それであの子が元気になるなら
・
クラースモルデン連邦共和国の首都ノヴォルイの中央区。
共和国会議議堂とクラースヌイツベート党党本部がある中心地よりやや外れたところ……高い城壁と外堀の外に、クラースヌイツベート党の下級組織が詰める建物がある。国民の恐怖の的であり、クラースヌイツベート党の闇の象徴である人民警察特務班の本部だ。
端正な石造りのその建物の奥、その深淵には、人民警察特務班の正規職員でも近寄ろうとしない三階の最上階フロアがある、
つまり最上階に置かれている部署が、恐怖の中の恐怖、暗闇に蠢く漆黒と呼ばれて恐れられ、国軍兵士や国民から「黒服」と忌み嫌われる精鋭部隊【シーニィ・メーチ】の実務部隊の総司令部が置かれていたのである。
そして廊下の一番奥にある最高責任者の執務室では今、その部屋の所有者であるアレクセイ・クルプスカヤ特務少佐が、部下数名を緊急に呼び出して、何やらミーティングを始めようとしていた。
執務机を前に、コーヒーの香りを楽しみながら、時間が経つのを待っているクルプスカヤ少佐。
応接セットには男性二人、女性二人の合計四人の男女が、ソファに浅く座りながら背筋をピンと伸ばし、誰一人口を開かないまま時間の経過を待っていた。
幾ばくかの時間が過ぎた頃である。静寂が支配するクルプスカヤ特務少佐の執務室の扉を、コンコンとノックする音が。
(……ヴィアニチシ州監査官、ナターシア・ブロア特務中尉、出頭致しました!……)
既に扉の向こうに人の気配を感じていたのか、別段それを驚きもせずに、クルプスカヤ特務少佐は待ってましたとばかりに姿勢を糺し、限りなくプラチナに近い金髪を微かに揺らしながら「入りたまえ」と扉の向こうの声に軽やかに答えた。
「同志少佐、遅くなり申し訳ありません!」
入室して来たのは真っ白な肌にサラサラの金髪の女性士官。クルプスカヤ特務少佐の前に出るなり直立不動で敬礼して遅刻を詫びるも、クルプスカヤ特務少佐は軽く笑いながら、片道四日もかかる南方国境から二日で駆け付けてくれたんだ、怒るどころか賞賛に値すると、ブロア特務中尉を労う。
「さて、これで全員揃ったね」
クルプスカヤ特務少佐が席から立ち上がると、先に来ていた四人の部下も一斉立ち上がり、ブロア特務中尉を挟む様に、クルプスカヤの前で横一列になる。
すると、クルプスカヤは目の前で並んでいる一人の士官に目配せし、合図を送られた男性士官は右手を上げて、自らのこめかみに人差し指と中指を添えた。
ーーキン!
鼓膜には直接的な振動は無かったのだが、脳の奥の奥で、何か金属的な炸裂音が鳴ったのをこの部屋にいる誰もが感じた時、クルプスカヤ特務少佐の声が、これまた鼓膜を一切通さないまま、脳内に響き始めた。
……同志諸君、そう緊張せずとも良い。これはギンツブルク特務少尉の能力を使って、直接同志諸君らの脳内に語りかけている。そうすれば盗聴の恐れも無いし、イエミエソネヴァに見られる可能性も無くなる……
同志書記長と同格とされる魔導師イエミエソネヴァを、一切の敬称を付けずに呼び捨てた事に一同は驚いたのでは無い。
一番若いと言うよりも、少年の様な若さのギンツブルク特務少尉が、念話の能力を有していた事は内々に知っていたが、まさかこんなはっきりと聞こえて来るとはと、一同はその能力のクオリティに驚きの表情を隠せないでいたのだ。
そしてそんな表情の部下たちの呆けた顔を楽しみながらも、クルプスカヤ特務少佐は尚も言葉を続ける。
……国家人民のためだと、今まで散々汚れ仕事をさせられて来た我々だが、どうやら転機が訪れそうだ。ミユキ・コシガヤ特務中尉と、テツオミ・ハカマダ特務少尉が殉職した話は聞いているな?……
念話によるその問いかけで、部下たちの頭の中にはたった一つの言葉が思い浮かび、それが答えとなってクルプスカヤを満足させる。
……そうだ。ミユキ達と同じ異世界から来た最強の原初の導士、フラット・ライナー、シューヤ・フジェモリィがミユキ達を葬った。海運都市サレハルート近郊に設営されていた強制収容所を破壊し、兵士を皆殺しにして処刑部隊を壊滅させたのもフラット・ライナーだ。
