まあ、こんなもんか
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うつ伏せに倒れていた藤森修哉は、瞼や鼻や頬に伝わって来る冷たさを軽く通り越した、もはや痺れとも言って良い凍り付く様な寒さに気付き、意識を取り戻した。
頭がまだ働いておらず、何故自分がうつ伏せに倒れているのか、全く理由がわからないまま、とりあえず顔を背ける様にゆっくり横を向き、半分だけ確保出来た視界を確認する為に瞼を開く。
雪、雪、……雪。目の前も目を凝らした先の遠くも、全てが雪で覆われた雪原。俗に言う一面の銀世界と言うやつだ。
だが藤森修哉はここで一つの疑問を浮かべる。寒さに慣れていなかった彼の服装と身体が急速に冷え込みつつある彼自身の危険を察知し、違和感と言う名の信号を全力で脳に叩き付けて来た結果の疑問なのだが、もちろん意識のはっきりしていない修哉がそれに答えられる訳がなく、ぼんやりと今までの経緯を思い出すのが精一杯。
「……今って、ゴールデンウィークじゃなかったか……」
Tシャツにライダージャケットを羽織っただけの軽装は、絶え間無く雪が降りしきるこの厳冬期の雪山の様な気候に似つかわしくなく、いくら朦朧としている修哉でもさすがに我慢の限界がある。
……とにかく立ち上がり、この寒さをしのげる場所へと避難しなければ……
前後不覚になってはいるが、今自分が置かれているこの状況を認識するのは後だ。暖かい場所で好きなだけ反芻して考察すれば良いのだからと、両手と両腕、片膝に力を入れて、うつ伏せの身体を起こそうとするのだがどうにも身体に力が入らない。
「はて」と、自分の身に何が起こったのか……、何故身体に力が入らず、まともに指一本動かせないのかと思案を巡らせるのだが、答えらしい答えが浮かんで来ない。まだ頭の回転が酷く緩慢で、答えどころか置かれた状況すら認識出来ないからだ。
とりあえずうつ伏せだと視界も狭く腹も冷える。手がダメなら腕で、腕がダメなら肩を使って、何とかうつ伏せから仰向けに体制を変えようと身体をよじったその時。修哉は右の脇腹に雷が落ちたかの様な、鮮烈なショックを伴う激痛に襲われ、思わず顎を下げて右の脇腹を覗き込んだ。
「……こ、これは?……」
修哉の見詰めた先、右脇腹がジャケットごと綺麗にぱっくりと割れて、とめどなく鮮血が溢れ出していたのだ。
何とか右手を動かし傷口があるであろう場所を手のひらで弄ると、ぬるっとした生暖かい液体がべったりと手のひらに付く。それは間違い無く自分自身の血。何故自分の腹から血が出ているのか全く理由が分からず、思い当たるフシどころかまともな記憶すら持ち合わせていない中、腹の傷口は本人が気付く前から開いていたのか、うつ伏せになっていた場所の雪が鮮やかな真紅の色に染まっている。
ああ、なるほど。だから身体に力が入らないのか……。
修哉は得心がいった様な表情で、右の脇腹を押さえながら何とか仰向けに姿勢を変える。その際に視線を動かして辺りを見回したのだが、視界の彼方にかすかに森が見える程度の雪原が広がっており、やはりこの場所に見覚えなど全く無いどころか、降り続く雪はいよいよその量を増し視界すらぼやけて霞んで来た。
いや、視界が狭まって来た原因は、降雪量が増えたからだけではない。彼の視野が周辺から黒く淀み始め焦点が定まらなくなって来たのは、明らかに大量の失血によるショック症状もある。
いずれにしても、寒くて凍え凍死の危険性もあるこの状況下。身体に重大な怪我を負って身動きが取れず、暖かい場所に避難出来ないどころか、大量の出血自体が生命の危機を向かえているならば、誰もが自ずとある一つの答えにたどり着く。つまりは「死」だ。
修哉もそれを覚悟したのか、足掻く事無くあっさりとそれを受け入れ、仰向けとなって空を見上げる。
「……まあ、こんなもんか……」
自分自身の半生をもってそう言っているのか。それとも、都合良く誰かが助けに現れてくれない事をくさしているのかは、本人にしか分からない。ただ不思議と意識がはっきりして来たのか、この場にいる以前の記憶がぼんやりと輪郭を現した。
「……新宿って、五月に雪降んのか……」
これが、自分が発する最後の言葉になるであろう事は承知している。だが彼にしてみればその程度で良かった。別段誰が聞いている訳でも無いし、後世に言い伝わる様な偉人の半生を歩んだ訳でも無い。
正直、人を殺すだけ殺しまくったロクでも無い人生から解放されるのだから、適当な事を口にしてそれで終わりで良かったのである。
雪はその勢いを増してみるみるうちに自分の身体にも積もって行く。大量失血で体温も下がり始めたのか、もう身体の感覚も麻痺して来た。殺伐としながらもガチャガチャとした日々が終わり、最後は静かに誰に看取られる事も無く雪に埋もれて終わる。まあ、それで良いやそうしようと、口元に微かに笑みを浮かべて眠る様に瞼を柔らかく落とす。
主人に異変を知らせる様に、絶え間無く吠え続ける狩猟犬と、その狩猟犬に導かれる様にやって来る、厚手のコートを着た初老の男性にまるで気付かないまま……。