崩壊―2
翠川の室内に突入した山吹は手帳に手を伸ばしたところで目標が消えて、経験からくる勘に従って左足で踏ん張り、右足を真横に蹴り出した。視線を送ったのはその後である。
「さすが御門君も認めた反射神経と海藤君が絶賛した体幹の強さですね。もよや捉えられないとは思いませんでした」
狙ったのは手帳である。
しかし。
「私は親しい間柄であっても扉はノックをするものと教わりました。親しくも無い貴方が無礼を働いただけでなく他人の物にまで手を伸ばす――教育が行き届いていないにも程がありますわね」
翠川は手帳をヒラヒラさせながら目を吊り上げていた。
山吹が翠川を担当したのは自身の正体を隠し続ける為であり、かつ、ライナスとして彼女の記憶に用があったからである。今後の交渉を有利に進めるため翠川の記憶読み取りをフィリップに提案し、許可を得ていた。
ここまでの流れは海藤と打ち合わせた物だ。二人とも最初からエドワードを疑っていた。だから海藤は、山吹がフィリップの協力を取り付けるまでの足止めに動いていた。
エドワードがスパイだと判断したのは初日のやりとりが原因だが、それを決定付けたのは御門からもたらされた『寮母は翠川に御門が倒れた話などしていない』という事実だった。そして、何者かに拐われ手帳を奪われた片桐と、契約時に魔族と対面しているはずの翠川。この二人が居る間は姿を見せなかっただけでなく、山吹達は明確な特徴を伏せて会話していたにも関わらず、エドワードは一目見ただけで件の手帳だと断定した。
状況証拠は揃った。
「そうされる理由に心当たりがあるでしょう? ですから謝罪は致しません。その手帳を寄越しなさい」
山吹は飄々として言い、最後などは目で射抜くほどの圧力を醸し出して更に言葉を紡ぐ。
「いいですか? 僕達は貴女も被害者だと考えています。あなたが発動を試みた願望成就の術は、周囲の絶望を糧に力を得られますが使用者は絶望に支配され自ら命を断つ危険がある、そういう類いの物です。然るべき手段により即刻処分しなければなりません」
山吹に気圧された翠川は、溜め息を漏らすと同時に表情を暗くした。そして目を合わせて自嘲気味に笑い、また溜め息を漏らした。
「……そんな事くらい知っています。それでも私はこれに頼るしかないの。あなた達、学園建て直しのために呼ばれたそうね」
「そのためだけに入学しました」
「あら、事実なの?」
「かまかけだったのですか? 僕は真実しか言わないので駆け引きなど無意味ですよ」
「そう? 少しくらい嘘でもいいのに。馬鹿ね、あなた」
「古い約束ですが、それを違える程度の誠実さではテスラの称号など名乗れません」
翠川の目が丸くなった。
やはり称号の意味を知っていたか。そう理解した山吹は黙して待つ。翠川が躊躇いがちに口を開いた。
「あなた達さえ来なければ、今頃学園は私達の物になっていた筈です。そのために妹を持つ事も我慢したのに。大河さんに取り返しのつかない事をして、なのに実現もさせられなくて……私とあの子の三年間は何のために費やされたのでしょうね」
「巻き込んだ側が同列に語るのは感心しませんね。貴女が作った功績は大河さんが切っ掛けとなっているのに誰からも咎められないのは妙だと思っていました。誰ですか? 貴女に魅了の術を与えたのは」
「そこまでお気付きなのですね。でしたら言えない理由もお分かりでしょう? 人に紛れた賢者様?」
揶揄する様に笑って言ったのはせめてもの強がりなのだろうか。悲しそうな笑顔には応じず、淡々と話を進める。
「ミカエル条項と謗られる黙秘契約ですか。承知致しました。後程記憶を読ませて頂きますが宜しいですね?」
「私が同意しなければ違反になるそうね」
「やはりそれも知っていましたか。それでも貴女は同意しますよ。女性化する前の空さんを記憶している様ですので。――空さんは学生が持っている物の全てを犠牲にしています。あなたより遥かに持たざる者です」
