4 置いてあるものを勝手に触らない 後
「それに触らないください!!」
慌てた声がかかった。
声の方を見ると支配人がいた。
仕立ての良いスーツを着て、髪をぴっちりオールバックにした痩躯の中年だ。
いかにも神経質そうで、他の従業員が掃除したところを指先で擦って「まだホコリが付いてますね」とかやりそうな感じだ。
オレとは確実に仲良くはなれないタイプ。
実際、オレに対して常に不審げな目を向けている。
「ごめんごめん」
ハンドルを回しながら言う。やっぱり何も起こらないな。ちょっと楽しくなってきた。
「やめていただけますか!」
支配人が駆け寄ってくる。いや、壊さないよ?回してるだけだし。
何も起こらないけどオレが壊したわけじゃないぞ?
支配人の顔が怒りで赤くなってきたので、オレは手を止める。
怒りっぽいのはサービス業に向いてないんじゃないか?ピリピリしてると下で働く者にまで影響出るぞ?
サービスに影響が出たらホテルとしては致命的だぞ?
オレはハンドルから手を離して、両手を上げ、もう触ってないと分かり易くジェスチャーしてみせる。なんか今にも胸倉に掴みかかってきそうな雰囲気だった。
「で、これ、なに?」
「貴重な物なのです!」
口調が荒い。やっぱりサービス業に向いてないよ。
「いや、なに?」
貴重な物かどうかなんて聞いてない。
支配人は一度大きく息を吸うと、気を落ち着かせるためか、片手でネクタイを締めるような動作をした。
「これは、アルモニカです。グラスハーモニカとも呼ばれています。十八世紀に発明されヨーロッパで流行した楽器です。濡らした手を回転部分のガラスに擦りつけることで音を発します。十九世紀前半には製造されなくなり、約百年、八十年代にアメリカで復興されるまで幻の楽器と言われておりました。しかし、これはその幻と言われていた百年間に製造された可能性が高く、歴史的にも大変価値があるものです」
なんかマニュアル丸暗記みたいな解説ありがとう。
「なるほどね。楽器なのか」
濡れた手でガラスを擦る楽器ね。どんな音がするんだろう?
ちょっと興味あるけど、演奏したら支配人の血管が切れそうなのでやめておく。気が向いたら深夜にでもやってみよう。
「本来はショーケースに入れて展示しておくものなのですが、オープニングレセプションで演奏していただく予定なのでこちらに置いてあります。くれぐれもお触れにならないようにおねがいします」
あきらかに警戒されたなー。
やっぱり仲良くはなれそうにないな。オレはいつでもフレンドリーでウエルカムなんだけどな。
自分の言葉にオレが素直に返事を返さないのが気に食わないか、支配人はオレの顔を睨みつけるように見てくる。
オレはそれにニッコリと笑顔で返した。
支配人はあきらめた様に大きくため息をついた。
客の前でため息とか、支配人がやることじゃないよな。
「お部屋の準備ができました。ご案内します。オーナーはまだ手があかないそうでして、お会いできるのは夜になるそうです。準備ができましたら連絡をさせていただきますので、お部屋でお待ちください。ご夕食はホテル内のレストランで取れるように手配しておきますが、和、洋、中などのご希望はございますでしょうか?」
「中華」
即答する。和食は家で食えるし、洋食は気分じゃない。
困ったときは中華。これは全世界共通の安全パイだよな。
「承りました。中華レストランを利用できるようにしておきます。まだオープン前の研修期間中ですので、食材が限られておりますがご了承ください。場所は……」
「それは分かるから大丈夫」
だてに暇つぶしにパンフレットを読んでいたわけじゃない。主要施設の位置関係は把握してる。
仕事でも必要な知識だしね。
「そうですか。では、十七時より準備させていただきますので、それ以降にいらしてください。その時に店の料理人にお声掛けをお願いします」
「わかった」
依頼人……このホテルのオーナーと一緒に食事とかにならなくて良かった。そういうの面倒で嫌いなんだよな。
食事は楽しんで食いたい主義だ。
ただ、オープン前なら客はオレ一人になるのだろう。それはそれで寂しい。
誰か一緒に食事してくれる女性を準備してくれとか言ったら、この支配人はブチ切れるだろうか?
試してみたい衝動もあるけどやめておこう。
さっきのコーヒーをくれた美人を誘ったら来てくれないかな?
「お風呂は、申し訳ありませんが大浴場はご利用できません。お部屋のものをご利用ください」
「はいはい」
そりゃ、そうだよな。研修期間に大浴場に湯を張るほど無駄なことはないだろう。なんでも湖に臨む露天風呂があるらしくてちょっと入ってみたかったけどな。
もし仕事がオープンまで伸びたら入れるかな?
いや、話を聞いたら依頼を断って帰るつもりだったんだ。
依頼の二股はルール違反だし、あのキザ男と一緒に仕事はしたくない。
「何か他にご質問はありますか?」
「近くにスマホを買えるところがないかな?ちょっと事情があってぶっ壊れてね」
スマホがないと色々面倒だ。暇つぶしもできやしない。
「スマートフォンですか……。あいにく未だ、このあたりにはこのホテルしかございません。車で三十分ほどかけて近くの街に行く必要がございます。ただ……その代わりと言いますか、館内と主要な場所に設置されている無料Wi-Fiの届く範囲限定になりますが、客室に設置された内線兼用の端末をスマートフォン代わりにお使いいただけます」
そんなサービスがあるのか。内線兼用というのもありがたいな。
「へえ。じゃ、それを持ってたらそちらからの連絡もそれに?」
「はい。持ち歩いていただけますと、連絡がスムーズになりますので私どももありがたいです」
「じゃあ、そうさせてもらう」
とりあえず、スマホの問題は無くなったな。
まあ、仕事を断って帰るまでの繋ぎだが。
「他にご質問は?」
「たぶん、ない」
今の時点ではね。
それにオレが知りたいことはオーナー様に会った時に分かるはずだ。それまでは、ゆっくりさせてもらおう。
一応、リゾートホテルだ。オープン前で中途半端にしか揃ってないみたいだけどな。
「では、お部屋に案内させていただきます。お荷物はあちらの物が全てですか?」
支配人は先ほどまでオレが座っていたソファーの横を指した。そこには一個のキャリーバックが置かれていた。
もちろんオレの荷物だ。
たいしたものは入っていない。着替えと、仕事用のスーツだけ。
「そうだ」
「では、ご案内します」
支配人はオレの荷物を持ち、先に進んでいく。オレはその後を追いかける。
エレベーターで上がり、案内された部屋は上層階のジュニアスイートの部屋だった。
二人掛けのソファーやダイニングテーブルが並ぶ広々としたリビングルーム、併設されているベッドルームにはキングサイズのベッドが二つ並んでいる。
窓は全て湖に面しており、景色も良い。
まあ、どんなに良い部屋でも依頼を断るとなったら使わずに帰ることになるんだろうが。
「では、後程オーナーの準備ができましたら連絡させていただきます。それまでごゆっくりお過ごしください」
一礼すると支配人は忙しそうに出て行った。
さて、まずはシャワーを浴びるか。
タオルで拭ったが、オレの腕からはまだ怪物の血の匂いがしている。スッキリさせたい。
それから、周囲の散策でもするか。
オレは部屋の窓から見える景色に目を向ける。
そこには大きな湖と、その周囲の木々が広がっていた。