第二章 「飛田新地、肉体の値札」
六本木の朝は、無機質で静かだ。
深夜の喧騒が嘘のように消え、白いビル群だけが霧に濡れていた。
ミカは、歩いていた。裸足で、顔に血をつけたまま。
みれいの死体をソファに残したまま、何一つ後悔せず、むしろ「終わった」と心の中で呟いていた。
逃走ではない。これは“旅”だ。
──ここでは、まだ足りない。
──もっと深く、もっと本物に堕ちなきゃ。
ポケットには、クレカを盗んだパパの財布。
スマホには、なぜか知らないSignalのグループがいくつも増えていた。
そして、誰かが言っていた。「大阪の飛田、カストリの“源流”がある」って。
◆
新大阪。
東海道新幹線の終点。朝8時すぎのホームで、ミカは初めて咳き込んだ。
吐き出した唾には、ほんのり黒い血が混じっていた。
「……カストリ、抜けかけてんのか……」
思考がぶれていく。現実と幻覚の境界が壊れはじめていた。
ホームにいるサラリーマンたちの顔が、歪んだ豚のように見える。
タクシーで飛田新地へ。
女の肉体が“品書き”として陳列され、白い障子の奥で値段が決まる街。
15分1万2000円、60分なら5万円。写真と現物が違うのは当たり前。
昼間なのに、ネオンが消えない。
「よう、嬢ちゃん、迷い込んだな」
路地の奥で、ミカは声をかけられた。
身長190、和彫りの龍を肩に乗せた男。年齢は30代後半。
白いスーツの内ポケットには、拳銃の輪郭が見えた。
「紅蠍會や、知っとるか?」
──ああ、当たりだ。
ミカの中の“獣”が笑う。
「知ってるよ、トクリュウの巣でしょ?」
男の目がわずかに細まる。
そして彼女を、無言でベンツに乗せた。
◆
向かったのは、西成にある旧診療所跡。
壁には漢字で「肉診所」と書かれ、鉄のシャッターが半分だけ開いていた。
その奥にいたのが、紅蠍會・若頭の久世竜平だった。
34歳。髪は短く整えられ、和彫りが首元から背中へと続いている。
眼光は強く、だが静かだ。暴力の匂いが、呼吸の奥から滲んでいる。
「嬢ちゃん。名前は?」
「……ミカ。美月は死んだの」
「そうか。死んだんか。ほな、お前はここから生きるか死ぬか、やな」
彼の隣には、銀色のアタッシュケースがあった。
開けると、赤紫の小瓶がずらりと並んでいた──カストリだった。
「本物のカストリや。東京モンが吸ってんのは、精製落ちやで」
「もっと強いのがあるってこと?」
「ある。脳ごと焼くようなやつや。
……せやけど、お前はそれに耐えられるか? 死ぬで。骨の芯から」
ミカは笑った。
薄く、狂ったように、快感を予感するように。
「死ぬかもしれないけど、まだ死にたくない。
……この都市の“本当の地獄”を、まだ見てないから」
久世は無言で頷いた。そして、一本の小瓶を彼女に手渡した。
「ほな、見せたるわ。“肉骸都市”の入口を」
ミカはそれを受け取った。
指が震え、唇が乾き、心が期待で高鳴った。
──その瞬間、彼女はもう“人間”ではなかった。
カストリに魂を喰われた“肉骸”として、都市に放たれたのだ。