第九章「津市の深淵」
三重県・津市。
JR津駅から南へ徒歩20分。夜の住宅街を抜けると、そこには異様な雰囲気の廃ビルがそびえていた。看板の文字は掠れ、「第八興産ビル」の跡形もなく、周囲はゴミと注射器、腐敗臭にまみれていた。
ミカはフードを深くかぶり、廃墟の裏手から忍び込んだ。久世の仲介で津の潜入協力者と連絡を取ることになっていた。
中に入ると、電球一つすらない暗闇。しかし、地下へ続く階段からほのかな明かりと声が漏れてくる。
「──新ロットのカストリ、津でも回ってる。試作品とは比べ物にならん。ガチで“飛ぶ”ぞ」
「死者も出てるって話だが?」
「死者で測るんじゃねえ。残るかどうかだ」
地下フロアには、まるで実験室のように乱雑に並べられた器具と、異様な雰囲気の若者たち。明らかに一般のルートでは手に入らない器具や合成素材が揃っている。
津で活動しているのは、《KASTORI》のローカル版を非公式に“強化”して流通させている集団だった。その裏には、かつて厚労省の外郭団体が運営していた「医療福祉推進機構」の元職員が関与しているという情報があった。
ミカはマスクの内側で息を整え、スマホを胸元に固定。カメラは録画を始めている。
「これが……現実……」
彼女の視線の先には、明らかにオーバードーズ寸前の少女がソファに横たわり、身体を痙攣させていた。その横では若い男が何かのデータを取りながら笑っている。
「なぁ、次はAV業界のスカウトも呼ぶんだってよ。“壊れかけ”が一番売れるらしいからな」
怒りで震える手を必死に抑えながら、ミカは階段へと引き返した。証拠は揃った。あとは久世に渡すだけ。
しかしその瞬間、階段の上から誰かの声が落ちてきた。
「女がいたぞ!」
懐中電灯が彼女の顔を照らす。逃げ場はない──
だが、暗闇の中から現れた影が一つ。銃声。
「伏せろ!」
久世だった。彼は一瞬で状況を把握し、ミカの腕を引いて裏手の排気ダクトへと潜り込む。
「ここからは俺が動く。君は──もう一度考えろ。『正義』ってのは、正しいだけじゃ足りねぇ」
津の夜風が、薬品と血の匂いを運んでいた。