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トウキョウ事変  作者: 渇水
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 なんで皆さんキーワードがそんなに思いつくんでしょうね?


 気が向いたら加筆修正するかもしれません。

 崩れた建物の一角、日陰となったそこでただただ横たわっているヒト。

 何も食べていないのだろう。骨と皮だけで肉はない。まさしく価値のないゴミだ。

 持つものの鉄砲玉には当然ならないし、飢えた誰かがあれを食そうとも、大して食べる場所もない。むしろ持っているだろう病気のほうが怖い。

 この街に秩序というものや、倫理といったものはもう存在しない。あるのは誰にでも理解できる欲望というものばかりだ。

 この街にまだいる人々は、この街がこうなった理由など知るはずもないのだろう。実際、こうして少しはマシな生活ができる俺ですらそんなことは知らない。というよりも、興味すらない。

 5年前に突如起きた崩壊。一瞬のうちにトウキョウはかつての栄光のすべてを失った。爆発が起きたことは知っている。電気や水道といったものもすぐさま消えた。

 外へと逃れようとしたものもいる。だがその後は知らない。何せ戻ったものがいないからだ。そこが楽園なら、このような地獄に戻りたい奴なんていないだろう。そこがここより酷ければ戻ることなどできないかもしれない。

 崩壊、東京事変、運命の日……洒落た言い方はほかにもあったと思うが、あの日のあの瞬間に、おそらくはすべてが終わったのだ。


 頭を振って思考を切り替える。

 悪い癖だ。余計なことを考える余裕なんてもう存在しない。過去がどうあれ、今この時のこの場にどれほどの影響を与えるというのか。

 今日の仕事はマーケットでの仕入れ。指定されたのは拳銃…いや、ピースメイカーの指定だった。あとは弾をいくらか。ついでといってはあれだが、余裕があればクラックをくすねていこう。ジャンキー共に売り飛ばせば小遣い程度にはなる。


 見捨てられたはずの場所だが、それでもモノは流れてくる。どういう目的でこんな場所にモノを売りに来ようと思うのかは非常に興味深い。ただ、興味はあるものの、モノが来ているそれだけでいいと思う自分があまりにも大きい。

 マーケットに近づくにつれて浮浪者の姿が増えてくる。

 一人きりで歩く俺をぎらついた眼で見る馬鹿もいるし、無気力に眺めるやつ。何人かで固まってオシゴトをしているやつもいるようだ。

 人が集まるからああいう輩の餌も集まる。俺のことをじっと見てくるやつの半分程度…見たところ新参だろうか? 少々他と比べて浮ついているやつらは、俺のこともその餌だと思っているようだ。


 ――なめられたものだ。

 肉にしてもいいが、好んで人肉は食べない。というより硬くてまずい。弾もロハじゃないし、ただの気晴らしに使うものじゃない。

 マーケット周辺である程度生き延びてきたやつなら、ある程度以上にちゃんとした格好をしていたり、一人きりで歩くやつに手を出すのはまずいと十分に理解している。報復が怖いし、拳銃などを持っていることが多い。もちろん数で押しかければ何とかなるかもしれないが、確実に数人は大けが、もしくは死ぬ。そんな分の悪い賭けをして持っているものがしょぼかったら大損だ。誰もやらないし、最初に死ぬ誰かを決めることも難しいだろう。

 とはいえ、こんなものはわかっているやつの理屈だ。無知は強い。恐怖も危機感もないし、損得という考えがないのだから抑止力というものもない。

 俺は面倒なことにならないことを望みつつ、マーケットへの道を進む。

 いつでも拳銃を引き抜けるように、だれであろうと撃ち殺す覚悟をもって。


 幸いにも特別絡まれることなくマーケットにたどり着くことができた。

 迷うことなくまっすぐに歩いて、目当ての店にたどり着く。新しいガンショップというが、どうやらもうすでに誰かがお仕事に失敗した後のようでお粗末な後始末の跡が残っていた。もう少しましな後始末はできなかったのかとちょっぴり気分が悪い。

 それに、俺が来る時にやってくれれば楽ができたのだ。何度やっても盗みは気分よくやれない。まだまだ倫理観というものが残っているという証拠なのかもしれないし、ただひたすらにリスクとリターンを見ているだけなのかもしれない。

 生きていくだけならこんな店でわざわざ敵対して、撃たれる危険性を馬鹿みたいにあげてしまうよりももっと楽な場所で楽に盗みをしたほうがいいに決まっているのだ。

 気分を入れ替えつつ、軽く店の状態を確かめる。

 店番をしているのは若い女一人だった。20歳前後だろうその女はそれなりに見てくれはいい。パッと見たところ迷彩柄でこそないが、野戦服を意識させる服装で、ライフルの類こそ背負ってはいないが、場合によってはそれすらも十分に扱える雰囲気を感じさせる。ショルダーホルスターが見えており、オートマチックピストルがそこに収められていることと、腰にナイフが準備されていることはすぐにわかった。

 この時点でやる気が下がった。こんなところで若い女一人に店番をさせるということは、相応に自信があるということだ。そしてあの痕跡がその自信を証明している。もちろんあの痕跡がブラフである可能性はあるが、何が楽しくてそんなリスクを背負わなければならないのか。

 店の内装そのものはよく見るそれだ。カウンターと奥に商品。注文して、商品を持ってきて、会計する。見たところはほかに店員はいない。ついでに客もいない。そりゃあ店先に乾いたばかりの血痕がべったりとついていれば好んで入りたがるやつはいないだろう。モップ掛けくらいしろよ。


「ピースメイカーはあるか?」

 軽く声をかける。自分で商品を持って行って会計するなら楽なのだが、それほどザルなわけがない。そんな形態の店はすでにトウキョウには存在しない。

「あるよ」

 短く答える。その目に油断も隙もない。商品がない今、なにかすることもできはしないのだから不要な警戒だとは思う。いや、唐突に暴れる可能性もあるのか?

「知人が西部劇好きでね。弾と一緒にくれ。弾は箱で二つ」

「50」

 そういって手を出してくる。価格は適正というべきだろう。値切るのも面倒なので懐からカウンターに紙幣の束を5つ投げる。今思うとまだお金が機能することが少々意外だった。

 女は銃と弾をカウンターに置き、紙幣を数える。俺は銃と弾の状態を軽く確認する。――意外にも状態はいい。このままでも使えそうだった。カバンに突っ込んで立ち去ろうと踵を返す。


「待った。半分足りない。こんな紙切れに価値はないよ」

 背後から声。こんな短時間で気づくのは正直意外だった。最も、半分というのは彼女の目利きの腕の評価は下げておくべきかもしれない。銃の状態から見て、おそらく彼女の後ろに誰かいるのだろう。もしくはこんなことをしなくても近いうちに同じように騙される。

 おそらくだが、今現在銃を向けられている。ただただ逃げるのもいいが、下手に目をつけられて付きまとわれても面倒というのが本音だ。声をかけてちゃんと支払いを待つような奴なら、今後マーケットなどで出くわしたときにとにかく因縁をつけられそうで嫌だ。おとなしく彼女の思う不足分を支払えば解放されそうだ。それが安パイなのは考えるまでもない。

 ――とはいえ、ちゃんと払うというのも気に入らない。一つため息をついて後ろにコインをはじく。そのまますっと姿勢を低くして…ドカンと音と衝撃ばかりの爆発が響いた。

 爆風に合わせて走り、ついでとばかりに途中でいくつかの薬と財布をすり取っておく。この辺りは完全に小遣い稼ぎだ。

 マーケットの人混みと、いくつかの隠すつもりもない窃盗行為、頭に血の上りやすい奴が銃器を抜いて発砲する音も聞こえる。マーケットでうろつくチンピラ程度の腕前ではある程度距離があり、走り回る相手を興奮しながら打ち抜くのは非常に難しい。一応射線は切るように積み上げられた箱や建物、人を壁にして走っているが、まず当たることはないだろう。

 少し油断したところでぞっと背筋が凍り付く。とっさに方向転換して路地を曲がり、遮蔽を作った。するとすぐ頭の横を銃弾が駆け抜けていくような音がした。

「嘘だろ…?」

 もうマーケットからは十分に離れている。チンピラの怒声は聞こえなかったし、まともな思考をしているやつなら追いかけたほうが損をすることくらいはすぐにわかるだろう。中身までは確認していないが、ここまで見事に盗まれて顔を真っ赤にして追いかけるような奴らがそれほど持っているとは思えないし、怒りを抑えられるほどのやつから盗むようなヘマをした記憶はない。

 追いかけてきた中で、冷静に頭を打ちぬこうとしてくる人物…あの店番をしていた女しか頭に浮かぶものはない。しかし、まさかこんなところまで追いかけてくるほどの馬鹿なのだろうか? ぱっと見で判断した戦闘能力なら、確かにまだ追いかけてくることはできそうだが……気づかなかっただけでほかに店員がいたのかもしれない。

 しかし、それでも不可解だ。発砲音はそれなり以上には離れた場所から聞こえた。具体的には拳銃の有効射程を超えるかもしれない程度には。追ってきているのがあの店番の女ならば、離した距離は想定通りだが、その腕前はかなりやばいことの証明でしかない。何よりもこうして路地を駆け回り、撒こうと思ったのだがどうにも撒けない。非常に面倒だ。

 すっと鉄砲玉になりそうなやつがいそうな場所に駆け込み、懐から束になったお札を三つほど放り投げて依頼する。

「もうすぐここを女が通る。俺を追ってきている若い女だ。囮になるから適当に囲んでやっちまってくれ。追手さえいなくなるなら女をどうするもあんたら次第だ」

 ちょうどそこにいた浮浪者共はニヤついた顔でそれにうなづく。見ただけではあるが、おそらく捕まえた後でどうするかを考えているのだろう。弾避けのような役割ではなく、襲撃者としての役割を与えられたことが彼らの警戒心を下げているようだ。目先の金の問題もありそうだが。

 すっと少し目立つ――とはいえ遮蔽物は十分にある――場所で銃を抜く。すぐに表れたのは、やはりあの店番の女だった。

「まだ店を開いたばかりで、なめられるわけにはいかないんですよ。おとなしく見せしめに死にません?」

 こてっと音がしそうなほど自然と首をかしげる女。その表情は無表情で人間味が薄い。見てくれがいいのは事実だが、こうも無表情ではそそらないと思う…どうやら物陰では本当に若い女だったと浮浪者共は若干興奮しているようであるから俺の杞憂だった。

「おとなしく死ぬなら盗まないって、第一こんなところまで追ってきて、店のほうはいいのか?」

 その言葉に対して完全に理解できないといった風に首をかしげる女。数秒すると無表情ながら動きのあったその体がピタリと止まる。

「…………」

「…………」

 あー、これ終わったわー。

 借金なしで店を構えるのはほぼほぼ不可能だろうし、たとえここを乗り越えても、俺を殺しても彼女の未来は今決まった。とりあえず肉だ。後ろに何かついたりするかもしれないが、とりあえず人ではない。

「――まだ間に合うかもよ?」

「死ね!」

 オートマチック銃を抜き打ちされる。すぐさま遮蔽物に身を隠してちょっと考える。観察する余裕はなかったが、トカレフだろうか?

 一応チョッキは着ているのだが、貫通するかもしれない。とりあえずは弾切れを待つのが一番だろう。鏡で相手の様子を確認し、勘だけで照準を合わせて二度引き金を引く。女もすぐに物陰に身を隠したようだ。

 そのまま数度打ち合い、少しの空白期間ができたところで女の悲鳴と悪態の声が聞こえてくる。ちゃんとあの浮浪者共は動いてくれたようだ。半分くらい期待していなかったので少しだけうれしく思いながら音をたてないように建物から離れる。


 追跡技術はかなり高いようだったが、さすがに浮浪者3人を追い返してさらに俺を発見するのは難しいだろう。自分の身を守れないかもしれない。どうせ行きつく先は決まっているのだ。俺は心の中で軽く合唱しながら数度の発砲音が聞こえるその場から距離をとった。




「それで? 偽札がばれて、気に入らなかったから試供品だったあの爆弾を使ってみたと」

「実戦での使い心地の調査っていう話だったじゃないか。ちゃんとレポートまでまとめて提出したのにだめなのか?」

 翌日、ボスに呼び出されて説教されていた。解せぬ。

 ボス――白髪にひげを生やした大柄な中年男性で、よくわからないコネとカネで優秀な部下を大勢持っているらしい――は一つため息をつきながら俺に一つ一つ言い聞かせる。

「いいか、ギンジ。確かに俺の仕事でお前にあの店でピースメイカーとって来いとはいったがなぁ。別に試供品の使い心地調査して来いなんて言ってないんだよ。

 状況を聞くに、適当に因縁つけて、適当に折れてやって2.30くらい払ってやってもプラマイならプラスだっただろう? そういう気概は嫌いじゃねぇが、一応はよそからの信用の産物だってのを理解して使ってくれよ」

 ボスはぶつぶつといろいろ言っているが、俺は知っている。ボスが本当に適当に使われてまずいものは俺に持たせたりしない。俺がこんな風に不適切らしいタイミングで使うことなどボスも重々承知なのだ。となれば、あとは使えるという実証が欲しいものくらいでしか渡したりしないだろう。


「まぁいい。あの爆発のおかげで俺の目的も達成できたしな。思ってたよりもバカだったのは予想外だったが」

「……?」

 爆発のおかげで達成。確かにあの爆発は人の目を集めただろうが、それほど重大な隙が生じさせるような間抜けはそういないと思うのだが……。

「—―あ、一人は間抜けがいたか」

「その間抜けをからめとるためにお前を使わせてもらったよ。ちなみにそこにいる」

 そういってボスは隣の部屋を指さすと、ゆっくりと扉が開き、昨日の間抜けな無表情女がいた。

 無表情とは言ったが少なからず現在は表情が読み取れる。端的に言うなら怒りだ。矛先は俺。たぶんボスが裏で何かしてここにいると思うのだが、正直頭に思い浮かぶ感想はよく無事だったなというものくらいだ。てっきりあの浮浪者共に犯されていると思ってた。発砲音が聞こえたからあのまま格闘しつつ撃ち殺したのかもしれない。

