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回遊魚の涙

作者: 秋助

・縦書き ニ段組 A5サイズ

・27文字×21行

・文字サイズ9ポイント

・余白 上下11mm 16mm


に、設定していただくと本来の形でお読みになれます

     0


 彼とは遠距離恋愛だった。

 十年前、私と同じ高校一年生だった彼は、電車でも飛行機でも船でも行くことのできない、遠くの世界へ行ってしまった。それ以来、半年に一回しか会うことは許されなかった。

 なぜ許されないのか。その理由は場所でもなく、距離でもなく、それがこの世界の規則であったからだ。

 私の彼は、深い深い海の底にいた。


     1


 この街が水槽都市になってから十年余りが経過した。

 産業革命、医療技術の発達による死亡率の低下、寿命の増加。様々な要因が重なって加速度的に人口が増えていった地球では、食糧不足、用水不足、雇用不足などが起こり、環境破壊や資源枯渇といった問題、地球温暖化などの解消を目的とした争いが度々と起きていた。

 そこで私が所属する水槽都市管理事業部が発足された。

 地球にも火星にも住める場所が減退している中、世界が導いた決断は、人類を海の底に移住させる計画であった。

 その計画の全てを一任されたのが私達の国である。

 水槽都市を建築できるほどの広大な領海、四季の移り変わりが顕著に見られ、様々な環境に対応できる土地、自分のことより相手のことを気づかってしまう国柄。そのどれもが移住計画に最適だということで名誉ある任命を受けた。

 しかし、要は生贄にされたのだ。

 水槽都市計画が発案され、私の住む国では大変な混乱が起きた。財源の支出、海の生態系の破壊、中でも難航を極めたのが、移住計画の第一段階を担う住人の選出であった。

 水槽都市管理事業部は水槽都市を十年計画として、最初の五年で人類が海の中での生活に順応できるのかを観察し、残りの五年で全人類の約四割を移住させる段取りであった。

 計画に不明瞭な点がある。確実な命の保障はできない。行動や情報が著しく制限される。メリットと言えば未知なる体験と、計画が成功した場合に送られる名誉や賞賛といった形のないものばかりだ。むしろデメリットの方が多い。

 そんな中、計画参加に名乗りを挙げたのが彼の住む街である。廃れた街の再活性化を狙いとした市長の横暴だった。

 彼の街には有名でないにしろ、大型の水族館が存在した。それだけで良かったはずなのに。名声が誰かの人生を左右してしまうことを、そのときに初めて知った。

 そうして私と彼は、離れ離れになってしまった。

 高校一年生だった私は、どうしても彼のことが諦め切れずに、一般人が水槽都市に行ける方法を探した。可能ならば違法なことも考えた。しかし正規の方法があったのだ。

 それが、水槽都市管理事業部の入社である。

 そこに配属されれば水槽都市に移住してきた住民と関わることができる。もちろんそれは水槽都市に住んでの問題点、体調や精神面での変化を観察する仕事ではあるけれど。

 原則的に十八歳から面接を受けることは可能である。けれど今年度の面接を受けにきた年齢層は最低でも三十代であったし、入社倍率も大手企業の比ではないと聞いている。

 私は彼に会いたいという一心でアルバイトも部活もせず必死になって勉強した。毎日、毎日。なんとなく過ごしてきた小学校、中学校が恨めしくなるほどに、私は有限の時間を勉強のために、いや、彼のためだけに捧げてきた。

