刹那の恋に殉じる愛
竜人族の男は、番を見つけ出し手に入れることこそ最上の使命──。
そんな本能を受け入れ難く思う己は、竜人としても男としても異端なのだろう。
翔炎はむっつりと口を閉ざして、集められた竜人の女たちを視線で一巡した。
──この中に我が番は居らぬ。
安堵と失望が翔炎を襲う。
どれほど理性で番の存在を拒もうが、竜人の本能は抗えぬ強制力を以て、翔炎の目を女に釘付けにする。番を捜せ、見つけ出せ、手に入れろ、と。
特に、翔炎は竜帝の子に当たる分、純粋な竜により近しい本質を持つ。それ故に番を求める本能もまた、比例して強くなる。
──そも、竜人族は人化した竜とヒトの娘が番ったことが始まりだという。
その後、ヒトの繁殖力に影響されて少しずつ子孫が増え、種族、と分類されるまでに至った。
数万年を生きる竜は滅多に子をなせはしない故に、始祖竜は混ざりもので短命の──それでも始祖竜の子故、一万年余りを生きた──我が子を溺愛したという。
竜帝はそんな始祖の直系であり、その世代で最も竜の血が顕現した皇族が後を継ぐ。
翔炎も次代候補のひとり──いや、筆頭だ。
そんな翔炎を竜帝にせんと、生母を始め派閥の者らが女の証を得た年頃の竜人の娘たちを集めては翔炎に面通しさせるのである。
半ば辟易しつつも、どうしても本能が彼女らの存在を無視させてくれない。もしも、万が一、その中に番が居たら。それを見逃してしまったら──。
不安が恐怖を呼び、結局翔炎は思想とは真逆の行動を取ってしまうのだった。
番の不在を確認したあと、未練なく会場を去ろうとする翔炎の腕を掴み阻止したのは、乳兄弟で従僕でもある暸然。
紅い髪と緑色の瞳を持つがっしりした体格の美丈夫は、淡い空色の髪と黄金の瞳を持つ翔炎の耳元で囁く。
「もう少し愛想を振り撒いてやれ」
第三者の耳目があれば相応の──従僕としての──態度をとる暸然だが、逆に言えば余人に聞かれなければ遠慮のない言動を昔から貫いて止まない。
そして、翔炎もそれを許している。暸然の言動に理があることが多いからだ。
だが、今回に関しては怒りを誘うばかりであった。
わざとらしく嘆息し、掴まれた腕を振りほどく。
「うるさい……放せ」
「駄目だ。あの中にお前の番が居ないならそれでいい。だが、ここに集められた女の大半は、お前の足場固めに必要な家の縁者だ。暫くでいいから我慢して残って適当に持ち上げておけ」
「足場固めも何も──私は竜帝にはならんぞ」
「それでも、だ。いいからやれ。頼むから。……適当な時間に助けに行く」
最早どちらが主かわからない物言いだ。
翔炎は険しい顔で舌打ちして、それでも眉間の皺を消して笑顔を作って会場に戻った。
──わかってる。
暸然が何故翔炎に足場固めをさせたいか。
翔炎を死なせない為だ。竜帝の地位を狙う者、その縁者となりたい者たちは容赦なく次代竜帝候補筆頭の翔炎を追い落としにかかるだろう。
事実、命を狙われるなど日常茶飯事だ。……あんな、形だけの玉座のために。
母も、暸然も、翔炎を万が一にも殺させない為に確固たる立場を望んでいるのだろう。竜人族の中でも頂点に近い位置に在る翔炎でも、大挙されて襲われれば危ういかもしれない。
だから──多くの味方を、と。
それがわかっているだけに、余計にやりきれない。
「私は、竜帝にはならぬよ」
言葉は誰に聴かれることもなく、淡く空気に溶けて消えた。
***
柔らかな褥に散らばる金の髪を指先で弄び、翔炎は軽く身を起こした。立て肘で頭を支え、隣に眠る裸体の女を観察する。
美しい、とはお世辞にも言えない。かといって醜くもない。
とても普通だ。愛嬌があると表現するのが相応しかろう。
勿論、位が高くなればなるほど美貌がいや増す竜人族の皇族や貴族の中での普通だ。市井にあっては美貌を謳われ、男たちからもてはやされることだろう。