「ボス、経緯を聞いてもいいですかね?」

「あぁ、この女は結構腕のいいヒットマンだったんだが、自分の店を持ちたいと言いだしてな。金を貸してやると言って契約したんだ。

 んで、適当に売り上げ落としてつぶして、手ごまにしようと思った。お前にやらせたのはその一環だな。たぶんお前なら逃げ切れると信じてたぜ」

 がっはっはと笑うボスを横目に無表情女に目を向ける。これと同僚…殺されそうで嫌なんだけど。

「それで、この女の名前は? 何て呼ぶべきですかねボス」

「なんであんたは私に聞かないのかな?」

 怖いよー、ボス―、たすけてー。

「こいつの名前は……そうだな。ブリギッダだ。うん、これがいい」

「まって、私の名前はそれじゃない。ボスは当然知っているはず」

 そう、ボスはそんなことは当然知っているし、俺も俺以外のメンバーもボスがそんなことを無視することも知っている。

「俺はこの組織に入れたやつの過去のしがらみはすべてなかったことにしている。それを条件に加入させているし、必要ならその手続きも俺が中心になってやっている。お前に過去、何かしらの御大層な名前があったとしても、契約書にサインしたあの時からお前はそれじゃなくなったんだ。だからこそあの借金は無視してちゃんと給料を払ってやるし、お前を恨んでいるやつらを適当に排除した。もうお前はブリギッダだし、こいつはギンジなのさ」

 特に大きく切ることもなく、ボスはそれを言い切った。この組織に関してのいくつか存在するボスの『こだわり』だった。

「あぁそうそう。今のうちに俺から教えておくと、ここでは夕食は仕事がなければ全員参加だから」

「は?」

 わかりやすい反応を本当にありがとうございます。俺もそう思った。

「仲間だぞ? 普段からちゃんと交流しろっていう心優しいボス直々の命令だ。飯くらい一緒に食えないで背中預けて戦えるかっての」

 無表情だったこの女もこの組織に属し、このボスの対応をする今は割と表情豊かだ。いや、ほかと比べればかなり感情の起伏は小さいんだろうけど。

「ギンジ、お前しばらくこいつとペアを組め。一週間くらいは内部の案内と紹介役。端的に言えばお守だ。ブリギッダも向こう三日は仕事与えねぇから、最低でも普段からアジトにいる連中との顔合わせくらいはやっとけ」

 そう命じるともう話すことはないとばかりにボスは背中を向けて葉巻を取り出す。もう何を話しても無駄だとわかっているので間抜けな無表情女改めブリギッダに目線を向けて退出を促す。

少しだけ予想外だったが、ブリギッダはおとなしく俺についてきた。




 アジトの建物は少しだけ広い。

 元はどこかのテナントビルだったらしいアジトは地上6階建ての鉄筋コンクリートの建造物だ。崩壊のあの日から形をそのままに残す珍しい物件の一つで、こんな場所を所有できているということからもこの組織の力の強さが予想できる。

 地上3階部分までがテナントの入るビル部分であり、それより上の階がアパートとなっている。

 ボスの部屋はその最上階で、壁を一つ取り払って作られたやや広い一室だった。上から順にみていくと、4.5.6階部分が構成員の一部の住居で、3階部分に食堂兼会議室や倉庫など、2階には事務所と倉庫があり、1階はほとんどが駐車場として使われている。

 爆破の心配はないのかとか、そういう疑問がないわけではないが、このアジトがある場所は実のところ崩壊したトウキョウの中ではかなり治安がいい。それもこの一帯だけならば日中に子供が独り歩きできる程度には。


 表立った活動は一度も見たことはないが、他国からの干渉があることは俺も十分に理解している。あのコイン爆弾もその関連の試供品だろうことも予想はできる。

 そしてそういったものを準備して、使わせるためにやってくる人物がいる。そういったVIPが来るのがこのエリアだ。この場所で下手に騒げばどこからかこわもてが現れてすぐさま鎮圧する。いくつか存在する勢力がそろって平穏を保とうとする数少ない空白地帯の一つ。それがここだった。


「しかし案内かぁ、共有スペースで、近い順でいいだろ」

 その言葉に返事はない。少しばかり悲しいものだが、まぁ予想できないわけではなかった。

 若干気まずい沈黙が流れるが、移動していけば同じ建物だ。すぐに目的地には着く。最初の部屋は事務所だった。

 食堂の扉を開けると、それなりに広い部屋に漂ってきたのは血の匂いだった。

「あら、その子が新入りちゃん?」

 そういいながら奥の厨房スペースから出てくるのは身長が2mに届かんとする巨漢、ママンである。

「そうだよ、ママン。上から順番に適当に案内中なんだ。彼女はブリギッダ。元ヒットマンらしい」

「ま、ママン…」

 後ろを見れば本気でドン引きするブリギッダ。気持ちはわかるのだが、ここで俺をそういう目線で見れば見るほど後になって自分が辛くなると俺は知っている。

「よろしくねブリギッダちゃん。私はママン。みんなのご飯作ったり、その仕入れをしたり、あとはボスがいないときのリーダーを担当してるの。遠慮なくママンって呼んで頂戴ね」

「……よろしく……マ、ママン」

 葛藤する様子が手に取るようにわかるほどに言葉に詰まるブリギッダ。こいつ無表情だったくせにここにきてから感情表現豊かだよな。

「す、すごい人ね。マ、ママンって。私ここまで生き生きしている人に出会ったの久しぶりかもしれない」

「おう、そういうのは本人に言ってやってくれ」

 とはいえ、ブリギッダにはまだ追撃が待っていることは教えてあげるべきだろう。

「今日は新人ちゃんが来るって聞いてたから、奮発して丸々お肉用意したのよー! ブリギッダちゃんお肉食べるわよね?」

「お肉ですか。私のために……」

「よかったー。みんなお肉苦手みたいで、あんまり食べる人いないのー。ブリギッダちゃんはいっぱい食べてね!」

 基本的に肉というのは非常に高級品だ。その辺の一人の命よりも家畜の肉のほうが圧倒的に価値がある。それを一匹分だと勘違いしたのだろう。たとえ鶏だとしてもかなりの出費になるはずだ。

 ――それが家畜の肉ならば、の話だが。

「ママン、ストップ。ちょっとだけブリギッダに確認しておきたい」

「あ、ギンジちゃんも食べたくなったらいつでも言っていいのよー」

 ママンは勧めてくるが、俺はあの肉は好んで食べたいとはこれぽっちも思わない。妙に真剣な俺の表情を見て、ブリギッダは無表情に首をかしげているが、伝えてやるのがお守の役目だろう。

「遠回しに聞くのも面倒だから端的に聞くぞ。お前は人肉大丈夫なタイプか?」

 ピタリとブリギッダの体が硬直する。あ、これダメな奴だ。

「ママンの好物は人肉だ。そして、祝い事があると大抵人肉を用意する。俺含めて半分以上はダメだが、ハマるやつもいるって聞くからな…一応確認だ」

 なお、カニバリズムと呼ばれる食人習慣は現在のトウキョウには当たり前に存在する。しかし、狂ったとはいえ今までの倫理観からは大きく外れる行為のためハマるやつから本当にダメな奴までいるというのが現状だ。ちなみに俺は食えないわけではないのだが、わざわざ食おうと思えないし、食欲は消え去る。

「ごめんなさい、ママン。私、人肉はダメなの……」

「そうなの、残念。この後いろいろ回ってスミスちゃんに会えたら、コンロの調子が悪いって伝えておいてくれるかしら?」

 慣れているからか、ママンはこれ以上ブリギッダに進めることはない。

 自分の趣味が人に理解されにくいことを理解しているのと、それを無理に進めないのはママンの良い所だ。問題があるとすれば、大抵の場合においてカニバリストであることを知られた時点で距離をとられるという事実だけだろう。

「わかった。今日会えるかは微妙だけど、会えたら伝えておく」

 そういってママンと別れる。廊下に出たところでブリギッダが俺に声をかけてきた。

「ねぇ、先に聞いておきたいんだけど……これから会う相手にこれ以上濃いメンツはいない?」

「ん?」

 表情は相変わらず乏しいが、それでも読み取れる程度には不安に満ちているのがわかる。だんだん思ってきたのだが、こいつこのご時世には珍しいぐらいに純粋なんじゃないだろうか?

 確かにママンはトランスジェンダーと呼ばれる類の人物なのか、それともオネエなのか、もっと言えばそういうポーズなのかは知らないが、女性口調で話す男だ。さらに加えてカニバリストというのは確かに、通常一般的な感性からすれば非常に理解に苦しむ存在だろう。とはいえ、カニバリズムが現在のトウキョウに存在する習慣であることを踏まえればそれほどめちゃくちゃなものでもない。変な話かもしれないが、ブリギッダが不寛容すぎるようにも思える。

「濃い薄いというのは結局受け取り方次第じゃないか?

 ――まぁでも、今日紹介する予定のメンツは独特な個性をしていることは事実だな」

 そのことには否定できない。メンバーはみな“あの”ボスに認められた人材だ。俺は自分を比較的ニュートラルだと自負しているが、今ここで否定しても説得力は皆無だろう。

「そう…次に会う予定の人で、先に注意しておいたほうがいいことは?」

 やはり不安なのか、若干怯えすら感じさせる口調でそう聞いてくる気持ちはわからないでもない。しかし次、次となると……。

「そうだな。ブリギッダ、お前処女か?」





 アジトの内部で俺は仲間であるはずの女に銃を突き付けられながら土下座をする羽目になっていた。

 女の名前はブリギッダ。元の名前は知らないが、ブリギッダという女が誕生してまだ24時間もたっていないので、もしかしたら生後日にも満たない女に銃を突きつけられているのかもしれない。ヒュー、そんな経験誰もしたことないかもよー。

 軽い現実逃避を終え、俺は命が惜しいので順番に言い訳を並べさせていただく。

「次に会いに行く人はですね。その、主に組織内の荒事を担当する二人なんです。具体的には、組織内での単純な戦闘力の上から2.3番目です。

 自称二十代の男女でして、男のほうがキングで女のほうがフジコちゃんって言います。はい。で、ですね。二人ともすさまじい好色でして、しかもその癖お互いを性的には毛嫌いしているんですよ。相手が抱いた奴は抱かないって宣言するくらいには…あ、二人ともどっちもイケる人です。

 話がそれました。その上でキングのほうは初物好きだし、フジコちゃんはキングが食う前に初物をいただくことに情熱を燃やしていまして、その、過去に百戦錬磨の手腕でちょちょいのちょいと食われたやつがいまして、はい。特に激しく取り合うのが初物なので、ちゃんと確認して、注意を呼び掛けたほうがいいかなと……」

 ――まさか、このご時世で処女か聞いただけでこれほどの命の危険を感じることになるとは思いもしなかった。なんでこんな街にいる女がこんなにうぶなんだよ。一種の特権階級以外は金.命.女の欲に満ち溢れた街だぞ。

「とりあえず、わかった。対抗策は? 私が実力で排除できる相手?」

 銃をしまってくれたようなので、ゆっくりと立ち上がる。土下座と説明だけで終わるなら銃を抜かなくてもと思うが、銃を抜いていることを重要視するなら土下座と説明で済むなら安いものだ。

「実力排除は……正直わからない。俺はブリギッダの実力も、キングとフジコちゃんの実力も完璧に把握しているわけじゃないし、ほかの介入がどうなるかわからないから不明とさせてくれ。

 ただ、対抗策はある。2年くらい前に酔った勢いでメンバーを食い散らかそうとしたらしく、組織内でのレイプはご法度になった。文字通りの意味での強姦はない。ただ、あれよこれよという間にっていうのはそれからもあったらしいから気を付けないといけないって教わった。最終的に和姦ならOKとかキングが言ってたのは覚えてる」

 あの時のキングの顔はまさしく悪い男だった。あれでフロワーでの評判はいいと聞くので意外としか言いようがない。

「ん? らしいってことはあなたはいつ入ったの?」

「一年位前。当時の仕事の都合でボスのコレクションを盗んで、最終的にとっつかまって雇われた。割に合わない仕事とはあの事だな」

 ちなみに俺が盗んだボスのコレクションというのは遺物ともいわれるもので、正規品はもうすでに生産されておらず、コピー商品が出回ることもある……アニメのDVDブルーレイだ。ボスはこの手のサブカルに目がない。

 判明経路は依頼人が販売ルートに乗せたところでボスにばれ、依頼人が俺のことを話したという経緯である。もうすでにこの世にはいない人物だからアレだが、守秘義務とかそういうのはないのか。……あるわけがないか。

「それならあなたの体験として、大丈夫なの?」

「—―あぁ、俺が襲われたと思ったのか。俺は即刻逃げてるから現状まともなアプローチを受けたことはないよ。無理やりなレイプが禁止されているからそういう逃げ道はアリだな。そういう方面で言うと、二人きりになろうとしたら十中八九危険サインだぞ」

 そういう状況で食われたやつは何人か目にしている。いや、仕事の作戦のためだし、相手は組織のメンバーじゃなかったんだけどさ。

 話しながら歩けばその二人のいるはずの場所。事務所である。


「どうもー」

 そういって扉を無造作に開ける。お客人を迎える場所ということもあって入るまではさほど警戒しなくてもいい。

 中の事務スペースでは若い男女がかなり距離をとって思い思いに時間をつぶしている。まぁ、この事務スペースってほとんど使われていないからなぁ。迷惑なお客様の対応が主だし。