 友人からは「理想だけでは生きていけないよ」と言われ、その度に私は心の中で「現実ばかりでは死んでしまうわよ」と言い聞かせて、躍起になった。

 高校三年生の春、私は十八歳の誕生日を迎えた。そのころには祝ってくれるような友人も失っていたし、誕生日会を開く時間があるのなら面接の予行練習に割きたかった。

 やることは、やれることは全てやった。

 結果は合格。私は晴れて事業部の一員となった。


     ※            ※


「部長、入り江の漂流物についてですが」

「あそこの海流は特殊だからね。漂流物が一段と多いんだ」

「どうされますか?」

「ボランティアでも集めて適当に処理しちゃってよ」

「……承知しました」

 部長はこちらには目もくれず、水槽の中にいるアロワナにエサをあげていた。実際、部長とは名ばかりの役職であり、大抵の面倒事は部下が全て引き受けている。

「魚という生物はさ、増え過ぎると酸素を奪い合うんだ」

 部長が脈絡のない話を振ってくる。

「それって、人類も同じだよねぇ」

「……どういう意味でしょうか?」

「いやぁ、この計画に似てると思ってさ」

「似てる……?」

 水槽都市に移住している人達のことを、水槽都市管理事業部からはパイロットヒューマンと呼ばれている。

 熱帯魚などを水槽で飼育するときに、あらかじめ別の魚を飼育し、目的の魚に適した環境を作り上げるために利用するパイロットフィッシュから言葉を借りたものである。

 パイロットヒューマンには侮辱の意味が込められていた。我先に助かりたいと懇願した、人類の醜悪さの塊として。しかし私はそのパイロットヒューマンを肯定的な意味で使う。

 水槽内の水質を正しい方向へと導く熱帯魚に対して、パイロットヒューマンは地球内の人類を正しい方向へと導く人類である。それは人類の希望だ。実際、一般市民の期待は、日を重ねるごとに爆発的に高まっている。

「あぁ、大した意味はないよ。他に案件はないのかい?」

「はい。今回は以上です」

「ご苦労。戻っていいよ」

 冷めた目を向けてくる。私は、この人が嫌いだ。

「失礼致します」


     ※            ※


 長い廊下を歩く。

 重苦しい呪縛から開放されたように、体が軽くなった。

 そのとき、胸の内ポケットに入れていた携帯が震える。

『今日は200Mの海亀が家の前を横切ったんだ』

 彼からのメールだ。いつもの、私を楽しませてくれる嘘。

 水槽都市に移住している人達は原則的に、相手が身内であろうと電話やSNSなどの使用を禁止されている。一般市民に対する水槽都市への誤解や過度な期待を防ぐためらしい。

 しかし、水槽都市の住人から私達、水槽都市管理事業部の人間にメールを送ることは例外的に許可されている。もちろん、その内容の全ては上層部に監視されているけれど。

『すごいじゃん。そんなに大きいと卵もきっと巨大だね』

『あと空を見上げてたら、不思議な海流を発見したんだよ』

 それは排空口の空気が入り江まで繋がっている特殊な海流のことだ。水槽都市ができたことによる新たな潮の流れとの化学変化。機密事項になるので教えることができない。

『200Mの海亀がいるんだからね。そんな海流もあるよ』

『うん。君にも見せてあげたいなぁ』

『明日になったらきっと見れるよ』

 そう。いよいよ、明日になったら。

 私達の、運命の日が訪れる。

『そうだね。じゃあそろそろ、おやすみ』

『私も見たいな。うん。おやすみ』

 なにげないメールのやり取りが終わる。そのとき、

『ちょっと面白いことをしたからいつか気付いてほしいな』

 行動が制限されている水槽都市でなにができるのか。

『わかった。楽しみにしてるね』

 携帯の電源を落とし、先ほどの彼の話を思い出す。

「200Mの海亀かぁ」

 嘘から出た真という言葉があるように、嘘の根源が真実だとしたら、嘘をついてすり減らした嘘はきっと、最高純度の真実となるのだろう。この計画は夢物語なのか。人類の希望となりえる本当なのか、それとも、見せかけの嘘なのか。

 右腕の腕時計を確認する。

「浸透水圧テストの時間だ」


     2


 浸透水圧テスト。

 いずれ人類が水槽都市の特殊環境下以外でも過ごせるように、海の中で息ができるように、深海の水圧に耐えられるように、特殊な液体の中で体を徐々に適応させていく実験のことだ。そのモルモットとして、私が選ばれた。