だが、そんな仮定は有り得ない。実現することのない空想だ。
「参ったな……」
いや、別に望まずしてこういう──男女の──関係になったわけではない。
合意の上だ。
だからこそ、余計に困った。
「……何が、ですの」
ぼんやりとした問いは、覚醒と微睡みの狭間を揺蕩う女──芙蓉の口から発せられた。朱色の双眸が焦点を合わせず翔炎をさ迷う。
翔炎は殊更ゆっくりと答えた。
「……貴女は、私の番では、ない」
「存じておりますわ」
大儀そうに体を動かし、ふふ、と笑みをこぼした芙蓉がころんと寝返りを打って翔炎の方を向く。
自然、弄んでいた髪が指先から逃げていき、残念だなと思った。
「だが、私は貴女を好ましく思う」
「……、まあ。光栄ですわ、殿下」
「だが、貴女も竜人族なれば、いずれ番として見出だされるだろう」
「それは……そう、でしょう、ね」
芙蓉が言い淀んだ理由を、当然翔炎は知らない。
だが、番の居ない男と、番として見出だされていない女が一時の恋人として関係を持つことは珍しくない。
番が生まれるまで千年の誤差がある、なんてことはよくあることだ。さすがに三千年も離れることは稀だが、平均寿命の五千年、その半分近くを番捜しに費やすことさえある。多くは同じ竜人族が番だが、稀に現竜帝のように他種族の女が番ということもある。……さらに稀だが、相手が同性ということさえあるのだ。
その間、孤独や性欲を満たす為に気の合う相手と深い関係になることは、狂乱死──長いこと番が見つからない、番を喪う、番に拒絶されることなどによる精神崩壊、暴走、その果ての死──を避けるためにも推奨されていることだ。
だから、番に否定的な翔炎はともかく、恐らく普通の思想を持つだろう芙蓉は、翔炎と男女の仲になることに忌避感はさほどないだろう。
事実、昨夜会ったばかりの翔炎とこうも容易に褥を共にしているのだから。
「私は貴女を手放したくはないと思った。未だ現れておらぬ貴女の番に譲りたくないと」
するりと口を滑るように流れ出たその言葉に芙蓉は瞬き、困ったように首を傾げ──慈愛の眼差しで翔炎を見やった。
「番が現れれば、貴方様とて容赦なくわたくしを捨てましょう」
──瞬間、察した。
「貴女を捨てた男がいるのだな」
「……ええ。彼は長く我が家に仕える家臣の子息で、幼馴染みでした。恋を、しました。わたくしは女ですから、番の気配も匂いもわかりませぬ。だから、彼の容姿に、人格に、振る舞いに、優しい思い出に、恋をしました。彼もわたくしを受け入れ、自然と男女の仲になりましたわ」
「そうか」
「彼は──仲間と共に番捜しの旅に出、戻ってきた時には番の女を伴って居りました。……番の方が、わたくしを──彼と恋仲だったわたくしを警戒し、それを真に受けた彼はわたくしを……」
ふう、と息をつき、芙蓉は微笑したまま続けた。
「番の不快を誘った敵への憎悪を以て、殺そうとしました。
よくある話でしょう?」
ぐ、と翔炎の顔が強ばる。
彼女の悲劇は、確かに竜人族の中においては決して珍しくないことだ。
番を見つけた男は、自分たちとは違い番を判別できない女を完全に手に入れる為に、番の女に尽くす。文字通り、番の体を、心を、全て手に入れる為ならば、番が望むことも望まぬことも、何だってやってのける。
それこそ番の為に動ける現実に、嬉々として。
そして、それは竜人族のコミュニティーの中で罪になることは滅多にない。男にとって、番の望みを叶えることは正義なのだ。
女にとってどのように見えているのかは知らないが──。
けれど──だから余計に翔炎は。
番を求めるこの本能が、どうしても受け入れられない。
「すぐに兄が助けてくれましたが、わたくしは領地に居ることが恐ろしくて──竜都に逃げて参りました。
