1-9 多重面相
その日以降、体力作りと剣の練習に加え、騎士術の鍛錬も毎日の日課に加わっていった。
夜明けと共に眠い目を擦って始め、日が沈むとともにフラフラになって小屋に変える。毎日がその繰り返しだった。
日が空にあるころは、リチャードは歳を感じさせぬ厳しさで、時にジェーンを泣かせたが、夜になるとジェーンに勉強を教えたり、父や家族との思い出話をしたりと優しかった。まるで本当に父のようだった。
それから11ヵ月。日々の訓練はより高度なものとなっていた。
―感覚を研ぎ澄ませろ。
―視るんじゃない。感じるんだ。
ギュッと木の棒を握ったジェーンは、何かがヒュッと空を切って迫る音に耳に感じ取った。
―予力
―音がわずかに重なってる
―小石で、多分二個以上!
―何個にせよ、来る方向・風向き・湿度からこの位置なら二つ払いのければ大丈夫!
ブンっと振られた木の棒は、確かに二つの“小石”を捉えた。
だが、ジェーンの予力では可能性から弾かれていたことが起こった。
木の棒で捉えたのは、そもそも石ではなく泥の団子だった。
棒にぶつかって押し潰れたそれは、周囲に激しく飛び散って、ジェーンの服や肌へと付着する。
「今のが相手の騎士術や、爆弾の類であったら・・・死んでいたな」
「・・・はい」
「そんなに落ち込むな。予力にしろ、騎士術にしろ、剣の型にしろ、全ては経験がものを言う。知っているか知っていないかだ。だから経験を積むために、日々訓練するしかない」
「今日はもう日が落ちる」。リチャードはそう付け足すと、薪をヒョイと持ち上げて、杖を片手に山小屋へと向かって行った。
顔についた泥を払って、ジェーンもその後を追う。
これからの時間がジェーンにとって最も楽しい時間だった。暖かい夕食を取って、リチャードの話を聞く。
今日も明日も、そのまた先もそうした日々が続くと思っていた。
だが、一度壊れた人生は狂っていくものなのだろう。
玄関のノブに手をかけたリチャードは、家の中に人の気配を感じた。
―ランスか?
―いや・・・違うな
―・・・敵か・・・
杖で軽く地面を二回叩いて、ジェーンに隠れるよう合図する。
そして杖から剣を引き抜いたその時、ドアが開けられた。
「お前は・・・」
コンコンと杖が地面を叩く音が聞こえた時、ジェーンは胸が締め付けられるような思いがした。
前々から万一敵が来たときの対処をリチャードと決めていたものの、本当にこんなことが起こるとは思いもしなかった。
―また奴らが来る・・・!
―足の震えが・・・止まらない・・・!!
物陰に隠れたジェーンは、棒を握りしめてカタカタと震えた。息も荒く、歯もガチガチと音を立てる。
リチャードが剣を抜く音。ドアの開く音。どこか懐かしい匂い。
―・・・懐かしい匂い?
―この匂い・・・
―アンナ!?
思わず影から飛び出したジェーン。
甘い匂いを放ちながら、女は口を開いた。
「ジェーン・・・!」
「アンナ・・・なの!?」
「えぇ、そうよ!会いたかったわ、ジェーン!」
ジェーンに駆け寄ろうとする女を、リチャードが剣を向けて止めた。
「・・・ジェーン。決めた通りに、ここからすぐに逃げるんだ」
「で、でもその人は」
「ジェーン!!私は行けと言っているんだ!!」
すさまじい剣幕で怒鳴るリチャードに、ジェーンは呆然とした様子だった。
「・・・貴方、邪魔ね」
女はそう漏らした瞬間、隠し持っていた剣でリチャードに斬りかかる。
「舐めるな!」
それを容易く受け流し、再びジェーンに怒鳴る。
「行くんだ!!ジェーン!!」
―どうして・・・?
―声も匂いもアンナその人だった
―あの優しい、姉のようなアンナだった!
ジェーンは無我夢中で獣道を走り始めた。
後ろから剣と剣がぶつかり合う音が聞こえる。
―でも叔父さんに剣を振るった!
―どういうことなの!?
ジェーンにはもう何が何だか分からなかった。
ひたすらに山の中を駆け抜けた。
そして気づかぬうちに、その奥にある沢へとついていた。万一の際の一時避難場所としたところだ。
ここで三十分待ってリチャードが来なかったら、ジェーンは一人で逃げることになっていた。
―きっと来るよね・・・
少しでも不安を紛らわせようと、箱に入れて埋めてあったお金や服を掘り出す。それをバッグに詰めると、ジェーンはその身を大岩の裏へと隠した。
どのくらい経ったのだろうか。恐怖に身を震わせていると、水がぴしゃりという音を立てた。
初めは水滴が滴り落ちた音かと思ったが、何度も何度も音を立てる。
―誰・・・!?