 事業部がある施設の地下、扉の奥にそれはある。

 浸透水圧テストのための実験装置だ。

 さながらそれは、ニュートリノの存在を確かめる実験装置のカミオカンデと酷似していた。三千トンの超純水を蓄えたタンクと、その壁面に設置した千本の光電子増倍管からなる姿は、意図的に姿を似せたとしか思えなかった。

 ただ一つ違うのは、規模が断然に違うということだ。聞いた話によると、彼の住む街とほぼ同じ大きさを型どっているらしい。その範囲は103キロ近くにもなる。

 そこに設けられた十メートルの飛び込み台を、ゆっくりと時間をかけて上っていく。心の準備が必要なわけではない。私はこの現実を、時間をかけて融かしていく。

 水槽の中で彼の住む場所が揺らめく。超大型の液晶ディスプレイが壁や地面中に張り巡らされている。どのような意図でこのような演出をしているのかはわからないけれど、私は彼の住む街が水槽の中に沈み、日常とは違った顔を見せるのが好きだった。

 まるで、私は回遊魚のようだ。

 夢の中で上手く走れないように、古代の言葉が最先端の心に届かないように、幻想の中で泳ぎ回る。目を閉じると、本当に街を泳いでいる気分になる。

 花も鳥も風も月も、言葉も心も、全てが水中で漂う。

 そのとき、リリン、リリリンと警報が鳴った。

 人口涙液点目の時間だ。

 一定時間以上、液体の中で泳いでいると体の中に特殊の成分が染み込み、涙を生産する作用が壊されてしまう。そのことがわかったのは、浸透水圧テストの前任者のおかげだ。

 そこで人口涙液の出番である。

 人口涙液は涙を破壊する成分を薄める作用があるのだ。その機能が正常に働くように、人口涙液を目に染み込ませるのだけれど、成分の比率が崩れたときに涙が固形となり、まれに宝石に変化することがある。

 しかしそれは本来の成分作用から反した副産物であり、涙の宝石を作り続けていると、いずれは視力を失ってしまう。

 長い実験の末、前任者はとうとう涙が出なくなり、宝石に変化することもなく、両目の視力を失ってしまった。

 では涙の代わりになにが出るのか。結論はなにも出ない。気味の悪い感覚が網膜で蠢き、何事もなかったようにその感覚は静まる。そして、何事もなかったように感傷は沈まる。

 もっと街を泳いでいたかったけれど、その場から離れた。


     3


「この街は水槽に沈むんだ」

 彼からそう聞いたのは、高校一年生の春のことだった。

「水槽に?」

「そう。名誉ある水槽都市の住人になれるんだ」

 人口増加や食糧不足、住宅不足、用水不足、雇用不足などが起こり、環境破壊や資源枯渇といった問題、地球温暖化や不足問題の解消を目的とした争いなどが度々起こる中、それを打破するために提案された施策が、人類を海の底に移住させる水槽都市計画であった。

