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バタフライ〜緊張と蝶の羽ばたき〜

作者: 虹藤時雨
掲載日:2026/07/01

AIも使用していますが、ぜひ読んでみてほしい作品です

六月の終わりが近づいていた。

梅雨の湿った空気が教室にまとわりつき、窓の外では灰色の雲がゆっくり流れている。

サーキュレーターは回っているのに、風はほとんど届かない。

私は自分の席で、四回目になる原稿の読み直しをしていた。

”現代文の発表”

来週、それをクラス全員の前でやらなければならない。

原稿には赤ペンで何本も線が引かれていた。

区切る場所、強く読む場所、噛みやすい漢字、呼吸を入れる位置を、

何度も直しているうちに、紙は少し柔らかくなっていた。

張乃(はるの)、まだ読んでるの?」

隣の席の結衣(ゆうい)が呆れたように笑う。

「来週でしょ?」

「うん……でも、まだ不安で」

「大丈夫だって」

「張乃、ちゃんと準備するタイプじゃん」

結衣は軽くそう言って、ペットボトルのお茶を飲んだ。

その“ちゃんと準備するタイプ”という言葉が、私は少し苦手だった。

準備している。

確かにそうだ。

でも、それは自信があるからじゃない。

怖いからだ。

前に立つのが怖い。

失敗するのが怖い。

声が震えるのが怖い。

頭が真っ白になるのが怖い。

だから、人より練習する。

しなければ、立っていられない。

私は曖昧に笑って、「うん」とだけ返した。

放課後、教室には数人しか残っていなかった。

運動部の生徒はもう部活へ行き、文化部の人たちも移動している。

静かな教室には、時々廊下を歩く音だけが聞こえた。

私は席に座ったまま、原稿を見ていた。

窓の外は薄暗い。

もう帰ったほうがいい時間だった。

でも、帰りたくなかった。

家に帰ったら、一人で練習しなければならない。

私は発表の練習が嫌いだった。

発表そのものも嫌いだけれど、練習はもっと嫌いだった。

練習している時間は、自分の苦手さをずっと見つめ続ける時間だからだ。

私は小さく息を吐き、原稿を持って立ち上がった。

教壇の前に立つ。

誰もいない教室。

なのに、それだけで少し緊張した。

私は原稿を開く。

「私は――」

声を出した瞬間、自分の声が変に聞こえた。

小さく、聞き取りづらい。

私は咳払いをした。

もう一度、

「私は――」

やっぱり変だった。

録音した自分の声を聞いたときみたいな違和感がある。

どうしてみんな、普通に話せるんだろう。

どうしてみんな、前に立っていられるんだろう。

私は昔から、人前に立つのが苦手だった。

小学生の頃、国語の音読でつっかえたことがある。

たった一文字噛んだだけだった。

でも、その瞬間にクラスの何人かが笑った。

大きな笑いじゃなかった。

小さな、小さな笑い声。

それだけなのに、頭の中にずっと残っている。

その日から、私は“間違えること”が怖くなった。

発表のたびに、

音読のたびに、

当てられるたびに、

「あ、また噛むかもしれない」

そう思うようになった。

そして実際にそう思えば思うほど、余計に噛む。

私は原稿を握りしめた。

紙が少し汗で湿っている。

まだ誰もいない教室なのに。

私は自分が嫌になった。

たかが発表だ。

みんな普通にやっている。

数分話すだけ。

それだけのことなのに、どうして私はこんなに怖がっているんだろう。

窓の外から運動部の掛け声が聞こえる。

グラウンドではサッカー部が走っていた。

誰かが笑っている。

その声を聞きながら、私はまた原稿に目を落とした。

逃げたい。

そう思った。

発表の日、休めたらいいのに、熱が出ればいいのに、

そんなことを考えてしまう。

でも、本当に休んだら、きっともっと苦しくなる。

結局、逃げても、自分の中に“逃げた”という感覚だけが残る。

私はそれを知っていた。

だから練習するしかない。

私は深呼吸をした。

教室の空気は少しぬるい。

