誰も知らない英雄のはなし。
自分の選ばなかった世界が、それでも自分を選んだのなら、
きっともう答えは初めから決まっていた。
青年はいつも一人で食事をしているので、私はその姿を見かける度に声を掛ける。
「英雄さん」
けれど、声を掛けると決まって彼はいつも困ったように笑うのだ。
「どうか、僕のことを英雄とは呼ばないでほしい」
「でも、あなたはこの世界を救った英雄でしょう?」
「それでも、その呼び方は苦手なんだ」
英雄と、人々から称賛される彼は、そんな風にいつも困ったように微笑む人だった。
「こんなまずい料理に金なんて出せるか!」
そう叱責され、肩がすくんだ。謝罪も絶え絶えに、頭を下げて男を見送った。
店の扉が乱暴に閉められる音に、涙が零れそうになる。
店の料理人の具合が突然悪くなり、どうにかしようと慌てて急ごしらえで料理したのがよくなかった。故郷で好まれたスープは、王都では好かれない風味だと言うことを思い知らされて、悔しさと恥ずかしさで唇を噛む。
「僕は温かくて素敵な料理だと思うよ」
いつまで頭を下げていただろう。ふいに耳に届いたのは、穏やかにそよぐ夏草のような声だった。
驚いて顔を上げれば、声の主はまっすぐと私を見ていた。
「それは美味しいってことですか?」
端正な顔つきの青年は少しだけ虚空に視線を滑らせた。栗色の柔らかそうな髪に黄色がかった透明度の高い緑の瞳が特徴的だった。顎に添えられた指先は思ったより節くれだっていて、うっすらと剣を握る手だと察する。
「うーん……そうだね、温かいスープだと思うってことかな」
縋ろうとした瞬間に、肩透かしをされたような気になって、じわりと目頭が熱くなる。
そんな私の様子に彼は慌てて、言葉をつけ足した。
「これ、滋養のつく食材がたくさん入っているよね。もうすぐ冬入りも近いから、体を温めるものをたくさん入れようと思ったんじゃないかな?」
驚いて涙が引っ込んだ。自分の真意を彼は一度で言い当てた。
「食べる人のことを考えている素敵な料理だと思うよ。良かったら座る? お客は僕しかいないようだし」
少しだけおどけて彼は隣の椅子を勧めてくれる。確かに、夜深いこの時間に彼以外の客はいなかった。料理人が寝込んでいると告げても、食事を望んだのは先の自分を叱りつけた男と、彼だけだったからともいえる。
泣きそうになった目元を素早く拭う。
「ありがとうございます」
「落ち着くまでここにいたらいい。明日からまた頑張ればいいよ」
彼は気負わせる風もなくそう言うと、黙々とパンとスープを口に運び始めた。
重ねるような慰めがないことに救われる。ゆっくりと息を整えて、強張った顔を両手で叩いて顔を上げた。
その時、ふと目に留まったものがあって、目を見開く。
「英雄、さん?」
口元へと運ばれようとしていたスプーンの動きが止まる。
「あなた、英雄さんでしょう?」
彼の反応に、予想は確信へと変わる。首元にうっすらと見えた聖痕に、宝石を思わせる緑黄の瞳。国中を駆け巡った魔王討伐の華々しい物語が、現実として目の前に現れたことに微かな興奮があった。
「私、つい少し前に王都に来たばかりなんですけど、こうやって出稼ぎにこれたのも森の魔物がいなくなったからなんです。それまでは貧しくてもとても森を抜けられなくて! だから!」
興奮のままにさらに捲し立てようとした唇の前に、そっと指がたてられる。反射的に口を閉ざす。
その隙間を埋めるように、どうか、と彼が困ったように眉を下げて囁いた。
「僕を英雄と呼ばないでほしい」
それが、英雄と呼ばれる彼と私の出会いだった。
ある時、強大な闇の魔力を持つ魔王が世界を闇で覆った。
動物たちは闇の呪いによって、凶暴な力を持つ魔物へと変えられ、人々を襲った。人々は魔物と闇の魔力に怯え、徐々に疲弊していった。
そんな時、神の聖痕を持った二人の男女が立ち上がり、魔王の城へと旅立った。
