10日目―3
御門が女性化する二週間前。
大河は高等部に上がるなり御門のクラスを訪れた。
まだ男子の少ない環境にあって女子達の独占欲は強く他のクラスの男子を訪ねる事は極めて目立つ行為であり、ましてや下級生が上級生を、しかも相手が有名人の御門とあっては相当な敵意を向けられた筈である。しかし大河は笑顔だった。
ほぼ毎日訪れる大河を御門は当然の如く大切に扱い、他の女子とは一線を画した事が余計な噂を呼んだが結果的に大河を助ける事になると放置し、いつも一緒にいる海藤と山吹には一部の事情を説明して安易な事を口走らない様にと頼んだ。
彼らは快くフォローし、事は順調だった。
あの夜までは。
翼の目的は直ぐに解った。
可愛い妹を滅する事に躊躇した御門は、キーホルダーを見ながら自問自答し一度はその覚悟を決めている。
結果は予想外の流れによる大番狂わせの痛み分けだが、切っ掛けとなったのは、やはり大河のキーホルダーであった。
お陰で翼を討たずに済み、御門と融合した事で情愛の感情を育てつつある翼からは完全に邪気が消えている。
御門が救った筈の少女は今や恩人であった。
その礼すら告げられず、また悲しみを背負い始めた様子に気付きながら何も出来ない。
歯痒さが増大するばかりである。
「上手くフォロー出来れば………くそっ、頭が働かん」
昨夜は帰ってすぐに意識を回復している。
御門は大丈夫だと言ったのだが翼は認めず、回復系は自然エネルギーを使うから負担は掛からない、とにかく休む様にと命令された。
起きたからには当然眠っていた訳だが、眠りに就いた記憶がない。気付いたら目覚めていた感じである。
お陰で体調はすっかり良くなったものの、夢から醒めたばかりの頭では何を考えてもいい答えが得られそうに無く、考えなければならない事は山積みであった。
大きく伸びをして立ち上がり、パジャマのまま中央に出る。
軽く屈伸。
足を軽く開き、静かに呼吸を繰り返す。
それに手が加わった。
ばっと前に突き出した両手の指先を重ね、息をゆっくり吐きながら大きな円の外をなぞる様に下ろして拳を作り、息を吐ききって止める。
次の動作は素早かった。
息を吸いながら掌を下に向けるや両肘で腕を交差。戻すと同時に掌を上向かせ、一気に脇へ引き付けた所で呼吸を止める。空気を切り裂く様に突き出した手は指先を重ねていた。そこまでが一挙動。
数回繰り返した後、腕を下ろした所で動作を終えた。
そこから中段突きを始めると、回数こそ少ないが丁寧に基本技をこなす。
血流が良くなって思考がはっきりしてきた。
(型も出来るといいんだが………)
御門は一度だけ、この場所で型を披露した事がある。
型には裂帛の気合が付き物で、如何に力を抜いて始めようが途中から本気になってしまうため即座に隣から苦情が来て翼が怒られた。
隣室の二人曰く「空ちゃんがそんな非常識な事を進んでやるはずがない」との事で随分と信頼された物だが、実際その通りで翼にせがまれたのである。ついでに妹に甘い御門も悪いとされ、以来寮内では空手禁止となっていた。
うっかり迷惑を掛けないよう型を諦めた御門は、この体になってから一度も試していない業を気にして室内を見渡す。
(あそこなら、些少の事は大丈夫か)
化粧室の洗い場で水を汲んでロフト倉庫へ上がるとモップにたっぷり含ませて壁に押し付け、扉一枚分程の範囲に塗りつけた。
天現活殺流に震混術と呼ぶ退魔の業がある。衆目の前で使う事を禁じられており、練習する機会は少ない。
ここなら誰にも見られない。
空手を禁止されてはいるが、天元活殺流は空手では無い。
「体術だからな」
自分に言い訳をして壁から離れ、ロフトの端まで来ると公園で見せた構えを作る。
変化は直ぐであった。
呼吸に合わせて練られた気が全身を包む力となって陽炎の様に立ち昇る。
整えきった呼吸は胸の上下動を感じさせない。翼譲りの柔らかい髪がふわりと持ち上がった瞬間、御門は壁の前に居た。
騎馬立ちに近い右半身。右足は床を蹴って腰を切った状態。
ひた、と左手が壁に触れた刹那。
首から上を除いて全身が一瞬だけブレた。
その僅かな時間で五ヶ所に拳が打ち込まれている。常人なら打ち込んだことにすら気付けない早さだ。右手がゆらりと掌底を形作ったとき壁には――有り得ない現象が起きていた。