前々からその様なことがあると話に聞いてはおりましたけれど、我が身に降りかかるとは思いもしなかったのです。彼を、信じていましたから」
黙って聞いていた翔炎は彼女の声が途切れた時、芙蓉が言わなかった真意を意図的に突いた。
「貴女が真に恐ろしいのは、──その幼馴染みだけでなく、その者を是とした周りの方だろう?」
その言葉に反射のように口を引き結び、しかし耐えきれなかったのだろう。芙蓉はぽろりと真珠のような美しい涙を一粒こぼした。
「わたくしを──主家の娘たるわたくしを殺そうとした彼を、兄は勿論、父も祖父も、どなたも責めやしなかったのです。仕方のないことだ、と……彼を慰めさえしました。わたくしではなく、彼をです。女たちはわたくしを慰めてくれましたが、言うことは同じ──番を得た男はそういう生き物なのだから、諦めなさい、と。忘れてしまいなさい、と」
肩を震わせ、口許を押さえて嗚咽する芙蓉を、翔炎は抱き寄せた。
一瞬体を強ばらせ、次いで緩やかに弛緩し、微かに声を漏らしながら翔炎にすがり泣く彼女を翔炎は反射的に愛しいと思った。──思ってしまった。
「……貴女ばかりに語らせるのは不公平だな」
寝物語の心地で、翔炎はぽつりぽつりと語りだした。
「私は番を求める本能が憎いのだ」
手に触れる滑らかで白く艶かしい肌が劣情を誘う。それを押し込め、翔炎は芙蓉を抱き締める手に力を込め、幼子にするように頭を撫でた。
「まるで──まるで奴隷のようだと、幼心にそう感じてから、ずっと」
「奴隷……」
ふ、と芙蓉の吐息が翔炎の胸を擽る。
「愛の奴隷、ですの?」
核心をついた揶揄に翔炎は苦笑をこぼし、頷いた。顔の見えぬ彼女はきっと今、自嘲めいた表情を浮かべているのだろうなと思いながら。
「──母は父とは政略結婚だった。そして母は父の番ではない」
「今の、第一側妃様、ですわね」
「ああ。王妃が番として見出だされたから、格下げとなった」
「王妃様は、ヒトの子でしたわね」
「それも、平民だったそうだ。彼女は家族から売られるように父に嫁ぎ、常識の違いに振り回されて、今は離宮にて心穏やかに過ごされて居られる」
「平民と皇族、ヒトと竜人──気持ちだけで乗り越えられる物ではありますまいに。竜帝も酷なことをなさいますこと……」
いつしか泣き止み、鼻をすんすん啜る芙蓉を胸から離し、代わりに腕枕を提供した。頬を染めて受け入れる姿は、無垢な少女のようで愛らしかった。
向かい合って並んで横たわり、翔炎は芙蓉のこめかみに口づけを落とした。瞼を閉ざして受け入れる芙蓉に、情動のまま唇を軽く啄むように何度も奪った。芙蓉はくすくす笑い声を上げて身を捩るも、抵抗の気配はない。
そんな小さな戯れを挟んで、翔炎は話を再開する。
「母は生粋の竜人族だから、番に狂う男の性を理解しておいでだ。故に、王妃を排除しようとか、嫌がらせだとか、そんなことは一切しては居らぬよ。けれど王妃は──平民のヒトの子である彼女は妻が複数居ることに馴染めなかったのだろう。かつての常識のまま、私の母が彼女を恨み憎んでいると思い込み、父に訴えた。第一側妃に申し訳ないから、離縁してくれ、と」
「……何て馬鹿なことを。──失礼しました」
「いや、構わぬ。本当に馬鹿な真似だ。竜人の本能を理解しておらぬ。ヒトの子なれば仕方あるまいが。
だが、無知は罪だ。貴女の幼馴染みの番は、さて、無知か計算かはわからぬが。
──父は迷わず、母を殺そうとしたよ」
「…………側妃様は?」
おずおずと翔炎を窺う様に、悪戯めいた笑みを浮かべ、翔炎はあっさりと答えた。
「ふふ。返り討ちにした」
「まあ……!」
「母は先祖がえりだからな。父よりも竜としての力が強かった。父を返り討ちにし、王妃共々離宮に幽閉し、強引に父から王権を預かった今は、女皇とさえ囁かれている」
