2 出かけるときは事故に注意(プロローグ) 後
ボンネットに落ちて来た影は、まだそこにいた。
車は大きく揺れながら静止し、オレと影は見つめ合う。
目の前にいる影は巨大。
人型の様なシルエットをしているものの、その姿は大きく違っている。
体を覆う長い獣毛。
赤毛で、陽の光に照らし出されて燃える炎のようだ。
前に迫り出した鼻先。
口にはびっしりと鋭い歯が並び、唾液に濡れている。
ボンネットに爪を立てている手足は太く、丸太のようだった。
一見すれば、ゴリラかオラウータン。
それなのに、そのどちらの特徴ともかけ離れたそれは、異形の怪物だった。
赤く狂気を含んだ瞳は、オレを見つめ続ける。
ほんの一瞬だったのかもしれない。
だが、オレと異形の怪物との探り合いは異様に長く感じた。オレはその間に周囲の気配を探る。
「こ……虎児さん……」
怯えた谷口の声が聞こえた。きっと谷口もオレと同じく目の前の異形の怪物を見つめているのだろう。
「ダメだな」
「はい?」
オレはその声にため息混じりに返した。
ダメだ。
目の前の怪物はきっと、オレ個人には何の敵意も持っていないのだろう。目を見ればわかる。
オレが手を出さなければ……見逃してやれば、オレにも谷口にも何もせずに立ち去るに違いない。
それなのに、オレの本能が放置してはダメだと告げている。
このまま済ますわけにはいかない。
オレは視線を怪物に向けたまま、自分の肩へと手を回す。
手に触れるのは、硬い帯の感覚。シートベルトだ。
オレはそれに爪を立てると、切り裂いた。
知ってるか?シートベルトは横には切り裂き難いけど斜めだと楽に切れるんだぜ?
まあ、オレの爪が特別製だからというのがデカいんだが。
オレはシートベルトが切れると同時に座席から腰を浮かせた。跳ね上がるような勢いで、ひび割れだらけのフロントガラスに拳を打ち付けて払い除ける。
粒状になって飛び散るガラス。
夏の強い日差しが反射して、ちょっとキレイだと思ってしまった。
「おらぁ!」
異形の怪物は、目を見開いてオレを見つめて固まっていた。
反応が野生動物ではない。まるで、人間みたいな反応だ……。
オレは枠だけとなったフロントガラスをすり抜け、外へと出る。
ダッシュボードに足をかけた時にちょっと力を入れ過ぎたらしくて踏み壊してしまったが、まあ仕方ない。
視界の端で、ダッシュボードの中から折り畳まれたエアバッグがだらりと出てくるのが見えた。
「ぐぉ!」
やけに人間じみた声で、異形の怪物が唸る。
オレが、その首を握ったからだ。
オレは外に出ると同時に異形の怪物の首を狙って右手を伸ばしていた。驚きに固まっていた怪物は何の抵抗もできずに首を握られた。
オレは怪物と同じくボンネットの上に立つと、手に力を込めた。
ミシリと怪物の首の骨が音を立てる。その時になってやっと、怪物はオレの攻撃に対して反応を示した。
「おせーよ。獣臭い腕を振り回すんじゃねぇ!」
怪物は腕を振り回してオレを殴ろうとする。
オレは振り回される怪物の腕を避けることもせずに、手に力を込める。
骨の潰れる感触。不快なのに、オレは快感を感じる。こういう喜びを感じる自分の本性が嫌いだ。
オレの爪が怪物の首に食い込み、血が噴き出した。
怪物の拳がオレの頭に当たる寸前。
「ぐ……」
短い呻きを上げたのは、怪物の方だった。
断末魔なのか、首ごと喉を潰した時に漏れた空気が音を立てただけなのか。
オレに首を握り潰され、怪物は命を落とした。あっさりしたもんだ。
殴ろうとしていた腕も、オレに届く前に力を失い、だらりと垂れ下がった。
怪物の身体からも力が抜ける。
巨体の全体重が、首を握るオレの右手一本かかってくる。重い。
だが、オレは怪物の首を握る手にさらに力を籠めて、その身体を支えた。
まだ終わりじゃない。
オレは怪物が出てきた路肩の林へと目を向ける。
そして、そちらに向けて怪物の死体を掲げた。
オレは笑みを浮かべる。
挑発するように、できるだけバカにしたように。
「……虎児さん……」
谷口の声が聞こえた。
かなり怯えてるみたいだ。
クソっ、オレにしては割といい関係を築けてたと思うんだがな。台無しだ。
怯えた顔を見たくなくて、オレは声の方に視線を向けられなかった。
「まだ終わってない。頭を下げて大人しくしとけ。デカい身体をしててもお前は素人なんだからな」
なだめる様に言ったが、返答はなかった。
怪物の喉からオレの腕へと血が伝わってくる。
オレが視線を向けている林の中でパスっという軽い音が聞こえ、滴り落ちようとした血を風が巻き上げる。
