亀の甲羅でみる夢は
たゆたう。ゆらりゆらりと。
満天の星空に浮かぶ下弦の月に見下ろされ、亀の甲羅の中で海を漂う。どこの海かは分からない。私が小さくなったのか、亀が大きいのかは分からないが、甲羅の中に私はいる。
内から見たら透明な甲羅の中から、夜空を見上げたり、波しぶきの先にある幾千万の星に照らされた果てを眺む。
これは夢だとはっきり自覚している。
最近、眠りにつくと必ず見る夢の中。この夢の中で無限とも思える時間を過ごす。やがて夜が明け、沈む月を惜しみながら、果てから昇る太陽を歓迎する。荒れ狂う波に呑まれながら、それでも漂い晴れを待つ。繰り返しのように思われる日々も、一日として同じ日はない。同じ波が二度とないように。
そして、いつもと同じ朝の六時三十分を告げる目覚ましのアラームで現実世界に引き戻される。
ゆっくりと目を開けると、そこはカーテンの隙間から差す薄明かりに照らされた殺風景な部屋の中。
布団から右手を出し、ベッドサイドの目覚ましのアラームを止める。
部屋の寒さに震えながら、もぞもぞと布団から這い出て、目覚まし脇のエアコンのスイッチを押す。
しばらくすると吹き出る温風に身を当てながら、今日一日の仕事に頭を向ける。
朝一の会議の段取り、取引先との商談。特に変わったことや問題もないだろう。
さて、いつものようにシャワーを浴びて、行きつけの喫茶店でモーニングを取ろう。
こうやって朝を迎えても、今夜も見るであろう夜の夢に私は想いを馳せている。
仕事をそつなくこなし、定時で上がると、私は家路を急ぐ。
渇いた冷たい風に枯れ葉舞う中、コートの襟を立てる。
歩きながら、ふと、会社での会話が頭をよぎった。
「なんか、最近やつれてないですか? それに、たまにボーっとしてるし。大丈夫ですか?」
いきなりの部下の言葉に、私は訳が分からず返答に困った。
「いや、何も問題はないが。どうした急に?」
部下も困り顔でこちらを見てくる。
「いや、仕事もいつも通り完璧にこなすし、問題ないっちゃないんですが、上手く言えないですけど、心ここに有らずというか。それに、確実にやつれてますよ。疲れ溜まってるんですか?」
「まあ、ここの所立て込んだからな。そのせいでそう見えるんだろ。私はいたって健康だし、何も変わったことはないよ」
部下はうーんと思案顔をしたが、「課長がそう言うんなら問題ないか」とその場は引き下がった。
自分では気づかないだけで、端から見たらそうなのかとも考えたが、自覚は全くない。毎日顔を見てるが、これといってやつれてる風にも感じないし、ボーっともしてないはずだが……。
それでも、駅に向かう人々に紛れながら歩いていると、そんなことも片隅に追いやって、いつもの夢へと向いていく。
最初にあの夢を見たのは、ここ一ヶ月前くらいのはずだ。初めはたまに見る夢との違いに驚いた。亀の甲羅の中というシチュエーションもそうだが、夢の中なのにまるで現実にそこにいるようだったからだ。白黒ではなく色付きだったのもそうだし、甲羅の中の潮っぽい空気の匂いや、ざらついた触り心地。叩くとコンコンと響く音。全てが感知できた。そして、過ごす時間も長くなっていった。一日が二日になり、やがて時間を忘れるくらいの長さに。いくらでも過ごせそうに思う。
現実の時間とは解離した夢の中の時間軸。それにどんどん魅了されていくのを感じる。
マンションに着くと、寒々とした部屋の温度も気にせず、コートを着たままリビングのソファーに座る。
テーブルの上のノートパソコンを開き、昨晩の夢を思い出しながら打ち込んでいく。最初は記録していなかったが、途中から記録するようになった。
夢はいろんなものを見せてくれた。
ただ海面を漂うだけでなく、自分の意思で潜ることもできたし、海で暮らす生物の様々な出来事も。