「ん、ギンジか。ンで、そっちのかわいい子ちゃんが新入りね」

 反応したのは短い金髪をワックスか何かで固めたイケメンだった。男の色香とでもいいのだろうか、そんなものが漂うような雰囲気のあるホストじみた雰囲気のある男。キングである。

「新入りちゃんね。私はフジコ。気軽にフジコちゃんって呼んでね」

 そういったのが男の欲望を形にしたような美女。栗色の長髪には軽くウェーブがかかっており、発する言葉の端々に人を誘う色がある。何も知らず、警戒していない人物なら思わずふらふらと吸い寄せられるような女。フジコちゃんだ。

「彼女はブリギッダ。どうにも荒事方面が買われてっていう経緯らしい。俺はお守役なんで質問その他はお好きにどうぞ」

 そういって早々にブリギッダを売り渡す。最も安全な方法は近づかないこと。

「よろしく、えっと、キングとフジコちゃん」

 ブリギッダが緊張しながらも挨拶をする。あ、これ完全に警戒しすぎて固くなってる。大丈夫かこいつ。

「かわいいー」

 そういってフジコちゃんは瞬く間にブリギッダとの距離を詰め、手を握る。身体の接触に成功。キングは近づこうとしたときに警戒されてやや出遅れ、フジコに近づきたくないからか常識的な距離にいる。

 その後も質問攻めと共にフジコちゃんはブリギッダとの(物理的な)距離を詰め、ボディタッチを繰り返す。こりゃダメかもしれん。

「え、ええと、お二人は普段どんなことをしているんですか!?」

 さすがにまずいと思ったのか、一歩距離をとりつつ説明を求めるブリギッダ。もうちょっとちゃんと逃げないとこの二人には無意味だと思うぞ。

「そうね、説明するのも難しいし、せっかくだから見てもらいましょうか。こっちに来て」

 そういってフジコちゃんはあっさりと自分のいたデスクの方向へと向かっていく。ブリギッダは少し安堵の表情を浮かべてそれについていく…そろそろ止め時だろう。

「フジコちゃんストップ。まだ案内するところあるし、一応お守役なんで止めさせてもらいますよー。俺自身キングが怖いし」

 フジコちゃんがブリギッダを落とせばキングは俺を狙うことくらいは百も承知だ。

「ブリギッダ。フジコちゃんたちの普段の仕事は主にこの部屋にやってくるお客人との交渉だ。その方法は大きく二つ。一つが武力によるもの。もう一つが性交渉だ。体験したいなら止めないからごゆっくりどうぞ。2時間くらい時間つぶしてくる」

 自室で銃の手入れとかやることはある。全部やっていれば2時間程度なら時間をつぶすことは容易だ。

 残念ながらブリギッダは逃げるようにこちらによって来た。こいつやっぱり…。

「それじゃ、悪いけどもうちょっと案内する場所があるから失礼するよ。あ、フジコちゃん。今日は肉の日らしいぞ」

「あら、ちょっと楽しみね」

 フジコちゃんは人肉がいけるタイプである。ちなみにキングは昔知らずに食べてから忌避感が強いらしい。食べさせようとして吐きそうになっているのを見たことがある。

 軽く手を振って事務所を出る。ブリギッダについて気になることはあるが、今まずやるべきことは案内だ。ボスにはこれが夕食後にでも詰め寄らなければならないが。




 そうして駐車場に案内、乗り物を使う場合のルールを説明して5階にあるブリギッダの部屋に案内する。わかりきっていたことだが、ベッド程度しか今は置かれていない。あとは持ちこんだ荷物だろうものが片隅に置かれているのが見える。

「仕事で使うものはフジコちゃんかボスを通して申請してくれ。夕食は午後の7時開始。遅れたらボスがキレるから注意な。仕事があったらとりあえずは誰かが呼びに来るから、外出するときには目的地を今日紹介した誰かに伝えておいてくれ。大抵建物内にいるメンツだから」

 今日いないメンバーも何人かいるが、どちらにせよあいつらは普段から仕事が埋まっている。あまりここには立ち寄らないのだ。

「ちょっと聞きたいんだけど、ここの人たちって、普段からこうなの?」

「いや、たぶんお前が来たからちょっとはしゃいでるだけだと思うぞ。仕事がなければタイプは違うけどダメ人間ばっかりだからな。あ、フジコちゃんはちょっと違うけど」

 ボスはサブカル趣味に没頭しているし、俺は部屋でぐーたら、事務の二人はフロワーで自らの肉欲を満たしているだろう。フジコちゃんはちょっと読めない。

「特に質問がなければ俺は部屋に戻るから、何かあったらとなりの部屋に来てくれ」

 そういって部屋を出ようとすると、後ろから声が聞こえた。

「ねぇ、そういえば聞き忘れていたんだけど。あなたは組織の中でどういう仕事をしているの?」

「調査、陽動、攪乱の類だな。ちょっかいかけて逃げるか、こそこそするのが仕事。しばらく組めって言ってたし、多少は仕事でその系統のものにかかわると思ってくれ」





 夕食後、俺はボスの私室の前に立ち、ノックをしていた。

 この時間、ボスは仕事は終わりだと趣味に没頭することをメンバーは知っている。

「誰だ?」

「ギンジです」

 よくとおる低い声は俺の来訪を予期していたかのようにすぐに返ってきた。

「入れ。来ると思っていた」

 声にいざなわれるままに俺はボスの私室に入っていく。

 ボスの私室はシンプルな内装だが、一つふたを開ければサブカル趣味が詰まっているのは見るまでもないことだ。その部屋の中央奥、ソファーに座ってボスはくつろいでいた。

「とりあえずそこ座れ。大方ブリギッダについてだろ?」

「まぁ、そうですね。正直このままだと俺がお守り役を外れた瞬間に誰かにつぶされますよ。みんなブリギッダを全く信用も信頼もしていないし、半ば敵対しています」

 言葉を返しながら勧められるままに椅子に座る。だが、こんな現状整理などボスは聞くまでもないだろう。こんなことボスが気づいていないわけがない。ここのメンバーでだれよりも他人を信用していないボスが。

「質問はそれだけじゃねぇだろ。ブリギッダの来歴もだな?」

「そうですね、俺自身ブリギッダを信用してない。どういう経緯でトウキョウにいたすら不可解だし、いつ背後から撃たれるのかと思ってる」

 名目上仲間である以上、冗談程度で撃たれることはなさそうだが、仕事中に背後を任せられるとは毛ほどにも思ってはいないのだ。

「そこまでか、そりゃお前が夕食の場でまで拳銃持ってるからそうだろうとは思ったがな。

 まぁいい。お前が知らないままで済ませていないっていうのは、俺から見てもイエローサインだ。ちょいと長くなる。飲むか?」

 そういって顎をしゃくった先にはウィスキーのボトルがあった。俺は首を横に振って、その琥珀色の液体がショットグラスに注がれていく様を眺める。液面がボスの顔を映し出し、その口が語り始めるのを待った。

「まず、最初にはっきりさせておくと、ブリギッダは最近になってトウキョウにやってきたっていうわけじゃない。あの崩壊の日もその後一年続いた混乱の時も、その後今まで続いてきた停滞の時も、すべてこのトウキョウから離れたことはないだろう。

 だが、確かにお前もよく知るあのトウキョウの中を生き延びたわけじゃねぇ。

 崩壊の日の後、最初に崩壊したトウキョウに足を踏み入れたのはアメリカの海兵隊だ。だが、海兵隊たちはすぐにその足を失った。補給もなく、トウキョウに設営したキャンプ地での引きこもり生活……この話は知っているだろう?

 その時、最初の勢い盛んで、この先を何も知らないヤンキー共が助けた一部の中の一人がブリギッダだ。ブリギッダはやつらの手厚い保護のもとで混乱の時を乗り越えた。この時点では特別優れたところもない少女だ。

 だがまぁ、ヤンキーがそのあとどうしたのかは有名な話の通りだ。帰還の方法がわかるや否や、すぐさま全部を投げ出して手前のお家へと引っ込んだ。当然。助け出された一部は置き去りにしてな。

 置き去りにされたやつらははっきりといって当時のトウキョウで最弱だ。崩壊の日から一年が過ぎ、すでに倫理観なんてものはすり切れた連中と、ぬくぬくと保護され続けたやつらじゃ覚悟のほどが違う。ほとんどのやつらはそのまま飢えた獣に食い殺された。

 とはいっても、ブリギッダがこうして生きているということは例外がいる。捨てる神あれば拾う神ありとでもいえばいいのかはわからないが、ヤンキーから見捨てられた奴らに目を付けたやつらがいる。それが赤旗共だ。

 赤旗共はヤンキー共に捨てられたという最高の看板を背負ったやつらを回収して、政治的に利用しようと企てた。とはいえ、あの頃のトウキョウに入るのはそれなりにしか難しくないが、出るのはとんでもなく難しい。結果、やつらも拾ったはいいが持ち帰るのが難しかった。だから、やつらはいずれ来るトウキョウのことを考えて、そいつらをキョウイクしたわけだ。集団名じゃねぇが、有名どころだと血まみれとか、リッパーなんてのがそうだって話だ」

 ここまで聞いて、俺も言いたいことは理解できる。

 崩壊の日の後、原因はよく知らないが、海路空路問わず行き来が難しくなっていったという。そんな中でもすぐにトウキョウに入ったアメリカの海兵隊。彼らが入れたのはあくまでも初動が早かったからであり、すぐさま出入りは非常に困難となった。結果として最初にトウキョウ入りしたおよそ百名の海兵隊員たちはトウキョウに取り残されたのだ。崩壊直後の混乱とも合わさって、結局彼らがトウキョウから脱出したのが翌年のこと。ある程度トウキョウが落ち着き、小康状態となるまでの最後の事件だ。

 その時に助けられた人々が放置されたというのは俺は初耳だったが、そういうこともあっておかしくはないだろう。アメリカが事実上トウキョウを見捨ているというのは当時取り残された中で希望が消えていくかのようであり、多くの人々がキャンプを目指して進み、助けを求めたのである。

 取り残された人々を政治利用しようと動き始める人々の存在は、聞けば納得できる類のものだ。そして連れて行くのを断念したことも十分に理解できる。そして工作員として教育するのも、納得できなくはない。だが……。

「あぁ、言わなくてもわかってる。血まみれやリッパーってのはどう考えてもキチガイだった。そういうのができるようなキョウイクを受けたはずのやつが、あんなにずれているとは思えない。そういう話だろ?

 なぁ、もしもだが……そういう教育の中でも、誰かに守られて生き延び続けたら……非凡な才能のおかげで過度な教育を受けずに済んだら、外界から隔離された環境の中で、ただひたすらに牙を研がれていたら、どんなものができると思う?

 監視者の目をくらますために表情を殺し、技術を吸収し、だが、人格を破壊されるようなものからは誰かに守られ、強力な兵器として大事に大事にされた麒麟児その正体がブリギッダだ」

「ボス、それはどうにも変だ。そんな大事なものを手放すやつらなわけがない。それに、そういうほどにやばい奴というほどの脅威だとは俺は思えないんだ」

 俺がブリギッダと敵としてかかわったのは一度だけ。だが、ハンターとしての恐怖は感じても、戦闘兵器としての恐怖は一切感じない。もしもそんなキリングマシーンなら俺などとうに死んでいる。

「いっただろうギンジ。ブリギッダは守られてきたんだ。そして、逃がされた。先月の騒動忘れたか? 大きいドンパチ程度の認識でいるやつらは多いが、戦闘規模の割に死人が多い。あれは赤旗共をヤンキー共が強襲した結果だ。そん時にブリギッダは逃がされた。

 あと、お前の脅威云々ってのはちょいとずれた感性だ。お前にとっては優秀なハンターって評価だろうが、俺の集めた情報から判断すると、うまいことゲリラ戦を続けりゃ一個小隊くらいなら十分すぎる損害が与えられるっていう評価だったな。

 あいつの仕事は姿を隠して、気配を消して、油断しているやつを意識の外から刈り取るってやつだ。ほら、お前も一発死にそうになった弾丸があったんだろ?」

 そういわれて思い出すのは、逃げる途中で撃たれた最初の一発。あの気を抜いた瞬間の、背筋が凍り付いたあの弾丸。

「オーケーボス。その経緯はわかった。優秀な人材を確保したってことも。十分に」

「そいつはよかった。疑問はこんなもんか?」

 そういいつつボスはグラスのウィスキーを一気に飲み干した。

 わかった。わかったが故に、ボスが話していないことがあるということも十分理解できた。問題は、そこに足を踏み入れるか否かという部分だ。最もそんなことは考えるまでもない。

「で、一番の問題ですよボス。俺たちは何をもってブリギッダを信用すればいい?

 仕事の成果、時間、人柄……理由はいろいろありえるけれど、こんなご時世だ。信用も信頼もない相手は先につぶすことも十分選択肢にはある。打算だけの関係を望んでないから夕食には全員参加なんじゃなかったか、ボス」

 誰もが倫理観なんてものを信用していないがゆえに、仲間という枠組みの中での信用や信頼というのは過去のトウキョウよりもずっと重要だ。信用できない仲間は銃を突きつけあっている敵よりもよほど脅威でしかないし、先に排除すべき障害に他ならない。

 赤の他人への当然向けられている信用が地に落ち、打算と欲望、暴力の入れ混じったこの世の中で、仲間こそ真っ先に選別すべきものとなったのだ。皮肉のようであるが、隣人を当然のように信用していたあの頃の東京ならば、これほどまで信頼関係は築き上げることなど不可能だったのではないだろうか?

