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ユートピア  作者: 吉田 要
第一部 家族の行方
19/70

1-17 思いを剣にのせて

 額から滴った血が、目に染みる。

 見なくとも、感覚はある眼球に、ジェーンはため息をついた。

 鼻になんとなく潮の匂いが広がった。

 同時に、切り裂くような音が徐々に迫る。

 ―風・・・

  ―四時の方向かっ!

 タタッと横に駆けると、頬を刃のように鋭い風が撫でた。

 滲む血に、もし直撃していたらを考えてゾッとした。

「さっすが~!良く避けたね!」

「避けただけだと思ったか?」

 目の前で、聞いている方が疲れてくるほど甘ったるい声ではしゃぐナーシャに、ジェーンは冷ややかな声で告げた。

 「?」と疑問符を浮かべたナーシャだったが、直後予力で察知したのか、即座にその場に伏せた。

「ッ!」

 ジェーンの脇を通り過ぎて吹き込んだ風に、氷の棘のようなものが混じっていた。

「風を操る騎士術・・・アビー、頼む。戻ってきてくれ・・・!」

 ジェーンの絞り出すような声に、額から血を流したナーシャがニヤリと口角を釣り上げた。

 そして滑り出すように走り出し、ジェーンが気づいた時には自分の頬にナーシャがそっと手を当てていた。

「可愛いからお姉さんのことは好きだなぁ」

「アビー・・・?」

「ねぇ、このままどこかに消えちゃおうよ。二人でさ。私、正直騎士やりたいってわけじゃないし」

 ―懐かしい声

  ―懐かしい匂い

   ―だが・・・

 「どう?」と耳元で囁くナーシャの手を、ジェーンはガシッと掴んで突き放した。

「笑わせるな・・・!私はお前と話すつもりも、仲良くするつもりも毛頭無い。私はお前を倒してアビゲイルを取り戻す!」

 空を裂くように振られた剣を、手首に取り付けた短剣で軽く受け止めたナーシャはもう片方の手でジェーンに斬りかかった。

「アハ、フラれたのはお姉さんが初めてだよ!ますます、欲しくなっちゃう・・・ねッ!」

 地面を蹴り上げてジャンプしたナーシャが、両手を組み合わせて短剣をジェーンに叩きつける。

 ―下手に受け止めれば、訓練の時のように押し込まれる!

  ―『旗のように風にはためき、鋭い一撃を加える』!

 左手でベルトに差し込んでおいた鞘を引き抜き、それで刃を受け流した。

 ―自分の力はほぼ使わず、相手の力を利用する!

 予想外の防御に目を丸くして態勢を崩したナーシャ。

 ジェーンは間髪入れずに地面に転がった彼女に右手の剣を振り下ろした。

 だが、剣は後少しのところでまるで見えない何かに当たったかのように、それ以上下せなくなった。

 ―!?

  ―これはフェリクスのピストルが暴発したときと同じ・・・!

「ヒュー、やるね。でもざんねーん。私には届かないね」

 「よいしょ」と立ち上がったナーシャ。ジェーンの剣に「危ないなぁ」と笑いながら手を当てると―


ジェーンは体ごと吹き飛ばされた。


 バク転を何度かし、勢いを殺して態勢を立て直す。

 ―なんだ今のは・・・!?

  ―風が空気の塊のように・・・!

「面白いでしょ?風ってさ、スパスパ切れる刃物にも、重い一撃を加える鈍器にも、自由自在に操れるんだよ。それこそさっきやったみたいに、剣を止めることもね」

 ―私の覚えていた力を、遥かに上回っているのか・・・

  ―なんとか傷つけずに、捕まえる方法は・・・

 しかし悩むジェーンを嘲笑うかのように、ナーシャは容赦なく襲い掛かってきた。

 風を背に受けて、猛スピードで迫ったナーシャが右手をジェーンに突き立てる。

 何とかそれを回避して反撃に出ようとするジェーンだったが、ナーシャはその場で跳躍して彼女の背後に降り立つと、強烈な回し蹴りを叩き込んできた。

 ―ッ!

  ―でもこの勢いを・・・!