怪物を掲げているオレの肩に、わずかな痛みが走った。
「様子見してたのか。せこいねぇ」
パスパスパスと、連続して音が聞こえる。
怪物の身体が小さく震える。
銃弾が着弾した衝撃だ。
怪物にトドメを刺しているのか、それとも怪物を殺したオレを狙っての物か。
そう、オレはこれを待っていたのだ。
オレの車を襲った最初の銃弾。
あれは、どう考えても怪物が撃ったものではないかった。あり得るはずが無かった。
あの異形の怪物が、銃を撃てるほど理性がある存在には見えなかった。
ならば、銃を撃った別の奴がいる。
確実に、近くに。
最初の銃撃は、怪物を狙って撃った流れ弾だろう。
怪物を狩り殺そうと撃った物だったはずだ。
怪物が避けたか逸れたかして、オレたちの車に偶然当たったのだろう。
それを察したから、オレは怪物と見つめ合って少し待ったのだ。
手を出さずに、周囲の気配を探った。
怪物を撃ったのが、警察や自衛隊、猟友会なんかの、周りに被害を広げないことを目的として動いている連中だったら。
要するに、正義の味方だったらオレは怪物に怯える人間を演じて見逃すつもりだ。
怪物が危険な物だったとしても、自分たちの保身を優先するつもりだった。
だが、誰も声を掛けてこなかった。
オレが周囲の気配を探ると、間違いなくオレたちを黙視できる距離に人間の気配があった。
林の中に潜んでいる気配だ。
正義の味方だったら、オレたちに「逃げろ!」だとか「危険だ!」だとか注意を促しながら駆け付ける状況だろう。
それなのに、声すらかけず、気配の主たちはオレたちの動向を窺っていた。
だから、オレは後ろ暗い目的がある連中だと判断し、自ら動くことにしたのだった。
その判断は正解。
怪物が死んだ後で銃撃して来るとか、後ろ暗いどころか真っ黒だ。
まあ、パスパスした音でサイレンサーを使ってることは分かってたし、ろくな奴らじゃないとは思ってたけどな。
警察も自衛隊も猟友会もサイレンサーなんて使わないし。
撃ってきている理由は、口封じか?
「虎児さん!虎児さん!虎児さん!!撃たれてます!撃たれてますよ!!」
「うるさい!!頭を下げてろ!!」
緊迫した雰囲気だが、谷口の情けない声でちょっと気が抜けた。
ちらりと谷口の方に視線を向けると、身体を丸めて頭を下げてる姿が見えた。デカい図体のせいでうまく隠れてないが、まあ素直なのは良い事だよな。
修羅場はオレの専門だし、素直に言うことを聞いておいた方が良いって理解しているのだろう。
そのまま頭を下げててくれよ。あまり見せたくない状況になるかもしれないしな。
「……さてと」
オレは溜息混じりに呟いた。
面倒くさい……。
なんでまだ仕事が始まってもいないのに、こんな事態に巻き込まれなきゃいけないんだよ?
しかも、オレの大事な愛車がボロボロだ。泣きたいよな。
だからと言って、無かったことにできるような状況ではない。
奴らはオレを狙った。敵意を向けた。
信賞必罰だっけ?たぶん、そんな感じの言葉だったよな?やったことの報いは必ず受けるべきだ。
「ふう……」
軽く息を吐くと、オレは腕に力を込める。握り締めている怪物の首が軋んだ。
怪物の身体を浮かせ、大きく振りかぶる。
パスパスとまだ銃弾は飛んでくるが、まあ、気にしない。というか、微妙にオレに当たらないように撃ってる気がする。
だからといって、撃たれていることに変わりないから許すつもりはない。
届くよな?うん、届くはずだ。
オレは自分の感覚を信じて、気配の方向に向かって怪物の死骸を投げた。
「うわぁ!」とか、「ひぇ!」とか声が聞こえた。美しくない男の悲鳴だ。
その声を目印に、オレはボンネットを蹴って駆けた。
勢いに、ボンネットが大きく凹む。
すでに怪物が落下したことで凹んでいたボンネットだが、塗装が割れて飛び散る。
もう、パーツ交換しないと直らないな。エンジンにまで潰れてなきゃいいが。
「貴様っ!!」
野太い叫び。
オレが林の中の気配の元に駆け寄ると、そこにいたのはやけに体格の良いスーツ姿の男たちだった。
三人いて、どいつもこいつも見るからに格闘技をやってそうな連中だ。
オレの頭の中にヤクザ、ボディーガード、SPなんて単語が過る。
手には拳銃を持っていた。グロッグとかトカレフとかそういうやつ。
残念ながらオレは銃は嫌いなので見分けはつかない。ただ、連射できるタイプだということだけは分かる。
知ってるか?銃って撃つとたまに自分の方に弾が飛んでくるんだぜ?