「わかっているだろボス。今は俺が保証しているからブリギッダへの矛を収めただけなんだぞ。その俺も、ボスが保証して命令しているからだ。そう長くないうちに破綻するぞ」

 破綻の予兆はすでに見え隠れしている。ボスを頂点としていない、結局のところ個人主義であるこの組織の悪い部分がむき出しになりつつある。ボスは無言でグラスに酒を注ぎこみ、自分のグラスを傾けながら少しずつ語り始めた。

「ブリギッダは、俺の姪だ」

 その一言はあまりにも意外で、俺の意識と体はその場で固まった。

「あったことはほとんどないからな。たぶん向こうは俺を認識しちゃいないだろう。だが、あいつの忘れ形見を俺は見つけて、無視はできなかった。

 ――あぁ、言わなくてもわかってる。そんなことだけで俺もそいつを信用なんてしねぇ。組織に入れて、新しく名前を付けた時点で俺とそいつとは親子だ。姪のために危険にさらす気はない。だから俺も調査をしまくって、方々で頭下げて、金ばらまいて、それで判断した。はっきり言いきれる。ありゃ技術だけ身に着けただけのガキだ。まだあの頃の東京を生きていたガキの認識のままだ。今のトウキョウを生きるには……危機管理能力も、覚悟も足りねぇ。

 だからこそ、俺は自分の手で保護するしかないと思った。ギンジ、お前に預けるのはほとんどが仕事での動かし方が理由だ。この話を聞いて、俺を信用できないなら後ろから撃て。あいつが信頼できないなら撃っていい。あいつにお前みたいな危機察知能力はない。確実にヤれる」

 俺は、ボスの言葉が真実か否かを判断するだけの経験も技術もなかった。俺の直感はボスの言葉を本音だと思っていなかった。でも、俺はボスを信用していたから、しばらくは、俺がダメだと思うまでは、ブリギッダのことを信用することにした。


 ――例え、ボスが言葉の半分以上が嘘で塗り固められていたとしても。





 ブリギッダが組織に入って三日目、残念ながらほかのメンバーは仕事で戻ることはなく、特別ブリギッダの紹介などの仕事もなく過ごしていた。

 朝食を済ませ、軽く予定を確認し、部屋に戻って銃の整備をする。

 銃の整備はかなり好きだ。技師は別にいるのだが、それでも仕入れといってかなり長い期間いないことは多いし、自分の獲物くらいちゃんと整備するべきだ。今使っている銃を使い始めたのは3年ほど前からだが、初めて手にした拳銃ということもあってかなり思い入れはある。

 一通りの整備を終えて、マガジンを確認し、ショルダーホルスターに収める。最低限の武装はトウキョウでは必須項目の一つだ。たとえアジトの中だとしても、何が起きるかわからない以上、ある程度の必需品は携帯してべきなのだ。

 現状でのブリギッダの立場というのは非常に微妙なものとなっている。俺はボスの説明を聞いてとりあえず信用しておくということにした。ブリギッダは不必要に外に出るということはないようなので、事実上俺がブリギッダを監視しているということでほかのメンバーもまたブリギッダがここにいるということを容認しているような状況である。

 これでもしも俺やブリギッダが暇なときに外を出歩くタイプであれば、何頭の事故が起きていてもおかしくはないだろう。それくらい微妙な状況だ。いや、いっそのこと一つ大きめの事件でも起きて、そこで自分の立場を勝ち取ってくれればありがたいのだが……望むときに起きないのが事件というものだ。


 ちょっと食堂で何か飲もうかと立ち上がったとき、タイミングよくコンコンコンとノックの音が聞こえてくる。

「入ってますよー」

「そうかい、それじゃあ入るぞ」

 ボケを無視されると困る。いや、適当だったのは認めるが。

 ともかく、中に入ってきたのはキングだった。珍しい。キングは面倒くさそうに頭を掻きながら数枚の紙を投げてよこしてきた。

「明日からブリギッダとやれっていう仕事だそうだ。特別大きいってわけでもねぇいつもの港調査だ」

「へぇ、資料アリの調査も珍しい。いつもはもっとざっくりした仕事なのに」

 そういいながら資料に目を通していく。現在のトウキョウへと続く航路は非常に少ないという。大きな船はある程度から近づくことができず、小さい船でも一日に数船しか出入りできない。

 そのため、トウキョウへと入ってくる人と物の情報というのはかなり重要視されている。いわばこの情報と市場の情報からある程度の経済状況や装備の程度などを予測できるからだ。(輸送ルートはこれだけではないが)

 資料をぺらぺらとめくっていくと、非常に気になるところがあった。

「待った。キング、この仕事についてボスは特に何か言ってなかったのか?」

「いや、何も言ってなかったな。何か変なところでもあったか?」

「今回割とやばいかもしれない。ここ一週間くらいほかの調査依頼を受けたところが結構な割合で失敗してる。理由は色々だし、偶然で片を付けられるっていえばそれまでだけど……」

 普段で考えれば、ほとんどが成功する仕事だ。何せ別に盗み出したりしようとするわけではないのだ。荷物を少し離れたところから監視し、目算で内容と量を読み取る。違和感があればそれを書き留めておく。こういってはあれだが、重要度の割に難易度はかなり低い…信頼関係の証明のような仕事だ。手を抜こうと思えばいくらでも抜けるから取引相手に自分たちが相手にどれだけ有益かを示すものでもある。

「なるほど、それはちょっと気になるな……。俺のほうでもちょっと聞き込みしておくが、たぶん間に合わねぇから装備だけはそれなりのものを申請しておいてくれ」

「わかった。あとで申請書出しに行く。あー、ブリギッダにも教えないとだめだよな。夕方までには出すよ」

「はいよ。フジコのほうに出してくれ。俺はこれから聞き込み行ってくる」

 そういうとキングは手を挙げて部屋を出ていった。こういった漠然とした情報ならキングやフジコちゃんが適任だ。今から下手に聞き込みをするよりは、任せて装備をしっかりと整えたほうがいいだろう。

 問題はどこまで準備するのか、そしてどういう類の危険だと想定するのかだ。


 資料を読む。

 失敗理由は…浮浪者に襲われたもの2件、警備の配置変更3件、覗きスポットの破壊1件、死亡1件、字が汚すぎて読み取れない1件――は無視しよう……すべて人為的な失敗だ。

 だからと言って他勢力からの干渉だと断定するのはちょっと早い。浮浪者なんて港近くでなら結構な数がいるからもともと失敗理由としては多いものだ。警備の変更はタイミングがかみ合えばこの程度の失敗数になるだろう。覗きスポットの破壊というのはちょっと気になるが、何よりも死亡1件が不気味だ。

 トウキョウで人が死ぬのは珍しくとも何ともない。だが、原因が不明の死亡は不気味でしかない。良くも悪くも、トウキョウは欲望に満ち溢れているがゆえに、悪徳が王道であるがゆえに、単純な理由なら調べるまでもなく判明するし、複雑な理由なら時間はかかるが徹底的に調べる。次は我が身と誰もが理解しているから。

 そうなると、この死亡1件は複雑な経緯がある。詳細な資料が欲しい所だが…そこまでのものは手に入らないだろう。後調べるべきは成功した事例の情報。

 事態を正しく把握するためには成功と失敗の事例をよく見極めることが大切だ。法則性はある。ただそれが資料から読み解けないかもしれず、自分の感性では理解しえないものかもしれないだけなのだ。


 ――まぁ、どれだけ素晴らしい考えの元で読み解こうと、俺にそんなことが読み解けるわけがなかった。


 時計が制限時間が来たと音を立てて告げる。俺は返事の代わりにその頭を踏みつけて黙らせながら頭の中を切り替える。

 はっきりというならば、法則性は見つけられそうにない。予測を立てるくらいはしたが、それが間違っているのかを確かめることができなかったからだ。

 ブリギッダへの説明と準備と申請書の記入を考えると、余裕のある時間はおよそ1時間。そこで必要な装備を考えなければならない。

 まずは現在の自分の手札の確認だ。普段の装備として、CZ75が一丁、替えのマガジンが2つと防弾ベスト…クラスはⅢ。自分の腕前からして、相手を撃ち殺すというのはいったん除外しておいたほうがいい。失敗事例の数からして、自分よりも腕の立つやつはいただろう。

 ブリギッダの装備ははっきり言って不明だし、どの程度の銃器を扱えるのかはわからないが、戦闘面では任せてしまったほうがいい。俺がやるべきはそれ以外の部分だ。そのあたりは申請するときに確認しておこう。

 とにかく自分の手札を考えるなら、あの時のコイン爆弾のようなものが欲しい。あまり強い武装は周囲から悪い意味で注目されてしまう。初めから戦闘が決まっているわけではないのだからそういう装備が欲しい。

 何よりも、港は海の流通の玄関口ということもあり、常に空気はピリピリとひりついている。多少の武装は違和感がないが、過剰の武装はあまりにも目立つ。目立つということは覗きの仕事はできないし、場合によっては粛清される可能性もある。

 とはいえ、それは逆に考えれば相手もそれほどの武装はしてこないということ。問答無用で爆破だとかは考慮しなくてもいいだろう。そんなことをすれば周囲から叩き潰される。

 何より、楽観的ではあるがこの失敗すべては偶然で片の付くものばかりだ。運が悪かった。とも言い換えられる。警戒と準備は十分に、ただし装備は最低限に。

 申請用紙の記入を終える。時計を見てみればちょうどいい時間だった。

 これからやるべきはブリギッダを呼びに行き、申請用紙の記入方法の説明、仕事の内容説明、懸念事項の伝達。どこか思考がどこまでも落ちていくような、そんな感覚がする。これはこれは面倒なことになりそうな予感がした。



 朝。よく晴れ、風は春一番とでもいうのだろう強風が時折吹き抜ける。最高で最低な一日の始まりにちょうどいい朝だ。

 出発前に最後の装備の点検を済ませ、最後に港で違和感のないようにウィンドブレーカーを着込む。拳銃は隠す必要もないのでレッグホルスターに収めておく。

 部屋から出て、食堂で最後におにぎりをママンから受け取り準備万端。ブリギッダが来るまで軽く体を伸ばしておく。

「ギンジちゃん結構重装備ねー。懸念については聞いたけど、いざというときはどうする予定なの?」

「あー、可能なら撒いた後でここに逃げ込む予定。無理そうならフロワーかエイギンで潜伏。フロワーならキングかフジコちゃんが見つけてくれるだろうし、エイギンに逃げ込めればブリギッダがいても撒く自信があるし」

 トウキョウの色町と化した場所、フロワーであればキングとフジコちゃんの庭のような場所だ。数日程度なら隠れる場所を二人に教えてもらっているし、ここも空白地帯として有名だ。数で探すことはできても、強硬手段をとるのは難しいだろう。

 エイギンはその逆。いくつか存在する勢力が武装し、日夜ドンパチが起きる危険地帯。必然的に使える人手を増やせば増やすほどに狙われやすいし、あそこの地理に詳しい奴はよほどの古強者か俺のようにいつもこそこそとあの町で嗅ぎまわってきた人間くらいだろう。あまり行きたい街ではないが、命には代えられない。

「その辺が妥当よねー。ブリギッダちゃんの装備とかはちゃんと把握できてるの?」

「いや、実はほとんど申請しなかったんだよな。弾薬くらいだったかな?

 ほとんど持ちこみで何とかするみたいだけど、俺のほうからどの程度ができるのかが実はよくわかってない。俺の装備は伝えたけどな」

 扉が開く音がする。振り返ればブリギッダが準備を済ませてそこに立っていた。

 いつもの服装からそれほど変わったところは見当たらない。特に戦闘がない日まで着込んでいる野戦服とホルスターに拳銃、外見がいい癖に色気もくそもないいつものそれだ。

「待った、ブリギッダ待った。今回の仕事の懸念事項伝えたけど、本当にその装備でいいんだな?」

 見たところ特別ボディアーマーの類を着込んでいるようには見えない。戦闘が予想されているということはしっかり伝えているのだから、知らないということはないだろう。

「???」

 見るからに頭上に疑問符が浮かんでいる。だめだ。俺の伝えようとしていることが一切伝わっていない。

「ブリギッダちゃん。ギンジちゃんは戦闘がある可能性が高いんだからボディアーマーの類はどうしたんだって言いたいのよ」

 ママンはこの状況を理解してすぐさま認識の齟齬を埋めようとしているが、どうやら完全にずれているようだ。

「だって、ボディアーマーって動きにくくなるし、頭とかは守られないし、弾によっては防げないでしょう?

