第二話 自由への一歩
無機質な神殿、張られた水面が静かに揺れた。
水は何かの生き物のように形作られ弾ける。
「――――」
透き通った息を吐きながら、まるで水そのものの容姿を持つ女が姿を現した。背丈よりも長い水色の髪が水面を掠める。その表情はあまりにも哀しさで溢れていた。
「ユナシエル、どうした」
低く恐ろしい声音。彼女がよく知るものだが、覚めぬ悲痛と驚きで身体が震える。
「フェルヒート……」
畏怖しながらも、褐色肌で巨体の男の名を呼んだ。
「……夢を見たんです。それは鮮明で、何度も繰り返す夢」
ユナシエルはゆっくりと、けれどもか細い声で言う。口にしても悲しさはいつまでも拭えない。
「ほう。お主が夢をな……。面白い」
彼女の気持ちなど眼中に無く、低く笑うフェルヒート。
「何が……面白いのですか……?」
「無論。我々『エレメンテ』が動く時が来た、ということだ」
それを言うと彼はその場を去っていった。独り残されたユナシエルは俯く。その目から落ちた雫は波紋を創り、水底に沈んで消えた。
――――――――――――――――――
倒れていたフルースを抱えて辿り着いたのは大きな砦。石造りの何かの跡地のようにも見える。少女は辺りを見回し手慣れた様子で小さな扉を開けた。
「ここなら誰も来ないはず……」
やっと安全な場所に運べて安心する少女。暗がりの部屋の中を小さな火が照らす。あまり使われていない倉庫のようだ。無造作に置かれた棚の中から使えそうな木の器を取り出す。樽に入った水を汲んだその時、彼はようやく目を覚ました。
「君は……誰?」
少女は怖がらせないようそっと近付き水を側に置いた。
「私はルルシア。ルルシア・トレラントよ。あなたは?」
緑の長い髪にとても身軽な服装の少女は名乗った。
「僕はフルースっていうんだ」
そう聞いて、変わった名前ねと返すルルシア。フルネームやどこの人間か聞こうとしたが、突然ハッとしたフルースに阻まれる。
「このくらいの小さな女神さま見なかった?」
一瞬何を言ってるのだろうと思ったルルシア。当の本人は真剣に、身振り手振りで大きさまで表現している。こんな大きな樹の下で出会った、と兎に角忙しない。
「おかしな話! 人間ってみんなあなたみたいなの?」
ルルシアは面白い話に思わずクスッと笑う。そう言われて初めて彼女の姿をまじまじと見た。背中には小さな羽根が生えている。
「もしかしてルルシアって……妖精さん?」
無邪気にキラキラとした眼差しを向けるフルース。
「鳥族。だから羽根があるの。もしかして知らなかった?」
言いながらクルリと回ってみせるルルシア。その様子を物凄く興味深そうに見る。本当に何も知らなかったようだ。
「まあ、私も人間を初めて見るから……」
少し視線を落とし何か言いたそうにしている。しばらく戸惑い沈黙した後ようやく言葉を絞り出し、続けた。
「良かったら……私とお友達に」
突然バタン、と遮る様に強く音を立てて扉が開かれる。つかつかと足早に入って来る緑髪の女性。険しい顔をして二人の前に立ちはだかった。
「これは一体どういう事? 人間をこの砦に匿うなんて」
ルルシアは問い詰められてたじろぐ。後ろめたさというよりどこか悲しそうな表情をしていた。
「分かっているの? ルルシア」
女性が目で合図をすると、控えていた鳥族の兵達が二人を拘束した。突然の事に意味が分からないフルースだったが、抵抗しないルルシアを見て大人しく従うことにした。
――
二人はそれぞれ別の部屋に閉じ込められる。頑丈な柵には鍵が掛けられていた。そのため見張りは誰もいない。部屋の中は無骨で特に使えそうなものは無い。少しの間きょろきょろしていたフルースは光が差し込む小窓に気付いた。
一方ルルシアは座り込みうなだれていた。これからどうなるの、と小さく言葉とため息を漏らす。ふと視界の隅に動く何かを捉えた。小窓の外から……手?
