8 遊泳禁止を守ろう 後
「さてさて……」
湖面は静かで、鏡の様に青い空と森の木々を映している。
オレは軽く息を吸うと、湖面に映る木々を割る様に水面に飛び込んだ。
岸に近いのに結構深いな。
ダム湖であえて水を貯めてるんだから当たり前か。
夏の熱気から冷たい水に潜る感覚が気持ちいい。
衣服が巻き込んだ空気が細かな泡となって、オレの身体の表面を撫でながら水面へと上がっていく。
その感覚にくすぐったさを感じて、オレは身体を捻って服の中から空気を追い出した。
高い山々から流れ込んでいる水だからか、思ったより透明度は高い。
水面に登っていく泡が光を映して輝いている。
深く水に潜りながら、オレは湖面を仰ぎ見る。
このまま水に溶け込めたらどんなにいいか……。
だがオレは異物だ。溶けることはない。
水中のオレの周囲には倒木があった。
ダムができた頃に沈んだものだろう。湖底に根を張っているものの完全に枯れ、朽ちた姿をさらしている。
ただそこに生えていただけなのに理不尽に水の底に沈められ、生命を終わらせた存在たち。
静かな死が、そこにあった。
オレは湖面に映っていた森の木々を思い出す。
水面を境に、生と死が隣り合っている。
……ぶっ壊したくなる。
「ちっ」
舌を鳴らすと、口から洩れた空気が湖面へと上がっていった。
空気もまた、生者の証だな。
あのラミアモドキのせいで嫌なことを意識してしまって、オレは苛立っているらしい。
水中にある倒木の森。
魚たちがその間を泳ぐ。
そんな神秘的な風景にすら、モヤモヤとしたものを感じてしまった。
オレはそれを振り切るように、水を掻いて水面を目指す。
水面に一気に頭を出すと、豪快に頭を振った。
水しぶきが周囲に飛び散る。オレを中心に複数の波紋が広がった。
オレはもう一度頭を水にくぐらせ、髪をガシガシと洗う。オレの白い髪が水に泳ぎ、こびりついた血が水に溶けた。
着ている服もサンダルも洗うが、服に沁み込んだ血はそう簡単に取れそうにない。
まあ、ベッタリと付いていたんだから仕方がないか。血まみれ状態を何とか出来ればそれでいいだろう。
オレの周囲は薄っすらと水が赤く濁っている。
泳ぐ人間がいないためか、警戒心の薄い小魚たちが血の匂いに惹かれたのかオレの周囲に集まり始めた。
「ん?」
視線を感じた。
敵意がある物じゃないため、オレはゆっくりと振り向く。
対岸だな。
遥か遠くだが、オレの目にはオレを見つめている存在がしっかり見えた。
女の子だった。
湖岸の道沿いの場所なのか、木々の間から上半身だけが見えていた。
中学生くらいだろうか?真っ白いワンピース姿で、白いツバ広の帽子を被っていて、肌も白い。
白ばかりで幽霊みたいだ。髪と瞳だけが黒かった。
深窓のご令嬢という言葉が似合う。
じっとオレのことを見つめていた。
遠くて、オレの姿なんて豆粒くらいにしか見えないだろうに、真っ直ぐに、オレから視線を外すことが無い。
野生動物が泳いでいると勘違いして、目を凝らしているのだろうか?
不思議な感じのする子だな。
オレも、彼女を見つめ返す。
キレイな子だ。緑の中に浮かび上がるその姿は、妖精の様だった。
絵になるな。記憶に焼き付けておかないと。
長い真っ直ぐな黒髪が風に揺れる。それすらも、幻想的だった。
周囲に人の気配は無さそうだから、地元の子か?
それとも避暑に来たとか?
オレが認識していないだけで、ホテルの他に別荘地やキャンプ地でも近くにあるのかもしれない。
「こうじさ~~ん」
オレが女の子と見つめ合っていたら、耳障りな叫び声が聞こえてきた。
そちらに目を向けると、ちょうどオレが水に入った位置に谷口がいた。
なんでいるんだ、あいつ?