「あぁ、そういえば君の街が立候補したんだよね」

「うん。これはとても誇らしいことだぞ」

 彼の嬉しそうな顔に、私は少し不機嫌になった。

「なんでそんなに嬉しそうなの?」

「なんでって、人類を救う希望になるんだから」

「だけど」

 だけど水槽都市に移住してしまったら、もうあなたとは。

 それに彼の街の人達は、一部の人間から侮辱されていた。我先に助かりたいと懇願した、醜悪さの塊として。

「大丈夫だって。なにも心配しなくていいよ」

 信じられる要素なんてどこにあるのよと思いながら、彼の幸せそうな顔を見ていると心配しなくても良い気分になる。

「なにが大丈夫なのよ?」

「みんなが水槽都市に移住できたら、結婚しよう」

 ………………あ。

「…………え?」

 屈託のない彼の笑顔に、私は無駄に焦ってしまう。

 結婚。って、

「私達、まだ高校生だよ?」

「だから、みんなが水槽都市に移住できたら。だよ」

 人類の移住には最低でも五年はかかるらしい。

 そのとき、私達は二十歳だ。結婚には早いかもしれない。

 それでも、

 私にはその言葉がとても嬉しかった。

「約束、忘れちゃ駄目だよ?」


     ※            ※


 そして彼は、夏休みと同時に海の底へ潜ってしまった。

 その日は世界中を巻き込んでの凱旋パレードが行われた。

 市長のスピーチ。繰り返される実況中継。移住する住人のインタビュー。世界中が異様な盛り上がりを見せる中、私は布団の中に潜り込み、世界と私の間に壁を作った。

 なにが凱旋パレードだ。

 彼を暗闇の深海に閉じ込める、悪魔の行進ではないか。

 私はその悪魔に対抗するように、

 布団の中で、彼に向けてあの日と同じ言葉を繰り返す。

「約束、忘れちゃ駄目だよ?」


     4


 目が覚めると、実験装置室のロッカールームにいた。

 泳ぎ疲れていつの間にかベンチで眠ってしまったらしい。

 スーツに着替え、チェックシートに身体・精神疲労度、体の異変の有無などを詳細に書き込んでいく。

 明日の定例交流会に向けて就寝するのみとなった。

 いよいよだ。彼に会える半年に一回の日が来る。

 公私混同をしてはいけないと思いながらも、自然と顔がほころんでしまう。そうだ。明日になれば、彼に会えるんだ。

 そのとき、携帯が震えた。部長からである。

「緊急会議を行うことになった。今すぐ来てくれ」

 とても嫌な予感がした。

「どうかしましたか?」

 深い沈黙。

 部長が辟易しているのが伝わってくる。

「水槽都市計画を中止する」


     ※            ※


 結果から言えば、全てが最悪であった。

 水槽都市の住民が息苦しさを訴えたのが始まりである。

 通常であれば気にもとめないが全く未知の環境だ。ほんの少しの違和感が一大事に繋がる危険を孕んでいた。絶対的な安全が保障されない以上、早急に措置と対処が施される。

 整備部が酸素調整機を調べたとき、酸素の生産、濃度、供給量のいずれもが基準値に満ちていないことが判明した。

 更にその不備は整備部の内部告発によると、計画当初から設備の不具合が指摘されていたが、計画開始間際になって中止することもできず、かといって計画を延長させるには資金や諸々の調整などが間に合わず、結局、上層部の圧力で計画は強制的に実行されることになったそうだ。

 水槽都市計画は、最初の段階で破綻していたのである。


     ※            ※


 事の顛末に愕然としながらも、思考を必死に働かせる。

 私達のすべき最善の方法を積み上げた。

「では、移住者達に避難の手配を行います」

「いや、その必要はない」

「……なぜ?」

 意図や意味が理解できず、怪訝な顔をしてしまう。

「避難した人間の数だけ人口が増加してしまうだろう」

「は? 仰る意味がよく理解できませんが?」

 あなたは、

「わからないのかい? 邪魔になると言っているんだ」

「そんな理由で……?」

「不確かな希望など、誰も縋りたくないと思うが」

 あなたは人類の、

「まぁ、水槽都市管理事業部も解散だ。全く迷惑な」

「あなたは人類を見殺しにする気ですか!」

 部長は顔をしかめ、私の顔を不思議そうに眺める。

「君は水槽都市のどこに人類がいると言うんだね」

「………………は?」

「あいつらはパイロットヒューマンだ」

「だからなんだと言うんです?」

「それは人類を正しい方向へと導く人類の呼称だ」

 そうだ。その通りである。

「人類を正しい方向へと導けなかったではないか」

 なにを。なにを言っているのか。この男は。

「それは計画を強引に進めた上層部の責任でしょう」

 部長は私を強く睨んだあと、気味の悪い笑みを浮かべる。

「君は入社当初からよく働いてくれたからねぇ」

 水槽の中のアロワナが、嫌な音を立てて口を開ける。

「全機械系統停止スイッチを押す権利を与えてあげよう」

 あ、

「…………あ」

「早くしないとあいつらが地上に帰ってきてしまうよ?」

 あぁ、

「君がこの人類の、この世界の救世主となるんだ」

 あぁあ、

「あぁあぁああぁあッ!」

 この、この、この、この、この!