彼らは魔物を倒し、聖痕の刻む使命の下、魔王を封印し、世界に光を取り戻した。
そうして、魔王と戦った勇者は英雄と呼ばれ、帰還した彼を讃えるためのお祭りがもうすぐ始まろうとしている。
英雄は変わり者で、王の誘いを断り、素性を隠して城下町の宿屋を転々としているらしい。
その噂がまさか本当だとは思わなかった。
今日も目の前で食事をしている彼を見ながら、私は不思議と落ち着いている。
本当であればもう少し緊張するのが道理だろうが、そんなものは初めの数回だけだった。彼を知れば知るほど、彼は思い描いていた英雄像とはかけ離れていた。
まず、彼は優しすぎるような気がする。気が弱いと言い換えてもいい。とてもではないが、彼が魔物を次々と倒し、世界を救った人間であるとは思えなかった。
「今日のスープも君が作ったの?」
「あ、はい。料理人さんに教えていただいて、スープは任せてもらえるようになりました」
「そう。良かったね」
柔らかく微笑む彼を見れば見るほど、不思議に思った。
「英雄さんは、あまり英雄さんらしくありませんね」
そう言えば、彼はやはり困ったように微笑んで、
「英雄とは呼ばないでほしいな」
と小さく言うのだった。
故郷から王都へと出稼ぎにきた私は、知り合いのつてを使ってこの店で働き始めた。
王都へ来るためには必ず森を通り抜けなければいけないものの、以前は魔物が住み着き、通ることは不可能だった。
けれど、魔王が封印され、魔物がいなくなり、私はやっと王都へ来ることができた。
それは、一重に彼のお陰であり、そして私がこうして店でまだ働けていることも彼のあの言葉があったからと言うこともできた。私は二度、彼に救われたのだと、そう思って、今日も料理をしている。
けれど、私はいつも不思議だった。
なぜ、彼が英雄と呼ばれるのを嫌がるのか。二度目に会った時の彼の様子が、いつも少しだけ気持ちを揺らす。
彼と二回目に会ったのは細い路地裏だった。
少女の誰かを詰るような声に足が止まった。ちょっとした買い物を店主に頼まれた、その帰りだった。
のぞき込めば細い体躯の少女が路地の奥へと駆けていくのが見えた。けれど、そんなこともその手前に見えた人影のせいですぐにどうでもよくなる。
見覚えのある栗色の髪に、均一のとれたすらりとした後ろ姿に眉をひそめた。
「英雄、さん?」
少女が去った後、その場にずるずると座り込んでしまった彼に近寄り、恐る恐る声を掛ける。彼のつむじが見えるほどの距離に近づいても彼は顔を上げない。
訝しげに思いながらもう一度、声を掛けようとした瞬間、微かに彼の肩が震えた。
「頼むから」
顔を覆う指の隙間から、聞き取れないほどに小さな声が零れる。思わず、彼の脇に膝をつく。
「僕のことを英雄だなんて呼ばないでくれ……僕は英雄なんかじゃない、英雄なんかになりたくなかった」
耳朶を揺らしたのは荒い息のまま悪夢に魘されているかのように訥々と溢れた言葉。何かを堪えるように力が入って白くなった指先が額に強く爪を立てていた。のぞき込んだ皮膚の薄い額は赤くなりかけていて、はっとする。
「力を抜いてください。そのままだと傷になってしまいます」
既にこちらの声は聞こえていないのか、ますます指先に力が籠っていく。肩を揺らしてみるものの、返事はない。周囲を見渡してみるものの、人気のない路地裏には自分以外の人影はなかった。
数秒躊躇ってから、心を決めてそっと彼の手に触れた。冷たいその手を引きはがすのではなく、ただ自分の手のぬくもりを分け与えるように手を重ねる。
「息を吐いて、ゆっくりです……ゆっくり、ゆっくり息を吐いて」
反対側の手で彼の背をゆっくりと撫でる。根気強く自分の呼吸と合わせながら繰り返せば、言葉と手の動きに合わせ彼の呼吸が徐々に穏やかなものへと変化していった。