「存じませんでしたわ」
「上層部だけの極秘事項だからな。父には定期的に民の前に顔を出す以外の仕事はさせていない」
「……わたくしが知ってしまってよろしかったの?」
「構わぬよ。極秘といっても、わざわざ公表する必要がないというだけだから。実際、聞いても民としても貴族としても何の動揺もないだろう?」
「あら……確かに」
芙蓉にも驚きはあったが、竜帝に対する依存心はないからだろうか──それだけだった。竜人族は強い。男も女も、世界の覇者と称される竜人に相応しいだけの戦闘力が生来備わっている。単独でも生きていける……むしろ個人主義者の方が多い種族の竜人たちが群れを形成しているのは、文明を番が喜ぶからだ。
美しいもの、愛らしいもの、流行、娯楽、美食。あるいは友であるとか、子らのよき環境など──。
それらは個人主義では発展に乏しかろう。切磋琢磨し合う相手も、刺激する相手もいないのだから。
そんな理由で、竜人族は群れを──国を形成したし、番を害されぬようにと世界の覇者ともなった。
彼らは何事も番中心なのである。
そして竜帝は、そんな群れの中心──それだけ。ここが群れである。そう示すための巨大な標のようなもの。
始祖竜の能力が最も強いということは、同じ種族がその気配に気づきやすいということであるし、最大の役割は狂乱死する竜人の暴走を始祖竜由来の能力で力尽くで止めることだ。誰かの番が巻き込まれぬように。まだ見出だされておらぬ番が傷つかぬように。
……その割りに、番を見出だしたばかりの男はあっさりと一時の恋人を害したりするのだけれど──それはその男が未だ心を全て得ていない女に対するアピールのようなもの。貴女の為ならこれだけのことをできるのだ、一度恋仲になるほどに心を許した相手だって貴女の心を得るためならば迷いなく殺せるのだ。これが愛の証明だ──という。
冷静になったあと、あるいは番と心を結び落ち着いたあと、己の蛮行を後悔する男がかなり居ることを、その後一切の関わりを絶つ被害者の女は知らない。……抵抗するも敵わず、あるいは助けが間に合わず殺されてしまった者は尚更だ。無論、後悔の欠片もない者も多いが。
そんな番中心の竜人族は竜帝の存在を竜人族の象徴として尊んではいるし強者に従う獣の本能として命令には従うが、己の存在を揺るがすものではないとこれまた本能的に理解している。己の存在を左右するのは番だけだからだ。
「誰が竜帝でも構わぬのだ。ただの置物、竜人族の象徴なだけだから」
「……殿下は、いずれ竜帝になられますのよね?」
「ならぬよ。血統も能力も私を次代筆頭としているが──私はね、番の奴隷になる己を肯定出来ぬ。
愛し、愛される努力もせぬ怠惰な女を、本能だからと無心に愛し仕える。──何という、惨めで残酷な呪いか。そう、始祖の呪いに他ならぬ。私は、番の奴隷には、ならぬ。
その者の容姿も人格も経歴も無関係に、ただ本能だからと──運命だ、魂の伴侶だと、番に狂う本能がおぞましい。
だから、いずれ番捜しの旅を口実に人里を離れてしまおうと、密かに準備しているのだよ」
「殿下がいなくなれば、皆様、嘆きますわ」
「私の代わりはいくらでも居る」
「……寂しくなりますわ」
俯いて小さく囁かれたそれが本音ならば──。
翔炎は気負いなく問うた。
「では、共に行かぬか?」
その言葉が耳に届き、理解した瞬間芙蓉は息を止めた。
わざわざご自身の話をした理由はここに繋がるのね、と得心がいった芙蓉は少しだけ考え──何故か泣き出しそうな心地に至って静かに頷いた。
傷の舐め合いとは違う。けれど、どこか似ている。そう感じて、彼女は選んだ。
己の心に従った。
彼の体温を心地いいと感じている。
彼の声が耳に馴染む。