 それならあってもなくても変わらないし、手入れとかの手間を考えたらないほうがましなんじゃない?」

 確かに、それは事実だ。付け加えるとしたら一度当たった場所の防弾機能は低下してしまうし、実質使い捨てだから費用もバカにならない。ものによっては防刃機能もあると聞くが、ここにあるのはそれほど良いものではない。(そもそも刃物で襲われることほとんどいない)

 だが、それを差し引いても十分すぎる性能だといえる。それも自分の身を守るためであれば。一般的な考えとして、必要ないとか、ないほうがましという評価に落ち着くことはあり得ないともいえるかもしれない。

 ――そこでふと頭によぎったのが、あの時の弾丸。もしもあの時のように、命中させる場所が頭であることが前提となっているのであれば……なるほど確かに、頭を守るわけでもなく、動きを多少でも制限するボディアーマーが不要となるのかもしれない。とはいえ普通の感性ではありえない判断だが。

「わかった。オーケー。もう何も言わない。ママン、最悪の場合はまた一人メンバーが減るだけだ。それに実際ボディアーマーで命が助かったという事例がめちゃくちゃに多いわけでもない。それに結局は自己責任だろう、この街では」

 ママンはそれを聞いて、何を言っても無駄ということを悟ったのか頭を振ってため息をつき、一言「いってらっしゃい」とだけつぶやいた。



 港に存在する廃墟の一角、そこから俺は双眼鏡で港に出入りする船や、そこから降ろされていく荷物、そして積み込まれていくものを眺めていた。

 特別気にするほどでもないいつも通りの物。運び込まれる食糧や武器弾薬、積み込まれていく空の容器類。後ろ暗い所のある所の物ならおそらくは麻薬であろうものが積み込まれているのも見える。

 とはいえ、トウキョウは麻薬の輸出港としてそれほど大きいものではないことくらいは俺でも知っている。生産は決して少なくはないが、中で使っている量もまた少ないわけではないのだ。そういう意味では、このトウキョウがいまだにこうして価値あるものとして取引先となっていることはいささかの疑問がわき出てくる。

「なぁ、ブリギッダ。ちょっと気になったんだが、なんでトウキョウってまだ取引してもらえているんだろうな。向こうが得るものなんてほとんどないだろ」

「麻薬じゃないの? 郊外なんて田んぼでも作ればいいのに麻薬畑じゃない。国連とかが出張ってこないのも出入りの困難さからでしょ?」

「でも、こうして記録している限りじゃ特別多く輸出している感じはしないぞ。自分で書いている資料だからわかるだろ」

 担当は俺が監視と報告、ブリギッダが記録だ。最初の役割分担ならこんなものだろう。

「麻薬って高いんじゃなかった? ほら、ちっちゃなポリ袋で何万とか」

「あれって末端価格だろ? 生産元からの購入でそんなに金かけてたら何かの拍子に大損しそうじゃないか。第一薬にはまらせるために最初は安くするって聞くし、そんなにめちゃくちゃ高いとは思えないんだよな。収支が釣り合っているように見えない」

 実際、その収入もゼロではないのだろうが……どうしても違和感が残っている。

「ん?」

 その船は比較的クリーンな場所からの船……米国の公的機関からの援助のための船だったはずだ。そこに積み込まれる木箱……運び方があまりにも丁寧すぎるし、中身がある運び方だ。

「ちょっとブリギッダ、意見が聞きたい。あれ見てくれ」

 そういって双眼鏡を投げ渡す。ブリギッダは素直にそれを受け取るとじっと木箱を見つめて首を傾げた。

「あれがどうかしたの?」

「あれはアメリカの公的機関からの援助物資の船だぞ。明らかに中身が入っている木箱を運び込むって変じゃないか?」

 人ならば普通に乗り込めばいいし、あの団体は援助物資は置いていくもののそれ以外の援助……人的資源を送ってくることはない。現在のトウキョウが出せるものなんて麻薬くらいのもののはずだが……。まさか公的機関が輸出にかかわっているのだろうか?

「一応記録はしておくか。ボスなら何かわかるかもしれないしな」

「中身の予想はつく?」

「全く、丁寧だってことくらいかな? よほど希少なものなのかもしれない」

 あの団体は基本的に持ち出すことはしないから、比較対象がなさ過ぎて困る。

 ブリギッダがこちらに双眼鏡を手渡す。それを素直に受け取り、階下から聞こえてくる音にお互いに顔を見合わせた。

「逃げるか」

「逃げましょうか」

 ほとんど同時にそれを言うと、隣の廃墟へと飛び移る。崩壊前のトウキョウにいたころは考えもしなかったパルクールだ。

 隣の廃墟から元の建物を見ると、数名のチンピラが拳銃をもって大声で喚き散らしながらもともと自分たちのいた場所に踏み込んでいた。

「どっかにげやがったぞ!」

「あそこだ。やっちまうぞ!!」

 そんなことを叫びながらむやみやたらに発砲してくる。馬鹿じゃねぇの!

「あいつらバカだろ! こんなところでむやみやたらに発砲したら誰に撃たれるかわからねぇんだぞ!」

「最近少しずつ暖かくなってきたからでしょ!」

 ブリギッダと共に悪態をつきながらとりあえずと逃げ出していく。

 ブリギッダがいれば戦闘で倒すことも可能かもしれないが、港という地理的状況からして打ち合いをすれば何が起きるかわからない。

「やっぱりあの失敗事例って人為的なものだろ。あんな馬鹿が馬鹿やって生きていけるほど港は治安良くねぇぞ」

「考察は後で。舌噛むよ」

 走りながらぶつくさというと、ブリギッダからごもっともな指摘を受けて口を閉ざす。ひとまずは逃げて、適当に撒いて帰るでいいはずだ。

「おい、あいつらじゃないか?」

「本当だ」

「やっちまおうぜ」

 そんな声がすぐ前の浮浪者たちから聞こえてくる。逃走経路としては単純なものを使っているとはいえ、しっかりと次の手が用意されているようだ。

 仕方ないのでブリギッダの先導をして別のルート、別のルートを使うのだが……。

「おっかしいだろ。どんだけいるんだよ!!」

「ヤる?」

 そういってブリギッダは銃を引き抜く。アリだ。確かにアリな判断だが……。

「明らかに誘い込まれているのが不気味だ。撃った瞬間この辺のヤクザに粛清される予感がする。いったん帰るのはあきらめて潜伏するに一票」

「わかった」

 そういってブリギッダは拳銃をホルスターに戻し、周囲の警戒に移る。先導するのは俺だ。しかし、根拠はないのだが敵の数は多いような気がする。そうなると、敵の目的が本当に読めない。それほどまでに知られたくない情報があそこに隠されているのか、それともまた別の目的か。判断するには情報が不足している。


 ブリギッダを先導し、明らかに多い敵から身を隠しつつ進んでいくと、一つはっきりとわかったことがある。

「最低限、相手はそれなり以上にちゃんとした指揮系統のもとで行動してる。明らかに数を増やす程度の目的でしかなさそうな奴ですら逃走の邪魔になってるし、対応の一つ一つが早い」

「逃げきれそう?」

「勘でしかないが、こりゃ相当に用意してある。たぶん一度は相手の望む形で接敵する」

 身をかがめてやる気のない雑兵をやり過ごしながら小声で会話する。

 やり過ごせる場所、方向などがかなり限定されている感覚を受ける。結果的に港を離れて空白地帯を抜けるまではそれほどかからないだろう。ここからは士気の高い奴らをやり過ごす必要も出てくるだろうが……ブリギッダの隠密技術のそれは、ターゲットに気取られないようにするための物。追われている状況での程度はお世辞にも高いということはできない。

 こちらの情報も、ある程度は知られている前提で、だが確実に言えるのは…俺の情報が相手に正しく伝わっているなら、こちらを全滅させるつもりはないだろうということ。はっきりと言い切れる。

 ――俺一人ならばこの包囲網から抜け出せる自信がある。


 さて、問題は仲間のブリギッダを連れて抜け出すという点だ。敵の用意周到という印象と現在の状況からして、一つの方法に深く深く思考を張り巡らせてしまうようななんちゃってではないだろう。一つ一つの前提を検討し、状況を作り出し、イレギュラーへの対応をいくつか考えているはずだ。

 となれば、そこから抜け出すのはそう簡単なことではない。一つ出し抜くだけでは不十分だ。幾重にも張り巡らされた罠を避け、破壊し、突き抜けるか……もしくは――

「ブリギッダ。最後に用意されるだろう仕留めるための完璧な包囲……破壊して抜け出す自信はあるか?

 現状の予想だと、めちゃくちゃ強い奴はいないけど、それなり以上には訓練された兵隊が最低でも10人くらいはいると思う。逆に多くても30人はいない」

 もしくは、最後の最後で相手の準備してきたものをぶち壊すかだ。



 何度か追手をやり過ごし、追い立てられるかのように港を出て、浮浪者たちが当たり前のように犯罪行為も行う名もなき廃墟群へと追い立てられる。とはいっても、ここは港からも近いので完全な無法地帯というほどの混沌っぷりは見せない場所だが、誰か管理者やらがいるわけでもない放棄地帯だ。

 そんな道の一角、廃墟と廃墟の間を走り抜け、通りを横切り、時には音を立てずに追手をやり過ごす。そしてたどり着いたそこは廃墟群の中ではまだましな建物の2階部分。隣の建物から飛び移ってきて、真っ先に俺たちを出迎えたのは明らかにこいつらのリーダーとわかるような男だった。

 男はやや大柄で、短い髪をワックスか何かで逆立て、野性味あふれるその容貌を見せつけていた。その顔は自身に満ち溢れ、まんまと罠にはまっていった俺たちを見下すかのようにしている。周囲には16名の部下と思われる小銃を携帯した男女。そろってどこかで見た気のする野戦服に身を包んでいる。

「おーし、完ッ璧!

 ほら見ろよ。ハントレスをハントしたぜ? しかもピューマだ!!」

 部下であろう男女は無言で小銃をこちらに…主にブリギッダに向けている。指揮官と思われる男は非常に満足げに、自信たっぷりに姿をさらし、勝利宣言をしている。

「ブリギッダ、知り合いか?」

 明らかに相手はブリギッダを知っている。聞き覚えのない名称…ピューマというのも聞こえるし、その大物を狩ってやったという自慢が見えてくる。

「会ったことはほとんどないけど、前いたところでターゲットの情報収集とか、一般兵の統率とかを任されてたやつだと思う」

 ヒットマンをしていたことはボスから聞いていたし、そういう組織に属していたことも知っていたが……ボス、ちゃんと過去を清算してから仲間に引き入れたわけじゃないのかよ。

「ほーう、今はブリギッダって名乗ってんのか。いいねぇブリギッダちゃん。

 だがいけねぇなぁ。そんなひょろい足手まといと一緒にいるとか……まぁいいぜ。俺は寛大だ。今すぐそいつらと切れて俺様につくならいい待遇を約束するぜ?

 さしあたっては俺の隣で寝てもらうことからかもしれねぇけどなぁ!」

 そういって男は笑う。なるほど、初めからブリギッダを狙って、ブリギッダを追い詰めるための包囲網だったからああいうものだったのかもしれない。

 しかし、こいつはよほどの馬鹿なのかもしれない。部下16人は“全員が”おそらくはこいつからの指令で照準はブリギッダへとむけられている。ついでに言えば、ブリギッダへのそれなりの執着もあるようだ。ブリギッダへの注意をしすぎて俺が長々とした演説中にポケットから物を取り出したことにすら気づいていない。

 まとめられたひもの一端…すでに輪になっているそこに小指を通し、思いっきり男のほうへと投げつける。ある程度…15mほど進み、男まであと5m程度となったところでひもに引っ張られて……。

 爆音が鳴り響く。破片の一部はこちらまで飛んできたが、まぁ大したことはない。顔は左腕でかばい、ついでに準備しておいたスモークで視界を遮る。

「逃げるぞ!」

 声を張り上げ、姿勢を低くしながら元来た道へと急ぐ。ブリギッダの位置なら爆発や煙幕の影響はほとんど受けないはずだ。すぐに合流して背後から聞こえる銃の乱射音から逃げるように逃げ出す。

「やったの?」

「無理。あの爆弾、安全面の問題で殺傷能力は大したことないんだ。運が悪ければ死ぬけど、そうでもないならちゃんと医者行けば治る」

 単純に、手榴弾内の散弾がほとんどないのだ。手榴弾そのものの破片や爆発の衝撃、音などは榴弾のスペースにまで入れられた炸薬のおかげでそれなり以上のものだが、よほど近くでなければ殺傷能力は高くない……らしい。

 ちなみに、元は演習用だとかいうやつを改造したものを改造したものらしい。意味が分からん。

「――単純に気になるから聞くんだけど、そんな兵器に意味あるの?」

「いや、単純な安全面の問題なんだよな。ほっそいワイヤーでピンを引っこ抜く関係上、いくら本体がそれなりの重さがあるとはいえ、投げたときの勢いとか回転とか、そういう不確定要素があるとかでかなり抜けやすいんだ。だから逆にふとした拍子、それも意図しない場所で爆発しても大丈夫なようにって理由で殺傷能力を低くしているらしい」

 こんな状況でなければ使おうという選択肢には当然入らない一品である。正直なところ相手の武装の強さは予想をはるかに上回っていた。どこからそれだけの資金提供があったのか……。

「それで、どこに向かうの? 先導してほしいんだけど」

「悪い、今の俺には先導する余裕はない。

 向かう先はフロワーだ。フロワーに入ったら、南の大通りにあるブルーヘブンっていうピンク色の看板出している店があるから、その店のある場所で裏路地に入って、その中で一番高い建物の二階奥の部屋に忍び込む」

 ちなみにその部屋はキングがフロワーで誰かを連れ込むために用意している部屋の一つだ。ほかにもいくつかあるらしいが、俺の知っているのはとりあえずはここくらいである。

「アジトに戻らなくていいの?」

「よほど指揮官に頼り切っているわけでもなければ完全に撒いて戻るのは無理そうだし、あれだけの人を引き連れて建物戻ったら全面戦争にしかならない。

 今は外に出ているメンバーが多いから戦力が十分ってわけでもないし、俺たちの一存で相手の所属その他も不明なのに戦争始めるのはさすがにまずいだろ」

 そう話している間にも背後からは何人かが俺たちを追ってきているのがわかる。

 スピードでは一応こちらが上、とはいえ相手のほうが数が多いようだし、完全に撒くのは難しいだろう。

 周囲の雰囲気が徐々に変わっていく、どこか甘ったるい雰囲気に包まれた空間へと俺たちは侵入していき、裸同然の格好をした男女、財力を見せつけて好みの相手を誘う人物、そしてそういった人物を餌として食い荒らそうと狙うハンターたちの潜む街へと突き進んでいく。

