paradigm-Ⅰ
「我が『慈愛』を以て————さあ、救済を与えましょう」
その言葉を正しく認識した時には、既に全てが終わっていた。
建ち並んでいた無数の店列。ひしめいていた数多の人々。街を彩っていた幾多のざわめき。世界を構成していたその全て。
まるで、空気そのものが質量を持って落ちてきたかのように、
跡形もなく、圧し潰される。
ドッッッッッッ!!!!!!!!という。
破壊音が、遅れて聴覚を蹂躙した。
「……、は」
————なんだ、これは。
瞳孔が凍る。
意識的な比喩でなく、感覚的な齟齬でもなく。
正しい意味での、瞬。
一秒にも満たない、たったそれだけの時間で、およそ人の営みと呼べるモノは崩壊————否、それではまだ足りない。
より正確に言えば、人の営みではなく、人そのもの。
そえーんを含む四人を残して、生命が消え失せる。
残るのは耳が痛くなるほどの静寂と、無造作に積み上げられた瓦礫の山。意味を為さなくなった石塊の隙間から流れ出す粘ついたナニかは、
どこまでも赤く、朱く、赫く。吐き気を催すほど紅い
鮮血。
ボトリ、と。瓦礫を伝ったそれが地面に落ちた。
「…………、」
混乱はなかった。
狂乱もなかった。
そえーんという人間は根本的に人でなしだ。状況の無理解による困惑はあっても、見知らぬ他人の死で心を乱されることは無い。
自分と他人の間には明確な亀裂があり、その向こうで何が起きても無関心。極論、自分に不利益が生じないのであれば目の前で何人死のうが知ったことではない。
だから、悲哀はない。
だから、歓喜はない。
だから、悦楽はない。
だから、
だけど。
————奥歯が、砕けた。
「ふ、ざけるな……」
理屈なんて自分でも分からない。
それでも、ただ。許せないと思った。
人が死んだという事実にではなく、無差別の粗雑さにではなく。ただ、たった一度の抵抗も許されず、自分と同じモノが塵芥にされたその理不尽に。
脳の血管という血管が、ブチ切れた。
「ナメてんじゃねえぞ————テメェ!!!!!」
振り返る。
怒りで白熱する脳。だがその髄は冷えきっている。
この景色。この破壊。その直前に何があったか。一瞬前に、何を聞いたか。
冷酷な理性は、少しの遅れもなく答えを寄越した。
即ち、
「やはり『神圧』は意味を為しませんか。それは重畳、ここまで足を運んだ甲斐があったというものです」
背後。僅か数歩先。
「では改めて。神、『慈愛』のアールマティ————ここに、我が救済を宣言します」
長い金髪をなびかせる、炎の瞳をした女。
「…………………………………………………。ぁ、」
怒りも。
叫びも。
その姿を目にした瞬間、欠片も残さず霧散した。
忘れたわけではない。あれほどの理不尽、断じて忘れるなどありえない。
それでも、ただ。
塗り潰された。
絶世をも凌駕する輝かしい容貌、暴力的なまでに艶麗な肉体、澄みきった深緑を思わせる静謐な空気、畏れという概念を具現化したような神々しい佇まい。
それは、
それは一体、なんて————
「死ねよ」
————なんて、おぞましい。
全てが、五感を通じて本能に訴える。
これは、殺すべきものだ。
殺したいではなく、殺さなければならない。権利ではなく、義務。コレは存在してはならないモノだ。なぜこんなモノの存在が許されている。
いや、いい。
そんなことはどうでもいい。
理屈も理由もどうでもいい。燃え滾っていた怒りすら今は邪魔。そんなものに割く意識の余裕があるのなら、一刻も早く
コイツを、殺せ。
「 ッッッ!!」
一歩目で声帯が破砕した。
言語野は崩壊。死滅した理性を全て殺意に捧げる。
「哀れな、そこまで堕ちますか。……いえ、この場合堕とされた、と言った方が適切ですね」
二歩目。視神経が炎上した。
赤熱する視界は女以外を排斥。故にこの殺意は女にのみ向けられる。
