血染めの魔女
藤森修哉がリジャの街に入ったのは、ライサ・スタンキナと別れたその日の夕方。
穏やかな春の太陽が西の地平線へと落ちて、オレンジ色の残り香が紺色の空と雲をまだ微かに焦がしている時間だった。
エルゲンプレクト大陸有数の穀倉地帯、クラースモルデン連邦共和国随一の台所と呼ばれた誉れ高き街リジャはもはや過去の名前。失敗した国策の結果、生きとし生ける者たち全てが飢餓に苦しむ姿は、まさしくこの世に現れた地獄と言って良かった。
そのリジャの街に修哉は飛び込んだのであるが、入って早々に彼は自分の甘い判断に後悔する。まだまだ助けられた人たちがいたはずだと自分自身を怒り、罵りながら自分を責めていた。
ーーリジャの人々が軍から迫害を受けぬ様に、街に乗り込んで軍を迎え撃つーー
軍よりも先に街に入り、準備を整えた上で迎え撃つつもりでいたのだが、修哉の予測を遥かに超える勢いで、クラースモルデン連邦共和国軍は既にリジャに侵攻していたのである。
長い時間を木の枝に吊るされたり、道端に無造作に転がる、カサカサに乾き切った人の無残な死体。あちこちの肉を鋭利なナイフで削ぎ落とされた哀れなそれは、間違い無く他人の胃袋に入った事を意味している。
食人の為の殺人なのか死体漁りなのか判別は出来ないが、そこまで街の人々が追い込まれていた事はこの陰惨な光景で理解出来る。庭の手入れもまともにしていないボロボロの家屋が建ち並ぶその姿は、まさに街自体が既に死んでいると表現しても過言ではなかった。
空腹による狂気から我を失ったのか、人肉を求めて修哉に襲いかかって来た家族を素手で無力化し、様子見に忍び込んだ家で、家族に取り残された老婆にわずかなパンを分け与えていたりと、死臭漂う街の状況を調べている際に修哉は目撃してしまったのである。
ーークラースモルデン連邦共和国軍の強行偵察部隊とおぼしき一団に。
鮮やかな月も何処かへ消えてしまった、分厚い雲が空を覆う漆黒の闇。
街の人々を救助するよりも何よりも、先に国軍を排除する事が最優先だと判断した修哉は、無人の家屋や塀に隠れながらパトロール部隊を尾行して、無数の松明が煌々と炊かれて曇天を照らす、街の南側に陣取った国軍の偵察を開始した。
闇夜に紛れてその規模を測ると、おおよそ大隊規模で千人の兵士が部隊展開している事がうかがえた。そして修哉が驚いたのはその装備、何と騎兵も歩兵もマスケット銃を標準兵装としているではないか。
……剣と魔法の世界じゃなかったのか?何故マスケット銃がある、何故そこまで急速に近代化が始まっている?……
人類の進化それも、エルゲンプレクト大陸に住まうこの世界の人類の進化に、何かしらのドス黒い裏やカラクリがあるのではと疑問を感じた修哉ではあるが、今はそれを追求する余裕などある訳がない。
今はリジャの街の人々を救出する事が最優先の課題であり、その為に国軍を徹底排除する事のみに思案の全てを注がねばならないからである。
松明と木材で組まれたバリケードで固められた国軍の陣地。あらためて街の中から息を潜めて身を隠し、静かに静かに部隊の様子を伺う。
編成と装備内容によって部隊の運用はガラリと変わる以上、作戦を練るならば敵の装備は把握しておく必要があるからだ。
……コイツらは侵攻部隊で街への駐留を目的としているのか、はたまた一過性の駐屯なのか。街の人々を探し出して逮捕拘束する事を目的としているのか、はたまた街の人々を炙り出して虐殺する事を目的としているのか……
修哉が気になったのは、この大隊規模の部隊の陣地後方に留め置かれている無数の馬車。それも単なる物資を運ぶ為の馬車では無く、そのほとんどが荷台に檻を乗せているいわば、囚人護送車の存在である。
……住民を逮捕拘束して、何処かへ送ろうと言うのか……
とりあえず、この地で住民が虐殺される可能性は低いのかも知れない。だからと言って安心している訳にもいかない。
何故なら国軍を動かしているのは理念と美辞麗句だけが空回りしている暗黒の共産主義国家であり、恐怖政治下の住民たちが送られた先にどんな運命が待っているかなど分かったもんじゃない。
湧き上がる憎悪の眼差しで檻付きの馬車を見据える修哉。
例えばユダヤ人を絶望に追い込んだアウシュビッツ、例えばロシア人にとって恐怖の代名詞ラーゲリ。
日本の某新聞社に「アジア的優しさをもつ」と絶賛されたポル・ポト政権の強制収容所などはもはや、処刑の前菜として苛烈な拷問が必ずセットでついて来る地獄の中の地獄と言っても良かった。
つまりは住民を守ると決めた以上、これ以上住民たちが逮捕監禁されて馬車で運ばれてしまえば修哉の負けである。
敵が準備を終えている段階であるならば、または既に作戦が始まっていてある程度の住民が連れ去られているならば、手段など選んでおれず今すぐにでも敢然とそれを阻止しなければならないのだ。
……優先すべきは馬車の破壊。輸送力が無くなれば奴らは単なる駐屯兵に過ぎないし、作戦目的を失って連中が混乱しているところを片っ端からやれば良い……