出会ったばかりなのに──いつの間にか恋をしていた。
小さな、儚い恋の炎は、芙蓉の凍えて久しい心をじわじわ溶かして──とうとう氷を涙に変えて外に押し流してしまった。
誰も理解してくれなかった。
誰も寄り添ってくれなかった。
でも、彼は──同じだ。
まだ見ぬ番の存在に傷ついている。苦しんでいる。
竜人族の異常を理解している。
無論、不安はある。いつか、彼も番を見つけて自分を捨てるのだろう、と。あるいは芙蓉自身が番として見出だされ別の男に拐かされるのかもしれない。……ぞくりとして、その想像を振り払った。
そうなったら──死んでしまおう。
その答えに至り、迷いが消えた。
ずっと、己が誰かの番となることが怖かった。無意識に望んだことのために誰かが傷つく──殺されるのが、嫌だった。望まぬことを、さもお前のためだと言わんばかりに実行されるのだと思うと、怖気が立った。
でも、彼と共に行けば──その不安から、解放されるのではないか。そんな弱気が顔を出した。
それに、それだけではない。確かに芙蓉は彼に惹かれている。誤魔化しようのないくらい、強く、強く。
さもなくば、どうして本音を訴え泣きつくことが出来よう。どうして、共にと誘われて泣きたくなるほど嬉しくなれよう。
芙蓉は涙を堪えて何度も頷き、運命に振り回されるくらいなら、自分で手にした恋に振り回されたいと……選んだ。
「ええ、参ります。共に、参りましょう、どこまでも。
でも殿下、もしも番を見つけてしまったら、すぐに仰ってね。思い出が悲劇に変わる前に、貴方様が番に狂う姿を見る前に、わたくしから身を引きますから」
──死にますから。
それが、彼の傷となるような死に方を取るのか、はたまた傷にならぬよう笑顔で別れて密かに命を絶つのか──未来のことはわからない。
でも、もう決めた。
これを最後の恋としよう。
翔炎はそんな決意に気づいているのか居ないのか、優しく頷いて──けれど言う。
「それで貴女が安堵するならば、約束しよう。
だが、その未来に至らぬよう、何者も立ち入れぬ場所に屋敷を構えよう。そうして二人きりで生きて死ぬのだ」
「……しあわせ、ですわねぇ」
想像してうっとりとすり寄る芙蓉を、翔炎は目を細めて抱き寄せる。芙蓉を懐に掻き抱いた彼は無表情に瞼を閉ざし、次に目を開けた時には一切の迷いを捨て去っていた。
「子が出来たら、どうしようか」
「いずれは外に。その子たちの人生はその子たちが決めることですから」
そうだな、と肯いて、翔炎は後れ馳せながら正式な求婚をする。
名を、その存在を欲しいと乞う、竜人族伝統の求婚を。
「貴女の名を貰い受けたい」
「範芙蓉ですわ。──わたくしにも貴方様の御名を下さいまし」
「黄翔炎。……芙蓉、後悔しないか?」
「さあ、わかりませんわ。でも、このままこの狂った竜人族の中に残っていずれ何者かの番として囲われるくらいなら、たとえ後悔しても翔炎様、貴方と生きたい」
そうして芙蓉は物事を曖昧にする為のいつもの微笑ではない、花開くような満面の笑みを浮かべた。
美しい──。
美貌には至らぬ芙蓉の、頬を染めたとろけるような笑みに思わず見惚れた翔炎は、彼女をとても得難く感じた。
手放さぬよ──。
それは誰が何と言おうと、確かに愛の種が芽吹いた瞬間だった。
***
出会いは偶然。
彼はすり寄ってくる女たちの媚態から逃げるように、彼女は間違っても番としてこの会場にいる男たちに見出だされないように、公開されている庭園に移動した。
「──こんばんは、お嬢さん」
「──ごきげんよう、殿下」
互いに想定外の遭遇に一瞬動きを止め、けれど片方は貴公子然として、片方はそつのない微笑で挨拶を交わし、そのまま別れるのもわざとらしいと紳士淑女の仮面を付けたまま適当な会話を続けた。
──緩やかに仮面は溶け落ちていく。