「ならばその責をコレに問うのは酷。ですが、」
三歩目。筋肉が蛮声を吼えた。
自身を引き裂き、生まれた隙間に殺意を装填。標的は目前、剛力にて撃鉄を引き絞る。
「不敬————分を知れ、獣風情」
女は冷酷にそう告げただけだった。
それだけで、全てが瓦解した。
ズガッッッッッ!!という音とともに、大地が胎動する。
「ごっ————カ、アッ!?」
鳩尾を叩かれ、呼吸が止まる。
柱状に隆起した地面によって打ち上げられた。そう理解した時には、既に浮遊感の中。
「まずは己の位を認識して貰いましょうか」
眼下、秒単位で離れていく地面から声が聞こえた。
同時、なんの前触れもなく。数十に届く石柱が宙空のそえーんを目掛けて屹立する。
高速で伸長するそれは瞬く間にそえーんの遥か上まで届き、不自然な動きで屈曲。上空から打ち落とすように、矮小な人間の背を狙撃する軌道を描く。
まともに受ければ即死。
足場のない空中で回避する余裕はなく、対処する方法もない。
だが、確信はあった。
「……辺獄ッ!」
「『過法迭追・選妹治世』!!」
号砲。共に石柱が根元から叩き折られる。
指向性を消失した岩石が崩れ落ちていくのと同時に、柔らかな引力によって着地。
「一人で先走らないで下さいよ」
尻拭いする身にもなってください。
隣に立つ辺獄がそうぼやく。
「悪い」
「全くです」呆れたように溜息を吐いて、「それで?どう殺します、アレ?」
視点は女に固定したまま。
まるで、目の前に置かれた生肉をどう調理するのかとでも言うような。当たり前の事を当たり前に問う、軽い調子。
「どうもこうもないやろ。最速で、確実に————アレの苦しみなんか猥は要らん」
「珍しく意見が合ったな。肉片の一つまで刻んでやる」
答える声は背後から。
砂地を踏み、ズリキチと卿の二人が並ぶ。
そえーんは振り向かなかった。
「そういう事だよ。やり方なんかどうでもいい」
ただ。薄く、薄く、残虐に笑って見据える。
正面に立つ、殺すべき『敵』の姿を。
「手を貸せ————惨殺の時間だ」
* * * * *
一度の交錯で得た情報を整理する。
結論。
アールマティと名乗ったアレは規格外だ。
そえーんが異世界にやって来て初めて目にした、正真正銘のバケモノ。
確かに、殺意に染まったそえーんの動きは単調そのものだっただろう。駆け引きはなく、小細工もなく、さぞ読みやすかったことだろう。
だが、それ故に確信を持って言える。
あれは、間違いなく今までのどの疾走よりも速い。
距離、タイミング、速度。どれをとっても、まともな生物が反応できる隙などあるはずがない。
だというのに、アールマティはこともなげにあしらった。
反応ではなく、対応ではなく、反撃でもなく。
まるで、小さな子供の悪戯を窘めるように。
原理や方式を推し量る間さえ与えられず、絶望的な力で捻じ伏せられた。
「……、は」
情報不足。実力不足。理解不能に解析不能。
打開の道筋は立たず、対策すら何一つ浮かばない。
『神』。その自称に違わぬ、絶対的なまでの差。
「だから、どうした」
だから、諦めるのか。
だから、踏み止まるのか。
……冗談じゃない。
その程度のことでアレの生存を許容してしまったら、今も燻るこの激情は、必死で抑えてつけているこの殺意は、一体どこへ向ける。
諦められるわけがなかった。踏み止まれるはずがなかった。
そえーんは周囲を見る。
三双の視線と目が合った。
言葉はいらない。符号はない。
そんなものが必要なほど、彼らとの付き合いは浅くない。
だから、
「お————ォ、アア!!」
深く沈めたバネを解き放つ。
目視は一点。女を捉えて、弾丸のように疾駆する。
アールマティとの距離は約一〇メートル。全力で駆ければ五歩とかからない。
「未だ認識が追いつきませんか。哀しいものですね、人間というのは」