打ち込まれた場所から波紋が広がり続け、互いに出合った所で新たな波紋を生む――それが延々と繰り返されている。
乱れの中心にそっと掌底を近付けて。
僅か数ミリの打撃。
コンマ数秒の後、風船を割った様な音が響いて壁面の水が弾け飛び、霧となって拡散した。
天現活殺流とは『魔のみ』を討つ術である。
魔力を帯びた物は水を含んだスポンジと同様であり、震混術はその波長を変え共鳴作用による魔力の暴走を起こさせる業であった。故に対象の纏う魔力が大きいほど効果は高い反面、極端に魔力を抑えた相手には眩暈程度のダメージしか与えられない。
また、物理的に触れる必要があり、懐深く潜り込む技量を磨かなければ通用しない。土台が空手なのはその欠点を補うためだ。
翼が漂う霧を眺める。
「まだ水の粒子が大きい。体の構造の違いか…」
モップを手に取って水気の無くなった壁を見つめ、表面の皺に気付いた。
「ん? 壁紙が剥がれたか? ちょっとまずかったな」
皺を伸ばせないものかとザッと撫でた。
ふわりとした感触と離れていく壁。
「あ、あれ? ま、待て、おい!」
事態に気付いて思わず壁相手に制止の声を掛けた御門だが、意志を持たぬ壁に通じるはずもなく。
水を塗っていた範囲だけが隣の部屋へと倒れ込み、大きな音と共に土埃を舞い上げた。
宮代はカチャカチャと軽快な音を立てる盆を手に自室へと向かっていた。
感情に翻弄された翼は、何を聞いても「わからない」を連発するばかりで到底話が出来る状態ではなく、落ち着かせるために一人にしてみたのだ。そのついでに紅茶の用意をしていたのだが、それは宮代が似たような状態になった時に姉がしてくれた事だと気付いた。
「狙った訳じゃないんだけどなぁ。お姉さまのお陰ね」
どれだけ自分が変わろうとも受け継いだ物がある。
それが宮代の自信だった。
「うしっ!」
小さくガッツポーズをして、ばん、と勢い良く扉を開く。
翼はソファで膝を抱えて顔を伏せたままである。
盆をテーブルに置いた宮代はいつもの笑顔になっていた。
「翼、ほら」
「いい」
拒否する翼の前にカップを置き、自分のを手にしてソファーに座る。
「しょうがないわね。前向きな提案があるんだけどなぁ」
大きめの声で言って紅茶を含む。
「前向き?」
翼が顔を上げた。目は真っ赤である。
「言っとくけど、今この瞬間を大切に、なんて話は納得しないわよ」
不満そうな口振りだが、反応しただけ進歩だ。
宮代は周囲を元気にする独特の笑顔を見せた。
「ねえ、よく考えたら、あんた等って種族的な血の繋がりが無いじゃない」
もう一度カップを差し出す。
それを両手で受け取って翼が応えた。
「そうね」
ゆっくり香りを吸い込んでから、カップを口に運ぶ翼。
二人の目が合った。
宮代は笑顔に優しさを加えて。
「押し倒しちゃえ」
翼の手がビクンと跳ねて熱い紅茶が流し込まれる。
「むぐぅっ……ふわわっ! 熱っ!あつあつあつっ」
「あはははははは」
「な、何を言い出すかと思ったら………」
その目は本気で驚いている。
宮代は荒療治を選択したのだ。
感情に翻弄されているのなら、それを上回る翻弄によって呼び戻せばいい、話はそれからという訳である。宮代は体を反らせて笑い、
「あははは。あの子って優しいからさ、好き~って飛び込んだら案外受け止めてくれるかもよ? 何もしないで悩んでるよりいいでしょ」
抱き止めるようなジェスチャーを見せた。
それだけで翼の顔が真っ赤になる。
「ば、馬鹿な事言わないで! 何をどう転がしたらそう言う話になるわけ?」
「まあ冗談が過ぎた事は謝るわ。でもさ、あんた気付いてないの?」
「気付くも何も想像すらしてないわよ!」
頬の熱もそのままに不遜な態度で紅茶を飲む翼の様子はいつも通りであった。
宮代は空いた手の指を、ぴっ、と立てて翼の目を引き付ける。
「そうじゃなくて『忘れてた、帰らなきゃ』って言ったでしょ。それって、空の側にいるのが当たり前になってたって事じゃない。他の発言も残る事が前提になってるし」
そう指摘すると、軽快にくるくると回して翼を指した。
しかし翼の態度は変わらない。
「だから? あんたの突飛な話と、どう関係するのよ」
宮代の目が丸くなり、身を乗り出して覗き込んだ。
「……もしかして、にぶちん?」