 蹴り上られた勢いを利用してふわりと宙に舞う。

「無駄無駄、空は風の庭だよ!」

 得意げに叫んで、胸に挿した十字架を少し抜いて血を垂らすナーシャ。

 ―前に後ろ

  ―左右からもか・・・

 十字方向から迫る風に、ジェーンはいたって冷静な表情だった。

 それにナーシャは怪訝な顔をした。

「まっさか、殺しはしないとか思ってるわけじゃないよね?」

「・・・まさか、この程度で殺せると思っていないだろうな?」

 ナーシャの言葉に、少し笑って返したジェーンは、アンナから渡された十字架を胸に突き刺した。

「『千冰ノ壁(せんひょうのへき)四面塞(しめんさい)』」

 瞬く間にジェーンの四方を暑い氷の壁が覆った。

 壁に猛烈な風が叩きつけられたが、びくともせず、そのまま落下したジェーンはナーシャ目掛けて振り下ろした。

 なんとか防ごうとするナーシャだったが、ジェーンの剣が一足早かった。

 肩に強烈な衝撃が走り、顔を顰めたナーシャがジェーンから距離を取る。


 ―ちぇー!

  ―切られ・・・っ!?

 肩を抑えたナーシャは、強い痛みと筋・神経の違和感を感じだが、斬られてはいないことに気づいた。

 ―刀身の平で叩かれただけ?

  ―仕留められるところだったのに

   ―気に食わない・・・!

「『拳風乱(けんぷうらん)』!」

 トッと地面を蹴ってジェーンに接近すると、肘を風に押させた素早い乱打を叩き込む。


 ―クッ・・・

  ―予力で分かっていても、防ぐことなんて・・・!!

 拳を避けても、装着された短剣がジェーンの体に突き刺さる。

 剣を振ってなんとかナーシャを振り払った。

 ―落ち着け

  ―さっきのような軽い攻撃は、いくら何でも利用できない

   ―使える大技だけ利用して、あと一手に・・・!

「『冰蜂(こおりばち)』!」

 五本ほどの氷柱をナーシャ目掛けて放つ。

 想定していたことではあるが、ナーシャはそれをいともたやすく吹き飛ばすと、一気に斬りかかってきた。

「シンプルに行こうよ!私が勝ったら、お姉さんは私のモノってことでいいよね!」

「“勝てたら”の話でいいなら・・・なっ!『冰鑓葬陣(ひょうそうそうじん)』!」

 十字架を胸から引き抜いたジェーンが叫ぶと、迫るナーシャ目掛けて地面から巨大な氷の槍が飛び出した。

「うわっ・・・っとォ!!」

 あまり予力には長けていないのか、予想できていなかった様子のナーシャは何とかギリギリ回避するので精いっぱいだった。

 だがその避けた先にも、さらに氷の槍が飛び出してきた。


 ―!?

  ―ちょっ、ウソでしょ・・・!

   ―間に合えっ!!

「風神様、風神様!!どうか御力を御貸し下さい!!『風神(ふうじん)鋼鱗(こうりん)』!!」

 眼下から突き上げてくるそれに、冷や汗を流したナーシャだったが、何とか騎士術の発動に間に合った。

 その氷の槍は、ジェーンにとってナーシャを突き刺すためではなく、彼女にまとわりつかせることで動きを封じようとしたものだった。

 だが、槍もジェーンの思惑も、二つの意味で打ち砕いた。

「風神様にゃあ、届かない!」


 音の反射が無くなって、始めは氷の槍が無くなったのかと錯覚したが、そうではなかった。

 ―砕かれた・・・!

 ナーシャに触れた氷から、一瞬にして灰燼に帰した。

 ―高速で吹く風を身に纏っているのか・・・

  ―あれじゃ、そもそも触れることが出来るかどうか・・・

 剣を構えて考えをめぐらすジェーンだったが、ナーシャが風と共に猛然と襲ってくる。

 ―やらなければ分からない・・・か

 適当に氷塊を放り投げてみるが、予想通りナーシャに近づいただけで粉々に砕かれる。

「言ったっしょ!」

 突き出された拳に、ジェーンは反射的に剣で防ごうとした。

 ―ッ!

 慌てて剣を引こうとしたが、拳と既に触れてしまっている。

 ―しまった!!

 だが、剣は氷のように砕かれることは無かった。

 それどころか、刃こぼれ一つ起こさず受け止めていた。

 ―!?

