凶兆
・
いくらダンボールを敷いていても、アスファルトの硬さはダイレクトに身体に苦痛を与えて来る。
ダンボールを敷き、周囲に壁を立てて屋根を乗せて、豪勢な個室を作ったとしても、後頭部や背中や尻はやがて悲鳴を上げ横になる本人の睡眠欲を奪って行くのだ。
だが、この一畳足らずの空間が、この世界で、この日本で、自分に許された唯一の平和な空間であるのならば、その痛みさえも安息の一部なのだと自ら進んで受け入れていた。
藤森修哉、13歳。幼い頃に親に捨てられ、父親の顔も母親の顔も知らないまま、児童福祉施設で育った少年。
小学校入学時にクラスの児童たちから親無しとからかわれ、自分よりも一回りもふた回りもデカい少年の顔面に向かい容赦無い渾身の一撃を見舞った事が、彼自身が持つ最古の記憶であり、
産まれてこの方、愛情に乏しい殺伐とした人生を歩いていた彼は今、ダンボールで作った初めての聖域にひどく満足していた。誰にも邪魔されない自分だけの世界を手に入れたのだ。
まだ太陽も昇りきらない暁の時間に目を覚まし、ダンボールの我が家がある路地裏から街へと飛び出す彼は、飲食街のゴミをあさり、空き缶を拾って小銭に変え、ホームレス同士の狩り場争いに巻き込まれて殴り殴られる毎日を過ごしていたのだが、
ある日の夜、彼の人生を劇的に変える出来事が起きた。後に彼の精神的支柱となる人物で、彼が初めて意識し、そして心を開いた女性、柊小夜との出会いである。
いよいよ寒さが身に染みて、何処かで捨てられた毛布でも調達して来ないと、寒さに身震いして安らかに眠れなくなって来た晩秋のある夜の事。
ダンボールの我が家で身を丸くして寝ていた修哉の耳に、トントンとダンボールをノックする乾いた音が聞こえて来る。
引っ越して来たホームレスが挨拶に来たり場所を分けてくれと言って来るならまだ良い。今の修哉にとって一番危惧すべきなのは私服警官や補導員の存在であり、彼らに見つかってしまえば再びあの、地獄の様な児童福祉施設に送り返されてしまう可能性があるからだ。
修哉はそのノックの音に機敏に反応し、ダンボールの屋根を警戒しながら上げ、ゆっくりと起き上がる。すると目の前には若い女性がしゃがみ、修哉と同じ目線で笑いかけて来ているではないか。
見た目は二十歳そこそこのこの女性、補導員にしてはあまりにも若いのだが、子供が警戒しない様に笑顔で近付いて来た事と、路上生活者に対して嫌悪の感情を剥き出しにしていない事から、
この女性は何かしらの目的があって接近して来たと感じ、修哉はそれは危険な事だと判断。おもむろに立ち上がり何も言わないまま脱兎の如く逃げ出した。
「待って、私も君と同じ、能力者なの!」
逃げ出した修哉の背中に、女性の言葉が突き刺さる。
確たる理由が無く単なる警告の意味での「待て」なら、修哉は一目散に姿を消していたであろう。治安維持や青少年保護などの目的などで、修哉を確保しようとする大人側の事情であるなら、世界の果てまで逃げ続ける積もりでいたからだ。
だがその女性はそのたった一言で、修哉の動きを完全に止めたのである。それだけ修哉の琴線に触れた一言であったと言えよう。
そしてその女性が修哉と同じ能力者だと言った事で、私服警官でも補導員でも無いそれ以上の事を証明した。
つまりは、誰にも知られていない、誰にも話した事の無い修哉の秘密を簡単に当てながら、自分も同じ能力を持つ者であると告白したのだ。
修哉が俺の味方なのかと感じ、ピタリと動きを止めてしまっても何ら不思議な話ではなかったのである。
疑心暗鬼を全身で表現しながら、修哉は恐る恐る振り返り、その女性と目を合わす。
「綺麗なキルリアンの姿、まるで天使の羽みたい」
「キル……リアン……?」
「ふふっ、君から溢れてる見えない力の事をそう言うの。私にはそれが見える能力があってね……。綺麗、ホントに綺麗だよ。こんなに凄い力初めて見た」
まるで、まばたきを忘れたかの様に眼を爛々と輝かせながら、修哉に見とれるその女性、最近街で見かけてそれからずっとずっと君の事を探していたのよと言いつつ、修哉に向かってゆっくりと歩き出した。
「私の名前は柊小夜。君は?」
「……修哉、藤森修哉」
「修哉、良い名前ね」
小夜と名乗った女性は、名前を褒めながら彼をゆっくりと抱き寄せる。