「だから! 何の話よ!」
翼が苛立ちを言葉に乗せ、宮代は俯いてこめかみを押えた。
「そっかぁ。まあ、お子ちゃまだとは思ってたけどさ、想像以上に鈍いって事ね。あんたが気付かない事にはどうにもならないしねぇ」
その態度が翼の琴線に悪い方向で触れた。
「……人の事を子供だとか鈍いとか好き勝手言ってくれるじゃない。どこが? 証明してみなさいよ」
「う~ん、それは現在進行中なんだよね。むしろ子供じゃない、鈍くないってのならそれを証明する方が早いかと……んーーーでも翼には早いような気が……」
宮代に悪気は無い。
言った所で翼出来るかと言えば出来ない方にベットが積み上がる。おそらく無限に。だから言うべきかを迷っている。
要するに無駄だと思っている
「そんなの簡単に決まってるじゃない。文句が無い様に条件提示させてあげるわ」
剥きになる翼があまりにも子供っぽくて、宮代はクスクスと笑いを漏らした。
「そこまで言うなら、そうねぇ……空にキスの一つでも出来たら撤回してもいいかな」
宮代は翼の感情を、憧れと恋の境目だと見て少しからかってみた。
しかし翼は勝ち誇って答えた。
「なぁんだ、そんな事? じゃあ、もうしてるからあたしの勝ちね」
宮代の目が大きくなった。
「え? そうなの?」
「ふふっ、どう? お子ちゃま発言は撤回して貰おうかしら」
「いやぁ本当ならお詫びしないと。何処でどんな感じにしたの? 感想は?」
「そこの公園でよ。感想なんて程じゃ――」
翼は気付いた。
今、自分がとんでもない事を口走った事に。
宮代が溜め息を吐く。
「聞かなかった事にしてあげるけど、迂闊な所はそっくりね。本当は正真正銘の姉妹じゃないの?」
「あ、でも、でも、それは契約のために無理矢理……」
「空が強引にしたの? そうかなぁ。あの子って相当ウブだよ?」
「ち、違うの、えと、あたしから――魔族から契約を斡旋する場合はキスで成立するから」
「じゃあ翼が無理矢理したって事? あんた意外にやるわね」
「違うんだってば、今回の契約が違反で、お姉ちゃんは知らずにあたしの名前を呼んで、あたしも返事しちゃって契約扱いになってフィリップが出てきてキスしたの」
「小学生か? あんたは。いきなり相手が増えたじゃない。さっぱり解らないわよ」
パニックに陥った翼の頭を撫でながら宮代は笑う。
その扱いに対する不満を目で訴え、口を尖らせて紅茶を啜る姿は子供の様だと思った。
「まあそれでも契約のためにした、ってのは解ったから。あんたって本当に鈍いんだね。一時の憧れでそういう想いを持つのは良くある事だし、時間が経てば変わるかもしれないじゃない。まずは自分の気持ちをよく考えてみたら?」
「……ふん。何よ、大人ぶっちゃってさ。そっちこそ小学生でも解るように言ってよ」
「あははは。可愛い可愛い」
頭を撫で続ける宮代と、それを払い続ける翼の攻防。
宮代は御門の事情を聞くのは止める事にした。翼が本気ならば何かと支えたい筈、手に余った時だけ助ければいい、そう考えたのだ。
海藤の言った事は気になるが、安易に踏み込んではいけない気もしていた。
危険だから、ではなく、翼の精神面を気遣ったのである。
「でもあの子、優秀だからねぇ。フォローなんて必要かしら」
「だから何の話よ。だいたいお姉ちゃんにそんなの要る筈が無いわ」
「たいした信頼ねぇ。だけどそれで苦労するのは――」
宮代の言葉は、重い物が倒れた様な音と振動に遮られた。
地震かと見渡して――その発生源に眉を寄せた。化粧室の上、倉庫に土煙が立ち込め、空間を黄色く染めている。動こうとした宮代を翼が押えた。
「待って、あたしが先に行く。僅かに魔力を感じるの」
「じゃあ空が……」
「お姉ちゃんなら大丈夫みたいだけど困っているのは確かね。魔族は居ないと思う。でも警戒しておいて損はないわ。あたしから離れない様についてきて」
「オッケー。ありがと」
二人は埃の中を慎重に進んだ。
倉庫にも周囲にも魔族の気配はないと判断した翼は、呟きの後に親指と人差し指をピッと擦り合わせ、あっと言う間に埃が集まり、一個の土塊となって床に転がる。
「うわぁ、便利ね~…」
素直な感想を漏らして翼に続いて穴を覗き込んだ宮代は、困った顔の御門を目にして微笑みかけた。