路地裏の石畳から、足先へと肌寒さが侵食する。それでも焦らずに彼の背を撫で続けた。
やがて呼吸が整うと共に、力が抜けた指先が額から離れた。表情の抜け落ちた彼が、緩慢にこちらを向く。
「君は……」
「お店まで付いて来てください。傷の手当てをしますから」
彼の柔らかな栗色の髪の間から覗く額には、爪痕と微かな血の跡が見える。もう少し、早く自分が行動していればと、ちくりと刺すような後悔に苛まれる。あの躊躇いがなければ、血が出る前に彼を落ち着かせることができたかもしれない。
彼は私の視線を追うように額に手を伸ばし、傷口に触れる。どの程度の傷かわかると、彼は眉を下げて微笑んだ。
「こんなもの、大した傷ではないよ。わざわざ君の手を煩わせるのは申し訳ない」
「でも、化膿したら」
「それよりも手間をかけてすまなかった」
すくっと姿勢正しく立ち上がった彼が、座り込んだままの私に手を差し出す。その手を前に目を瞬けば、彼はくすりともう片方の手で口元を押さえた。
「大丈夫、血はついていないから」
「え、あ。そう言う訳じゃ」
慌ててその手を借りて立ち上がる。すぐに手を引っ込めて、意味もなくスカートをはたく。そんな私を彼は柔らかな眼差しで見るものだから、落ち着かない気分になる。
「とにかく、消毒くらいはさせてくださいね」
「手を煩わせるのは気が引けるから、薬を貸してくれるなら自分でやるから、大丈夫だよ」
「意外と頑固なんですね。わかりました。早く行きましょう」
早く早くと促せば、彼は穏やかに一つ頷いた。
それ以来、彼は度々、お店に足を運んでくれるようになった。
お祭りが始まるまでは自由の身なのだと言う彼に、お祭りが始まったら囚われの身なのかとおどけて問えば、彼は少しだけ目を細めてそうだよ、と笑った。
そんな風に軽口を叩き合えるようになった彼に、私はまだあの日のことは聞けないでいる。
あの少女は誰だったのか。
英雄と呼ばれる彼が、何を抱えているのか。
「どうしたの?」
ついむくれた顔をしていたのだろう。心配したようにのぞき込まれて、はっとする。
普段と同じように彼に食事を提供し、客が少なくなってから自分の休憩時間に合わせて彼と話をしていた。
「いえ、なんでも」
「そう? 最近、いつもそんな顔しているからどうしたのかと思って」
「そんな顔って」
「こんな顔」
むにーっと自分の頬を引っ張って、彼が顰め面を作るものだから、危うく噴き出しかける。
「急に面白いことしないでください!」
「ごめんごめん。でも、面白かったならよかったよ」
何気ない風にそう言って、彼が再びスプーンを動かす。その時になって、気を使われたと気づく。
気恥ずかしさと、彼の優しさに小さくため息をついて、口火を切る。
「言わないなぁと思いまして」
「言わない?」
最期の抵抗のつもりで、少しだけ曖昧に呟いたものの、彼にはやはり伝わらなかったようで、覚悟を決める。顔が見られないのは、この際、許してほしい。
「ほら、その、美味しいってなかなか言わないなぁって」
落ちた沈黙に、恐る恐る彼の様子を伺う。当の彼は本当に驚いた顔をしていて、顔が熱くなる。慌てて無駄な身振り手振りを交えつつ、言い訳をしてしまう。
「はじめこそ料理下手だった私ですけど、最近はお客さんからちらほら褒められるようになったというか……あ! そうです、例の怖いお客さんにもこの前ぼそっと上達したなって言ってもらえて! だから」
「それで最近、むくれてたの?」
「むくれていたというか、私の常連さん第一号が美味しいって言ってくれないっていうのはちょっと」
そこまで言ってから、はっと口を押さえる。彼はぱちぱちと目を瞬いていた。
「常連さん」
「今のは、言葉の綾というか、だって私の料理を一番初めに認めてくれたのはあなただから」