「私は、この作品について――」

今度は少しだけ、ちゃんと声が出た。

私はそのまま読み続けた。

読む。

止まる。

また読む。

同じところで噛む。

また最初からやり直す。

時間がゆっくり過ぎていく。

空はいつの間にか暗くなっていた。

教室の窓に、自分の姿が映る。

原稿を持ったまま立っている自分。

肩に力が入っている。

表情も硬い。

私はその姿を見て、不意に思った。

まるで、羽化する前の蝶みたいだ。

まだ殻の中で、

外に出ることを怖がっている。

でも、出なければならない。

羽を広げなければならない。

私は窓に映る自分から目を逸らした。

そしてもう一度、原稿を開く。

怖くても、

震えても、

声が変でも、

前に立たなければならない。

私は小さく息を吸った。

「私は――」

夕暮れの教室に、自分の声だけが静かに響いていた。



発表当日の朝、私はいつもより三十分早く目が覚めた。

まだ目覚ましは鳴っていない。

カーテンの隙間から薄い光が差し込んでいる。曇りだった。

空は白くぼやけていて、六月の湿った空気が部屋に溜まっている。

私は布団の中で天井を見上げた。

今日だ。

そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。

昨日の夜も、寝る前に原稿を読み返した。

声に出して、何度も練習した。

それでも不安は消えなかった。

むしろ練習すればするほど、

「失敗したらどうしよう」という気持ちだけが大きくなっていく。

私はゆっくり起き上がった。

制服に着替え、髪を整え、鞄の中を確認する。

原稿はちゃんと入っている。

それを確認しただけで、少しだけ息が詰まった。

朝ごはんを食べていても、味がよくわからなかった。

母が「眠そうね」と言ったけれど、私は曖昧に笑うだけだった。

学校へ向かう道は、いつもより長く感じた。

信号待ちの時間さえ落ち着かない。

頭の中では、ずっと発表のことを考えている。

噛んだらどうしよう。

声が震えたらどうしよう。

途中で頭が真っ白になったら。

そんな想像ばかりが浮かぶ。

学校に着くと、教室にはいつもの声が広がっていた。

誰かが笑い、

誰かがスマホの話をして、

誰かが宿題を写している。

いつも通りの朝。

なのに、私だけがそこから少し浮いている気がした。

席に座る。

鞄から原稿を出す。

紙の端は少し折れていた。

私はそれを指でなぞった。

「張乃、緊張してる?」

後ろの席の結衣が椅子を揺らしながら聞いてきた。

「……ちょっと」

「絶対ちょっとじゃない顔してる」

「そんなに?」

「うん。なんか今にも処刑されそう」

私は思わず小さく笑った。

結衣は軽い調子で話すのが上手い。

そのおかげで、一瞬だけ緊張が薄れる。

でも、それも長くは続かなかった。

一時間目、二時間目、と時間が進むたびに、心臓が少しずつ重くなる。

現代文の授業は四時間目だった。

あと一時間……

そう考えるだけで落ち着かない。

私はノートを取るふりをしながら、頭の中で原稿を読み返していた。

教室の時計の秒針がやけに大きく聞こえる。

三時間目が終わる。

休み時間、周りは次の授業の準備をしている。

私は水筒のお茶を飲んだ。

喉が乾いていた。

でも飲んでも、乾きは消えない。

チャイムが鳴る。

現代文の先生が教室へ入ってきた。

「じゃあ今日は発表の続きからやります」

その言葉だけで、胃の奥が縮む。

前の発表者たちが順番に呼ばれていく。

みんな普通に話しているように見える。

少し噛んでも、止まっても、何事もないみたいに続けている。

どうしてそんなふうにできるんだろう。

私は自分の膝の上で、指を強く握った。

順番が近づく。

呼吸が浅くなる。

心臓の音が大きい。

もう周りの発表内容が頭に入ってこない。

ただ、自分の番が近づいてくることだけはわかる。

そして、

「次、澄羽さん」

名前を呼ばれた瞬間、頭の中が白くなった。

私は反射みたいに立ち上がる。

椅子が小さく音を立てた。