 驚いて刃先を緩めたジェーンに、すかさずナーシャが脇腹を蹴りつけた。

 地面を転がり、積み上げられた木箱にぶつかる。

 ―・・・そうか

  ―攻撃中は鱗が剥がれるのか・・・!

 血を吐いて立ち上がったジェーンは、そう確信した。

 ―相手に攻撃を引き出させ・・・

  ―それを利用する

   ―まさに、私の剣の型にピッタリだな

 ニィっと笑うジェーンに、ナーシャは怪訝な視線を向けたが、「ま、いっか」と笑った。

 ―基本的に軽い攻撃しか出してこない

  ―それを躱しつつ、隙をつくことで大技を引き出す・・・!

   ―あとは、『旗のように風にはためき、鋭い一撃を加える』

 再び迫るナーシャの拳をステップして躱す。

 ―冷静に、「読め」・・・

 予力に注力しながら、とにかく躱すことに集中する。

 ―右上

  ―左中

   ―右下

 ―短剣がそれより外を回っているが・・・

  パターンはこの三つの繰り返しだ・・・!

 軽いジャブのような連打の中、左中の拳を避けたジェーンは、次に来る右下をあえて軽く受け止め、短剣に沿って、ナーシャの右側面へと回り込んだ。

 がら空きになっている脇を、鞘で即座に叩き上げる。

「甘い甘い!」

 ナーシャが身を捻る様にして突き出した左手の短剣で、それを受け止める。矢継ぎ早に、大きく振った足でジェーンの足を払いのけようとする。

 ―来た!

 ―待っていた展開!!

 ジェーンは鞘を放り投げて、その蹴りを踏み台にして低く飛び上がると、彼女の脇腹に剣の柄で殴りつけた。

 続けざまに、顎の下へ掌底を放つ。

「グッ・・・」

 低い声で呻き、よろめいたナーシャがその場にうずくまった。

 ジェーンは手縄を手に取ると、慣れないながらもなんとかそれでナーシャを拘束しようとした。

 ―すまない、アビー

  ―だがこれで・・・

「・・・お姉ちゃん・・・?」

 掠れた声に、ジェーンは全身をビクリと震わせた。

 ―まさか・・・

 「思いだしたのか!?」と全身の力が抜ける思いがするジェーンを、ナーシャがギュッと抱きしめた。

「やっと、やっと・・・」

「あ、アビー・・・」

 背中に回されたナーシャの手が、ジェーンの体をギュウと締め付ける。

「抱きしめらーれた♡」

「!?」

 ―ちがッ

 ジェーンが剣に手を伸ばそうとしたその瞬間、ナーシャが首元に針を突き立てた。

「フフーン。どんなじゃじゃ馬さんでも、これには勝てないよねぇ~」

 徐々に暗い世界に落ちていく中でも、ジェーンはなんとかナーシャを、アビゲイルを掴もうと手を伸ばした。



 滝壺へと、堕ちてゆく。

 どんどん光は遠くなり、いつしか闇の真っ只中にいた。

 落ちているのだろうか。

 それとも既にここが底なのだろうか。

 はたまた昇っているのか、宙に浮いているのか、吊られているのか―


 悠久の時が流れるようだ

 独り漂う闇の中

 私は永遠に閉じ込められたのか



 草の匂い

 野を駆ける風

「お姉ちゃん、早く早く!」

 妹の声が聞こえる。

 分かっている。

 これは夢。

 いつか見た光景を、脳が合成した、起きれば儚く散ってしまう夢。

 だからこそ目覚めたくはなかった。

「ほらこれ!お姉ちゃんに!」

 妹が手に何かを握らせる。

 触ったところ、草が編まれて冠になっているようだった。

「綺麗なお花、いーっぱいつけたんだよ!」

「うん、ありがとう」

 求めていたものはこれだ。

 ああ、この日常のなんと素晴らしや

 そしてなぜ、それを失ってから、その日常の素晴らしさに気づくのだろう―

「お姉ちゃん、綺麗!」

「アビーのお陰だよ」

 えへへとはにかんだ妹が、照れ恥ずかしさを隠すようにテテテと走りだした。

 それと同時に、背中から悪寒が走る。

 ふと一面緑だった視界が、橋からジワジワと暗くなっていくのに気づいた。

 いやだ!