だから、美味しいと言ってもらいたくて頑張って、その努力の末に今の自分があるのだという自覚がある。それなのに、その人の口からは美味しいという言葉を聞けなければ、むくれたくもなる。それがいくら身勝手な望みだとしてもだ。
「この際だから、はっきりさせてください。私の料理、美味しいですか」
折り目を正して、まっすぐに問えば、彼は少しの隙も見せずに完璧に微笑む。
「うん。僕は君の料理が好きだよ」
一瞬、言葉に詰まりかけたものの、今日の私はここで引き下がるつもりはなかった。渾身の作のスープを指さす。
「美味しい、ですか」
「好き、だと納得がいかない?」
「はい」
彼は優しいのだ。きっと、それは甘いということでもあって、それに甘えてきた自分にとって、これは一つの試験のようなもの。だから、ここで確かな評価が欲しいと我儘が出た。これこそが彼の優しさに甘えているという自覚もあるけれど。
彼は、少しばかり黙って、スープ皿を見つめて、それから私を再びその目に映した。
「美味しいよ」
「……本当ですか?」
「うん、君の料理はとても美味しい」
噛みしめるようなその言葉を聞いて、詰めていた息を吐き出す。いつの間にか握りしめていた手が緩む。
「よかった……」
「そんなに緊張することなの?」
「だって、美味しくないのに無理して食べさせていたとしたら辛いです。始めはそうでも、今は美味しいなら安心します。もったいぶるから美味しくないのかと思いました」
認めてしまえば、じわりと嬉しさが広がって、口元が緩む。今日はとてもいい夢が見られるようなそんな気持ちにもなってくる。
彼はただ、そんな私を見ながら、いつも通り微笑んでいた。
けれど、平和に見えるどんな日々にだって、歪みは隠れている。
それは嘘かもしれないし、小さな亀裂なのかもしれなかった。
いつも通り、彼に料理を提供し、彼と話をしている時だった。
突如としてけたたましく開けられた店の扉に、慌てて立ち上がる。
「いらっしゃいま――――」
「ふざけるなっ!」
それは鼓膜が震えるほどの叫びだった。驚いたのはその声を発したのが一人華奢な少女だったということだろうか。
彼女はまっすぐとこちらに歩いてくる。年は10歳に満たないであろう少女のその気迫に、気押されそうになる。
「お客様、どうし――――」
「ごめん」
肩を引かれ、私の代わりに彼が彼女の前に立った。彼の背中越しに、彼女が射殺さんばかりに彼を睨むのを見た。
「外でもいいかい。ここではきっと迷惑になってしまうから」
彼の言葉に小さな舌打ちを零して、彼女は踵を返し、店を出ていく。あまりに突然のことに何も言えない私を振り返って、彼は眉を下げた。
「ごめんね。驚かせた」
「あの子はいったい……? どうしてあんなに怒っているんですか?」
「…………しょうがないんだ。僕が彼女の大切なものを奪ったから」
「え?」
聞き返した私にただ何も言わずに微笑んで、彼はお代を置くと店から静かに出ていった。
寂しく響くドアベルの音にようやく平静さが徐々に帰ってくる。尋常ではない少女の様子と、いつもより表情のない彼の微笑みが脳裏にちらつく。
先の騒動にどうしたのかとこちらを迷惑そうに見る料理人と目が合った瞬間に、私はエプロンを外していた。
「ごめんなさい! 少しだけ出てきます!」
そう言うが早いか、私は店からは駆けだしていた。
今ここで、彼を追いかけないと二度ともう会えないような、そんな気がした。
「待ってください!」
店を出れば、彼はまだすぐ近くにいた。伸ばした手が、彼をこの場に繋ぎ止める。
振り返った彼の瞳に色はなく、たったそれだけのことが息を詰まらせた。
「どうしたの?」
「どこに行くんですか」
伝い出す言葉は夜の風に頼りなく揺れる。彼は、ぼんやりと掴まれた腕に目を落としてから、ややあって口を開いた。
けれど、零された言葉は問いに対する答えではなかった。
「僕は時々、本当にこの世界のことが堪らなく憎くなるよ」
