1-3 逃げた彼女を追いかけて
彼女はスヴェンを押し退けたばかりか、その手を縛っていた縄を、メインデルトたちに向かってブンッと振る。
縄につけていたのだろう。それから弧を描いて飛んだ血が、やがて氷塊へと姿を変えて襲い掛かる。
だが流石に旗騎士と認められただけはあり、メインデルトとアンナは即座にそれを剣で粉々に砕いた。
しかしその隙に少女は素早くその横を駆け抜け、いつの間に奪ったのかスヴェンの剣で、廊下にいたフェリクスに斬りかかった。
―やべぇ!!
慌てて剣を抜こうとするフェリクスだが、ベルトに鍔が引っかかってなかなか抜けない。
もうすでに剣は眼前に迫っている。
―クソ!
なんとか無理矢理引き抜いた剣を、構えようと一歩前に出した足が、濡れた石造りの床にとられて、そのまま尻餅を突く。
「ウワァッ!」
情けない声を上げるフェリクスの髪を、ファサッと剣が撫でた。
フェリクスの茶髪が空中に舞うが、少女はそれを気にすることなく廊下を走り抜けて、入口の扉を開ける。
「クソっ、俺の剣を!!」
その背中に、いらだった様子のスヴェンがピストルを向けたが、その銃身をアンナがヒシッと掴み下げさせた。あまりに強くピストルを握ったので、部品で肌が切れたのだろう。アンナの血がスヴェンのピストルに滴る。
他の牢に入っている、荒くれ者たちが口々に歓声を上げる中、スヴェンはアンナに「何故!?」という視線を向けたが、アンナは普段絶対に見せないような忿怒の様相で彼に怒鳴りつけた。
「彼女を傷つけたら、即座にお前を叩き斬る!!」
その怒号に呼応するかのように、バチバチバチィと彼女の血が電光を発し、あまりの熱にピストルから煙が上がる。
手が上手く動かせないのか、スヴェンはピストルを持つ手を震わせながら、短い悲鳴を上げる。
「そんなピリピリしなさんな。ごめんよ、スヴェン君」
メインデルトがアデルの肩とスヴェンの手にそっと手を置いて場を制した。
「まあでも、剣を奪われるのは失態だねぇ」
「も、申し訳ありません!」
「ほら、ボクに頭を下げてる暇があったら、予備の剣を持って、フェリクス君と彼女を追って」
俯くアンナに目を向けてから、慌てるスヴェンに「ただし」とラフェンテは言葉を続けた。
「彼女、ジェーン・ファミリアエは騎士団にとってとっても重要な子なんだ。くれぐれも傷つけることの無いようにね」
◇ ◇ ◇
流石にもう店も閉まり人も通りから消えた闇の中、携帯用ランタンを腰にぶら下げ、フェリクスたちは街をあっちへこっちへと、ジェーンを探し回った。
「ハァハァ・・・フェリ、そっちは?」
「ふぅー・・・いや影も形もねぇ」
汗をぬぐいながら、スヴェンは「もう街にいねぇんじゃねぇか?」と呟いた。
「でも俺と戦った時に加えて、さっきの地下牢でも血をそこそこ抜いちまってるんだ。それに彼女、ジェーンだっけ、は何だか詳しくは知らねぇが、メインデルトさんたちに聞きたいことがあるんだろ?“六年前のハリカルナッソス“についてよ」
「確かにそりゃそうだな」
樽に腰かけ、水筒の水を浴びるようにして飲んだスヴェンは、フェリクスに頷くと膝を叩いて立ち上がった。
「ヨシッ、俺は四番から五番街をもっかい見てくる!フェリ、お前は二番から三番街を頼む」
「おお、任せておけ!」
フェリクスは胸を叩くと、二番街へと足を向けた。
帝都ビュザスの二番街は、教育機関や図書館、資料館などによって構成されている。そのため人口自体は多くなく、また古い建物も多いため、この時間に立ち寄るのは少々薄気味悪い所である。
その元々の雰囲気と、偶に吹き抜ける風に体を震わせながら、フェリクスはジェーンの隠れていそうな裏路地などを見て回った。