 ――フロワー、およそすべての肉欲を満たすことができる性の町。


 俺たちはフロワーの街の空気になれる暇もなくキングの隠れ家に入っていく。

 思っていたよりも物はしっかりと存在し、数日の間であればここに引きこもることも難しくはないだろう。

「ここは?」

「キングの連れ込みようの部屋の一つ。前に付きまとわれるようになって、こういう部屋を複数用意したんだとさ。今回の仕事の前にいざというときに使いつぶせる部屋の一つとして教えてもらった。鍵はピッキング頑張れって言われたけどな」

 一晩程度であればここに身を隠すことはできるだろう。この街で人を探すのは非常に難しい。まともな指揮官ならまずはここから出ていかないように手配するはずだ。

 フロワーを出入りするための道は三つしかない。それ以外は娼婦たちが脱走してしまわないようにと念入りに封鎖されているからだ。しかし――

「悪い、思ったよりも緊張が切れるとまずい。救急箱か何か探してくれないか」

 全く関係ないことを考えて意識をそらしていたが、思ったよりも痛みが強い。

 煙幕を張り、姿勢を低くしたとしても絶対に弾が当たらないわけではないのだ。あの乱射されていた弾のうち一発が左肩に当たっている。うまいことボディ―アーマーと、ウィンドブレーカーの金属部分とのおかげで貫通こそしていないようだが、衝撃はしっかり伝わっている。現状、左腕が満足に動かせない程度にはまずい傷のようだ。

「この傷は……骨までやってるかも。見るからにひどい」

「モルヒネは見つかるか?」

 痛みさえごまかせば次の動きを始められる。こんなことなら初めから試験薬を試してもよかったかもしれない。いや、試験薬はピンキリがひどいし、あらかじめ服用しておくタイプは試したことがなかったから今回いきなり使うのはまずいか。一応鎮痛剤は準備はしてきたが、それも試験薬だし、だれも使ったことがなかったからできれば使いたくない。モルヒネがあるならそれを使ってしまいたい。

「あるけど、潜伏できる先に当てでもあるの?」

「さすがキングといっておくべきか。潜伏先は一応一つはある。ただ、そこに行くならちょっと準備しないとすぐばれる」

 モルヒネの副作用というか、そういったものはある。代表的なものは便秘、眠気、吐き気だ。眠気などが出てしまうとあまりよろしくはないが、まぁそのあたりは何とか頑張るか、カミサマにでも祈るしかないだろう。

 ブリギッダに頼んでモルヒネを投与してもらい、痛みが治まるまで少し待つ。その間にブリギッダは体を軽くふいてきたようだ。

「ブリギッダ、とりあえず今のうちに情報の共有と作戦会議をしよう。あそこまでの人手を使ってとなると、結構組織的な動きをしているはずだ。多少の情報でも対応を変えないとまずい」

「そうね、お互いに持っている情報も違いそうだし、少なくともあの男ことは知っていたほうがいいでしょ」

 少しさっぱりした様子でブリギッダは俺の提案に同意する。さて、とりあえずは……。

「んじゃあこっちから。

 俺の装備は実のところだいぶ使い切ってる。拳銃とフラッシュ、現金、ベストは弾に当たったから左肩付近は気休め程度の意味しかないな。見ての通り左肩を負傷中で、純粋な戦闘面では期待しないでくれ。そもそも他人の評価を引用すると、俺は素人に毛が生えた程度の腕前だ。

 追手に対する認識としては、おそらく俺のことはよく知らないだろうっていうのと、たぶん組織についても詳しくはない。ただし、ブリギッダに関する情報は少なくとも俺より詳しくて、狙いはブリギッダ個人が中心。

 まぁそうなると、相手がどうやってブリギッダがあそこに現れるという情報を手に入れたのかとか、そういう疑問も出てくるけど…現状答えは見つかってない。あとは、見たところあの時に小銃を突きつけてきた連中くらいがまともな戦力で、それ以外は金をもらったチンピラレベルっていう予想かな」

 一通りの予測を話す。現状整理としては十分だろう。この程度の情報からでも、ここフロワーという場所のアドバンテージを考慮すればそれなりには逃げ隠れできるはずだ。

「なるほどね。じゃあ、ずれている部分としてあの男の情報。

 あいつは西岡哲郎が本名だけど、自分では金獅子とか名乗ってて、見ての通り指揮官っぽいことを中心にやってた。

 主な仕事はターゲットの発見とその情報集め。その人員を指揮していたのは知っているけど、ほかにもたぶんやっていると思う。軍隊じみた活動のリーダーをやっていたから。

 結構な自信家で、私みたいなハンターって呼ばれている人員からはお山の大将と蔑まれていたわね。形式的にはハンターの暗殺のサポートではあるけど、一人一人の能力が買われているハンターと集団の連携を主とするビーはコンセプトの違いもあって対立気味だったから。

 団体が壊滅したときにハンターはここの能力のおかげでこうやっていろいろと好きにやっていたけど……ビーは一つじゃ意味がないから劣等感もあって自分たちがハンターよりも優秀なんだって言い張りたいんだと思う」

 劣等感に包まれたお山の大将が意地を張るためにその中の一人を狩って自尊心を満たしたい……形はわかるんだが……。

「あー、うん。もう動機はいいや。別に俺たちあいつらを取り締まりたいわけでもないし、邪魔だったら殺したりするだけだし、その辺判断するの俺らじゃないし。

 単純な疑問なんだが、ピューマって呼ばれてたけどそれは?」

 動機面はぶん投げることにする。考えれば考えるほどあの金獅子(笑)が小物にしか見えなくなってくるだろう。俺知ってるんだ。こういうのは考えるだけ無駄だって。

「それは……ハンターの中でのコードネームみたいなの。全員に一応ついてるやつ。私はそれなりには有名だったからあの反応だったんだと思う」

 そのままほかのコードネームと思われる名前をいくつか挙げられる。まぁそれはいい。それはいいとしてだ。

「――もしかしてだが、それをつけているのって上か? ついでに言ってビーにそういうのをつけるやつはいないとかそういうのか?」

「ご明察」

 重い沈黙が流れる。鎮痛剤のおかげか痛みが弱くなってきたこともあり、どうにも話をそらしづらい。

「よし、切り替えよう。とにかく重要なのは次の潜伏先と、それまでの移動方法とかだ。そこで一つ提案があるんだが……」

 考えていた作戦を告げる。正直面倒なことこの上ないが、とりあえず思いついた作戦がこれしかないのだからあきらめてもらおう。別に逆の立場でもいいが、その羞恥心にブリギッダが耐えられるかどうかは知らない。




 さて、ここフロワーはすっごい簡単に言ってしまえば遊郭だ。確かフジコちゃんはフロワーの場合は廓と呼ぶのが正しいといっていた記憶もある。

 呼び方はどうでもいいのだが、中にいる人間というのは大きく三つに分類される。買う人、売る人、売られる人だ。兼任することもあるがこの三つに分類されない存在というのは非常に目立つ。

 トウキョウのパワーバランスに関する話だが、現在のトウキョウには大きい組織というのは四つ存在する。中国系、韓国系、元極右団体、そして政府組織だ。仲の良し悪しはあるものの、おおよそこの四団体が互いににらみ合いをしながら存在しているのがトウキョウである。

 政府組織以外の三つは郊外に麻薬畑を持っており、同時にそこで働く人というのも存在する。そういった組織の保護を受けた労働者が欲を満たす街でもあるのがここフロワーであり、四団体が連名でここの不可侵と平穏をある程度保証している。

 ちなみに、政府組織は国連などから「日本という国がまだちゃんと存在している」ということにするために必要なので様々な援助を受けており、実権はまるで存在しないが、無視ができるわけでもない団体だ。少なくとも他三団体との抗争はほとんどしないが、下位の構成員に対してはめっぽう強いという面倒な組織でもある。

 大まかな関係性としては、国連などから存在を必要とされて補助を受ける政府、政府が事実上国連の傀儡であるために反発する極右、元は民族間の互助組織だったが現在では麻薬カルテルと化した中国韓国系というもので、これらは様々な状況で仲が良かったり悪かったりする。

 まぁ、何が言いたいかというとだ。フロワーは港とはまた違った理由で組織的な抗争に非常に厳しい場所である。キング曰く、ここに外の諍いを持ちこむのはご法度で、仇敵同士であれども、ここではただの男女に過ぎず、縁があれば互いに互いの肉体を貪る場所だという。そして同時に、外の関係を持ちこもうとするものを排除しようとすべての住民が団結するらしい。ここで分類される三つの人間、買う人、売る人、売られる人……どれにも該当しないのであれば、必然的にそいつは町から追い出されると。

 この街にいる異物は、今はきっと俺たちとビーの連中であろう。どちらもこのルールに抵触すれば追い出される。即ち、俺たちはこのルールを順守しなければならない。

 しかし、ブリギッダはこのトウキョウに存在する人間の中でも一二を争うレベルに初心だ。人を買うことはできないだろうし、売る人はいない。議論するまでもないが買われるなんてもってのほかだ。となれば、ブリギッダはこの街に居続けることはできない。おそらく同様の推察を金獅子はするだろう。

 だが、もちろんこの三つの分類には抜け道が存在する。具体的に言えば、これらの売り買いは個人レベルでも行われているということだ。つまり、買った人と買われた人という関係を用意するのは、二人いれば偽装することも可能ということである。



「ということで、だ。気持ちがわからんとは言わんが、必要なことだからそれを着てくれ。これでもまだ露出とかは少ないほうなんだ」

 俺は一度外に出て、立ちんぼから服を買い取り、さらに適当に化粧なども用意した。そしてそれをもってキングの隠れ家に戻り、こうしてブリギッダに手渡しているわけである。

 ブリギッダは一応必要性やその効果を納得した手前、ためらいながらもちゃんと服を手に取り、奥で着替え始める。その顔が真っ赤に染まっているのは…気にしないでおこう。初心であるかのようにふるまう人間くらいこの街になら何人もいる。

 予想の何倍かの時間をかけて出てきたブリギッダは、知ってはいたものの非常に露出の多い服装で、まだ寒いからか厚手の素材を使ってはあるものの、男の視線を誘ったり、劣情を催すように局部付近まで肌を露出している場所が多い。素直な感想として、めっちゃ寒そう。

 普段はしている様子のない化粧もしており、なるほど確かにこの格好であればこの街で売られた娘という雰囲気は出ている。キングやフジコちゃんが見れば化粧に関して一言二言あるような気はするが、大した問題ではない。

「ブリギッダ、お前は売られた娘の立場で、俺が買った立場になる。逆は無理って納得したよな?」

「な、何が問題?」

 両手を使って局部周辺を隠そうとしているが、そうじゃない。俺が言いたいのは今も見えているその危険物についてだった。

「ここは肉欲を満たす街で、暴力はプレイを除けば存在してはいけない町なんだ。あー、つまりだな?

 そのむき出しの横乳だとかを必死に隠す前に、脇にある拳銃と太ももにあるナイフをはずせ」

 色気があるのは認めるが、むき出しの武装を見て股間がいきりたつ男は少ないだろう。それで興奮できるのは絶対に自分がその凶器によって脅かされることがないと確信しているやつだけだ。

「あなたはちゃんと武装しているじゃない」

「俺は買い手だ。買い手は外から来るから武装していても問題はない。そりゃあ大っぴらに見せびらかすように持っていれば問題視されるだろうけどもな」

 だから売られる立場でいいのかと確認したのだ。まぁ、武器は俺が預かればいいだけなので一緒にいれば大した問題にはならないはずである。

「じゃあ私が買い手になれば…」

「かまわないけど、この街でも女が男を買うっていうのは結構珍しい例だからそれなりに目立つぞ。しかも俺みたいなブサイクを買うってことは、そういう趣味って思ってもらえればいいほうで、十中八九特殊性癖に付き合ってもらえる相手がいなかったって思われるな」

 それでもここはフロワーだ。俺みたいな相手しか見つけられないような特殊性癖というのがどういうものが出てくるかは正直わからない。今度キングあたりに聞いてみよう。

 その羞恥心を想像したらしく、先ほどまでよりもずっと顔が赤い。ちなみにこのやり取りは三度目だ。話し合いで一度、用意しに行く前の確認の時に二度目、そしてここで三度目だ。

「まぁ、その羞恥心に耐えられても、狙われているのがブリギッダなのに、ブリギッダが目立つ方法は基本的になしだけどな」

 相手側はブリギッダのことをよく知っているというか執着しているのだ。服装を変えて化粧をしても目立っていれば見つかるだろう。普通に考えればわかることである。

 そういう経緯もあって俺とブリギッダは服装を変えて日が沈んだ頃に隠れ家を出て通りを歩く。下手に路地裏に行くよりもこうして歩いているほうが目立たないだろうし、相手が逃げ隠れしているという先入観は大通りの人々の個々の顔まではっきりと認識させない。それに、おそらくは中を探し回っているのは件のビーではなく、雇われたチンピラたちが中心だ。ビーの人間もいるかもしれないが、それは支持を行うために数名に一人程度だろう。それに、ビーの人間すべてがブリギッダに執着しているというわけでもなさそうだった。

 やつらが執着しているのはあくまでもハンターたち。ブリギッダのことは知っていても、そこまでの執着はないし、こうして普段とは印象が変わってしまえばそう簡単に見つけることはできないだろう。絶対ではないが。

 適当に道を歩き、食事を済ませる。人ごみに紛れるなら酒を飲むべきなんだろうが、こういう状況で酒を飲む気にはなれない。ブリギッダも最初は見てわかるほどにガチガチに緊張していたが、徐々に吹っ切れたのか今は少しくらいの酒を楽しむ程度には周囲に溶け込んでいる。今ならそういう人物を演じていると思ってもらえるだろう。そういう意味では、俺のほうが違和感が大きい。