「この人殺し!」

 悪魔の両肩を強く揺さ振る。

 彼のことを思うと、水槽都市の住人のことを思うと、悔しかった。苦しかった。許せなかった。こいつへの憎しみが、彼達を救えなかった自責の念が、私の心の奥深くへ突き刺さる。ズブズブと。血は流れないから、涙は流せないから。

「冷静になれ。君の綺麗な顔の化けの皮が剥がれてしまう」

 おかしくなりそうだった。このまま、惰性に流されるままに身を任せてしまえば、こいつを殺せるのに。結局、自分のことが一番可愛いから、こいつを殺すことで、他の誰かから人間ではないように見られるのが怖いんだ。彼の死より私の生を優先してる時点で、もう人間の皮を被っただけのなりそこないなのに。深海魚のような醜悪な人間なのに。

「…………っ!」

 男の手が私の首を強く締め付けていた。

 やめろ。触るな。離れろ。この、醜い化け物め!

「…………せ」

「あ?」

「離せよ、手。きたな、」

 息が、胃液が、視界が、男の指が、もう、限界が……、

 最後の力を振り絞り、男の腹を蹴飛ばす。

 ふと、私の首から両手が離れ、男は床に背中を強く打ち付けていた。下腹部辺りを苦しそうに押さえ、息を荒くした。

「こんなことをして、君は満足したかい?」

 私も、男も、互いにもう人間だとは思っていなかった。

 怒りも絶望も水の牢獄に閉じ込められた。水槽都市はゆるやかに静かな死を迎えるだけの、希望の残骸と成り果てた。

     5


 入り江に響く、波の音が苦しかった。

 仮に天国という場所や概念が実在したとして、そこに手紙は届くのだろうか。そこへ八十円で送れるのだろうか。大勢の人達を犠牲にした私は、恐らくあなたの隣にはいられないだろう。私が辿り着く最期は、確実に地獄だ。

 地獄から天国。きっと八十円なんてちっぽけな代償では、永遠にあなたとは繋がることができないままだ。

 静かに立ち上がり、スカートについた砂の粒を振り払う。

 私はあの日、圧倒的な悪意の前になにもできなかった。

 一歩一歩、私が犯した罪の重さを刻み込みながら、歩く。

 爪先が波に浸かる。

 足、膝、腰、胸と、徐々に私の体を海に沈めていく。

 静かに沈む。深海に、沈む。沈む。

 私の全てが海の一部となる間際、綺麗な水平線を見る。

 私は水の中で重力を失くした。ふわり、ゆらり、感覚が意味を成さなくなる。瞳から溢れる涙は泡となって分裂する。一つ一つの泡の中に私が生まれる。とても小さな生命だ。この苦しみが私の哀しみならば、全て受け止めなければならない。体に、心に、染み渡らせないといけない。

 目も開けていられないほどにその哀しみは充満する。口から肺へと侵入した哀しみは、私の内側から外側へ向かうように暴れ出し、なにもかもめちゃくちゃにしてしまう。瞬間、空に亀裂が見えた。それは徐々に深く広がっていき、まばゆいほどの光が海面にあまねいた。

 その光は海月の足のように揺らめく。無数のそれらが私の体に纏わりつき、感情がグニャグニャになる。やがて深海に沈むように喜怒哀楽が遠のいていく。光は少しずつ人の形を成していき、やがて見覚えのある姿となった。彼の幻だ。君の亡霊だ。あなたを見殺しにした私を、深海に引きずり込むために生まれた、希望の残骸だ。

『さよなら、君のいるべき場所はここじゃない』

 と、彼は言う。

 じゃあ、どこへ向かえば良い?