今あの地域には新設のマスケット銃部隊が派遣され、近々にはリジャの街を占領する予定なのだそうだ。つまり、我が国と言うよりもトップに居座る者たちが、フラット・ライナーを脅威と感じている事に意味がある……
アレクセイ・クルプスカヤの瞳が輝く。それは今しがた何かを思い付いたかの様な、ひらめきの輝きでは無い。深く深く自分の内面に抑え込んでいた抑圧された感情と闘争心が溢れた、積年の輝きであったのだ。
……同志諸君!ユゼフ・ヴィシンスキイとイエミエソネヴァの抹殺を目標に、フラット・ライナーが現れたこのチャンスを利用する。最強の能力者を屠る為に、奴らは今後も追加戦力をどんどん出すだろう。
だが兵士と言えど国民だ!リジャの市民も同じく国民だ!何故皇女エマニュエルとフラット・ライナーに固執して無駄な損害を出す?そこには公けに出来ない企てが隠されてるとしか思えない!……
念話で檄を飛ばすかの様な、強烈な圧力でまくし立てていたクルプスカヤ。だが突然、態度をコロッと変えたのか、部下たちに向かって酷く爽やかな笑顔を見せたのだ。
……ま、建前はここまでにして本心を言う。万人の為の平等、労働者の楽園に共感して、クラースモルデン連邦共和国の建設に尽力した我々だが、共産主義のほころびが見えた。富める者が貴族から党幹部に変わっただけで、民衆は更に地獄を見ているだけ、これが共産主義だ。
その内法も有名無実化し、密告が奨励されて、街中あちこちで市民の死体がぶら下がる。それでは血塗られた我々が浮かばれない。だからユゼフとイエミエソネヴァを裏切り、この国を一旦混沌に戻す。異議のある者は?……
クルプスカヤの質問に眉ひとつ動かさず、部下たちは沈黙を続ける事で意義の無い事を表明した。
……よろしい。なるべく流血は避けたいので、フラット・ライナーをこの首都に招き入れる方法を取る。ユゼフとイエミエソネヴァ、そしてフラット・ライナーの三人で直接対決して貰い、三人だけ倒れてくれれば我々も非常に喜ばしい……
この時、クルプスカヤが言葉を言い終わらない内に、何かに気付いたブロア特務中尉が小声で異変を伝える。もちろんそれは念話では無く、鼓膜を振動させる本当の声でだ。
「同志少佐、廊下の外、誰か来ました!」
独りだけ気付いて警告を発したブロア特務中尉なのだが、一同はそれを嘘だとは思わずに、一斉にクルプスカヤを見た。
「同志諸君!遠路はるばる良く集まってくれた!何故諸君らが呼ばれたのかは薄々気付いていると思う。殉職者が多発した事で、シーニィ・メーチの栄光が地に堕ちようとしている……」
なんとなくそれらしい事を叫び出し、いかにも地方から集めた部下に対して訓示を垂れている様子を演出していると、扉をコンコンとノックする音が聞こえて来た。
嘘の訓示を止めて来訪者を誰かと確認する。すると、悪いなと言ってズカズカと入室して来たのは、シーニィ・メーチのエージェントでは無く、カーキ色のトレンチコートを羽織ったネクタイ姿の男性、漆原謙一郎であったのだ。
「おっと悪いな、取り込み中か」
「君か……いや、ちょうど訓示も終わるところだ」
クルプスカヤはそう言いながら、もう一度部下たちを見回しつつ、詳細は追って知らせるので、同志諸君らのより一層の努力と献身を望む……では解散!と、部下たちを半ば強引に室外へと追い出してしまった。
そして執務室に残った漆原謙一郎にソファへ座れと手招きしながら、自らも対面のソファへ腰を落とす。
「アレスター・ウルシバラ。シーニィ・メーチの誘いを断った男が、ここを訪れるなんて珍しいね」
「ちょうど党本部に呼ばれてな。帰りがけにお前の顔でも見てやろうと思っただけさ」
漆原はそう言いながら、コートのポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出し、部屋の所有者の許しなど一切お構いなしに口に咥えて火を付けた。
「ぷわぁ……。あと残り二本か」
「意外と未練がましいんだね君は、こちらのタバコを吸えば良いじゃないか」