周りの奴らはそんなことないっていうが、オレは数十発に一発くらいは自分に当たりかける。だから銃は嫌いだ。撃たないことにしてる。
オレは男たちから少しだけ間を空けて立ち止まると、できるだけ不敵そうに見えるように笑顔を作った。
男たちの目には、さぞかし可愛げのないガキに見えている事だろう。
「なんだこのクソガキっ!!?」
「品が無いなぁ。そちらこそ、何者?」
まあ、クソガキなのは否定しない。
そのあたりは自覚がある。
オレの見た目は、モテるために身体を鍛えた細マッチョの大学生。
頭の悪い体育大好きな大学生までは落ちてないと思う。たぶん。この境目はオレにとっては重要なんだ。
オレンジのハーフパンツに白いTシャツにスポーツサンダル。
完全にラフな格好だ。
でもって、ひと際チャラく見られる要素として、特徴的な真っ白の髪の毛。
脱色してるわけじゃない。眉やヒゲや他の体毛は黒いんだが、オレの髪は生まれつき真っ白だ。しかも染まり難いせいで高校までは苦労した。
脱色かどうかなんて見た目で分かるわけが無く、普通に見たら頭の軽いガキが粋がって真っ白になるまで脱色してるとしか見えないだろう。オレは硬派なのに。心外だ。
「くっ、貴様には関係ない!」
そう言って、男たちはオレに銃を向けてきた。
銃を向けられているのに関係ないとはありえないだろう。
オレはすぐに暴力に訴える奴は嫌いだ。
脳筋は面倒すぎる。
……よし、殴り倒して事情は後で尋問することにしよう。
異形の怪物のこともあるし、聞きたいことは山ほどある。立ち話よりゆっくりできる場所で話を聞きたい。
一度殴り倒した方が、話し合いもスムーズに進むしな。
オレは一歩足を進める。
さて、どいつから殴り飛ばそうか……。
「そこまでにしてもらおう」
オレが一番強そうな奴を見極めて殴ろうとした瞬間に、声がかかった。
一声でキザだと分かる、低く落ち着いた声。
オレは声の方に視線を向けた。
「あんたは?」
オレが目を向けると、少し離れた木陰から鍛え抜かれた身体にイギリス風のかっちりとした仕立ての良いストライプ柄のスーツを着た男が立っていた。
声もキザなら、見た目もキザだ。
ストライプ柄のスーツを着ている男は、インテリを拗らせた奴だとオレの偏見が伝えてくる。
ネクタイはワインレッドだぜ?
突風の中を走り抜けたような少し跳ねのあるオールバックと顎をぐるりと縁取るような髭だけがインテリぽくないが、まあ誤差だ。
ちっ、上手く気配を隠してやがったな。腹が立つが声を掛けてくるまでコイツの存在はまったく気付かなかった。
オレは思わず目を細めた。
「やめておけ、君たちも彼が猿を殺した手際を見ていただろう?腕力も、スピードも常人ではない」
オレが苛立ち混じりに男を見ていると、周囲に向かってそう嗜めた。
オレが動かないのをいいことに、銃を持った連中がオレを殺すために動こうとしていたからだ。
「いいのか?どうせ、目撃者は殺せとか言われてるんじゃないのか?」
あくまでカマかけ。
だがあの怪物に遭遇しただけのオレたちを殺そうとしたのだ。そういった類の命令を受けている連中である可能性は高かった。
「そうなのだがね。君相手に戦いを挑むと、こちらが全滅させられそうだからね」
「あんたは簡単に殺せそうにないけどな」
悪意を込めてそう言うと、キザ男は頬を緩めて見せた。
なんだこの変に絵になる似非紳士は?
「そんなことはないだろう?プロセッサーのオーバーランク、白石虎児くん?」
キザ男は嫌みったらしくそう言い放った。
なんだ?オレのことを知ってる?同業者なのか?
そうすると、今回の仕事がらみか?
めんどくせー。
オレは額を手で覆うと、盛大にため息を漏らした。