『さよなら、私のいるべき場所はここしかない』

 と、私は言う。

『君は生きるんだ』

『私は生きていたら駄目な人間なんだ』

『そんなことはない』

『どうして?』

『生きて、どうか僕達のことを覚えていてほしい』

 あ、

『君に罪はないけれど、もし償いたいというのなら』

 彼が強く私の顔を眺める。そのような気がした。

『僕達が生きた証を、どうかみんなに伝えてほしい』

 その通りだ。

 私は生きて、希望の犠牲となってしまった人達のことを覚えておかなければならない。忘れてはいけない。あの日のことを、濁った世界に伝えなくてはいけない。今度は私がこの世界のパイロットヒューマンになるんだ。

 私の心に、再び光が灯る。

 酸素をこれ以上失わないように唇を強く噛む。もがいて、足掻いて、水面を、光を、睨む。私のいるべき場所は、そこだ。海の下でも、空の上でもない。地球の中だ。

 でも、そろそろ私の体力も限界だ。

 意識が遠のく。ぼんやりと、景色が揺らめく。

 そのとき、小さな光が海面に昇っていく光景を見た。

 なんだ、あれは。

 私はその光を逃がすまいと必死に追いかけ、手を伸ばし、掴もうとする。瞬間、逆に誰かに手を掴まれ、勢いよく体が海面へと突き抜けようとする。これは、なんだ。なにが起きているのだろうか。

『あそこの海流は特殊だからね。漂流物が一段と多いんだ』

 誰かの声を思い出す。

『空を見上げてたらね、不思議な海流を発見したんだよ』

 彼の言葉を思い出す。

『排空口の空気が海流を生み出して入り江に繋がってるの』

 私の記憶を思い出す。

 …………………………あ。

 海流。

 水槽都市によって生まれた海流が、元から存在した海流にぶつかり、自然では起こらない特殊な海流が発生したのだ。

 勢いよく海面から顔を出す。水飛沫が陽に反射して煌く。力を振り絞り浅瀬まで移動する。肺に混ざり込んだ海水が呼吸を息苦しくさせた。その息苦しさこそ生きている証だ。

 息を整えていると、浅瀬に先ほどの光を発見する。

 重い体を引きずり、光まで移動して正体を確かめた。

 メッセージボトルだ。

 丁寧に両手で掬い上げて、その中身を確認する。

 すると手紙と指輪が入っていた。これが光っていたのか。

 手紙を広げると、そこには彼の名前が刻まれていた。


『××へ

 この手紙を読んでいるということは、無事に君の元へメッセージボトルが辿り着いたんだね。もしかしたら、全く関係ない人が読んでいる可能性もあるけれど。

 そのときは、この手紙は見なかったことにしてください。

 さて、ここからは君が読んでいることを前提で書きます。

 海を見上げていたら、魚達が変な動きをしていてさ。

 なにかと思ってよく観察していたら、海流のせいだった。

 もしかしたら、二人でよく行った入り江まで海流が繋がっているかも知れないと思ってさ。ほら、あの入り江って漂流物が結構な割合で辿り着くだろ? だからメッセージボトルを流すことにしたんだ。

 君にこれだけは伝えておこうと思って。

 みんなが水槽都市に移住できたら、結婚しよう。


                       ××より』


 自然と涙は出なかった。

 あなたの告白は、心のどこかでずっと思っていたから。

 そうだ。しっかりと生きて。罪を償って。清算しよう。

 あなたと同じ場所へ辿り着けるように。

 ボトルの中から指輪を取り出し、強く握り締める。

 しばらく目を閉じて、海辺に背中を向けた。

 ザザン、ザザンと波の音が遠くなる。

 私は地球内の人類を正しい方向へ導くことができるだろうか。人類の希望になることが出来るだろうか。大丈夫。できるはずだ。なれるはずだ。そう言い聞かせ、そう思い込む。

 何度も、何年も、水槽の中であなたの街を回遊してきた。

 だから、決して忘れない。

 あなたと私が生きた街を。人類の希望が過ごした街を。

 私は、

 英雄達の残した真実と光、希望を伝える。

 あなた達が生かしてくれた、回遊魚なのだから。

最後までお読みいただきありがとうございます

感想やご指摘などがありましたら宜しくお願い致します

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