「ギンジは飲まないの?」

 そういってブリギッダはグラスに手を伸ばして、腕ごと揺らす。テーブルの上には強い蒸留酒の入ったボトルが乗っており、グラスは丁寧に二つあるのに一つは濡れてすらいない。これじゃあ違和感丸出しだ。

 というか、その動きだとあれほど恥ずかしがっていた脇から横乳の部分を大きく晒すような動きだが……いいのだろうか? たぶん気づいていないんだろうけど。

「――一杯くらいは飲むべきだよな……」

 そう自分に言い聞かせて水で割る。もし仮に手元を観察している人がいれば、その酒の割合の少なさに大きい違和感を覚えるだろうが、酒の席…というより性の対象と飲む酒の席でほかのテーブルを細かく観察しているやつはいないだろう。きっとたぶん。

 少しずつ酒を飲みつつ食事を終えて、ブリギッダの腰を右腕で抱くようにしながら連れ込み宿へ向かう。ちなみにフジコちゃんが昔お勧めしてくれた壁の厚い所だ。

 二人で部屋に入り、施錠をしたところですぐにブリギッダは俺に切り出してきた。

「あなたって、酒に弱いってわけじゃないと思うけど、なんでそんなに飲まなかったの?」

 そりゃあブリギッダからしたら違和感しかないだろう。二人きりで食べてたし、目の前の出来事だ。

「まさか、傷が…」

「そっちが全くないとは言わないけれど、今のところ追加した痛み止めのおかげで動きにくい以上の問題はないよ。単純に仕事というか、ある程度以上の緊張感が欲しいときに酒を入れるのがどうしてもな……」

 ちなみにこのある程度以上の緊張感はアジトの自分の部屋でくつろいでいるときも引っかかる程度のものだが、わざわざ口にすることはない。

「でもまぁ、傷のほうも無視できないのは事実だ。この傷をこの状況で治療してくれるところなんてフロワーにはない」

 むしろ追われている人を助ける医者はほとんどいない。いったんケリをつけなければまともな医者に診てもらうことなど不可能に近いのだ。組織に医学の心得がある人間がいればいいのだが、今はもういない。

「脱出が優先ってことね。出入りは3か所だけだっけ?」

「一応、囲んでる壁を乗り越えて、地雷原を回避して、もう一つ壁を乗り越えるって作業を見回りしているやつらに見つかることなくやり遂げることができれば、ルートは無数に存在するな」

 壁の上の有刺鉄線やらそれなりの高さの壁やらは十分以上の脅威だし、地雷原は言うまでもない。ちなみにベルリンの壁になぞらえてフロワーの壁とかいうやつもいるが、あまり広まっていない。

「それは実質不可能でしょ。だからフロワーに要人が入ったときには出たところを狙えっていうわけだ」

「フロワーは中のルールを守る限り優しいからな。もちろんそんなことをしたら外への影響力を保つなんて夢のまた夢になるだろうけど」

 一種の治外法権に近い場所でもあるのだ。トウキョウの中でもかなり特殊な場所に当たるだろう。

「あぁ、言っておくけど俺たちは逃げ込んでいる立場だけど、性を楽しんでいない以上ここでは異物だ。現状それっぽく振舞っちゃいるけど、そう遠くない未来に露呈して、排除される。そうなりゃゲームオーバーだ」

「それってつまり……」

「やることやってないなら出て行けって感じだな」

 そう言い切ると、ブリギッダはやや体を隠すように身をよじらせる。冷静になって今の格好がまた恥ずかしくなったのかはわからないが、とにかくこれからの行動は決めないといけない。

「ともかくこれからのことを決めるにあたって、お互いに現状を打破する手段があるなら共有しよう。俺はとりあえず、それなりの危険性は伴うが出入口以外から脱出する方法に一つ心当たりがある。というかやったことがある。それ以外だと、たぶん一人でなら普通に脱出できそうってくらいだ」

 あの方法はもうやりたくはないが、二人で脱出するのであれば必要になるだろう方法だ。一人の場合は、正直相手が血眼になって探しているブリギッダがいないというだけで難易度が低下するし、別に町に追われているわけでもないのだから特別難しくはないだろう。

「私のほうは……相手が少人数ならやれるかな?」

「――場所はフロワー外だよな?」

 さすがにゴールデンライオンさんを殺しても、そのあとでそのままフロワーから粛清されては意味がない。

「殺すことだけが目的ならどこでもいいけど、脱出のことを考えると外だよね。でもそんなことは向こうもよくわかってると思うから……」

「あー、そりゃ守りを固めるか」

 ブリギッダの戦闘能力を危険視したからこそのあの包囲網だったはずだ。しかしそう考えるとあの指揮官、なんで目の前に出てきたんだろうな。

「それに、この通り今できる武装なんて拳銃とナイフくらいでしょ? こうなるってわかってたらもう少しちゃんと考えてきたんだけど……」

「警告はしたんだけどな。まぁ、ここまで殺しに来るとは俺も思ってなかったけどさ」

 わかっていたらキングあたりに迎えに来るように要請していた。ママンに一応潜伏先候補は伝えているが、向こうの情報収集の程度によっては警戒されて接触できないかもしれない。

「ちなみに、どの程度の武装が必要なんだ? 程度によってはここで盗んでくるって手段もある」

 壁の外へ逃げようとするやつを射殺するためだったり、ここのルールを破ったやつを排除するためのものだ。

「じゃあ、SKSとかは……」

「あるわけないだろ」

 きっぱり切り捨てる。こんなところでそんなちゃんとした武装をする奴なんていない。

「小銃の類はほとんどあきらめたほうがいいぞ。そんなのちゃんと扱える奴この街にいないし、あるとしたら…上下散弾銃とかハンティングライフルの類だな。この辺はもともと猟銃で手に入りやすい類だったからか見かけるし、この辺での装備の中ではかなり上等だ。それ以外だと個人が持ってきた拳銃類だな。よっぽどの馬鹿がいれば、もしかしたらそれ以上の武装を持ちこんでくれるかもしれないが……」

「じゃあ、散弾銃とライフルでいいや。たぶん何とかなると思う」

 そう気軽に言い切るがブリギッダよ。それはこの街にあるだけということを忘れていないだろうな?

 そんな俺の疑問の答えはすぐさま返された。

「――今のあなたで、盗ってこれるの?」

「一応返事をしておくと、場所の把握と警備状況の確認、盗ったらすぐに行動だろうからその辺の調整踏まえてけっこう時間がかかるぞ」

 無理とは言わんが。

 そんな俺の言わなかったセリフまではっきり聞こえたのか、ブリギッダはあることをすっかり忘れて安心しきったかのようにベッドに腰掛ける。

 あまりこういう時に期待を裏切りたくはないのだが、言わないわけにもいかないので俺はこの事実を告げる。

「残念ながら期限をオーバーするけどな」

 そもそも俺たちには時間がないという事実をブリギッダは今更思い出したようである。俺たちがフロワーの住民として認めてもらえない以上、ここに長居をすることは不可能だ。そして、その期限では武器を盗ってくることなど不可能に近い。

 ブリギッダも、きっと期限の存在を認識すればその事実には気づくことができるだろう。結局のところ今の会話によって解決する部分など一つもなかったのだ。詰みつつある状況が明確になりつつある。ただそれだけの話である。

「寝る」

「え?」

 ブリギッダは一言宣言すると本当にシーツをかぶって背を向けてしまった。本当に寝てしまったわけではないのだろうが、会話ができるような状況ではない。というよりも会話をしたくないというオーラが見えてくるかのようだ。

 こんな状況で対話を拒否されると非常に困るのだが……こうなってしまっては俺たちは半ば運命共同体だ。相方の機嫌は取っておくとしよう。しかし……。

「――せめてシーツくらいはくれよ」

 俺はこの固いフローリングの上に雑魚寝か。




 適当にそれっぽいことをしたかのような工作だけは簡単にしておいて、俺たちはその連れ込み宿からチェックアウトする。いくらフロワーとはいえ連れ込み宿で連泊は普通ない。ちゃんとしたサービスの行き届く高級宿であればやる人間がいないわけではないらしいが、そんなに人間の精力は強くない。そんなのはフィクションだ。キング曰くいるとのことだが、俺は全く信じていない。

 俺たちはとりあえずと店に入って食事をとる。しかし、昨日の時点で気づくべきだった。

「お前、金ほとんど持ってきてなかったのかよ」

「まとまった金額だとかさばるから邪魔になると思ったの」

 気持ちはよくわかる。最悪の場合は適当に盗むしかないが、正直なところ何かをしようと行動するための資金がそろそろヤバイ。

「このままだと諸々な条件無視して、二人でここに滞在するだけで一週間持たんぞ。食事を削るという手もあるが、コンディションに直結するから後々のことを考えると悪手だ」

 俺だけが我慢したところで大して差はないし、俺が動けなくなれば本当に戦闘以外の選択肢が消える。もうすでにほとんどないという状況ではあるが。

「稼ぐって手段は?」

「お前が身売りしたら稼げると思うけど、たぶんその場合結局万全の状況からは遠ざかるからなしだな。ただ出されて終わりで済むわけじゃないし」

 ブリギッダなら稼げる。それは事実だろうが、ブリギッダの体調を考えればなしだ。俺が身売りするのは怪我的に無理。体調万全でも今度は顔的に相手が減るし、稼ぐ相手がいても今度は予想される内容的にブリギッダよりもひどいことになるだろう。

「そもそもの問題もあるからな、考えていたよりも決着は早くつけないとまずいぞ」

「誰か援軍が来るという可能性は?」

 援軍か、少なくともキング、フジコちゃん、ママン、ボスからは期待できない。この四人は普段からほとんどアジトにいるメンバーだ。ちゃんと向こうが下調べしたら近づかせてもらえない。そうなると普段はアジトの外にいるメンバーがここに立ち寄ってくれるしかないだろう。できればアジトを経由せずに。

「――皆無…ではない。一人だけ来る可能性がある人はいるし、タイミングも……まぁあってる。問題はフロワーでその相手を探すという最大の難関が待ち受けているわけだが」

 実は一つだけ心当たりはある。しかしその場合俺たちも目立つ。できれば使いたくない手段だ。ブリギッダがキレるかもしれない。

「心当たりは?」

 案の定ブリギッダはそういうものをしっかりと確認してきた。俺は仕方ないので馬鹿正直にその心当たりと、その手段について語る。

 頼むからここで衝動的に武器を奪ってこないでくれよ?



 俺はフロワーのメインストリートのど真ん中、いたるところから客引きの声が聞こえてくるそこで少々厚着をして左肩のけがを隠しながら、一人の女を右腕で抱き寄せつつ、その薄着の女を温めてやるように上着の中へと招き入れるようにして密着していた。傍から見れば娼婦と客に見えるだろう。

 女、ブリギッダはやや顔を赤くしながら俺におとなしく抱き寄せられながら非常にゆったりと道を歩いている。俺は時々ブリギッダのうなじに唇を這わせたり、抱き寄せている右腕を内股に潜り込ませる。こんなに堂々と道の真ん中でやるのははっきり言って恥ずかしい。

 一度今探している相手にフロワーへ連れ込まれたときに見かけた光景を可能な限り再現しているのだが、やってみてはっきりと言い切れる。よくこんなことを恥ずかしげもなくできるものだ。言い訳をしながらでなければ俺もすぐに投げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 周囲の人間たちは俺たちのその様子を見るや少しばかり距離を取ろうと不自然な動きをしてくれているのが視界の端で見て取れた。この反応を見るに、やはりアンスのあの行動は有名だったようである。

今探している人物、アンスはフロワーでも有名な乱暴者だ。過去に一度排除しようとして手酷い反撃を受けたらしい。そのアンスが暴れた原因がこうして大通りでただひたすらにいちゃつくだけのバカップル。客と娼婦ならとっととやることやれ、恋人同士ならもっとしかるべき場所でやれ。せめて裏通りとかあるだろうというのがアンスの主張だ。言いたいことがわからないでもないが、それで相手にカツアゲじみた方法でうっぷんを晴らすのは少し違うと思うのだが……これで向かってきてくれるのであれば好都合である。

 なお、アンス本人はそれなりにはここフロワーを利用し、金やらなんやらを落としていくらしいので基本的にウケはいい。もしかしたら単純な人気という意味ではキングやフジコちゃんよりも人気はあるのかもしれない。同様に敵が多いのは確実だが。

「おい兄ちゃん。ここは確かに女を買う場所かもしれねぇが、こんな場所で盛る場所じゃあねぇよな? おい、俺が間違ってるか?」

 不思議とよくとおる低い声。あぁ、探し人が俺たちという餌に食いついてくれえた。あとは俺たちを食い殺してしまわないように気を付けるだけだ。

「いや、すんませんね。どうにもここは初めてで、勝手がわからなかったんですよ」

 そういうと後ろから左肩をがっしりとつかまれて振り向かされる。同時にブリギッダに回した右腕もはがれていく。

 普段だったら抱えたままでもいられたのだろうが、あいにくと今つかまれた左肩は負傷中だ。叫び声をあげなかっただけ誉めてほしい所である。

「テメェ……ちょっと来い!」

 アンスは俺の左肩からすぐに手を離すと俺たちのほうを一瞥もせずに人気の少ない路地へと来るように命令した。俺はブリギッダのほうに目配せしてから一緒にその路地裏へと入っていく。


 アンスは思ったよりも早く進んでしまったようで、俺たちがそこにたどり着いた時にはたばこを半分ほど吸い終えたところだった。特別急ぐ理由もないのでアンスが一服を終えるまで俺とブリギッダはそこで待とうとしたのだが、アンスがたばこの火を踏み消した。

