箱の底に眠るもの
・
首都ノヴォルイの朝
いよいよ季節は春を迎えようとしているのか、湿気を伴った生温い霧が街中に立ち込めており、国営工場へと向かう人々の足取りも、心なしか軽やかに見える。
そしてそのノヴォルイの南地区にある、貧民街のとある集団住宅の一角では、一つの別れが行われていた。
石造りの市街地とは目に見えて格差を感じる、木造平屋の集合住宅。
労働者の楽園であるはずなのに未だ国家予算がつかないのか、開発の手は牛歩の様に遅れている。井戸の水は一度沸騰させないと飲料には適さないほど不味く、そして下水用の水路は何とか整備されているのだが、
雨で大水が出ればたちまち水が溢れ悪臭がたちこめる、そんな不衛生な家々の一件に、漆原謙一郎と土岐朱鷺子が住んでいた。
元々はこの世界に飛ばされた際に、早々にイエミエソネヴァに見初められて、シーニィ・メーチの一員になるよう強く勧めらたのだが、慣れない生活と文化の違いで土岐朱鷺子が精神に異常をきたしてしまった。
二対で作戦行動を行う、いわゆるツーマンセルで動いていた事もあり、漆原はそれを理由にイエミエソネヴァの誘いを固辞して来たのだが、
漆原たちよりも先にこちらの世界に来ていた柊小夜が、やはりイエミエソネヴァの誘いを拒み続けた結果、処刑されてしまった事が、朱鷺子の弱った精神にとどめを刺したとも言えたのである。
「おうい、起きてるかい?」
隙間風だらけの寒々とした個室に、トレーを手にした漆原が笑顔で入って来た。
「今日は霧がすごいなあ、早く太陽さんが出てくれりゃあ、部屋も暖かくなるんだが」
トレーの上には表面がガサガサになったパンと、ホットミルクを入れた陶器性のマグカップが湯気を昇らせている。
「おはよう朱鷺子、元気はどうだい?」
漆原はトレーをテーブルの上に置き、この部屋の所有者に優しく声をかけた。しかし土岐朱鷺子は既にベッドから上半身を起こして窓の外を見詰めるばかりで、漆原に一切反応を示さない。
「ごめんな、配給は来週まで延期になっちまったし、あまり金が無くて……売れ残りのパンを買うので精一杯だった。まあ、無いよりマシだと思って食べてくれないかな?」
情け無さそうに頭をポリポリかきながら、朱鷺子の様子を伺う漆原。
朱鷺子は無言で背中を向けているが、それは拒否の姿勢を示しているのではない。窓の外を見詰める際に、必然的に部屋の奥側に背中を向けているだけなのだ。
「ここ何日か、まともに食べてないじゃないか。このままじゃ身体も壊れちゃうから……何とか食べてくれないかな?」
彼女に近付き、ベッドに手を乗せて回り込む様に顔を覗く漆原。朱鷺子はそれすら視界に入れずに、無表情のまま窓の外を見詰めている。
瞬きすらしていない様に思える目、そしてピクリとも動かない瞳はもはや、何を見詰めているのかすら分からない。
「朱鷺子、俺さ……ちょっと旅に出る事になってさ」
バツが悪そうな顔をしながら、漆原は言葉を続ける。
「ちょっと長い旅になりそうなんだ、ごめんな。その代わり俺がいない間は、アレクセイたちが世話をしてくれる事になったから、朱鷺子は何も心配しなくて良いんだぜ」
核心に触れる事は言わない、いや、言えない。イエミエソネヴァの交換条件を飲み、あのフラット・ライナーと呼ばれた死神と死を賭けて闘うなど、口が裂けても言える訳がない。
「お土産たくさん持って帰って来るから、楽しみにしててくれよ。朱鷺子の大好きなお菓子も、たんまり買って来るからな」
我慢出来なかったのか、漆原が無理矢理作った笑顔の隙間からチラリと寂寥感が溢れる。
もちろん今の弱り切った朱鷺子ではそれに気付く訳もないのだが、漆原は身を引いて入り口へと向かい始めた。
「……もうすぐアレクセイたちが来るから、安心して待ってるんだ。じゃあ、行って来るぜ」
ゆっくりと優しく扉を閉めて、漆原は朱鷺子の部屋から出て行った。
ーーいよいよ旅立ち、それも決して生きて返る事の出来ない片道切符の一人旅。
荷袋を肩で担ぎ、家から出たまま一度も振り返らずに歩き始めた漆原。貧民街は未だ霧に覆われ、うすら寒さにトレンチコートの前を締める。
歩きながら余計な事を考えるのは止めようと思ったのか、漆原はコートのポケットをまさぐり、クシャクシャになったマルボロメンソールを取り出した。「向こうの世界」最後の一本を口に咥えつつ、火を付けた。
「ウルシバラ、行くのかい?」
美味そうな顔をしながら、最初の紫煙を吐き出したちょうどその時、霧の間を縫ってシーニィ・メーチのアレクセイ・クルプスカヤ特務少佐が現れ、漆原が行くのを知っていながら、そう声をかけて来た。
「ああ、行くさ。もう未練は無いし、お前が気にして朝から来てくれたからな」
ニヤリと笑った漆原は、最早立ち話するような内容も無いとばかりに、軽くじゃあなと言いながら歩き出す。
「専属の部下を付けた、女性士官で私の部下だ」
漆原の背中にその言葉を投げつけると、彼はそのまま軽く手を上げて謝意を示し、やがて霧の中へと消えて行った。