ある時はシャチが遊びでホオジロザメを狩って、肝臓だけ食べる場面。ある時は雄イルカが集団で雌イルカをレイプする場面。マッコウクジラの群れに交じって何万キロも旅をしたことや、月よりも遠いと言われる深海の最奥まで潜り、まっ暗闇の中妖しく光る奇妙な魚や妙に手の長い蟹みたいな生物達を鑑賞したことも。
だから今宵も期待に胸を膨らます。
でも残念なことに自分が見たいものは、まだ見れない。
亀に因んだ竜宮城や孤島のようにせりだした岩の上で歌う人魚。それに秘密裏に任務にあたる潜水艦。
訓練次第では見れるようになるかもとの淡い期待もある。実際慣れるにしたがって滞在時間は延びてるのだから。
さて。さっさと食事と風呂を済ませて、いざ夢の中へ行こう。子供のように冒険心をくすぐられる、あの世界へ。
食事も風呂も済ませ寝室に入ると、あらかじめつけていたエアコンのおかげで、寒々とした空間に迎えられることもなかった。
パジャマに着替えてベッドに潜り込み、仰向けになる。
リモコンで電気を消して、目が暗さに慣れるまで天井を見つめる。
黒に近かった天井が、やがて本来の白が混ざり合うように中和していく。
私はゆっくりと目を閉じる。
最初に手足。そして身体。最後に頭が徐々にベッドに沈み込んでいくようにイメージをする。いろいろ試したが、これが一番すんなり入れる。
部屋の匂いや、窓越しに聞こえる道行く車の音、それらを感じるあらゆる感覚がなくなっていく。
ふっと突然意識が途絶える。
そして唐突に意識が戻り、私はゆっくりと目を開ける。
最初に飛び込んできたのは、鮮やかな青だった。甲羅にかかる波しぶきの先に見える水平線。その上に広がる果てなき青。水平線を挟んだ二色の青の中をたゆたっていた。
背後にあるであろう陽の光に波間が煌めいている。
珍しいことに、甲羅の上には一羽の海鳥が。
いつもとのわずかな違いにも、これから見る景色に期待を抱いてしまう。
ひょっとして望んだのもが見れるかもと、試しに竜宮城を思い浮かべてみた。
亀は私の願いを察したように、ゆっくりと海の中へと潜り始めた。
飛び立つ海鳥には悪いと思うが、心の中で謝り、イメージし続ける。
だが、行けども行けども竜宮城は見えてこない。
小魚の群れを追うマグロや、悠々と泳ぐジメベエザメを目にするも、お目当てにはたどり着けない。
まあ、まだ無理かと諦め、亀の行き先に身を任せる。
甲羅の中にいると、腹が減ることもなければ喉も乾かない。眠気に襲われこともなく、ただひたすら海遊していく。今のところそれに退屈することもない。ずっと居れたら良いのに。そんなことも思う。
やがて亀は浮上し始めた。
海面に近くにつれて、月と星々の柔らかい光が届く。どうやら夜を迎えているようだ。
その光の糸を辿るように顔を出すと、満天の星空に優しく包まれる。星座に興味がある人ならばたまらないだろう。私に分かるのは北斗七星くらいだが、勝手に星々を線で繋ぎ、それに名前をつけていく。あれはヤカン座、これは自転車座と、我ながら陳腐なイメージしかできないが、それでも一旦名前をつけてみると、そう見えるから不思議だ。
そんなことを繰り返し、幾日過ごしたかも忘れた頃に、目覚ましのアラームが聞こえてきた。
亀は熱く自己主張する太陽に向かって進んでいる。
終わりかと残念な思いに駆られながら、目覚めへと意識を向ける。
ふっと視界が暗くなる。
ゆっくりと目を開ける。
眩しい! 思わず右手で目を隠す。
私は変わらず甲羅の中にいた。
何事だ!? そう思った矢先に視界が暗くなる。
恐る恐る目を開けると、薄ぼんやりとした白い天井が見えた。
何だ? 今までこんなことはなかったぞ。ただのタイムラグか?
布団を剥ぎ起き上がり、回りを見渡す。いつも通りの殺風景な部屋が、カーテン越しの明かりに薄く照らされている。甲羅の中の潮っぽい匂いもしない。ちゃんと現実世界のようだ。
何だったんだ今のは?