 私は戻りたくない!

 闇に呑まれぬよう、走り出した。

 もう声も聞こえなくなった妹へ追いつけるよう、走り出した。

 寒さが背中を引っ搔く

 手に、足に、不気味な力がまとわりついた

 草の匂いも、野を駆ける風も感じない。

 どんどん暗くなっていく視界に、私は走るのを諦め、うずくまって目を閉じた。


 今度は正面から冷たい風が、ジェーンの小さな体に叩きつけてきた。

 さっき感じた悪寒ではない。

 それよりもずっと暖かいのに、体に突き刺さるような、純粋な冷たい風。

「ほら、ジェーン!あんまり長く雪遊びしてると風邪ひくわよ!」

 真っ白な視界。

 母の声。

 懐かしい、家の庭だ。

 気づくと、自分のまだ発達していない弱弱しい騎士術で、小さな氷の人形を作っているようだった。

 ザクザクと雪を掻き分け、妹が後ろから抱きついてきた。

 ワッと声を上げてそのまま雪に倒れ込む。

 冷たい雪に身を包まれるのも、なんだが懐かしく感じる。

「あ、もう!アビー!お姉ちゃん、謝りなさい!」

 怒る母から、キャッキャッと妹は楽しそうに逃げ回った。

 倒れ込んだままの私を、誰かが抱え起こした。

「大丈夫か?あんまりそうしていると、母さんの言う通り風邪をひくぞ」

 普段からあまり外に出ず、もっぱら引きこもって騎士学についての研究に没頭している父。

 その細い腕で、そっと私から雪を払った父は、思い出から何一つ変わっていなかった。

「うん、大丈夫!」

 そう強がって見せたが、再び吹いた風にビクリと身を震わせる。

 本当に風邪をひいたかもな・・・

 鼻を啜った私に、突然反対方向から暖かい風が吹いてきた。

「お姉ちゃんは私が守るの!」

 鼻から一筋の血を垂らした妹が、小さな胸を誇らしげに張っていた。

 そうだ

 アビーはこのころから騎士術に優れていたんだな

 アビーの鼻血を慌てて母が拭い、父が私の手を取って家に帰ろうとする。

 このまま

 このまま・・・

 そう思っていた私の目の前で、父の明けた扉から、真っ黒な闇が飛び出してきた。

 まただ!

 もういやだ!!

 戻りたくないんだ!!!

 そんな私を嘲笑うかのように、闇は逃げる隙を与えずに、私の体を飲み込んだ。


 うずくまって目を閉じた私

 寒さに身を震わせていると、瞼の隙間からひかりが差し込んできた。

 下からグングンと迫ってくる


 身が温もりに包まれた。

 この温もりを知っている。


 柔らかい声が耳を撫でた。

 この声を覚えている。


 穂先の乾いた筆で墨を塗りたくったような・・・

 まるで死神の腹の底のような世界で、眩いひかりを放ったそれが、私の体を包み込む。


 ここに―

 ここにいたのか

 懐かしい声

 懐かしい温もり

 ああ・・・


 アビー・・・


「    ん」


 何を言っているんだ


「  んね」


 聞こえない


「        聞いて」


 待ってくれ

 何を・・・


「       き放って」


 なんだ

 何を言おうとしているんだ


「       つけたくない」


 徐々に光が体を押し上げ始める

 突然、水中にいるかのように息苦しくなってきた


 いやだ

 アビゲイル!


「おねがい、お姉ちゃん」


 ゴポゴポと口から空気が漏れた

 上昇する速度はどんどん上がる

 抵抗する私を他所に―


 徐々に周りが明るくなっていき、墨をぶちまけた闇の世界がはるか眼下になっていく

 息苦しさに、本能的に藻掻く


 クソッ

 このまま落ちればは私は・・・


 心が死を望もうと、本能は生を渇望している。


 明るさが増していく世界に、ふと上を見上げると、何かそこに妹の影が見えた


 ・・・アビー?


 そうだ


 何をやっているんだ、私は・・・


 目の前にいるじゃないか


 やっと見つけたんじゃないか


 アビゲイルを―



 突然目を開いたジェーンに、ナーシャは酷く驚いた様子だった。

 ―ウソでしょ!