「フルース? 何をやって……」
まさか、と思ったがそのまさか。彼は器用に小窓から出てルルシアのいる部屋に来ていた。兵には気付かれていないのは不幸中の幸い。だが心配なのはそこではなく、一体何をやろうとしているのかということ。しかし彼の答えは単純だった。
「ルルシアを助けたいんだ」
噓偽りのない言葉と無垢な笑顔。嬉しい反面、それは危険を意味する。どうして、とルルシアは聞き返す。
「あの時君は僕を助けてくれたんだよね? だから今度は僕が助けなきゃ」
それだけ言うとフルースは外へ去っていった。呼び止めようとした手が空気を掠める。彼が消えた小窓の外に身を乗り出してみた。強風が吹き付け長い髪がなびく。真下は断崖絶壁、一歩間違えば……。
「あなたの勇気、私も貰うわ」
悪い想像を払うように、一呼吸し気合を入れる。やや恐怖感はあるがそれでもルルシアは塀を伝って後を追った。
バタバタと砦内が騒がしくなっている。どうやら二人が居なくなったのがバレた様子。うまく見つからないように外壁を伝い進んでいく。すると何処からか強い怒鳴り声が聴こえてきた。
「なぜです! 議長!」
あの時の女性の声。ルルシアは小声で彼女の名前はイレナだと言った。
「他の種族と関わりを持たないのが我々の掟のはず!」
怒りに任せて強い口調で言うイレナに対し、議長と呼ばれた人物は静かに口を開く。
「処罰を下す事は認めぬ。ルルシアはともかくあの少年にはな……」
しかし、と訴えたそうに口籠るイレナ。
以降何も聴こえなくなったためもっと壁に近寄るフルース達。途端に壁と思われた部分がグラッと傾いた、次の瞬間。
――バターン!
派手な音を立てて二人は広間に飛び出した。
一番見つかってはいけない人達に思いっきり見つかってしまう。
「アナタ達、何やってるの!」
叱責するイレナだったが、二人はお互いに顔を見合わせて無邪気に笑っている。もはや怒りを通り越して呆れていた。
「こんな勝手な事をして許されると思って……」
「あの、ごめんなさい。どうしても助けたくて」
フルースは勇気を振り絞って謝る。自分の立場を理解していないようだが、あまりにも正直過ぎてイレナは呆れ果てる。とはいえ許される事では無かった。
「それで、弁明はあるの?」
「わたしに弁明の余地はありません。どんな罰も甘んじて受けます!」
彼女の決心は固い。驚きながらも心配そうに見つめるフルースを見て彼女は微笑んだ。まるで彼のお陰だと言わんばかりに。
「そう、ならこれより処罰を与える」
一瞬空気が張り詰めた。続けてイレナは口を開く。
「ルルシア・トレラント。その人間を連れてここから出て行きなさい、もちろんもう二度と戻らないことよ」
予想していなかった返答。何故という疑問より喜びの方が強かった。
「分かったらさっさと出ておいき!」
二人は嬉しそうに砦から去っていく。その後姿をどこか物悲しげに見詰めるイレナ。
「良かったのかね?」
その様子を察してか議長が声を掛ける。
「そなたも一度、自由を夢見て旅立っただろう?」
過去を思い出し、一粒の涙を流す。結果は自分の望んだものでは無かった。それゆえ同じ思いをさせないようキツく縛り付けていたのだ。それが今解き放たれる。
「イレナ・トレラントよ」
彼女は自らの願いを、密かに妹に託した。
――
砦を背に歩いていくニ人。ふとルルシアは考える。一体これからどこへ行けば良いのか……と。迷いはあったが遠く離れるたびそれらは晴れていくような気がした。
「これからどうしよっか?」
振り返りフルースに訊ねる。彼はただ笑顔で手を差し出した。
「友達になろうよ!」
優しく寛容な風が吹く。
「ええ、もちろん!」
ルルシアは嬉しそうに答えた。二人は手を取り合い友情を誓う。しばらくそのままで居たが次第に気まずい空気になっていった。
「えっと…どこへ行こうか」
どうやらその後の事を何も考えていなかったようだ。きょろきょろと辺りを見回すフルース。どこもかしこも森や草原ばかりで人の気配は無い。
「こっちの方へ行ってみましょ?」
彼女が指差したのは草原の方。ようやく二人は新たな冒険へ向かって歩き出した。