谷口は全身黒のスーツをしっかりと着込み、サングラスをしている。
優しい犬系の目元が隠れてどう見てもヤクザ屋さんだ。暑苦しい。
せっかくキレイな物を見てたのに台無しだ。
そう思ってオレは再び女の子に視線を戻した。
「帰ったのか?」
だが、女の子の姿はもう無かった。
あちら側まで谷口の叫び声が届いて驚いたのだろうか?無粋な奴が台無しにしやがって。
「てめえのせいだぞ!!」
「え?はい?なんですか?」
谷口が間の抜けた声を上げる。
こいつ、本当に何でここに居るんだよ?帰ったんじゃなかったのか?それにどうやってオレのいつ場所を見つけたんだ?
色々疑問を抱えながら、オレは仕方が無しに谷口のいる場所に向かって泳いだ。
谷口はオレがハーフパンツのポケットから出しておいたものを持って立っていた。
「何やってるんですか?ここ、遊泳禁止ですよ?」
ヤクザそのものの見た目で常識を語るなよ。
「よくここだと分かったな」
オレは水から上がり、両手で髪を後ろに撫で付けて水を切る。
Tシャツとハーフパンツが貼りつく感覚が、ちょっと気持ちが悪い。まあ、すぐに乾くだろう。
犬みたいに身体をぶるぶる振るわせてみたが、あんまり水は切れなかった。人間の身体だと無理があるよな。
飛び散った水を、谷口は眉を寄せて大げさに避けた。
「端末のGPSです。ホテルの人に場所を教えてもらいました」
「……監視社会て怖いよな……」
まさかホテル側に位置特定されてるとは思わなかった。まあ、オレがスマホ代わりに持ち出した端末はホテルの備品だから、当たり前と言えば当たり前か。
盗まれたり、客がうっかり持ち帰ったりしたら困るもんな。
「で、帰ったんじゃなかったのかよ?あ、それ、服が乾くまでお前が持っててくれ」
谷口が持っているオレの端末やら財布やらを指すと、谷口はそれらをジャケットのポケットに放り込んだ。
無意味に体格の良い谷口のスーツはパンパン。おかげでポケットに物を入れるとそこだけこんもりと盛り上がる。
「なんで泳いで…………」
泳いでいたオレのことを咎めようとして、谷口は一瞬口籠る。
そしてオレの服を舐めるように見てから驚きの表情を浮かべ、続けた。
「……それ、血痕ですか?」
意外と目ざといな。
オレの服には水では洗い流せてない血の染みが残っている。
谷口は驚きはしたものの、取り乱しはしない。それなりに慣れてはいるのだろう。
「色々あってな。気にすんな」
面倒なので、オレは泳いでたことも含めて誤魔化した。
「それよりも、なんでこっちに来たんだよ?帰れって言ったよな?」
「その、本部に事故の連絡したら、虎児さんのことを見張っておけって言われまして……。状況を話したら、一人にしておくと……その、きっと面倒になって依頼をキャンセルするだろうからって、釘を刺しておけって……」
谷口は言い難そうにしながらも言う。
なるほど、さすが管理職の連中はオレのことをよく分かってるな。
「それに、そろそろ一度、仕事の現場を見ておいた方良いだろうって言われて……」
「一流の仕事ぶりを見て来いってか?」
谷口はいわゆる事務仕事に分類されているが、勉強のために現場仕事を知っておいた方が良いってことだろうか?
だからといって、お守りを押し付けられたオレは面倒なだけなんだが?
「いえ、一番酷い仕事を見ておけば、今後どんな仕事を見ても平気だろうって」
「うるせーよ!」
酷い仕事をしてる自覚はあるよ!
だが、お前に言われたくない!!
オレは無言で歩き出し、ホテルへ帰るために斜面を登り始める。
その後を谷口は慌てて追いかけてきた。
怒って立ち去る様に見えただろうがそうじゃない。オレの口元は、緩んでいた。
それを見られたくなくて、逃げたのだ。
谷口と言葉を交わして、ラミアモドキと遭遇してからの嫌な気分がスッと消えていた。
正常な世界に引き戻された気がした。
そのことに感謝すると同時に、恥ずかしくなったのだ。
ガキっぽいが、実際にオレはガキなんだから仕方ない。
オレは湖畔から離れようと木に手をかけて、ふとはるか遠くに目を向けた。
視線の先は、女の子のいたところ。
なぜか、彼女のことが頭から離れなかった。