すると、図書館の前の広場に、遠くからでも目立つ、赤い髪の毛の少女が見えた。
―あれだな・・・
ようやく見つけたことに胸をなでおろしつつ、さてどうやって連れて帰ろうかと頭を捻らせた。
先ほどと同じように行けば、こちらに敵愾心を持っているらしい彼女は間違いなく戦闘になってしまう。たとえまた勝ったとしても、恐らくフェリクスは、ジェーンに思い入れのあるアンナによって半殺しの憂き目に遭うだろう。
ウンウンと唸るフェリクスは、ふいに少女が広場の真ん中にある、ある石像を見つめていることに気づいた。
「『ウィリアム・マーシャル』。伝説上の始まりの騎士だな」
「ッ!?」
突然背中から声に、ジェーンは反射的にその場から飛び退いた。そしてスヴェンから奪った剣を声の主、フェリクスに向ける。
フェリクスはそれに特に驚くことなく、両手を上げながら像に近づいて行った。
「さっきぶりだな。と言っても、俺のこと分かるのか?」
「・・・盲目だからと言って、あまり舐めるなよ、フェリクス・カウフマン」
「っと、そいつは失礼。悪く思わないでくれ。それになんも持っちゃいねぇし、お前と戦う気なんてサラサラねぇよ、ジェーン・ファミリアエ」
「なぜ私の名前を?」
「『六年前のハリカルナッソス』。それを知ってる人たちがいる。それについて聞きに来たんだろ?」
像に手を置くと、石のひんやりとした触感が走り回っていた体にちょうど心地よい。
「このウィリアム・マーシャルってやつは、名前だけしか分かってねぇんだ。その人となりも、その騎士術も、剣の型も、なんもかんもな。今の状況じゃ、俺に取っちゃお前も同じくらい謎だぜ」
「下らない。確かに私はあの時の、『六年前のハリカルナッソス』について情報を求めてはいるが、お前たちに、騎士たちに何か話すつもりは毛頭無い」
ガシャッとスヴェンの剣を、いかにも構えづらそうに持つジェーンを、フェリクスはちらりと見てから、その場に腰を下ろした。
不可解な行動に映ったのだろう。ジェーンは眉間にしわを寄せる。
―向こうの状況なんて知ってたら、剣なんか抜けねぇよ・・・
「なぜ剣を抜かない?一度勝ったからといって、舐めているのか?」
「だから、俺は戦わねぇって。もしお前に傷一つでもついてたら、俺はアーベンロート卿に首を落とされちまう」
場を和ませようと、冗談交じりで放った言葉だったが、それにジェーンの顔が豹変した。
「アーベンロート?」
―失策だったか・・・
徐々に殺気立っていくジェーンに、フェリクスは冷や汗を垂らした。
「それはアンナ・アーベンロートという女か?」
「・・・「そうだ」と言ったら?」
フェリクスの言葉を聞いた瞬間、ジェーンがその剣を地面に突き刺した。
よほどの力で刺したのだろう。寸分なく敷かれ石にひびが入り、切っ先が割れ目に突き刺さっている。
フゥフゥと肩で息をしながら、ジェーンは激しく歯ぎしりをした。
「あの女が・・・あの女が!!私の家族を見限ったんだ!!!あの女が!!叔父さんを殺したんだ!!!」
もはや絶叫に近い声に、フェリクスは耳を疑った。
―家族を見限ったってのは、恐らくアーベンロート卿が間に合わなかったから、そう思ったんだろう
―そしてジェーンは何らかの手段で、叔父で元旗騎士のリチャードから戦い方を教わってたはずだ
―そのリチャードを、アーベンロート卿が殺した?
「待てよ、話が読めねぇぞ?あのアーベンロート卿がそんなことをしたって言うのかよ!?」
「そうだ!!あの女は、私たちを守ると言って家族に近づき、実際に襲撃されたときにはどこかに消えた!!さらに叔父さんの元にいた時に、あの女は・・・あの女は!エルトリアの騎士だと言って、叔父さんを背中から刺したんだ!!!」
―そんなはずはねぇ・・・
―そんなはずはねぇ!