「あんなに大きな御実家なのに?」
「大きいからこそ転覆した時の被害も甚大な物になる、財閥の歴史を支えてくれた人達に報いるためにも生涯努力しなければならない、それが御門家に生まれた者の使命――これは空さんの言葉です。そんなふうに考えた事はありますか? 言葉通りの努力が出来ますか? 家のため個を捨てられますか? 僕には真似出来ないですが貴女ならどうですか?」
息を呑む音が聞こえ、翠川が顔を伏せた。
山吹は動かない。
翠川がゆっくりと崩れ落ち、嗚咽が流れた。
「私は……大河さんを利用して……また、今も……もう……」
山吹が歩み寄り、そっと手帳を引っ張ったが翠川は抵抗しない。片桐から聞いていた、ページを逆順に見せて所持の解除手続きを行う間も素直に従った。
「読み取りに協力して頂けるのであれば、辛い記憶を改竄するくらいはしますよ?」
山吹の提案に、しかし翠川は俯いたまま首を振る。
「……いいえ。家からの重圧に耐えられなかった私の罪なのです。私が背負わなくてはいけません。協力しますので記憶はこのままでお願いします」
「そうですか」
それだけ言って、山吹は翠川の頭に手を置く。同時にクタッと崩れた翠川は、直前に「お姉さま」と呟いていた。
「宮代さんも大河さんも、今の貴女なら姉と認めるのではないでしょうか」
聞こえないと分かっていたが、そう声を掛けて抱き上げてベッドに運ぶ。
ふと足を止めて出入口の扉を眺めた。
「……魔力が少ないと感じていましたが。そういう事ですか」
ここまでの間も廊下での戦闘音を注意深く聞いていた山吹は、異変を感じ取って自身に掛けていた制限を解除して碧眼となる。
翠川をベッドに下ろして時空から隔離すると、海藤の気配を探りながら廊下に出た。場合によっては眠らせなければならない。
術の起動は、海藤の目視と同時だった。
エドワードの顔面を襲ったのは、海藤のみが使う足技での震混術だ。上体を動かさず上段蹴りを放てる海藤の足技は死角から飛んでくるため回避が困難である。そこに震混術を乗せれば、ヒットしただけで魔族なら脳震盪を起こすのだが――
「ちっ、躱したか」
呟きながら蹴り足で壁を、軸足で床を蹴って反対の壁へと跳び、剣呑な気配を発している方向に向けて掌底を揃えて構えた。
ごうっと空気が膨張して海藤を呑みこみ、局地的な爆発のあと廊下に爆煙がたちこめる。
一瞬で海藤の軸足側へと移動していたエドワードの攻撃であった。
情け無かった表情は精悍な物へと変わり、苦々しい笑みを浮かべている。
つまらない痛手を被った、と言わんばかりに頬を二回はたいて翠川の私室へと首を巡らせる。
その横っ面に、煙を割いて右上段廻し蹴りが叩き込まれた。
「――ぐぅっ!」
苦鳴を上げて仰け反るエドワードが吹き飛ばされるより速く左胸に追加の右正拳の打ちおろし。反動で跳ね上がるエドワードの腕。
それを突きから戻る最中の右手で掴み、引き寄せる反動と左踏み足で体ごと踏み込んで右胸に左肘、追撃で左足を引きながら右腰を返しての右下突きを鳩尾に入れてエドワードの体をくの字に折れさせる。
重心を残したまま左足を大きく弧を描く様に引いて腰を切り、下りてきた顎に右の鉤突き。
すぐ腰を逆に返し左足で床を蹴る様に体を起こして左下突きで胃袋をカチ上げる。
一瞬で右足首から膝、腰の順に回転し、沈み込みながらの右の正拳突きを、下降結腸目掛けて叩き込んだ。
僅か一秒のコンビネーションであり、六発のうち四発に震混術が乗っていた。
エドワードは呻き声を漏らして崩れ落ち、腹を押えながら右に左にと転がりながら足をバタバタと動かし、隠れる場所を求める様に扉へと這って行く。
海藤は笑っていた。
「終わってくれるなよ? まだ殴っていない所が山のようにあるからな」
だがその目は、合わせただけでも凍えそうな程に冷たかった。
「………き、さま――ぐうっ!」
――ドン!