「……え?」
「控えめに言うのなら、壊れてしまえばいいと思うときがある」
「そんなの嘘です」
無意識のうちに首を振る。いつも困ったように笑う優しい彼からは想像できない突然の呪いの言葉に、眉根が寄った。
掴んだ腕からは何の抵抗も感じられない。それでも、確かな拒絶を感じた。
「嘘じゃないよ。僕は善良なふりをしているだけで、英雄なんてものからは一番遠い人間なんだ」
「違います! 貴方は優しい人です! そんな風に貶めないでください」
「優しい、か」
ふっと、彼が笑った。
「本当はね、わからないんだ」
唐突な台詞に困惑する。穏やかに微笑みを張り付けたままなのに、彼はそれでもいつもとははっきりと違った。
「いつからか、何を食べても僕には味がわからないんだよ」
「…………え?」
自分の声がやけに遠くに聞こえた。そんなことを無感動に思うくらいに、心は麻痺していて理解を必死に拒もうとする。
「だから……ね」
首を傾けられ、促された理解に指先から力が抜ける。わかりたくないのに、混乱したはずの頭は何より早く真実に辿り着く。
月明かりが仮面のように彼の顔半分に影を落としていくのを、私は呆然と見ていた。
「嘘なんだ」
――――君の料理が美味しいと言ったのは。
自分がこんなにも繊細だとは思わなかった。
ぽっかりと穴があいたような寒さに、心が閉じていく。
どうしてだろうと思う。どうしてこんなことになったのだろうと、思う。
自分の料理を初めて認めてくれた人。
困ったように微笑む人。
きっとこれまであった中で一番、優しい人。
そんな人に、どうしてあんな嘘を吐かせたんだろう。
『美味しい、ですか』
けれど、どこかでそれなら言ってほしかったと彼を責める自分もいる。
ままならない自分の中のせめぎ合いに、掌を握りしめて、それでも、このままでは嫌だと思った。
何も知らないまま、このまま会えなくなってしまうのは嫌だと思った。
そこまでわかれば十分だった。
私はまた、彼を追いかけるために駆けだした。
彼と少女を見つけたのは、街外れの森の入り口だった。
向かい合う二人の間に言葉はなく、ただ少女が恐ろしいほど殺意が籠った目で彼を睨みあげていた。
「笑えるのね」
ふいに少女が吐き捨てた。ちらりとこちらに一瞥を寄越して、燃えるような憎悪を瞳に灯す。
「あんたはあんなに楽しそうに笑えるんだ。あの人のこと見殺しにしたくせに」
信じられない言葉に目を見張る。戸惑うように彼を見れば、彼は黙ったまま俯いた。少女がその姿を鼻で笑う。
「英雄なんて笑えるわ。あの人を生贄にしたあんたが英雄? あんたが死んでこそ英雄だったんじゃないの?」
「待って、あなた、何言って」
「姫巫女」
耐えきれず口を挟めば、ぴしゃりと跳ねのけられた。けれど、たったその一言で、辿り着いた予感に背筋が強張る。
「部外者は黙っててよ。本当に、あんたの周りは王様も含めて幸せな奴ばかりだね。あの人を失ったのは妹の私だけだものね」
「王は君のことも気にして……」
「なに? あの人を失って一人になった私に同情してくれてるって? 金でも財宝でも欲しいだけくれるって? お優しいこと!」
手を広げて、少女はせせら笑う。そして、何も言わない彼に痺れを切らしたように、ふらりと踵を返そうとした。
「――――はじめは、すべてが憎かった」
彼は静かに口を開いた。立ち去ろうとしていた少女が足を止める。
降り出した雨が、彼の髪を静かに濡らしていく。
「僕だけは、僕だけは忘れてはいけないと思った。朝日を見るたびに、この代わりに彼女が犠牲になったのだと思った。何を見ても、誰を見ても、この世界にあるすべてが、彼女の死の上に成り立っているものだと。汚いものの方がまだよかった、美しいものを見るたびに叫びだしたくなったよ。美しいと思う自分がどうしようもなく悔しかった」