―叔父さん!?
―・・・分からない
徐々に近づいてくるそれに、ジェーンは耳を覆った。
だがその耳の隙間から聞こえる、荒い息と木の足を引きずる音は、間違いなくリチャードのモノだった。
「ゲホッ・・・ジェーン!!」
「・・・叔父さん?・・・叔父さん!!」
駆け寄ってきたジェーンを見て安心したのか、リチャードはふらりと姿勢を崩し、岩肌に寄り添うようにして座り込んだ。
ジェーンの耳には、リチャードのだんだんと弱くなっていく鼓動が響き、鼻には強烈な血の匂いが衝いた。
どうしていいか分からないとオロオロとするジェーンの頭を、いつものようにリチャードはその分厚い手で優しくなでた。
「すまんな、ジェーン。私は・・・ここまでだ」
「嫌だよ!!叔父さんまで居なくなったら、私はここから先どうしたらいいの!?」
「大丈夫だ、ジェーンには・・・もう立派な力がある。私が教えられることは・・・すべて教えた・・・」
「でも・・・でも!!まだ私は、戦えない!!剣を握るのが怖い!!一人で生きるのが怖い!!」
「あぁ。だから強くなるんだ、ジェーン!もっと・・・もっと強くなるんだ!・・・それに、お前にはまだ家族がいるだろう・・・」
―そうだ
―私はアビーを・・・
―助けないといけないんだ!!
ギュッと拳を握ったジェーンをみて、リチャードは優し気な笑みを浮かべた。そして手に持っていた、剣の仕込まれた楢の木の杖を差し出した。
「これを・・・持って行きなさい」
「・・・これは」
リチャードの愛用品であったそれを受け取るのに、一瞬躊躇ったジェーンにリチャードは頷いた。
「アビゲイルを・・・救い出すんだ」
「・・・ありがとう、リチャード叔父さん。私、必ずアビゲイルを・・・!!」
下唇を噛んで、ジェーンはリチャードに背を向けた。
バッグを背負い、杖を持って沢から駆け出す。
―まずは森を出よう
―・・・アビゲイル・・・!
ジェーンを見送ったリチャードは、小刀を手にその場から立ち上がった。
目の前の森は闇に包まれており、全くと言っていいほど視界が無い。
暫くしてパキッと枝を踏みつける音が聞こえた。
―あの木の後ろか
―・・・いや違うな
一瞬音のした方に目を向けたリチャードだったが、即座に予力を発動し、視線を壁の上へと向けた
―“上”か
音もせずに降ってきた影を、横にステップして躱す。
「・・・随分と遅いご到着だな、アンナ・アーベンロート・・・いや、その影を被ったノヴゴロドの騎士よ」
リチャードの言葉に、降ってきた影は少しニヤついてアンナから巨体の大男へと姿を変えた。
「ったく、邪魔くさい爺さんだぜ。お陰でガキにも逃げられちまった。・・・このイラつきぃ、晴らさせてもらえるんだろうなぁ!?」
幅広の剣、ファルシオンを抜いて吠える男に、リチャードは顔に影を作って言った。
「既にジェーンは逃がした。もうこの老体にできるのは・・・“お前を土座衛門にすることだけ”だ」
「ほざけ!!」
振りかざされたそれを、リチャードは避けることなく身に喰らった。
血が噴き出し、舌なめずりする男も包み込む。
「バカが!!躱すことすら出来ねぇじゃねぇか!」
「・・・馬鹿はお前だ。『漆ツ海楼』!」
口にした瞬間、リチャードの傷口を中心に球体の水が出来、山を飲み込まんばかりに広がっていった。
その中では、まるで嵐の時の海のように、大きな渦がとぐろを巻き、木も岩も何もかもを掻きまわした。
「ッ!?・・・ゴボォア!!」
「私と共に、水底へ沈もうぞ」
息が出来ず、水流に揉まれて藻掻く男に、リチャードは冷たく言い放った。
◇ ◇ ◇
現在
エルトリア帝国皇室近衛騎士団 評議室
「あのメルセン・コッカに、再びかくも容易く侵入されるとは、帝都守護代を務める方には不安が生じますね」
「そ、そう・・・ですよね・・・ボクは、ホント・・・」
メガネを掛けた理知的な女性、旗騎士ティサ・カーマインの言葉に、目元まで隠れるほどボサボサの茶髪をした男、旗騎士ウィルバルフ・エスクロフトが青白い顔を俯かせる。
「ッ、貴男ねぇ!そんな弱気で守護代が務めると思ってるの!?」
「ひぃ・・・!」
「まぁまぁ、カーマイン卿。何とかなったんですから・・・」
「結果が良ければいい、というものでは無いのではないですか?ラフェンテ卿」
歳の差こそ父と娘のようだが、旗騎士としての地位は同等だ。
ティサの鋭い追及に、ラフェンテはバツが悪そうに頭を掻いた。
「メルセン・コッカが侵入できたことも信じられませんし、旗騎士が三人も揃ってあの被害とは、到底信じられません」