扉横の壁に魔法陣を書こうとしていたエドワードの手が、海藤の足に踏まれてめり込む。まるで映像をつなぎ合わせたかの様な速度の蹴りだ。見てから躱せるものではない。
「あの程度の魔力爆発なんざ効かねえよ」
海藤は膨れ上がった魔力の殆んどを震混術で相殺していた。弾けて爆発したのは掌底より先の魔力であり、それによって飛び回った破片で頬の数箇所と手に無数の切り傷、服の所々が小さく破れるダメージを負っただけである。
海藤は獰猛な笑みで冷酷な視線を突き刺す。
「やっと尻尾を掴んだぜ。教頭の斡旋で翠川と契約したのはエド、お前だ」
踏みつけられたエドワードが呻く。
「な、何の事だ…き、貴様……いつから、う、う……たがって……」
「最初からに決まってるだろ。御人好しのそらつばはどうだか知らんが」
(ポケットを探った所で何も出て来ないだろうな)
海藤は物的証拠の入手方法を思案したが、実のところ証拠などどうでも良いと考えている。
「まあお前の話術は見事だったろうさ。確かに一度も嘘は吐いて無いのかもしれんが、残念ながら胡散臭い話をさせたら山吹の方が上だ。お前の話には誠意が無い」
不敵な笑みを浮かべて踏みつける足に体重を掛ける。
その理不尽な決め付けにエドワードが怒りの言葉を吐く。
「そ、そんな……くだらない理由で疑ったと? こっちは情報提供もしたと言うのに馬鹿げてる。信用していた相手から攻撃された身にもなってみろ! お…私が一体何をしたと言うんだ、正直に話したし同行する間にお前たちを一度でも陥れたか?」
初めてまともな感情を見せられても海藤は意に介さない。
膝に肘を乗せ、身を乗り出すように覗き込む。
「話だけな。証拠の提示もないままお前の主観に合わせて協力しろだと? 両手を隠した奴と握手する術は無いんだよ」
挑発する様な物言いに、エドワードは視線を柔らかくした。
「それは、たまたま忘れただけで……」
「翠川に情報を流してたのも分かってるんだよ。だから生きてちゃ困るんだろうが生憎だな、俺達は始末や処分を殺害と同義に扱う程日本語に不自由してねぇ。この意味が分かるか?」
最後の一節を吐き捨てるように言って、また足に力を込める。
エドワードの態度が豹変した。
挑発的な笑いをもらす。
「くくくっ………そうかそうか、ミストの事も言っている訳だ。しかし絶対的な証拠は何処にある? 手帳とて似た物を見たことがあるだけだぞ? ふはははっ、どうだ? 貴様らなりに理由を探した様だがそれでは証拠にならんのだ。一つ面白い事を教えてやろう。契約管理局などと言っても案外杜撰でな、俺がそこの女と契約した事実を見つけられるか疑わしいんだよ。裁きの場において犯罪性の立証は困難だぞ? 適当な口実で俺をどうにかしたらフィリップの信用が――むぐっ!」
勝ち誇った様な語り口を踵でグリッと抉って遮る海藤。
「俺達の道場訓を教えてやる――」
冷淡な目で見下ろし海藤は続けた。
「――人を殺めず魔物を活かさず、人に仇為す顕現滅ぼし、天へと散らさん破邪の業。それが我等、天現活殺流。俺達は魔を討つ者だ」
そこで言葉を切り、呆れた様な表情を作って肩を竦める。
「お前がどうなろうと関係ねぇよ。……執務室での一瞬を忘れたのか?」
海藤は踵で震混術の最終撃を打ち下ろした。
しかし、何も起こらない。
エドワードの腕が動いた。
丁度その瞬間に山吹が飛び出し、海藤を認識してすぐ指先を水平に薙いだ。
エドワードの手から強大な魔力が膨れ上がって一瞬で辺りを満たし――しゃぼんの様に弾けた。
部屋を丸ごと巻き込んだ爆発が起きたのは、その直後であった。