「それなら、すべて壊してしまえばよかったのよ……! そんなに憎いなら!」
振り返った少女の空気を割くようなその叫びに、彼は肩を落として、目を伏せた。濡れそぼった睫毛から、雫が落ちる。
「それは……できないよ」
「なぜ!」
鋭い問いが耳朶を切り裂くようだった。雨音が一層激しくなる。
けぶるような景色の中で、彼が力なく天を仰いだ。
「この世界は彼女が愛した世界だから」
頬を、張られた気がした。
いつの間にか、彼は真っすぐと彼女をその目に映していた。
「この世界は僕と君には憎くても、彼女が望んで守った世界だから。だから、どうか、そんなことを言わないでほしい」
瞬きの間に少女は一足に距離を詰め、彼の胸倉を掴んでいた。
「あんたが……!」
振り上げられた手に思わず目を閉じる。けれど、いつまでたっても予期していた甲高い音は聞こえず、恐る恐る目を開けた。
手は振り上げられたまま、震えていた。無抵抗のままの彼を射殺さんほどに睨み付けていた少女の手が徐々に下がっていく。
とうとう下がり切った手と共に、彼女が俯いた。
「どうしてよ……」
消え入りそうなその声は、今までの彼女の声とは違う儚いものだった。
「どうして、あんたがそれを言うのよ……」
震える肩は一度気づいてしまえば、折れそうなほど薄い。雨に濡れて俯く彼女は、本当はただの幼い少女だった。
彼はうっすらと微笑む。それは悲しいくらい、無理をした笑み。
「彼女なら、きっとそう言うから」
彼のその一言が、弾かれたように顔を上げた彼女の表情を歪ませる。
ようやく気付く。あの怒りは彼女を立たせるためのものだった。そして、きっと彼はそのことに気づいていたんだろう。
泣き出した少女を、彼はただ見つめていた。
「僕は世界と彼女を天秤にかけて、彼女を選ぼうとした男なんだよ」
雨が止んで、少女が去った後、彼がぽつりと呟いた。
聞き間違いかと思ったそれは、彼の様子からまぎれもない真実であることを知った。
「魔王を封印するためには、彼女が死ななければいけないと知ったとき、僕は彼女を取ろうとした。彼女に一緒に逃げてしまおうと言ったんだ」
彼女は、その言葉に涙を零して笑って頷いたと彼は続けた。
耐えきれずに、掌を握りしめた。でも、私はその後の結末を知っている。そんな未来はなかった。そんな終わりは、訪れなかった。
「彼女はひとりで魔王の城に乗り込んで、僕はそれを追いかけて、そして……あとは君もよく知る英雄譚の通りだ」
彼の疲れ切った笑みに、言葉を失う。それでも彼が消えてしまうような気がして、思わず服の裾を掴んだ。
雲の切れ間から差す陽が、どうしようもなく眩しくて、それを反射する水溜りさえ煩わしかった。
だからね、と彼は服の裾を掴んだ私の手を優しくほどく。呆然とする私に微笑んで、彼は言った。
――――僕は英雄なんて呼ばれてはいけない男なんだ。
いつもと同じ言葉を、いつもと同じ微笑みと共に。
***
勇者と巫女姫はとうとう、魔王の城へと辿り着きました。
力のすべてを振るい、勇者は魔王を追い詰め、巫女姫は魔王の封印のために魔法を使いました。
長く続いた勝負は見事、勇者の勝利で幕を閉じました。
けれど、姫巫女はその力を使い切り、魔物の封印と共に永遠の眠りにつきました。
世界には光が戻り、魔物と化していた生き物たちは本来の姿を取り戻しました。
こうして、世界は再びかつての美しい姿を取り戻したのです。
勇者の働きは世界を救い、彼は英雄と呼ばれるようになりました。
***
知っていた、はずのことだった。
ぱたんと、力なく閉じた英雄譚の絵本の表紙から目を逸らす。
あの後、どう彼と別れ、家に帰ってきたかよく覚えていない。
雨で冷えた体を湯で温め、ベッドに沈めて、その脇に置いてあった絵本に目が留まった。
魔王が倒され、すぐこの物語は王国全体へと広められた。
勇者は確かに世界を救い、物語はハッピーエンドを迎えた。