早く止めろとばかりに鳴るアラームを切り、頭を振る。
パジャマが汗で濡れているのに気がつく。
寒気なようなものも感じるが、とりあえずシャワーを浴びよう。
何の問題もないはずだ。こうしてちゃんと朝を迎えているのだから。
「課長、やっぱりおかしいですよ。そのやつれかた」
朝一の部下の言葉にざわつきを感じる。
「そうか? なあ、そんなにやつれて見えるか?」
「はい。病人みたいですよ」
部下の即答に素直に頷いてしまう。
「ちょっと休んだらどうですか? せっかく春から部長に昇進なんですから」
「まだ噂の段階だ。軽々しく言うな」
噂の段階ではないのは分かっているが、軽く制した。九分九厘決まった話だった。
「なんにしろ、課長に何かあったら社の損失ですから、気をつけてくださいね。俺は課長に引っ張り上げてもらう気満々ですから」
部下の軽口に適当な相槌を打ち、パソコンの画面に目をやる。
のめり込み過ぎたのか? 一旦止めてみる時期かもしれない。言う通り仕事に影響が出るようではもともこもない。
そうは考えながらも、甘美な夢への想いも断ち切り難い。
仕事と思考の間を漂うように、時間だけが過ぎていった。
マンションに帰り、いつものように夢の内容を打ち込む。
食事もそこそこに、風呂も済ませ、リビングに戻りスコッチをグラスに少し注ぐ。
甘味のある軽やかな香りに身をゆだねながら、今夜見るはずだった夢への想いを断ち切る。
部下が心配するほどなのだから、相当酷い外見なのだろう。
寝酒などする習慣はなかったが、すんなり眠りにつくために買ってきたスコッチを煽ると、喉に熱いものが通っていく感覚と共に徐々に思考が揺らぎ出す。
これなら何も考えずに、すぐに眠りにつけるだろう。
最後の一口を飲み干し、ふうーっと熱い息を吐き、グラスもそのままに寝室へと向かう。
ベッドに入る頃には、眠気も頂点に達していた。
念のため仰向けではなく横這いになる。いつもと違う態勢なら、夢の世界が遠ざかる気がしたからだ。
それから私は抗うことなく眠りの手に包まれて、意識がゆっくりと遠くなり、やがて途絶えた。
潮の匂いが微かに鼻先に届いた。そして、それは段々と濃くなっていく。
おかしい。私は普通に眠っているはずだ。いや、じゃあ、何故それを思考できる!?
身体がゆらゆらと揺れているようだ。
私は恐る恐る目を開けた。
眩しい光と共に、雲一つない、幾重にも重なった青が飛び込んできた。
私はいつも通り亀の甲羅の中にいた。
何故だ? 確実にいつもと違った眠りのはずだった。それが何故……。
私の狼狽も気にすることなく、亀は潜り始めた。
遠浅に広がる海底には、海面を通る陽光を浴びて美しく輝く珊瑚礁が果てなく見える。
亀はその中を、色とりどりのカラフルな小魚に交じって進んでいく。
最初は不安だったが、幾日も過ごすうちに、考えも楽天的になっていった。いつもと変わらず目覚めることができるはずだ。そう。アラームが鳴ってしまえば、日常へは戻れる。多少の目覚めの誤差など気にする必要はないだろう。実際戻れたんだし。今は夢の世界を楽しもう。
甘美な酔いが、私の思考を犯していった。
凪いだ海面から空に浮かぶ満月の妖光に照らされていると、目覚ましのアラームが聞こえてきた。
忘れていた不安が押し寄せ、弛緩していた感覚が一気に硬質化する。
大丈夫だ。問題ないはずだ……。
自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと目を閉じる。
開ける恐怖に怖じ気づきながらも、もう一度大丈夫と唱え、一気に目を開けた。
飛び込んできたのは、薄暗さがさす白い天井だった。
自熱で暖まった布団のぬくもりも感じられる。
布団を抱えたまま上半身をゆっくりと起こし窓を見ると、カーテン越しにも朝を迎えているのが確認できた。
なんだ。やっぱり大丈夫じゃないか。
不安と恐怖を押し退けてくる安心感に、両手を組んで上げて一伸びする。
気持ち良く目を閉じた瞬間だった。
ぶつっと音がするように意識が途絶え、戻って目を開けると、私はまた甲羅の中にいた。
最後に見た満月が、おかえりと言わんばかりに見下ろしている。
愕然として固まる私の耳には、止め忘れたアラームの音がまだ聞こえている。
これは……!?