「そんなはずはねぇ!!」
いつの間にか、フェリクスの心の声は、漏れだしていた。
「アーベンロート卿は救えるならば、敵の命も救う人だ!!俺たち騎士はのみならず、帝国の奴隷にすらつねに優しく、そして何よりも強い人だ!!そんな人が、そんなことするわけがねぇ!!」
「私がこの盲いた目のせいで間違えたとでも!?私は、あの女が名乗った、『アンナ・アーベンロート』という名は絶対に忘れない!!」
剣に地面から引き抜くジェーンに、立ち上がったフェリクスは、先ほどよりもずっと全力を出した戦いを覚悟しながらも、最後まで剣を抜かないよう、言葉を紡ぎつづけた。
「見限ったわけじゃねぇ」
「なんだと?」
「アーベンロート卿は、アンナさんはお前の妹の、アビゲイルの誕生日を祝うために、街の店へケーキを取りに行ったんだ。任務中の騎士として、あってはならない行為かもしれねぇが、それでもお前を見限ったわけじゃねぇ!!」
「嘘をつくな!!」
「嘘じゃねぇ!今でもあの人は、お前を、ファミリアエの人々を守れなかったことを忘れちゃいねぇ!!悔やんで悔やんで、死にきれない思いでいる!」
「黙れ!詭弁だ!!」
「さっきの言葉だって嘘じゃねぇ!!俺のバカなダチが、逃げるお前の背中を撃とうとしたとき、アーベンロート卿は今まで見たことがないほど怒っていた。『彼女を傷つけたら、即座にお前を叩き斬る』ってな。お前が生きてるって分かったときに、泣いて喜ぶような人が、お前の敵だとどうして言えるんだよ!?」
フェリクスの声が、がらんどうの広場に響き渡る。
ジェーンは剣を持つ手を震わせた。
「私だって・・・私だって!そう思いたい!!あの時を思い返すたびに、アンナはそんな人じゃないって・・・でも、叔父さんを殺したのは間違いなく・・・あああああああああああ!!!」
様々な想いであふれ返った気持ちを、ぶちまけるかのように叫んだジェーンは、その場に屈みこんだ。
ガランッと剣が地面に落ちる音と共に、広場は再び静寂に包まれた。
フェリクスはそんな彼女にそっと近寄り、自身のマントをかけた。
「騎士団なら事件のことを、色々調べられる。そして、本当にアンナさんがお前のことを狙っているのなら、俺がお前を守る」
「・・・なぜだ?私はお前に刃を向けたのに」
「近衛騎士だからだ。皇帝陛下の臣民を守るのは、最重要の任務だ」
見上げるジェーンに、フェリクスは胸に下げた、皇室近衛騎士団の紋章が入った十字架を手に取った。
「だから、一緒に行こう」
差し出したフェリクスの武骨な手を、ジェーンは自分の手をそっと握った。
華奢だが、暖かく優しい手だ。
立ち上がったジェーンに、フェリクスはまるで皇帝に対するかのように、慇懃に頭を下げた。
「私、エルトリア帝国皇室近衛騎士、フェリクス・カウフマンが、この身を尽くして貴女を御守り致します」
それにジェーンは、初めてアンナにあった時を、思い返していた。
―あの時も、アンナがこうして首を垂れていた
「ハリカルナッソス、ユージーン・ファミリアエが娘の、ジェーン・ファミリアエ。どうぞよろしくお願い致します」
ジェーンも、昔母親につつかれながらやったように、恭しくカーテシーをした。
双方ともに頭を上げたところで、フェリクスがジェーンの手を取った。
「ご案内いたします」
おちゃらけて、エスコートを気取ってみせるフェリクスにジェーンが少し笑ったその時―
「ジェーン・ファミリアエだな?」
不意に声がかけられた。