1-5 六年前のあの時のよう
「ジェーン・・・ジェーン!」
暖かく、どこか落ち着く母の声。
「ほら、もう朝よ。早く起きて」
目を開いても、ぼんやりと印象的な色一つしか見えない。その目を擦って身を起こした。
母に手を取られて、ベッドから立ち上がる。本当は家の中なら、ほとんど自由に動けるのだが、母はいつもこうしてジェーンの手を握ってくれる。もう10歳にもなるジェーンとって、それは嬉しくもあったが、どこかもどかしさもあった。
壁に手を突きながら歩いていると、妹の部屋の扉はまだしまったままであることに気づいた。
「起こさなくていいの?」と目で訴えるジェーンに、母はシーっと口に指をあてて屈むと、耳元でそっと囁いた。
「今日はアビーの誕生日でしょう?だから、驚かせてあげないと、ね?」
いたずらっぽい笑みを浮かべる母に、ジェーンも首をブンブンと縦に振った。
―そうだ。今日は妹の、アビゲイルの7歳の誕生日だ。
階段を下りてリビングに行くと、父親の声と何やら甘い匂いがする。
「こ、これで焼けばいいのか・・・?」
「フフ、父さんったらね、似合わないカップケーキなんか作ろうとしてるのよ」
「ケーキ!?」
「母さん、これどうしたらいいんだ!?」
台所に立つことなど考えられない父が、ケーキを作るのに四苦八苦するのを想像して、ジェーンも自然と笑みがこぼれた。
そういえば、家の警護に来ているアンナの姿がない。いつも遊び相手になってくれる彼女は、ジェーンにとってもはや家族同然だ。
―どこに行ったのだろう
慣れない手つきの父に声を上げて笑う母は、ジェーンの問いに「さーて、どこでしょうか?」と意味ありげに答えた。
なんだか自分だけ阻害されているようで頬を膨らませたジェーンが、一人家の中を見て回っていると、父と母の小声が聞こえてきた。目が見えない代わりに、聴力には優れていたジェーンには、その内容もしっかりと聞き取れた。
「アンナちゃんったら、私たちに気づかれていないつもりなのかしら?」
「なんだか娘が三人になったようで、かわいいじゃないか。まぁ、僕のケーキが万一にも失敗しないだろうから、アンナちゃんのは夜用になりそうだが」
「口だけは一人前ね。それ以上火力を上げたら、朝から職人の豪華なケーキになるわよ」
「何!?・・・っアッツゥ!!!」
「もう、ホラこうやるのよ」
「いや、論理上は大丈夫だったんだが、フゥ・・・。メインデルトのやつには大丈夫だって言ったんだが、アンナちゃんには迷惑かけるな」
「そうね・・・」
どうやら二人ともやっぱりアンナの行方を知っているようだった。ムゥと唸ったジェーンだったが、自分も妹を喜ばせるために何かしようと頭を捻った。
―目の見えない自分でも、一人で何かできること・・・
―そうだ!
厚手のコートを羽織り、しっかりと手袋をはめて、雪が厚く積もった銀世界の庭へと飛び出す。
―リビングの窓から見えるような、大きな雪ダルマを作るんだ!
せっせと雪をこね始めたジェーンは、ふと人の気配を感じた。
「アンナ?」
喜び勇んで聞いたジェーンに、答える声は無かった。
ただ一歩、また一歩と雪を踏みしめる音がだんだん近づいてくる。
ただ、少し甘い匂いと足音の間隔で、女性であることには気づいた。
「だあれ?」
「・・・すまない」
ジェーンの前まで迫った女は、どこか苦しそうな声でそう言うと、何かを振るった。
ヒュッと音を立てて迫ったそれは、ジェーンを下から上に撫でた。
その勢いで、ポテッと後ろ向きに倒れ込んだジェーンは、雪の冷たさを感じる反面、なにかどくどくと胸が打っているのに気づいた。
―熱い
ヒリヒリしかしスースーとする体に、ジェーンはどこか朦朧とし始めた。
「ジェーン、外遊びなら一声かけなさ・・・ジェーン!!!」
母の叫び声が聞こえる。それもだんだんとどこか遠くに聞こえる。
駆け寄る母に、女が再び剣を振るう。
「散れ・・・帝国の為に!!」
視界は真っ赤に染まった。
血のように真っ赤な
赤の世界。
―この赤は誰のもの?
―父の?母の?
―それともアビゲイルのものなの?