妖しく延びた月の触手に撫でられたように、背筋を冷たいものが通る。
現世との唯一の繋がりのアラームの音にすがるように、必死に目を閉じて戻れと念じてみたが、何回やっても戻ることはなかった。
やがてアラームの音も聞こえなくなり、何度かの昼夜を過ごし、精神の輪郭があやふやに歪み始めたころ。諦めかけていた私の意識がいきなり途絶えた。
微かに音がする。それが大きくなるにつれて、窓の外を走る車のエンジン音だと認識できた。
ばっと上半身を起こし目を勢い良く開けると、私は部屋の中にいた。
額から鼻筋を伝う汗が唇を濡らす。その塩気に甲羅の中を思いだし、ぶるっと震えた。
時計に目をやると、デジタルの表示は午前九時十分を示していた。
「大丈夫ですか? 無断で遅刻なんて今までなかったから心配してたんですよ」
携帯電話には、部下からの着信が三件入っていた。
「すまない。迷惑をかけたな。ただうっかりしただけなんだ。目覚ましをかけ忘れてね」
部下の顔が曇る。
「課長、やっぱり変ですよ。なんで一日で、さらにげっそりするんですか? お願いしますから、病院にいってください」
その言葉に曖昧に頷き部下を帰し、席を外してトイレに向かった。
個室に入り鍵を閉め、仕切りに寄りかかって、頭を抱える。
ダメだ。このままじゃ、あの夢から戻ってこれなくなる。もう、寝ないしか方法がないんじゃなのか。でも、それにしたって限界はある。何日耐えられるのか。そして、耐えられなくなって眠ってしまったら……。
無理だとは分かっているが、眠ることに恐怖を覚えた私は、もうその選択を取るしかなかった。
仕事をあがり、真っ先にドラッグストアへと向かい、栄養ドリンクとカフェインの錠剤を購入する。
何日もつかは分からないが、家には朝のシャワーを浴びに帰るだけにして、夜は何かしらの方法で時間を潰そうと考えた。
雀荘で朝まで打ち、カラオケボックスでひたすら歌い続け、自宅に帰りシャワーで眠気を飛ばす。そんなことを繰り返し四日が過ぎた。
私は限界を迎えていた。
「課長! おかしいですよ! いい加減病院に行くか、休みを取ってください!」
部下にうるさいと怒鳴り散らし、寝ちゃダメだ。寝ちゃダメだ。と呟きながら、開いてはいるが、意味のないパソコンの画面にぼんやり焦点を合わせる。
ザクッ、ザクッと音が聞こえてきた。
「キャーッ!」
そして、女性の短い悲鳴もした。
いきなり羽交い締めにされて、右手を押さえつけられた。
「か、課長、な、何やってんですか!?」
ゆっくりと声の方に顔を向けると、部下のまるで得体の知れないものを見るような目と交わる。
「救急箱! 早く! それと救急車も!」
そんな誰かの声も、何か遠くに聞こえる。
部下は、私の右手から血の滴るボールペンをもぎ取り、左手の甲をハンカチで押さえた。
そちらに目をむけると、茶系のチェック柄の布地にどす黒い染みが広がっていくのが見える。
その染みは止まることなく、やがてハンカチから溢れて、床に落ちてゆっくりと広がっていった。
周りを見渡すと、皆が口々に何かを言っているようだが、聞こえてはこなかった。
慌ただしく動く部下達をぼんやりと見ていると、視界がぼやけ、今見ているもの上に、映写機で投影されたように海原をたゆたう亀の姿が重なった。
段々それが混じりあっていくように、視界が歪んでくる。
ぐるぐる回り、溶けるように消えたかと思うと、私の目には海原の亀しか見えていなかった。
「海へ……」
私の視界を暗闇が覆った。
もう、どれくらいの時を過ごしたのだろう。
例え一万年と言われても不思議には思わない。
夢か現かなど考えるまでもなく、今の私にはこの世界が全てだった。
最近、身体のような意識のような、私の体を成すものに変化が感じられる。輪郭が曖昧にぼやけて、崩れて溶け落ち、まるで亀の甲羅の中の液体になってしまうような。いずれはそうなるような気がしてならない。いや、そうなるのだろう。実際、五感全てが薄れてきている。
さらに時は進み、どろどろになって流れ落ちた私の最後の欠片も、溶けようとしている。
甲羅の中から見える景色など、もう随分と前に無くなっていた。
暗闇がまた覆った。
潮の匂いと、冷たくまとわりつくような水を感じる。まるで海に浮いているような揺らぎも。
私は消えたはずだ。なのにこの感覚は?
目を開けてみた。
顔にキラキラ光る波が押し寄せてくる。顔にかかるしぶきにも違和感はない。それが当たり前のように。
遠くに地平線が見えた。
そこに向かって、あてもなく漂っているようだ。
状況が飲み込めない。ただ、浮いて漂っているのは分かる。
いきなり背中に重みを感じた。そんなに重いわけではない。小さい頃に抱いたことのある、産まれたての子猫のような重さだ。
「なに!? なんで海の上にいんの? えっ!? 亀の甲羅の中!? 夢だよね!?」
若い女性のような声に、私は懐かしく思い出した。ああ、私もそうだった。最初は驚いたよ。
そうか。私は亀になったのか。じゃあ、彼女は私の代わりなのか? 私が乗っていた亀も誰かだったのか? いや、今考えることはそれじゃない。彼女にどんな景色を見せてあげるかの方が大事だ。飽きさせないように。時間を忘れさせるように。そして、夢の虜になるように。
私は自然とそう思い、ゆっくりと海の中へと潜り始めた。
了