それでも、アールマティは動かない。
弛緩しきった体勢で、なんの感情も読み取れない瞳で、微細の揺れもない両脚で、
す、と。
ただ右手を上げた。
瞬間、崩落した瓦礫の山が胎動。
無数の石塊が一斉に撃ち出される。
「————ッ!?」
咄嗟に両腕を交差させ、急所を護る。
間に合ったのは、それだけだった。
ドンッッッ!!と、砲撃じみた重圧。足が浮いた、そう自覚した時には既に大地へと叩きつけられていた。
「ご——ガ、ぁぁアアアアアア!?!?!?!?」
あまりの衝撃に視界すら明滅する中、唯一まともに機能した聴覚が拾う叫びが誰のものかすら分からない。
桁外れの暴虐。耐えることなど、人の身で出来るうるはずもない。
転がる。風に飛ばされる木の葉の如く、ひたすら力の向きに従って衝撃を分散させる。
「……ヵ、ふ……」
どれだけ飛ばされた。
どれほど離れた。
ようやく停止した肢体を起こし状況を把握しようと、
「認識しなさい。理解しなさい。神の裁定を人間の身で否定しようなどと、思い上がった思考回路を正しなさい」
そこで、そえーんは見た。
佇むアールマティ、その右手。かざした手から人差し指が一本、天を指している。
理屈は分からない。だが、それはまるで、何かを打ち上げた仕草のように見えた。
頭上から、
空気を喰らい潰す音。
「————!!」
見上げる。
先程の砲弾より数倍大きい石塊は、もはや岩石というより小規模の隕石爆撃に近い。
それが数十。轟音を纏って降り注ぐ。
「ふ、ざけろ……ッ!?」
他人を気にする余裕など無い。ズリキチ達の安否を確かめる事も出来ず、もつれる脚で距離をとる。
着弾。
直撃は避けた。だが、
「ガ——、ッッッ!!!!!」
隕石の剛爆は、その余波だけでクレーターを作る。
巻き上げられる土砂と衝撃波、空気を丸ごと押し潰したことによる真空の圧力が背中を襲う。
「悔いなさい。改めなさい。自らの分を弁え、平伏することを覚えなさい」
現実に小綺麗なルールなどない。
ゲームのように、一手に対して一手を返すまで悠長に相手は待っていてくれない。
故に、痛みに喘ぐ暇などなかった。
続く第三射は地中から。
大地が泡立った。直後、重力に逆らう雨のように細かな砂石が突き上がる。
「ぶ、っご——ぁ!」
全身、余すところなく打ち込まれる打撃。複数人からリンチを受けているかの如く、そえーんの体が空中で暴れ回った。
その光景はもはや殺し合いなどでは無い。戦闘ですらない。
ただ、一方的な嬲り殺し。
「……認識は、追いつきましたか?」
冷徹な、音がした。
声と表現するに必要な感情の揺れが全て削ぎ落とされた、あまりにも平坦な音がした。
「理解は済ませましたか?」
ザリ、と。
一体いつの間にそこへ立ったのか、倒れ伏すそえーんの視界でも捉えられる距離に艶やかな脚が映った。
「思い上がりは正しましたか?」
空気が変わる。
砂埃舞うザラついた感触から、背筋を刺すような静謐へ。
「悔悟は得ましたか?改心は為されましたか?平伏する謙虚は覚えましたか?」
機械的に繰り返される問い掛けという名の宣告。
ただの一歩も動くことなく、指先一つで蹂躙を成した女が直近に迫る。
意思より先に、体が震えた。
諦めろと、このままコレに抗えば待っているのは明確な死だけだと言う、警鐘。
そえーんは、這いずるようにして周囲を見回し、
……重い体を仰向けに転がす。
「……はっ」
「その笑みは、諦観ですか?」
「いや、なに。相変わらず、変なところで作り物を踏襲する世界だと思ってな」
笑う。絶望的な状況を理解して、それでもなお。
不遜に、不敬に、そして不敵に。
「なあ、カミサマ。教えてやるよ。僕らの世界ではさ、勝ちを確信して簡単に隙を作る奴のことを————間抜けって、そう言うんだよ」
「何を、」
「自分で考えろ、カミサマだろ」
嘲りと共に舌を出す。同時、