  ―なんで目が覚めて・・・!?

   ―薬を直接打ち込んだのに・・・!

 信じられないと、ナーシャは無意識にジェーンから一歩距離を取った。

「ま、待ってよ、なんで?え、いや、え?」

 冷や汗をかくナーシャだったが、ジェーンが片手に剣を持っているのに気づき、直ぐにそれを風ではらった。

 ジェーンの体を吹き飛ばす程の風が、剣の一点に集中し、刀身を中ほどから砕き折った。

「・・・ハハ、これでどうよ!お姉さんがどうやって眠りから覚めたのか知らないけど、剣もない状態で・・・氷だけで私に勝てるもんか!」

 剣を折ったことで、調子を取り戻したナーシャが短剣をつけた拳で襲い掛かってくる。

「避けるだけじゃ、何もできない・・・よッ!!」


 ―さっきよりも随分早い

  ―だがその分、狙いは雑に

   ―そして連打も長くは続かないだろう

 ―息切れを起こした隙に斬られるかもしれないのに

  ―そんなに焦って・・・

   ―戦っているのか

「ホラホラ、どうしたの!?ねぇ!」

「・・・もう、やめにしようアビー」

「何言ってんの!?命乞いのつもり!?だったら安心してよ、殺しはしないからさァ!」

 ジェーンにはナーシャの強気の言葉が悲鳴のように聞こえた。

 ナーシャの攻撃一つ一つが、弱々しく見えた。

 徐々に遅くなっていくその拳を、パシッと受け止めて、ジェーンが言った。


「もう終わりにしよう、アビゲイル」


 その一言に、ナーシャは体をビクリと震わせた。

 ジェーンに掴まれた手がブルブルと震え、それを隠すようにジェーンの手を振り払った。


()()()()()()()()()!!!」


「覚えているのは、ボッセに育てられたところからだけ!いつもどこか怖かった!自分の足音すら怖かった!!私が一体だれなのか、本当は何者なのか!誰も教えてくれない!!私は誰なの!?鏡を見て、自分の瞳を覗き込むと、何故か背筋がぞっとする!」


「何かを感じることがあっても、それを確かめることなんてできなかった!!いくら暗闇に手を伸ばしても、何も掴めなかった!!誰もいないんだ!!私を知っている人なんて!!!」


「でもね、お姉さんのことを聞いた時、なにか見えたような気がしたんだ。今まで振り向いても、何も見えなかったのにね・・・」


「お姉さんを見た時、暗闇に浮かんできたんだ。今まで何もつかめなかったのに」


 「でもね」と肩を擦ってナーシャは俯いた。


「怖いんだ・・・自分を知るのが・・・」


「アビー・・・」


 貯め込んだ感情を、濁流のように溢れ出だしたナーシャに、ジェーンは一歩近づいた。

 震える彼女を抱きしめようとして、なにかを呟いていることに気づいた。


「怖いんだ・・・」


「怖いんだ・・・!」


「怖いんだ!!!!」


 スッと突き出されたナーシャの拳。

 ジェーンに至近距離で繰り出されたが、防げるほど遅くはなく、かといって“自分に当たらないようにする方法はある”くらいの速度で迫っていた。


 この人なら、きっとそれに気づいてくれる

 その折れた剣を私の胸に突き立てて

 この手を止められる。

 私を恐怖から解き放ってくれる―


 ジェーンが剣を持つ腕を後ろに引くのを見て、ナーシャは嬉しそうな、そして寂しそうな表情をして目を閉じた。



 ドスッという衝撃が腕を這う。

 続いて生温い液体が、手にまとわりついた。


 ・・・えっ・・・?


 目を開けると、後ろに剣を放り捨てたジェーンが、短剣が深々と腹に突き刺さるのも気に留めず、その両手でナーシャを抱きしめていた。

「な、なにして・・・」


「怖かったな」


 ―なんで・・・?


「辛かったな」


 ―どうして・・・


「苦しかったな」


 私を殺さなかったの・・・?


「ごめんね」


 どうして・・・


「ずっと一人ぼっちにさせて」


 私は涙が止まらないの・・・?