―・・・違う
―炎だ
―燎原の火のごとく
―すべてを飲み込む、真っ赤な炎
◇ ◇ ◇
「よォ、起きたのか」
目を覚ましたジェーンの視界は、肌色でいっぱいだった。
声から察するに、どうやらフェリクスが横になったジェーンを覗き込んでいるようだ。
「・・・あれからどれくらいたった?」
「三日ってとこだな。昼時を過ぎたあたりだ」
身を起こそうとして、ぐっしょりと汗をかいていることに気づいた。背中に服が張り付くような、嫌な汗だ。
暑苦しいというように、掛け布団を足で剥ぐと、「女の子がするもんじゃないよ」と言いながら、フェリクスがジェーンにコップを渡した。見ると水が入っている。
喉が渇いていたので、グッと傾けると、少し笑ってフェリクスは空になったそれを受け取った。
「随分とうなされてたけど、大丈夫か?」
「・・・ああ」
弱弱しい声で答えたジェーンに、フェリクスは丸椅子から立ち上がった。
「今着替えを持ってくるよ。一人でできるか?」
「馬鹿にす・・・るな・・・」
起こした上半身をグラッと倒しかけたジェーンを、素早くフェリクスは支えると、ベッドに横にした。
「無理すんなって。女の子も呼んでくるから、着替えさせて貰えよ」
部屋から廊下に出ると、派手な橙色に髪を染めた、見慣れた顔の女が待機していた。
「カーラ、悪いがジェーンの世話を頼む。服を着替えさせてやってくれ」
「ハイハイ、おねぇさんに任せなさい」
フェリクスやスヴェンと同時期に騎士叙任したカーラは、師こそラフェンテではないが、騎士団の中ではつるむことが多い。手をひらひらと振ると、カーラは医務室常備の簡素な服を持って部屋に入っていった。
ジェーンの入っている部屋とは廊下を挟んで反対側の部屋に入ると、スヴェン、ラフェンテ、アンナ、メインデルトの面々が待っていた。
「ようやく起きたみたいです。それでもかなりの血を失ったからか、まだ寝てる方がよさそうですが」
「だってさ。よかったじゃないの、アンナちゃん」
椅子に座って俯いていたアンナに、メインデルトがそっと手を置いた。アンナはそれに、「はい」とだけ小さく答えた。
「とはいっても君を彼女に近づけるわけにはいかない。勿論、疑ってるわけじゃあないけど、はっきりとあのリチャード・ファミリアエを殺害したのが君だって言われちゃ、しっかり白黒分かるまでは、離しておくに越したことは無い。分かるね?」
「・・・分かっています、先生。ご迷惑をおかけします」
今までにないほど落ち込んだ様子のアンナに、どこか部屋の空気も澱んでいる。
こめかみを軽く掻いて、「やれやれ」という顔をすると、話題を変えるべくラフェンテに目を向けた。
「ラフェンテ卿、彼女の、メルセン・コッカの捜索状況はどうだい?」
「帝都にいる騎士を引っ張り出して、何とか50人態勢で捜索を行っています。一番街・二番街は完了しましたが、他はまだ」
メインデルトの問いに、いつも通りどこか余裕がある声音でラフェンテが答える。するとスヴェンが「ところで」と二人に質問した。
「そのメルセン・コッカって一体なんなんスか?なんだが、旗騎士の皆さんは知ってるみたいっスけど」
「なぁ?」と振られたフェリクスも、頷いてスヴェンに同意した。
「そうか、君たちは知らないんですね。ノヴゴロドの暗殺専門の騎士ですよ」
「というか、旗騎士だけの機密だからねぇ」
「今更隠したってもう仕方ないけどね」と言って、メインデルトはコッカについて話し始めた。
「暗殺者で名が知られてるのは、仕事が満足にこなせないまぬけか、逆に腕が立つ猛者。彼女は後者で、君たちが騎士になる前に、旗騎士一人を含む11人の騎士を立て続けに暗殺した。それもこの帝都でね」
「帝都で11人も・・・」
人口1億5千万人を誇るエルトリア帝国全土でも500人ほどしかいない騎士の内、11人というのは大きな数である。それも警備も厳重な帝都で。
絶句するフェリクスとスヴェンだったが、戦った時は確かに強力な騎士ではあったが、かといって旗騎士を倒せるほどの実力があるのかと言えば、そうとも感じなかったことを思いだした。
首を傾げたフェリクスに、メインデルトは「さすがラフェンテ卿の直弟子。目ざといね」と手を叩いた。
「彼女はある時以降、めっきり姿を現さなくなったし、ノヴゴロドにおいても一時期、騎士将軍、こっちでいう旗騎士に迫る実力者として評価されてたけど、今じゃもう衰えたって評判だよ」