ボッッッ!!!!と。
横合いから飛来した瓦礫が、アールマティの姿を掻き消した。
「————『過法迭追・選妹治世』」
片膝で体を起こした辺獄が呟く。
服はほつれ、土に塗れた表情は苦しげ。一目見ただけで満身創痍であることが分かる姿。
それでも、眼は死なない。
眼光は一極、慢心の道化を捉え続ける。
「遠距離攻撃は……アンタの、専売特許じゃないんですよ」
斥力によって弾き出される瓦礫の渦へ引力を加え、精密な指向性を付与。無為な石塊を意思持つ嵐へと昇華する。
意思の名は殺意。慢心などなく、隙など作らず、躊躇も排し、迷いなど元より非所持。
確殺。ただその結果を得るためだけに、轟速を以てアールマティへ激走する。
「私の弾丸はアンタ自身が崩落させたこの街全て————傲りで自滅するアンタには、お似合いの墓標でしょう?」
辺獄が酷薄に口元を歪めて、
ドガガガガガッッッ!!!!と、
数百にも及ぶ爆撃が炸裂した。
艶麗な女の姿はもう見えない。噴煙が立ち込める中では、人の影すら見透かせない。当たり前だ、真っ当な生命体が数百にも及ぶ砲撃をなんの対策もなく……いや、仮に何か対策を講じたとしても、無事でいられるわけが無い。
だが、それでも。
そえーんは油断なく立ち上がる。
「ズリキチ、卿。生きてんだろ」
「もち。ズリキチのデケェ体はいい盾でした」
「……卿テメェ、後でシバくぞ」
「ていうかそえーんさんはカッコつけて無駄なこと言うのやめてくださいよ。あれで私の魔法に気づかれてたらどうしてくれるつもりだったんですか」
「その発動時間を稼いでやったんだろが、むしろ感謝しやがれタコ」
魔法の発動時特有の空気の変化。それを感覚として知れていたのは幸いだった。近づくことすらままならない以上、アレに対抗するには遠距離からの不意打ち以外で取り得る手段がない。
つまり。意識の圏外から、最大の出力で。
超人的な反応速度を持つアールマティに防御も反撃もさせず叩き潰すには、誰かが囮となって意識を引き続ける必要があった。
「……ボッコボコにやられてたのは単純な実力差だけどな」
「黙れおっぱい野郎。結果良ければ全て良しって言葉を知らねえのか」
ともあれ、現状で打てる手はもうない。
瓦礫の弾丸は撃ち尽くした。噴煙で見通しのきかない中では純粋な反応速度が物を言う。万が一、アールマティにまだ息があったとして、踏み込めばかえって不利になるのはこちらの方だ。
それを理解しているからこそ、そえーんは迂闊に動かない。皮肉を叩いたズリキチや、そのやり取りに肩をすくめる卿、呆れたように溜息を吐く辺獄も同様。
どれだけ軽い口調で言葉を交わそうと、その目線は交わらない。誰一人、噴煙の先から目を外そうとはしなかった。
だからこそ、
その異常に気づくのも同時。
「————度し難い」
燻る土埃が裂ける。
自然風による散逸ではない。
それはまるで、内側から膨大な力によって引き裂かれたかのような。
不自然な、分裂。
「……冗談だろ」
引き攣った笑いを浮かべるそえーんの頬を、冷や汗が伝う。
生きている可能性くらいは考慮していた。その声が投げかけられる余力くらいは想定していた。
だが、
「返礼に、教えを一つ。この程度で神を弑せると履き違えるその妄信————それを私達は愚昧と、そう呼ぶのです」
轟!と音を立てて。
土埃のカーテンが、完全に駆逐された。
歩いてくる。
悠然と、泰然と、傲然と。
傷一つ負っていないアールマティが、その中から歩いてくる。
「何者にも侵されないが故の、神。我が『神隔』は獣が食い破れるほど脆くはありませんので」
その声に、嘲りはない。悲しみも、怒りも、喜びもない。
完全な『無』。
正真、機械じみた無表情で。
正銘、凪のような無感情に。
アールマティは、軽く両手を広げた。
「さて、それでは————教戒を続けましょうか」