「おいギンジ。その左肩はどうした。そいつを連れていることに関しても話を聞かせてくれるんだろうな?」

 そういってアンスはブリギッダへも視線を向ける。しかし、この言い方だと……。

「アンス、ブリギッダとは知り合いだったのか?」

「まさか、俺はそいつが店から何もかもを盗まれた後にあのくそ野郎に言われて借金の取り立てに行っただけだよ」

「うわぁ……」

 それはまた嫌な役目を……。

「しかし、そういう関係になった……というわけでもなさそうだな。そういう理由で来てんならお前の負傷が意味不明すぎる」

「えっと、ギンジの負傷がそんなに意味不明ですか?」

 ブリギッダが口を挟んだ。少し珍しいと思うと同時になぜか身構えてしまう。

「そりゃそうだろ。こいつを仕留めるなら訓練した兵隊が必要だ。それなりの数揃えてな。それくらいには逃げるのがうまい」

「自分たちが捕まえられなかったからって過大評価はよしてくれ」

 俺がやったのはあくまでもボスのお宝を盗み出して依頼人に売り渡し、追手から逃げ続けたというだけなのだ。ちなみに最後は依頼人の裏切りでジ・エンド。紆余曲折あったが、こうしてその組織に属しているというわけである。

「お前の自己申告はどうでもいい。評価するのはいつも他人だ。嬢ちゃんがどれを信じるのか、どう評価するのかに関しては俺がどうこう言うつもりはねぇよ。

 んで、何よりもお前の負傷理由だ。ちょっとしたチンピラとのいざこざで負傷するようなタマじゃねぇだろ」

「それは――」

 ブリギッダが説明を始める。もとより協力をお願いしたいと思っていたところだったんだ。説明は任せて意識の切り替えをしないといけない。

 ――そろそろ痛みがやばいのだ。




 数分にわたる説明が終わり、それまで一切口を挟むことなく話を聞いていたアンスが最初に口にした言葉はおよそ予想の範疇だった。

「よし、ンじゃ適当につぶすか」

 驚いたようにブリギッダが互いの戦力差について口にしているが、アンスがその点を考慮していないわけもなく一つ一つ丁寧に……乱雑につぶしていく。

「なんだ、ギンジとは違って嬢ちゃんはまともに戦えるタイプだろ?

 なら大丈夫だって、こっちの捜索に結局戦力を分けるし、個々の戦力で言えば負けねぇし、俺強いし」

「武器? あ、嬢ちゃんは何か愛銃とかあるタイプか? 違う? ならオーケー。

 ほら、銃とか当たって殺せればなんでも一緒だって。あ、装填数とかは重要だな。撃てる数が違う」

「相手の武装? 関係ない関係ない。ほら、撃って、殺す。相手が何持ってるとか関係ないだろ?」

 うん、聞いていてはっきり言える。こいつ頭おかしい。

 ブリギッダから助けを求めるような視線が飛んできているが、とりあえず首を横に振っておいた。俺にはどうにもできん。

 その後も様々な超理論でブリギッダのまともな意見を封殺したアンスは軽く体を動かすと、まるで日常の一環のように、飯でも食うかとでもいうような気楽さで、俺たちに出発を告げた。


 俺とブリギッダはアンスと別れ、堂々とフロワーの出入り口の一つから外に出る。正直これほどまでに堂々と出ていけるとは思っていなかったが、これもまた作戦の内なのだ。

 数歩前に出て、すぐさま路地裏へと身を隠す。ここからは狩りの時間。狩るか狩られるか…命をベットしたハンティングゲームの始まりだ。


 ブリギッダの動きは非常に速い。単純な速度はもちろんだったが、標的を決定し、その動きを予測し、確実に仕留めるためのポイントへと移動するまでが速かった。

 俺も単純なスピードでなら決して負けることはない。むしろ男女という決定的な体格の差によって瞬発力という一点でなら勝っているだろう。

 だが、俺が悩み動きが鈍る場所でブリギッダの動きは鈍らない。その与えられた異名のまましなやかに、静かに、標的を追い、そして仕留めていく。乾いた破裂音はそのまま一つの命が終わる合図。

 ハントレス、そしてピューマ。一人で確実に敵に損害を与えるために教育された暗殺者の本領発揮というべきだろう。


 ――そういう意味で言うならば、少し遠くから聞こえてくる阿鼻叫喚とでもいうべき悲鳴と銃声の発生源はなんというべきなのかは考えないようにしておく。きっと阿修羅とか、覇者とかそういうものの類だ。要するに人外。人の理屈で考えるだけ無駄なのである。


 ブリギッダの行動は実にどこまでも合理的なのだろう。俺はブリギッダを追いかけつつもその動き方を見ていたが、未来予知でもしているのかというほどにその動きに無駄はなかった。

 自棄になって向かってくる相手も、ひたすらに逃げる相手も、頭を使って逃げるふりをしようとした相手も、どんな小細工も許さない純粋な実力差で叩き潰している。

 俺のように結果から見て最適な行動だったかどうかを論評するような評論家気取りから見ても、ブリギッダの動きに無駄が見つけられない。しかし……それはありえるのか?

 そんな俺の疑問を置き去りにして無秩序の町を駆ける。結果として残ったのは手下をひたすらに失い、一人生かされた哀れな指揮官と、それを狩った女狩人、その従僕、そして鬼人である。いや、ほんとなんで無傷なんですかねアナタ。

「おいおい、こりゃ俺いなくても何とかなったんじゃねぇか?」

 そんなとぼけたことを言う馬鹿だが、その気持ちはわからないでもない。そしてそれを明確に否定できる人間はこの場に二人いた。

「なんなんだ。なんなんだ貴様は!? お前のような奴がいてたまるか! ハンター共でさえこそこそと一人ずつ仕留めるのが常識だ。だからこそしっかりと防備を固め、守りの姿勢に入りつつ確実に包囲網を狭めていけば狩ることができる……だというのに……!!」

 これほどの理不尽に出会った彼の怒りは、嘆きはどれほどの物かは俺には想像することしかできない。最も、そんなことをする価値は残念ながら見いだせなかった。

 ここにあるのは単純な構図なのだ。策を過信した馬鹿と、その策を正面から食い破れる馬鹿。弱い奴が死に、強い奴が生き残る。ただそれだけの常識。こんな場面、もはやトウキョウでは珍しくもなんともない。命なんてものの価値はすでに地に落ちてしまったのだから。

 惨めにも金獅子は女狩人と鬼人に命を握られ、その命運は尽きた。彼にあとできることはせめて来世はこんな肥溜めに落ちないことを願うことくらいだろう。

「嬢ちゃん、なんか吐き捨てておきたいこととかあんのか?」

 見覚えがない――おそらく適当に拾ったであろう――拳銃の銃口を突きつけたままアンスが口にする。正直俺もこの茶番にはコメントしにくいのだ。せめて劇の一場面のようにふるまうしかない。となれば主役の決め台詞を聞いておきたいところである。

「え、ないけど」

 ブリギッダが特別何も考えていなかったかのようにそういう。

「え、じゃあなにこの茶番。無駄だしとっとと終わろうぜ」

 アンスが銃口を金獅子の額にぐりぐりと押し付ける。何度か発砲して発熱していたのか肉の焼けるようなにおいがわずかに漂う。

「指揮官だし、何か聞きだしたりとか……」

「「いらねぇだろ」」

 思わずアンスとハモる。何が楽しくてそんな無駄なことをしなければならないのか。拷問は面倒だし、疲れるのだ。

「捕虜とか……」

「—――――」

 ――決定的に、俺たちとブリギッダとでのズレが存在する。

 ブリギッダのそれは、なるほど確かに正しい。だがそれはここでは大いに間違っている。

「嬢ちゃん、いいことを教えておいてやる。

 ここじゃあそんな『どこのどいつが何の目的で』とかどうでもいいんだ。自分ところのやつ以外は全部敵で、今敵対しているかどうか……それぐらいの違いしかないんだからな。

 こいつに関しても調べようと思えば本人の口からの情報なんざいらねぇ。ビーだったか? そんな組織を拾って使おうなんてことを考えるのは四団体くらいだ。状況的に考えて政府だな。あたりがつけば裏は楽にとれる。こんな下っ端の情報なんてちょっと聞けば向こうから教えてくれるさ。ゴミ掃除ありがとうって礼付きでな」

 関与を隠すなんてこともしないだろう。それくらいに今のトウキョウに政治的な建前なんてものは四団体の間と諸外国に対してしか必要ない。それくらいに俺たちはちょっとしたことで踏みつぶされる存在なのである。

「ちっ、それじゃあ気の利いたセリフは聞けねぇのか……ギンジ。代わりになんかないか? お前のその怪我もこいつのせいだろ?」

 こっちに話を投げ捨てるアンスを睨みつけつつ、俺はない頭をフル回転させてそれっぽいセリフを考える。そうだな……。

「うん、何を言ってもきれいに締まる気がしない。恨み節ぶつけてなんになるのかって気もするし、正直医者行きたいから適当にやっちゃってくれ」

「よしきた」

「ま――――」

 一つの発音。何かを言おうとしたその頭は破裂し、朽ちたコンクリート壁を赤く汚した。

「あー、ママンの機嫌取りに持ってくか、これ?」

 アンスは拳銃をしまいながらそう提案するが、答えはわかりきっている。

「誰が運ぶんだよ。俺は嫌だぞ?」

 そういうとアンスは一瞬ブリギッダのほうを見たが、すぐさまあきらめて首を横に振った。

 ブリギッダは銃を突きつけたときの状態から、徐々に銃口が下に下がっていく。それほどまでにショックだったのだろうか? 初めて『ブリギッダ』に出会ったあの時にも感じたが、今のどこか表情の抜けたその顔はとても朧げであった。



 あの日から三日が過ぎ、俺の肩の治療はしっかりとされた。医者曰く骨までいってないから安静にしていれば一月もすれば腫れは引くそうである。やはり防弾チョッキをしっかりと身に着けておいてよかったというべきなのだろう。運もあるのだろうが。

 あの事件で変わったことは…ほとんどない。

 アンスも予想した通り、今回の件に関して政府組織に一言入れたらしいが、金一封で話は終わった。額は妙に高く、俺の治療費を差し引いてもほとんど減っていないのだとか。これに関してはアンスからボスへと鉄拳とともに行われた尋問によると、おそらくは俺たちが見たものへの口封じも含めた金額なのだろうということだった。

 なんとも都合よく調査を行った後であったらしいアンスの話と統合すると、ここ最近一つのうわさが存在するそうである。

 曰く、トウキョウに超人が現れた。

 曰く、トウキョウにしか超人は現れない。

 曰く、超人は一人ではない。

 曰く、超人は超能力者ではない。

 ――なんとも中二心をくすぐられるような話だが、同時にふざけた話だ。

 しかし、そうもいっていられないのがあの密輸である。それがアンスの行っていた調査と関連するのだが、どうにも最近人攫いが妙に増えているという。そして、その時期、数を考えるとあの時に積み込まれたものが合致しそうなのだ。それと同時に俺が不審に思った監視の失敗にも時期が合う。それもその犯人の元をたどると四団体がそれぞれ出てくるほどである。

 何かが、確実にこのトウキョウで始まりつつある。それを確信させる情報だった。アンスはこのことを知ると同時に機嫌悪そうに出かけて行った。夕食時には顔を見せているが、そのたびにボスとちょっとしたことで喧嘩している。

 人間関係でいうならば、ブリギッダもまた少し変わったといえるかもしれない。

 俺たちから距離を取ろうとするのであればわかるのだが、少し違った。干渉する頻度が増えているのだ。

 基本的に、俺とブリギッダは何でも屋に近い立ち位置だ。補充要因として使いまわされることも仕事の内、俺は負傷が理由でほとんど外に出ることはないが、ブリギッダは一人で仕事のために外出することも多い。

 それでも、これまでアジト内にいたあの頃よりも俺と接する機会が増えている。キングやフジコちゃんの普段いる事務所にはあまり顔を見せていないらしいが、ママンのいる食堂にはよく顔を見せるようになったそうだ。

 これが良い兆候なのか、それとも何かよからぬ精神的な不安の表れなのか……俺には全く判断ができない。


 ――あの事件に関しても不審な点はまだある。

 妙にボスの出している命令が的確過ぎる点だ。なぜ、件の超人のうわさが出てくる前から調査を始められたのか、そしてその一端を抑えることができる仕事を支持できたのか。

 ビーの襲撃に関しても不審な点はある。やつらは明らかにブリギッダが来ることが多少なりともわかっていた様子だった。どこまでといわれると難しいが、少なくともハンターを相手にしていることはわかっていたかのような動きといっていい。

 少なくともブリギッダが組織に入ってからそれほど時間はたっていない。ブリギッダはあれが加入後の初仕事だし、外にも出かけていない。第一組織に関して詳しければアンスへの警戒がおろそかすぎる。

 当て馬という言葉が脳裏に浮かび上がってくる。まるで誰かがあの事件に深くかかわった誰かの実力を測るために起こしたものだったのではないだろうかという不安が湧き上がってくる。

 誰を? 何のために?

 ―――超人、事件の不可解性、何かが一つにつながろうとしているのが俺でもわかってしまう。

 そしてその中心にいる人物。その実力をいかんなく発揮し、その価値を示した人物……ブリギッダ、彼女こそがこの事件の中心に存在し、その価値を図られたとしたら……。

「――やめだ。結局ボスが真っ黒になって終わる」

 すべてに干渉しうる人物、最もそれにふさわしい人物はボス以外にない。それに超人といえば俺にとってはアンスだ。何あのチートというレベルである。図るべきはアンスだし、どちらにせよ俺のような凡才が今後そのような揉め事にかかわることはないだろう。

 思考をきれいに洗い流す。さて、銃の整備を始めよう。

 たぶんいずれ更新される。

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