「それほど強かった、ということで納得しちゃ貰えないかね。カーマイン卿」
さらに続けたティサに、部屋に入って来たメインデルトがそう言うと、流石のティサも小さく頷いて引き下がった。
そして部屋に呼び寄せた、任務中ではない旗騎士八人全員がいるのを確認してから、席に着くよう促した。
「それじゃあ、一週間前のメルセン・コッカの騒動についての会議を始めようか」
アンナやラフェンテの報告も交えて、メルセン・コッカの捕縛までの顛末を共有する。
「六年前のハリカルナッソスの事件がそんなに尾を引いてたとはなぁ、と。そこまでしてノヴゴロドのやつらが手に入れたいのはなんだ?」
メインデルトと同期の旗騎士、エイト=ブラハム・“アポロ”・シエンツはそう呟いて顎を撫でた。
「それについては私も疑問です。ユージーン・ファミリアエとその一家を警護対象としたのは、彼が騎士を研究する騎士学者として、何か騎士術の根幹に迫るものを発見したからなんですよね?ならノヴゴロドがそれを手に入れてなお、わざわざ娘を追って帝都まで刺客を放つのは不可解です」
アポロに同意したティサに、エスクロフトもその通りだというように、おっかなびっくり頷いた。
「ジェーン・ファミリアエ。彼女が目を覚ませば、何かわかるかもしれませんね」
「まだ目覚めそうにねぇのか?」
「ええ、残念ながら・・・」
ラフェンテの言葉に、一同は重い空気に包まれた。
「な、何かを求めて、ノヴゴロドが動き出す可能性も・・・」
「十分あるね。国境の長城に詰める騎士も増員するべきかもしれない」
おずおずと発言したエスクロフトに、メインデルトは頷くと、空席となっている上座のすぐ横に座り本を読んでいる女性に目をやった。
「よろしいですか?クインテット副団長」
副団長アニータ・クインテットは、一瞬その穏やかな瞳を本からメインデルトへと向け、静かに頷いた。
メインデルトはそれを確認してから、今度は一番ドアに近い席で、テーブルに足を乗せ踏ん反り返るように座っている女、旗騎士オレスティラ・スピッツィキーノに声をかけた。
「スピッツィキーノ卿、10人ほど騎士を率いて行ってくれ」
やや血走った眼で、ぎろりとメインデルトを睨んだオレスティラは、黙って席から立ち上がると部屋から出て行った。
「ちょっと、スピッツィキーノ卿!」
「カーマイン卿、彼女に言っても聞いてくれませんよ」
止めようとしたティサに、アンナが横に首を振った。
無視したオレスティラに不満げに顔を顰めたティサだったが、「そうね」とアンナに頷いて席に戻った。
「さて、それじゃあ今日のところは解散ということで。忙しい中集まってもらってありがとうね」
メインデルトの声を合図に、旗騎士たちは一人また一人と評議室から出て行った。
最後にアニータが、少し会釈して出て行き、残ったのはメインデルトとラフェンテだけだった。
「それにしても、任務中三人、そして放浪中の団長を除いた全旗騎士が揃うとは、中々珍しいですね」
「皆領邦内の任務で直ぐに帝都からいなくなっちゃうからねぇ」
あからさまな世間話を振ってきたラフェンテに合わせながら、メインデルトは目を細めた。
「・・・で、こんな与太話をしたいんじゃあ、ないんだろう?」
「えぇまあ。ユージーン・ファミリアエ一家についての報告書ですが、記載されていた情報は、ジェーン・ファミリアエの生存によって虚偽だと証明されました。・・・報告書の承認者はあなたですよね、ロット卿」
「・・・ボクの手違いって可能性も捨てきれないよねぇ」
「・・・この一週間、六年前のハリカルナッソスの事件について詳しく調査をしました。わずかな目撃情報などもね」
やや冷たい空気を放ちながら、ラフェンテが徐々にメインデルトを問い詰めて行った。
「その結果、家族と面識のあった、ある狩猟者がアビゲイル・ファミリアエがメルセン・コッカと酷似した人物によって連れ去られているのを見た、という証言がでてきました。しかし、それは報告書には記載されておらず、ハリカルナッソスの衛兵隊文書室の書類のみに記載されていました。あなたがこの証言を見逃したとは到底思えないのですが」
「・・・言ってくれるねぇ」
メインデルトは席にどっこらしょと腰を下ろすと、冷たい目のラフェンテを見上げた。
「まだ深くは言えない。ただ、信じてはほしいね」
「信じる?この状況で、ですか?」
「ああ」
メインデルトはニヤッと笑みを浮かべた。
「全ては、皇帝陛下とその帝国の為に、だからさ」