路上生活を続けまともに風呂など入っておらず、ボサボサの髪の毛で、垢だらけ、埃だらけの、思わず顔をしかめてしまいそうな匂いが纏わりつく修哉を、母の様に優しく抱き締めたのだ。
自分の身に何が起こっているのか、最早判断すら出来ない彼は、男女の関係を意識する事すら忘れ、瞳孔が開いているのかと思える程に眼をまんまるにしながら、呆けた顔で立ち尽くしている。
「修哉、私が君を守ってあげる。私と一緒に行きましょう」
耳元でそう言うと小夜は彼の手を握り、ゆっくりと歩き出す。抵抗しないどころか修哉は何も言わずに軽く頷き、彼女の歩幅に合わせながら自分の聖域を後にした。
……良い香りがするこの夢。もう、この夢を何度見た事だろう……
修哉の環境が激変すると決まって小夜と出会った時の夢を見てしまう。
その結果が吉兆なのか、凶兆なのかまでは判らないが、修哉としてはその夢が基点となっている気がしてならないほど、彼の生活の中で恒例化していた。
気付けば、顔の皮膚全体が氷点下の空気に悲鳴を上げ、脳に向かってビリビリと痛覚を発信している。
「あの」恒例の夢から覚めて眼を開けてみればそこは雪洞の中。昨晩の大荒れとはうって変わって、朝陽が雪に乱反射しながら、小さな入り口から我が家の中を照らしている。
夜中にレオニード宅を出てエルフのいる新天地を目指す為に、冬の山越えに臨んだ修哉の、1日目の朝が始まったのである。
昨晩レオニード宅から出て、松明の灯りを頼りながら山越えを始めると落ち着いていた天候が急変。あれよあれよと言う間に横殴りの猛吹雪が始まり、危険を感じた修哉は自らが体育座りが出来る程度に雪洞を作って、その場にビパークしていたのだ。
雪洞の入り口部分を拳で殴り雪洞自体を崩す。地面に積もっていた雪を掘り下げ、固い雪で屋根を作って覆っていたので、雪原から顔がひょこっと出る感覚だ。
そして辺りをぐるりと見回すと、自分が今針葉樹がまばらに生える、なだらかな山の斜面にいる事が確認出来た。
雪洞から雪原に上がり、丸まったままで悲鳴を上げていた身体をあくびをしながら大きく伸ばす。
そして山頂に向かってゆっくりと歩き始めつつ、荷物の中から茶色の紙袋を取り出した。それはレオニードが持たせてくれた携帯保存食。長期の強行軍を想定してこれでもかとたっぷり渡してくれた、命の糧である。
修哉はその中から鹿の干し肉を取り出し、噛みちぎりつつくっちゃくっちゃと咀嚼し、簡単な朝食を取りながらも山の頂上に向かって歩き出した。
今現在の場所は、レオニード宅を出て山の中腹にある二つ目の森を抜けただけで、背筋をそり返して見上げなければまだ山頂は見えて来ない。
サバイバルや登山などは、修哉にとってそれ程負担になる行動では無い。
小夜と出会った後、とある組織の指示で戦場を渡り歩いた際の事。能力を駆使したスナイパーとして威力偵察部隊に編入、アフガニスタンの氷点下の山中に派遣された後、QRF(緊急即応部隊)の救助が来るまで、ひたすらテロリスト部隊と昼夜の乱戦を繰り返したり、
クリミア半島では乗っていた兵員輸送ヘリが敵支配地域の真っ只中で撃墜されて墜落。たった一人生き残りながらOSCE(欧州安全保障協力機構)の停戦監視部隊駐屯地まで敵の目から逃れつつ、飲まず食わずで3日間歩き続け見事生還している。
幼い頃の過酷な経験が影響したのか、彼は常に孤独と向き合いながらも、それに怯える事無く乗り越え、命の危険と隣り合わせになりながらも生きる為に足掻き続けて来たのである。山を乗り越える事など彼にしてみれば、造作もなかったのだ。
一時間ほど歩き続けると、雪に埋もれてはいるのだが峠に向かう山道らしき場所にたどり着く。
幅はそれほど広くはないが、比較的なだらかな斜面となって山頂に向かっているので、一安心しながら荷物から動物の皮で出来た水筒を取り出し、水を一口二口と渇いた喉に流し込む。
ホッと一息ついて振り返れば麓の方に小さくなったボルイェ村が見える。
おお、結構上まで登って来たなと感慨に耽っていると、ボルイェ村の異変に気付き、顎を落としそうな勢いで修哉は愕然とした。
「む、村が……、燃えている!?」
心当たりはある。胸が締め付けられそうになるほど心当たりはある。
自分が蒔いたのであろう種のせいで、レオニードやエマニュエル、ロージーや村人たちが危害を受けているのだと瞬時に悟り、
修哉は荷物を放り出して、鬼の形相で走り始めたのである。もちろん、今来た道をボルイェ村に向かって。