けれど、これは確かに現実にあったことで、幸せな結末の後ろにはいくつもの犠牲が折り重なっている。
分かっている。
皆、目を背けているだけなのだ。そんなことは少し考えればわかる。
失ったものの多さに目がくらむ。だからこそ、見ないふりで、訪れた幸福をただ喜ぶしかない。
魔王が再び封印され、光が戻ったこの世界で生きていくために。
彼の言葉がいまでも耳を離れない。
雨に濡れそぼった、彼の一言一言がいまでも私の中で雨のように降り続く。
――――僕は世界と彼女を天秤にかけ、彼女を選んだはずだった。
選んだ、はずだったのに。
彼女の死が僕を英雄にした。
なんて、皮肉だろう。
苦しんで選び取った選択の行く末は、初めから僕には選べないものだったなんて。
それから、彼が私の働いている店に姿を現すことはなかった。
街はますますお祭りに向け、活気づいていく中、私はひとり黙々と日々を過ごした。
その日々の中で、英雄と呼ばれる彼のことを思った。
ひとりで死んでいった彼女のことを思った。
考えて、考えて、考えて、考えて。
それでもなんの答えも、救いも見つけられなかった。
そうして、お祭りの日がやってきた。
英雄の凱旋、遠くに見える彼はやっぱり笑っていた。
朗らかに、すべて隠して、たった一人の彼女と一度は天秤にかけ、見捨てたはずの国民たちに手を振られながら、彼は笑っていた。喧騒の中に一人だけ取り残されたように立ちすくむ。
見て、いられなかった。何も知らなければ、自分も同じように彼を英雄と褒め称えていただろう。
それでも、もう知らなかったことにはできない。
彼は英雄と呼ばれるたび、自分のした選択を、切り捨てようとした目の前の平穏をどんな思いで見てきたんだろう。
悔しいのは、彼は一度も泣かなかったのに、自分がいま涙を零しそうになっていることだった。
もう、見ていられなかった。
俯きかけたその時、
「勇者様、ありがとう!」
隣で小さな子供が叫んだ。はっとして顔を上げる。その瞬間、聞こえてきたのはたくさんの声だった。
ただのざわめきにしか聞こえなかったいくつもの声が、言葉を結ぶ。
――――お父さんが帰ってきました。
――――もう魔物に怯えなくてよくなりました。
――――また一から畑を耕す生活を始められました。
彼が目を瞬くのが、わかった。
その間にもいろいろなところで声が上がる。
――――これで安心して眠れます。
――――畑を、家族を守れます。
――――英雄様、あなたのお陰です。
――――あなたが、私たちにまた光をくれた。
彼の肩が揺れる。笑顔が剥がれ落ちていく。
気が付けば、私は息を吸い込んでいた。
「英雄さん!」
こんなにも遠いのに、彼の目がはっとしたようにこちらを見たのがわかった。
あの日、言いたくて、でも彼を傷つけてしまいそうで言えなくて、口をつぐんで私は後悔した。
私の言葉は届かなくて、届いても彼を傷つけるだけかもしれなくて、それでも、
「貴方は確かに私たちを救ってくれました! 救ってくれたんです! だから……!」
だから、と目頭が熱くなった。
「ありがとうございます――――!」
彼の唇が戦慄く。小さな吐息が一つ零れ落ちる。こんなに遠くにいても、彼の様子がはっきりと見える。
彼は周囲を、自分を見る人々を見渡して、俯いて、顔を覆って、それから――――顔を上げた。
その表情は、とても晴れやかとも、穏やかとも言えなかったけれど、私は笑う。
泣きながら、それでも彼の姿を目に焼き付けながら笑う。
これからも彼はきっと、何度だって苦しみ、何度だって魘されるだろう。
自分の選ばなかった世界で、自分を望んだ人々の中で、これからも生きていく。
呪いのようなその生で、彼が救われることはもしかしたらないかもしれない。
それでも、彼が救ったこの世界で、彼は、私はこれからも生きていく。
生きて、いくのだ。