その瞬間、クラス全員の視線が自分に向いた気がした。

もちろん、本当は違う。

ノートを見ている人もいる。

ぼんやりしている人もいる。

でも、一人でも自分を見ている人がいるだけで十分だった。

身体の奥がざわつく。

私は原稿を持って歩き出した。

教室の前までの距離が遠い。

足元が少しふわふわする。

教壇の前に立つ。

その瞬間、自分のいる場所がわからなくなった。

黒板、窓、教卓

全部そこにあるはずなのに、現実感が薄い。

私は原稿を見る。

文字は見えている。

でも、意味が頭に入ってこない。

「……私は、この作品について――」

声を出した瞬間、自分の声が知らないものみたいに聞こえた。

震えている。

変に高い。

耳の奥で、自分の声だけが何度も反響する。

私は原稿を読む。

読むはずだった。

なのに、視線が滑る。

書いてある文字を、頭が認識してくれない。

次の文章は何だっけ。

どこまで読んだっけ。

焦りだけが大きくなる。

私は無理やり息を吸った。

喉が乾いて痛い。

誰かが椅子を動かす音が聞こえた。

その小さな音だけで、頭が揺れる。

私は今、ちゃんと話せているんだろうか。

変な顔をしていないだろうか。

早口になっていないだろうか。

そんなことばかり考えてしまう。

教室全体が遠い。

でも、視線だけは近い。

逃げたい。

今すぐ終わってほしい。

そう思いながら、それでも私は言葉を続けた。

途中、一度だけ噛んだ。

心臓が強く跳ねる。

終わった、と思った。

でも、誰も笑わなかった。

教室は静かなままだった。

私はそのまま続きを読んだ。

どれくらい時間が経ったのかわからない。

気づけば最後の一文だった。

「以上です。ありがとうございました」

言い終わった瞬間、全身の力が抜けた。

私は小さく頭を下げ、自分の席へ戻った。

足が少し震えていた。

席に座る。

その瞬間、自分の心臓がまだ速く動いていることに気づく。

手のひらが汗で濡れていた。

次の人の発表が始まる。

でも、内容はほとんど頭に入ってこなかった。

私はぼんやりと黒板を見つめた。

終わった。

たったそれだけのことなのに、ひどく疲れていた。

窓の外では、曇った空が静かに広がっている。

私は机の下で、そっと拳を握った。

怖かった。

ちゃんと怖かった。

それでも私は、最後まで前に立っていた。

その事実だけが、胸の奥に小さく残っていた。

発表が終わってから一週間ほど経った頃、体育の授業でプールが始まった。




梅雨はまだ完全には明けていなくて、空には薄い雲が広がっていた。太陽は見えているのに光は弱く、学校のプールは全体的に青白く沈んで見える。

私は自分のバッグからゴーグルを取り出した。

少し曇ったレンズに、自分の顔が歪んで映る。

その顔を見ていると、不意に発表の日のことを思い出した。

教壇の前に立った瞬間。

視線、息苦しさ、原稿の文字が頭に入ってこなくなった感覚。

私は小さく首を振った。

思い出したくなかった。

もう終わったことなのに、身体だけがまだ覚えている。

更衣室を出ると、湿った風が肌に触れた。

プールサイドは少し冷たい。

先生が笛を鳴らし、生徒たちを並ばせる。

「今日は泳法確認やるからなー。クロール、平泳ぎ、バタフライ。順番に見るぞ」

その言葉を聞いて、私は少しだけ気分が沈んだ。

バタフライ。

私はあれが苦手だった。

クロールみたいに自由に呼吸できない。

平泳ぎみたいに落ち着いて前も見えない。

呼吸を失敗すると、一気に苦しくなる。

腕も重い。

泳ぎながら、だんだん自分が沈んでいく感じがする。

準備運動を終え、シャワーを浴びる。

冷たい水が肩を叩いた。

私は思わず目を閉じる。

耳元で、水が流れる音だけが響いていた。

「じゃ、まずクロールから」

先生の合図で、生徒たちが順番に泳ぎ始める。

水音が重なる。

白いしぶきが上がる。

みんな普通に泳いでいる。

私は自分の番を待ちながら、プールの水面をぼんやり見つめていた。