 自分の胸で、声を殺して咽び泣くナーシャの、アビゲイルの頭をそっと撫でながら、ジェーンは昔、母に言われた言葉を思い出していた。


「貴女の目が見えないのは、なんの弱点にもならない」

「それを理由に、いつまでも誰かに頼り切りになるのも許されない」

「アビーはいい子だから、いつでも貴女を助けてくれるでしょう」

「だから、アビーが困っていたら、助けるのは貴女よ、ジェーン」


 ―だいぶ遅くなってしまったが、少しは母の言うことも果たせたのだろうか




  ◇  ◇  ◇




 帝都ビュザス 近衛騎士団本部

「何故ですかっ!?」

 アンナの鋭い声が廊下に響く。

 声を荒げたアンナが、メインデルトの襟元を掴み上げる。普段では考えられない行動だ。

「ジェーンたちから救援要請が出ていたということを、どうして私に黙っていたんですか!?」

「ジェーンちゃんのことになると冷静さを失いやすい君のことだ。行かせて何かあっちゃ困るからねぇ」

 激高した様子のアンナに、メインデルトはいたって冷静な様子だった。

「それでも、彼女は私の弟子です!師である私が救出に向かうべきではないのでしょうか!?」

「何度も言うようだけれども、それは君が冷静であればの話さ。酷だが、君は暴走しそうだよ、アーベンロート卿」

 行き交う騎士が気まずそうな視線を二人に向ける中、カラカラと笑いながら団長であるヴァイオレット・ブーリエンヌが割って入った。

「お前さんの言うことも、メインの小僧の言うことも、それぞれ一理ある」

「ブーリエンヌ卿・・・」

 「執務室まで響いてきたわ」と笑うヴァイオレットの傍らには、副団長アニータ・クインテットがいつものように穏やかな瞳を携えて立っていた。

「だが、今はノヴゴロドの動きも怪しい。通常の三人に加え、ティサが先日前線に発った。守護代も不在の今、帝都の守りを薄くするわけにもいかん。それに現場には、ロロの爺とラルラの小僧を行かせてある。行きたいのはわかるが、私情はおいて自らの任を行ってほしい」

 できるだけ穏便に、だが言うべきところははっきりと。

 そんなヴァイオレットの言葉にまで、アンナは反対できなかった。

「・・・わかりました」

「うむ。・・・それからメインデルト。配慮した上での行為なのだろうが、少なくとも情報を共有するべきだのう」

 ぎろりと睨みつけるヴァイオレットに、メインデルトは気づかれないように薄ら笑いを浮かべて頷いた。

「以後注意します、ブーリエンヌ卿」




  ◇  ◇  ◇




 しばらくして、アビゲイルが顔を上げた。

「ごめんなさい。その、私・・・」

 腹部に突き刺さった短剣を見るアビゲイルに、ジェーンは首を横に振った。

「私は大丈夫だ。アビーが無事なら」

「で、でも早く医者に・・・!」

「その通りだぜ」

 慌てるアビゲイルに、いつの間に来ていたのか、顔面蒼白のフェリクスが頷いた。

「ほら肩、貸せって」

「すまない・・・」

 どちらもヨレヨレと足元がおぼつかない。二、三歩進んだあたりで、倒れ込んでしまった。

「おうおう、俺を忘れんなって。アビーちゃんも手ぇ貸してくれ」

 物陰からひょっこりと出てきた血まみれのスヴェンが声をかけ、それぞれ肩を組みあって一歩、また一歩と街の方へ歩みを進める。

「皆、無事だったんだな」

「ああ。あの大男、きっちりぶちのめしてきたぜ」

「ハッ、こっちのはまぁまぁだったな。次は譲れよ、フェリ」

「軽口叩きやって。血まみれじゃねぇか」

「お前だって、あの技使ったんだろ?怒られても知らねぇからな」

 いつも通りの二人の声を聞いて、笑ってしまった。

 それは、二人とも無事であったということも、そしてアビゲイルを取り戻したという安心感もあったのだろう。

 気づけば笑いが伝染し、四人とも大笑いしながら歩いていた。

 医者に診てもらってから、帝都に帰って・・・アンナにひどく怒られるだろうな

 あの声が聞こえるまで、そう思っていた。

 自分がどれだけ甘かったのか、思い知らされることになった。


「情けないな」

20/8/24 再編集しました

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