いつしか互いに本音で話していた。それは、とても自然な変化だった。自身でもその変化に気づいていれど、止める気が起きぬくらいに自然な。
「──そうか。貴女は私の側室になるつもりはないのだな。だからわざと遅れて来た?」
「はい。ああ、殿下がどう、という話ではなく、わたくし個人の、その、向き不向きの話でして……」
「ふふ、構わぬよ。……貴女さえ良ければ、暫し私に付き合ってはくれまいか」
「──わたくしでお役に立てますなら」
数多の女が狙って止まない皇子と関わることを望むかどうかという彼女の本心は別として、彼と彼女はふたりで会場を後にした。
その時は、望まぬ相手からのアプローチを避けるために、用意されていた休憩室である程度の時間を潰すだけのつもりだった。
利害が一致した故の、会場からの逃亡。宴席では珍しくない逢瀬の方法だ。
だが、成人済みのある程度経験のある男と女が個室にふたりきり──その上酒を飲み交わしている。
気を抜けぬ会場とは真逆の緩やかな時間が過ぎ行き、話をするごとに互いへの好感度が高まっていく。
次第に互いの境界線は曖昧になり、いつしか隣り合って座り、触れ合い、ごく自然に顔を近づけた。
重なる唇に、触れる体温に、心地よさを覚えたが最後──。
どちらからともなく微笑み合い、貪るように舌を絡め合った。
褥に移動してからは酒による高揚も相俟って密やかな笑い声を上げながら戯れ合い、繋がり、体温を分かち合う。
これは一時の情交。刹那の恋の炎が燃え上がっているだけのこと。
ふたりがふたりとも、そう悟っていた。今、こうして身を重ねていても相手の気持ちは真実自分には向いていない、と。
それが身を切るほどに悲しくて、けれど何処か安心できた。
変わったのは一眠りしてのち──。
先んじて目覚めた彼が彼女の寝顔を眺めながら静かに覚悟を決め、次いで目覚めた彼女が苦い思い出に満ちた己の燻りをようやく他人に打ち明けられた、その後のこと。
先祖がえりで知られる第一側妃の産み落とした唯一の皇子が表舞台から消えたのは唐突だった。
公式には番捜しの旅に出たとされる。
本来ならば事故や暴走、狂乱死を避けるために徒党を組んで旅立つものを、皇子は単身旅立ち、そしてそのまま消息を絶った。
番捜しの旅に出たとされるその皇子を捜す者は、乳兄弟の従者を含めて少なからず居たが、誰一人皇子に出会えた者はいなかった。
次期竜帝に最も近いとされていた皇子の失踪は国の上層部を揺るがせた。
ただひとり、実母たる第一側妃ばかりは息子を心配するでもなく、どこぞで番と幸せにやっているだろうよと快活に笑って言い放ったという。
また、ほぼ同時期にとある貴族令嬢も行方知れずとなったが、誰か竜人に番として囲われているのだろう──。親兄弟や友人はそう考え、捜すこともしなかった。竜人の男女に備わっている戦闘力を過信していた。同族の、それも格上の相手でもなければ害することは出来ないだろう、と。あるいは心情が力を加減させることはあるだろうが、それでも窮地に至れば全力を出すだろう、と。竜という獣の本能を併せ持つが故の、放任であった。
おかしいと感じ始めたのは令嬢が姿を消して十年も経った後。どれだけ独占欲の強い竜人でも、十年も経てばひとまず落ち着きを取り戻し、番の実家に挨拶に行くものだが……それすらもない。
ようやく重い腰を上げ捜し出すも、最早痕跡も見出だせぬ。
斯くして皇子と令嬢は竜人の国から忽然と姿を消したのだった。
お読みくださりありがとうございました。
100行目: ふう、と息をつき、芙蓉は微笑したま続けた。
→ふう、と息をつき、芙蓉は微笑したまま続けた。
2019/02/26誤字修正しました。
誤字報告、ありがとうございました。
2019/02/27数ヶ所加筆、誤字修正しました。