「ある時?」
「六年前。ちょうど、ファミリアエ一家が襲撃を受けて以降だね」
メインデルトのその言葉に、アンナが顔を上げた。
「メルセン・コッカが襲撃犯だということですか、先生」
「せっかちな性格は直しなさいって教えたでしょう。・・・家は全焼、遺体は丸焦げ。火を放ったと思ったけど、メルセン・コッカの騎士術を考慮すると、彼女がやったと考えるのが、今の段階だと合理的ってだけだよ。何の確証もない」
「・・・」
はやるアンナを抑えるメインデルト。フェリクスはジェーンの言動から、コッカが襲撃犯であることはほぼ間違いないと思いながらも、この場で口にすることは出来なかった。
◇ ◇ ◇
「・・・ということで、メルセン・コッカが襲撃犯で間違いないと思います」
「なるほど。報告をありがとう」
コッカの捜索に市街地へ出たフェリクスは、通りを歩きながら同行していたラフェンテに事の詳細を話すと、彼はそう言って頷いた。
「それと、そのファミリアエ一家が襲撃された事件についてですが、報告書では警護対象全員の死亡として処理されていました。しかし・・・」
「でも、ジェーン・ファミリアエは生存していたということですね?そして、その報告書は虚偽にもかかわらず、騎士団の承認を受けていると」
「はい。そもそも焼失により、遺体の確認が不能だったということも考えられますが、その場合はその旨が記載されているはずです。単なる誤りであればいいのですが・・・」
「騎士団内部に、何か企んでいる者がいるかもしれません。それに他に生存者がいないか、再調査する必要もありますね」
ラフェンテは深刻そうな顔をして、フゥーと息を吐いた。
フェリクスとラフェンテの話が終わったのを見計らって、屋台で買ったリンゴを齧りながらスヴェンが口を開いた。
「そういや先生。例のメルセン・コッカやアンナさんが騎士術使った時、血そのものを火とか雷にしてるようには見えなかったんスけど、アレってどういうことなんスか?俺らは血を騎士術へと変化させているんスよね?」
「おお、良い所に気づきましたね」
スヴェンの疑問に「感心感心」とラフェンテは満足げな笑みを浮かべた。
確かにコッカもアンナも、フェリクスたちのように血を何かへと変化させていなかった。
「確かに騎士術というものは、血液を代償にして行使できます。自らの体から血を出し、それを個々の力とする。しかしその手順は大きく分けて二つあります」
親指と人差し指を立てて、ラフェンテはフェリクスとスヴェンの方を向いた。
「一つ目は、いまスヴェン君が言った、血液そのものを騎士術にする方法。これは単純にしてコントロールのし易いものです。だから騎士になるための修行をする従者は、この方法を真っ先に教えられます」
自分の騎士叙任前を思い出しながら、フェリクスたちはウンウンと頷いた。
騎士としての素養がある者で、それを希望する者はざっくりと10人程度の班を作り、旗騎士の元で修業を積む。騎士叙任後は、そのまま任務についたり、またはさらなる修行として特定の旗騎士に弟子入りするなど、さまざまである。
「しかし、この方法は確実で効果的ではありますが、反面どうしても速攻性や瞬発性にかけます。そこで生まれたのが二つ目の、血液を間接的に騎士術にする方法です。この場合は距離を問わず相手を攻撃することが出来ますし、不意を突くことだってできる」
一見遥かに便利そうに見える、騎士術の発動方法である。フェリクスもスヴェンもなぜ師は教えてくれないのかと首を傾げた。
それを見てラフェンテは、「そう言うと思っていました」と言わんばかりに笑った。
「ただ、非常にコントロールがしづらく、また一つ目の方法よりも効果が薄くなります。さらに使用するには、自身の騎士術を限界まで鍛え上げなければならず、そもそも騎士術によっては使用できない場合もあります。私は自分の騎士術の関係上、ほぼ使用しませんね」
「君たちがもう少し次のステップに行ったら、習得方法も教授しましょう」とラフェンテは付け足した。
確かに、アンナとコッカの戦いは、短い間ではあったが、フェリクスたち一介の騎士とは比べ物にならないものだった。
高度な技術を持つ敵国の暗殺騎士が、逃げ延びた少女を追って帝都のどこかに潜んでいる。フェリクスは改めてその事実を噛みしめ、剣の柄に手を置いた。