水は曇り空を映して、暗いガラスみたいな色をしている。

底の線がゆらゆら揺れていた。

自分の番が来る。

私は息を吸い、プールへ入った。

冷たさが一気に全身へ広がる。

最初はクロール。

それでも、まだ大丈夫だった。

一定のリズムで呼吸できる。

前も見える。

周りの位置もなんとなくわかる。

平泳ぎもそこまで苦しくなかった。

問題は、その次だった。

「次、バタフライ」

順番待ちをしながら、私は自分の手を見た。

少しだけ震えている。

どうしてだろう。

たかが水泳なのに。

でも、身体はもう緊張していた。

私の順番が来る。

プールサイドに立つ。

水面が揺れている。

私は一度だけ深呼吸をした。

「よし」

小さく呟いて、水へ飛び込む。

冷たい。

その感覚と同時に、私は腕を前へ伸ばした。

水を掻く。

身体を持ち上げる。

息を吸う。

また沈む。

ドルフィンキック。

もう一度腕を回す。

その繰り返し。

最初の数回はまだ余裕があった。

でも、すぐに苦しくなる。

息継ぎのたびに見える景色は、一瞬で途切れる。

顔を上げた瞬間だけ世界が見えて、次の瞬間にはまた水の中だった。

水音が耳を塞ぐ。

自分の呼吸だけがやけに大きい。

腕が重い。

肩が痛い。

酸素が足りない。

どれだけ進んだのかわからない。

あとどれくらいで端なのかもわからない。

私はただ必死に腕を動かした。

沈みたくなかった。

止まりたくなかった。

でも、途中から、自分がちゃんと泳げているのかさえわからなくなる。

フォームは崩れていないだろうか。

周りより遅れていないだろうか。

ちゃんと前へ進めているんだろうか。

そんなことを考えた瞬間、不意に胸の奥がざわついた。

あ……

私はその感覚を知っていた。

前にも同じ感覚になったことがある。

どこだっけ。

そう思った瞬間、教室の景色が頭の中に浮かんだ。

教壇

黒板

視線

原稿

私は、水の中で目を見開いた。

発表だ。

これは、発表しているときの私と同じだ。

前に立った私は、何も見えなくなる。

どこを見ればいいかわからない。

今、自分がどんな顔をしているのかわからない。

声がちゃんと出ているのかもわからない。

ただ、沈まないように必死だった。

バタフライも同じだった。

苦しい。

周りを見る余裕なんてない。

でも止まれない。

止まったら沈む。

だから、腕を動かす。

息をする。

前へ進もうとする。

私は水の中で、自分を見失っていた。

それなのに、身体だけは前へ進もうとしている。

不思議だった。

怖いのに。

苦しいのに。

どうして私は止まらないんだろう。

水の中でぼんやりそんなことを考える。

息継ぎ、水、呼吸、腕、空、

その繰り返し。

そしてそのとき、ふと頭に浮かんだ。

蝶。

バタフライ。

私は今まで、蝶を綺麗なものだと思っていた。

軽くて、静かで、優雅に飛ぶ生き物。

でも、本当は違うのかもしれない。

蝶は、優雅だから羽ばたいているわけじゃない。

落ちないために。

空に留まるために。

必死に羽を動かしている。

その姿を、人間が勝手に綺麗だと思っているだけなのかもしれない。

私はまた腕を回した。

肺が熱い。

喉が痛い。

それでも身体は動く。

気づけば、手が壁に触れていた。

プールサイド。

ようやく端まで辿り着いたのだ。

私は壁を掴んだまま、大きく息を吸った。

苦しい。

肺が焼けるみたいだった。

周りを見ると、他の人たちはもう先に着いていた。

誰かが笑っている。

誰かが先生と話している。

でも、その声は遠かった。

私はしばらく、水面を見つめていた。

青く揺れる光。

水に反射した曇り空。

その揺れの中に、自分の姿が見えた気がした。

教室の前に立っている私。

原稿を握りしめている私。

声を震わせながら、それでも前を向こうとしている私。

私はずっと、“うまくやろう”としていた。

失敗しないように。

変に思われないように。

ちゃんと話せるように。

