化される。
超速の反応力があったとしても、その肢体は二足二腕。条件が同じである以上、極至近での戦闘は純粋な身体能力によって決定される。それが勝っているのであれば、最初から距離など離す必要も無い。
故に、ここから先の展開は一筋のみ。
そえーんは、固く拳を握る。
「言い残すことは?」
「ただ、哀れみを」
返答はしない。
ただ、眼前の急所へ狙いを定め、
拳を、振るう。
————その日、世界から。
『神』が一柱、墜ちた。