まだ深夜では無く、夜も始まったばかりの浅い時間帯。起きている兵士は多く陣地もかなり賑やかな談笑に包まれている。
「俺の時間」はまだ早いとばかりに後ずさり、背後の闇に溶け込もうとしていた修哉の鼓膜に、駐屯陣地から何かしら兵士たちの荒々しい怒声と混乱する当惑の叫びが聞こえて来た。それは明らかに異変を知らせるサイン。
兵士たちが寝静まるまではと、一旦退こうとしていたのだが、このあまりにも騒がしい混乱に修哉も足を止めて夜目を凝らした。
「襲撃、襲撃だあ!」
「馬が襲われている、馬を守るんだ!」
「同志先任軍曹、分隊を前に出せ!住民たちが馬車を狙って来た!」
どうやら国軍陣地に対してリジャの住民が夜襲をかけた様なのだが、何故武器も持たない一般市民たちが軍隊を襲い始めたのか、修哉は戦慄を持って理解する。
……飢えだ、飢えているんだ。住民たちは馬車を破壊して拘束される事を避けているんじゃない。馬を、食糧としての馬が欲しい為に、残された僅かな力を振り絞って狩りに来ているんだ!……
悠長に作戦など立てていられない。襲撃した住民の規模すら掴めていないが、引き際も押し時も分からない遭遇戦よろしくグダグタな泥試合になってしまうかもしれないが、一人でも多くの住民を助け出したい。
……そして俺の言う事に従って、リジャ746の集落まで逃げ延びてくれれば!……
修哉は祈る様に心の中でそれを叫び、再び足を退け闇に溶け込んだ。もちろんそれは改めて作戦を立てる為では無い、国軍兵士たちと衝突した住民たちを今すぐ助け出す為にだ。
そしてリジャの人々からの襲撃を受けた国軍陣地側では、既に阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられようとしている。
馬車から離され地面に打ち付けられた杭にズラリと繋がれていた馬を目当てに、住民たちは忍び込んだのだがその数なんと約三十人。
武装らしい武装はしておらず、衣服もボロボロの痩せこけた男たちなのだが、各々が手に鎌や鍬を持って陣地へ突入。前衛だの後衛だのと組織立った動きはまるで皆無のまま、それぞれが馬の手綱を杭からほどいて無理矢理連れ去ろうとしている。
「こらあ、待て! 待たんか! 」
「その馬は国軍所有の馬だぞ、何をしているか! 」
「貴様ら、今すぐ馬から離れろ! 」
騒々しさに気づき、テントから出て来た非番の兵士たちが、慌てて住民たちに飛び付いて馬を守ろうとする。すると、一般兵士用のテント群の奥に鎮座するひときわ豪華なテントから黒い軍服をまとった女性士官が悠然と現れて、現場でうろたえる下士官らしき人物に声を掛ける。
「グリゴリー同志少尉! この騒ぎは一体どう言う事か!?」
「あっ、フリステンコ同志特務大尉、お騒がせして申し訳ありません! 違反者たちが大挙して軍馬の奪取を始めています! 」
違反者……、連邦共和国軍の兵士たちはリジャの住民たちを違反者と呼んでいた。
もともと国軍銃士隊と騎兵銃士隊がこの地に送られたのは、政府から国の農業政策に従わずに失敗したと言う「言いがかり」をつけられた地元住民たちに対し、連邦共和国法の労働者勤労義務違反を建前に法を執行するためなのだが、何が違反者なのかその確たる理由と真実に近付こうとする者はいない。
自分自身が粛清されたくなければ、疑問など持ってはならないからだ。
だからこの下士官であるグリゴリー少尉は、指示された通りに襲撃して来たリジャの住民を違反者と報告したのだが、報告を受けた側のフリステンコ特務大尉はそれが気に入らなかったのか、烈火の如く怒りグリゴリーに言い放つ。
「貴様は一体何を呆けているっ! 奴らは違反者ではない、威力行使に出た段階で反乱者だ! 射殺でも何でもやってとっとと鎮圧せんか! 」
「あっ、はい! 同志大尉申し訳ありません! 今すぐやります!」
自分の娘ほども歳の差がある若い上官に向けて、情け無い声を吐き出しながら最敬礼したグリゴリー少尉は、駆け足で猛然と嵐の中に飛び込んで行った。
「馬鹿者め……。ただでさえノヴォルイではアレクセイが私の失敗を待ちわびていると言うのに」
自身のイライラを隠そうともせずに、自分の父親ほどの年齢の男性を馬鹿者と吐き捨てる少女。
そして彼女が「アレクセイ」とファーストネームを苦々しく呼び捨てにしたその相手は、人民警察特務班の精鋭部隊シーニィ・メーチの最高責任者、アレクセイ・クルプスカヤ特務少佐の事である。
つまりは、燃え上がる様な真っ赤な髪が印象的なこの少女はシーニィ・メーチに所属しながらも責任者のアレクセイに反目するだけの実力を持つ人物であったのだ。
リュドミラ・フリステンコ特務大尉。
漆黒の軍服を脱げば、あどけない十四歳の少女なのだが、連邦共和国が唯一その地位を認めた謎の魔導士「イエミエソネヴァ」が二年前直々に南方の戦地から連れて来た、イエミエソネヴァの後継者と目される少女である。
その燃える様な真っ赤な髪とコバルトブルーに輝く冷ややかに澄んだ瞳、そしてその容赦ない破壊活動から【血染めの魔女】と呼ばれ、同僚や部下から畏れられていた。