でも、本当は違ったのかもしれない。

発表も。

バタフライも。

大事なのは、“綺麗にやること”じゃない。

沈まないことだ。

怖くても、

苦しくても、

自分を見失っても、

それでも前へ進もうとすることだ。

私はゆっくり顔を上げた。

曇った空が広がっている。

風が吹いて、水面が揺れた。

その光景を見ながら、私は小さく息を吐いた。

少しだけ。

本当に少しだけ。

自分のことがわかった気がした。

その日の帰り道、私は珍しく寄り道をした。

いつもなら授業が終わるとまっすぐ家へ帰る。特に用事があるわけでもないのに、寄り道をする理由が思いつかなかったからだ。

でも、その日はすぐに帰る気になれなかった。

プールの授業のあとだったから、髪はまだ少し湿っている。

制服の袖からは、薄く塩素の匂いがした。

私は川沿いの道をゆっくり歩いていた。

空は相変わらず曇っている。



六月の終わりの風はぬるく、肌にまとわりつくようだった。

川の水面は灰色に揺れている。

私は鞄の紐を握り直した。

バタフライ。

その言葉が、まだ頭の中に残っていた。

発表しているときの私。

泳いでいるときの私。

どちらも、何も見えていなかった。

周りがわからない。

自分がどう見えているのかわからない。

ただ苦しくて、必死で、前へ進こうとしている。

その感覚が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。

私は歩きながら、ふと小学生の頃のことを思い出した。

小学三年生の頃。

国語の授業だった。

教科書を順番に音読していく時間。

私はその日、「潮騒」という漢字が読めなかった。

前の日、練習したはずだった。

でも、当てられた瞬間、頭が真っ白になった。

教室が静かになる。

私は何も言えなくなる。

そのとき、後ろの席の男子が小さく笑った。

たったそれだけだった。

馬鹿にするような大笑いじゃない。

ほんの少し吹き出しただけ。

でも、私はその瞬間、自分の身体が急に熱くなるのを感じた。

先生が答えを教えてくれて、授業はそのまま進んだ。

周りの人たちは、きっともう忘れている。

でも、私は忘れられなかった。

家に帰ったあとも、その笑い声だけが頭の中に残っていた。

私は自分の部屋で、何度も「潮騒」という漢字を読んだ。

しおさい。

しおさい。

しおさい。

間違えないように。

次は笑われないように。

その頃からだったと思う。

私は、“失敗すること”が怖くなった。

間違えること。

注目されること。

みんなの前に立つこと。

それら全部が、少しずつ怖くなっていった。

中学生になっても、それは変わらなかった。

むしろ、前よりひどくなった気がする。

人は大きくなるほど、他人の視線を知る。

誰が誰を見ているか。

誰がどんな失敗をしたか。

誰が変だったか。

そういうことを、自然と覚えてしまう。

だから私は、失敗しないようにした。

変に思われないようにした。

目立たないようにした。

前に出るときは完璧にやろうとした。

でも、本当はわかっていた。

完璧になんてできない。

人間だから噛む。

間違える。

声だって震える。

そんなこと、当たり前なのに。

私はそれを許せなかった。

家に帰ると、母が夕飯の準備をしていた。

「おかえり」

「ただいま」

私は靴を脱ぎ、自分の部屋へ向かう。

鞄を置き、ベッドに座る。

静かだった。

窓の外では、遠くを走る車の音が聞こえる。

私はぼんやり天井を見上げた。

疲れているはずなのに、眠くはなかった。

むしろ頭の中だけが妙に冴えている。

発表のこと。

バタフライのこと。

小学生の頃のこと。

いろんな記憶が混ざり合っていた。

私は机の上に置いてあった発表原稿を手に取った。

何度も読み返した紙。

赤線だらけの原稿。

端は少し折れていて、汗で柔らかくなっている。

私はそれを眺めながら、不意に思った。

私は、どうしてここまで怖がるんだろう。

そこまでしなくてもいいのに。