……フラット・ライナーは強い、強過ぎるから独りで立てる。我々にとって彼が必要であったとしても、彼は我々を必要としないだろう。だがアレスターとジャンパーは我々を必要とする。だから惜しいのさ、君たちに勝手に死なれると困るんだ……
イエミエソネヴァの千里眼を警戒してか、それを言葉にはしないものの、アレクセイ・クルプスカヤの瞳は、野心と義憤そして、義心が混ざり合った複雑な色を讃えていた。
そして一方、漆原が去った後の家。テーブルに置かれたパンと、冷え切ったミルクをそのままに、ただひたすら窓の外を注視する土岐朱鷺子の元に、来訪者がやって来た。
「失礼致します。私、アレクセイ・クルプスカヤ特務少佐の副官を務めております、マーシャ・チェバロワ特務少尉と申します。アレスター・ウルシバラの依頼により、しばしの間私がお世話をさせて頂く旨、よろしくお願い致します」
朱鷺子の部屋に現れたチェバロワ特務少尉は全く反応しない朱鷺子を前に、直立不動で背筋をピンと伸ばし、敬礼しながら挨拶する。
「尚、アレスター不在の間はシーニィ・メーチが責任を持って、ジャンパー・トキの衣食住医療の保証を致します」
必要な申し渡し事項を言い終わり、敬礼を解いたチェバロワ特務少尉。全く反応せずに背中を向けたままの朱鷺子を、複雑な表情をしながらしばし眺めつつ、軽くため息を吐き出した。
「ジャンパー、差し出がましいとは思いますが、クルプスカヤ特務少佐から発言の許可は出ていますので、あえて一言申し上げます」
そう言い終えたチェバロワ特務少尉は一瞬だけ憐れみの目で彼女を見つつ、心を鬼にしたかの様な厳しい表情にと変化した。
「見知らぬ世界に来たあなたの境遇、そして友人であるサヤ・ヒイラギの死は、心より同情しております。ですがあなたのパートナー、アレスター・ウルシバラをあなたは見殺しにしようとしている!あの方が何故旅立たれたのかご存じか?あなたの病を直す事を条件に、フラット・ライナーに殺されに行ったのですよ!」
……ぴくり……、微かに、ほんの微かに朱鷺子の瞳が収縮する。
「導師イエミエソネヴァが、ウルシバラに約束したそうです。あなたの悪しき記憶を取り去る魔法があると、フラット・ライナーを倒したら魔法をかけてやると!それであなたの心が安らぐならと、ウルシバラは死ぬ覚悟を決めたのですよ!」
……アレ……スター……
……アレスター……
声にはなっていないものの、朱鷺子の唇が微かに動く。彼女がどんな事を口走っているかなど、読唇術を使わなくても明確。あれだけ死人の様にぴくりとも動かなかった土岐朱鷺子が、愛した男の名前を呼び始めたのだ。
「万が一アレスターがフラット・ライナーを倒したとしても、悪い記憶が消されるとなれば、当然地獄の日々を一緒に過ごした彼の事も忘れる。つまりは、アレスターの顔すらあなたは忘れてしまう!彼が死んで良いのか!?彼の顔を忘れて良いのか!?あなたはそれでも殻に閉じ籠るのか!」
無表情のまま、窓の外を見詰めたままで、身体は全く動いていないのに、何と朱鷺子の瞳から、大粒の涙が溢れ始めたではないか。
ーー吹雪の深夜「寒いだろ、これ巻けよ」と、マフラーを首に巻いてくれたアレスター。
雨の夜には「中に入りな、風邪ひくぜ」と、トレンチコートを広げて傘になってくれたアレスター。
クレーンゲーム下手くそなのに、私が可愛いって言ったカッパのぬいぐるみをムキになって取ってくれたアレスターのあの笑顔。
自分だって嫌いなのに、「にんじん嫌いなのか?勿体無いねえ」と苦笑しながら食べてくれたアレスター。
能力を使い過ぎてフラフラになってたら「お嬢さん、足元がヤバいね」とおどけながら、お姫様抱っこをしてくれたアレスター。
自動販売機で当たりが出たのに「後で飲みな」と、私の飲み物を二本にしてくれたアレスター。
……アレスター……アレスター……ウルシバラ……漆原謙一郎!……
「……嫌っ……嫌だ……行っちゃダメ……行かないで……!」
朱鷺子はボロボロと涙をこぼしながら、焦点の合わない瞳で宙を見上げ、絶叫とも言うべき大きな声で、漆原謙一郎の名を叫び続ける。まるでそれは狼の遠吠えだ。
「……謙一郎!謙一郎!謙一郎!……嫌ああっ!嫌ああっ!」
朱鷺子に自我が戻ったとしても、時は残酷に進み、その先には更に残酷な結末が待っている。出て行った漆原は二度と帰って来る事は無く、十中八九フラット・ライナーと戦って死ぬからだ。
だが、この場に居合わせたチェバロワ特務少尉は、この光景を見ながらも別の考えが脳裏に浮かぶ……「もしかしたら」と。この無駄に叫び続ける朱鷺子に、執念を感じたからだ。
ーーまるでパンドラの箱の奥底に眠っていた、何かが見つかったーー
そんな感覚に襲われたチェバロワ特務少尉は、まだ間に合う、いや間に合わせる!と、一日でも早く朱鷺子の復活を目指す事を心に決めた瞬間でもあった。
-------------------------------------------------------------
※この物語はフィクションであり、精神状態に不安がある方を卑下したものではありません