「正直美味くない、それに葉っぱの切れっ端が口に付いて、カッコ良くないんだよねえ」
「ふっ、何の美学かは知らんが、相変わらずこちらの世界に順応してはいないと言う事か」
クルプスカヤは軽くおどけながら、一度席を立って壁際に据えてある本棚の前に。瓶に入っている琥珀色の蒸留酒を二つのグラスに注いで、一つを漆原に渡した。
「革命完遂を願い……」
「ふふ、アレクセイよ、心にも思っていない事でグラスを掲げんじゃねえよ」
この世界で産まれ、この世界で生きて来たアレクセイ・クルプスカヤと、別の世界で産まれて、この世界へ飛ばされて来た漆原謙一郎。思想や立場の違いはあっても、憎まれ口を叩いて喧嘩にならない程に何故か信頼関係は構築されている。
だがそれでも互いに腹の底の探り合いを繰り返す様な、近くて遠い距離を今は保っていた。
「さて、ならば何に対して乾杯すれば良い?」
「そうだな、アレスターの勝利を祈って……そんなところか」
「うん?どうした、何があった?今まで頑なに任官拒否を繰り返していた君が」
「独裁者と魔法使いのババアに呼ばれてな、さっき会って来たんだよ」
結局何に乾杯するのかも決めないまま、漆原はゴクリと酒を胃に落とす。水や氷で薄めていないストレートの蒸留酒が喉をジリジリと焼くのを楽しみながら、クルプスカヤに空のコップを差し出して二杯目を催促する。
「ジャンパーがな……そろそろ危ないんだ。フラット・ライナーを倒せば助けてやるって言われてね」
「ジャンパー、そこまで悪くなっていたのか」
クルプスカヤは感慨深くそう呟きながら、漆原に二杯目を注いでやりつつ、自らも蒸留酒で口を潤した。
……アレスターとジャンパー、君らが飛ばされて来て三カ月。ジャンパーにとっては、サヤの処刑が思った以上にキツかったと言う事か……
「一日中ずっと窓の外を眺めてるだけで、もう自力で飯を食う事すら出来なくなっちまってる」
「それで、フラット・ライナーを倒す対価とは何なんだ?」
「記憶を消す魔法があるんだそうだ。悪い記憶全てを消しちまえば、元気にはなるだろ?」
「しかしアレスター、君との記憶だって消されてしまうんだろ。それで良いのか?」
「……それであの子が元気になるなら、良いんじゃねえの」
あっさりと答えた漆原は、ソファに深くゆったりと座っていた身体を起こし、前のめりに浅く座り直す。
互いの眼力が交差し、火花を散らしそうな距離まで顔を近付けて、クルプスカヤに真顔で頼みがあると切り出した。
「多分俺じゃフラット・ライナーには勝てねえ。あの最強の暗殺者に勝てるなんて、微塵ほども思っちゃいねえ。だからお前に頼みたいんだ、俺に何かあったらジャンパーの面倒を見てやってくれ」
「貴様……、何に殉じようとしている!そんな事に意味はあるのか」
「バカヤロウ、宗教や思想に殉じるよりもマシな話だ。イエミエソネヴァからは交換条件で逃走防止の呪いを植え付けられた。戦っても死ぬ、逃げても死ぬ。だからお前に頼むしか無えんだよ」
ニヤリと不敵に笑った漆原はゆっくり立ち上がり、クルプスカヤが嫌とも応とも言っていないのに、じゃあ頼むわと苦笑いしながら席を後にした。
「……ウルシバラ、愚か者め。貴様のせいで……」
その後に続く言葉を飲み込んだアレクセイ・クルプスカヤ特務少佐。その後に続く言葉として最有力なのはもちろん「計画」と言うキーワードであろう。
つまり、漆原謙一郎がフラット・ライナーと対決に向かうと言う事は、フラット・ライナーを首都に呼び寄せる計画に、修正を加えなければならないと言う事であり、その対決いかんによっては、首都に誘導しようとしても、アンカルロッテの森周辺に籠城してしまう恐れがあるのだ。
「義に生きて、愛に死す……か」
クルプスカヤは目を瞑りながら苦笑するが、それは決して漆原謙一郎を卑下した笑いではない。漆原の生き様を見て、彼の命を無駄にしたくないと感じた、自分自身の甘さに笑ったのである。
だがそれは同時に、そういう感情を抱ける事の出来る自分が、まんざらでもないと言う照れの笑いでもある事は確かであった。