少しくらい失敗してもいいのに。

でも、怖いものは怖かった。

頭ではわかっていても、身体が勝手に緊張する。

心臓が速くなる。

息が浅くなる。

視界が狭くなる。

それはもう、意思だけではどうにもならない。

私は原稿を机へ置き、窓を開けた。

湿った夜風が部屋へ入ってくる。

遠くで犬が鳴いていた。

その風を感じながら、私はふと今日のプールを思い出した。

水の中で、息が苦しくなって、

周りが見えなくなって、

自分がどこにいるのかわからなくなった感覚。

あのとき私は、確かに苦しかった。

でも同時に、どこか納得していた。

ああ、私はずっとこうだったんだ、と。

発表だけじゃない。

人と話すときも。

誰かに見られていると感じるときも。

私はずっと、“沈まないように”していた。

嫌われないように、変に思われないように、失敗しないように……

ずっと必死だった。

でも、人ってそんなふうに生きるものなのかもしれない。

完璧に飛べる人なんて、本当はいない。

みんな少し不格好で、

少し不安で、

落ちないように羽を動かしている。

それを隠すのが上手い人と、そうじゃない人がいるだけなのかもしれない。

私は窓の外を見た。

夜の空は暗い。

でも、雲の向こうは少しだけ白い。

明日は晴れるのかもしれない。

私はその景色を見ながら、ゆっくり息を吐いた。

そして、不意に思う。

もしまた発表があったら、私はきっとまた緊張する。

たぶん、心臓も速くなる。

頭も真っ白になる。

声だって震える。

それはきっと、簡単には治らない。

でも、それでもいいのかもしれない。

緊張しない人になる必要はない。

怖がらない人になる必要もない。

怖くても、

震えても、

それでも前に立てるなら。

それだけで十分なのかもしれない。

私は机に向かった。

発表原稿の隣に、学校のノートが置いてある。

私はその端に、小さく言葉を書いた。

『蝶は、沈まないために羽ばたく』

書き終えたあと、その文字をしばらく見つめる。

私はノートを閉じる。

そのとき、スマホが震えた。

結衣からのメッセージだった。

『今日のバタフライ死んだ』

私は少し笑った。

『わかる』

そう返す。

すぐにまた通知が来る。

『でも張乃、意外とちゃんと泳げてたよ』

私は画面を見つめたまま止まった。

ちゃんと泳げてた。

その言葉が、不思議と胸に残る。

私はずっと、“ちゃんとできなかった部分”ばかり見ていた。

噛んだこと、震えたこと、遅かったこと、苦しかったこと。

でも、結衣は違うところを見ていた。

ちゃんと泳げていた、と言った。

私はスマホを置き、静かに目を閉じた。

思えば、発表のときもそうだったのかもしれない。

私は、自分の失敗ばかり覚えている。

でも、周りの人は案外そこまで気にしていない。

噛んだことも、

少し止まったことも、

きっとすぐ忘れてしまう。

それなのに私は、自分だけをずっと責め続けていた。

私はベッドへ倒れ込んだ。

天井を見上げる。

心臓は、もう落ち着いていた。

静かな夜だった。

私はゆっくり目を閉じる。

水の中で腕を動かす感覚を思い出す。

苦しくて、

必死で、

でも、確かに前へ進んでいた。

蝶は、最初から綺麗に飛べるわけじゃない。

羽ばたきながら、

揺れながら、

落ちそうになりながら、

それでも空へ向かっていく。

たぶん、私も同じだ。

私はまだ、自分の飛び方を知らない。

でもきっと、それでいい。

今はまだ、不格好でもいい。

沈まないように羽を動かし続けていれば、

いつか、自分の飛び方を見つけられる気がした。

窓の外で、夜風が静かに揺れていた。

いかがでしたか?

これは、筆者自身がふと思ったことを短編として書いてみたものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。m(_ _)m

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