7 ジャック〝ザ・ソード〟
信頼できるひとを見つけられる安心感はなににも代えがたいものである。
「よくしていただいて、ありがとうございました」
「大したことはできていない」
見知らぬ土地であるここまで来て、この老人に会えたのは僥倖だった、と少年は思った。
無礼とは知りつつもくせをなおすことはできず、鞘に納めた刀に手をかけたまま頭を下げる。向こうもハットを取って軽く会釈を返してくれて、そのあとマントの中をごそごそと探った。
「ほれ、余った生体だ。持っていけ」
「あ、これはどうも」
用途についてはとくに聞かず、ガラス瓶の中で形状を保ったそれを手渡してくれる。ありがたくこれを頂戴して、少年はポンチョを翻した。
ぐずぐずしていると、奴が来る。
「では、失礼します」
「ああ。……達者でな」
最後の瞬間、なにかに迷ったように老人は目を逸らした。
意図はわからないままだったが、少年は足早に拠点としていた路地を離れようとする。
「なあ」
そのとき背に、迷いを振り切った声が届いた。
「はい?」
「少年よ。……罪滅ぼしに生きるということを、どう思う?」
「さあ。生きるもなにも、あなた不死人じゃないですか」
思った通りに返せば、これが意外な返答だったのか老人は目を見開いた。
だが少年からすれば当然の返事だった。不死人は死んでいないだけで、生きているのとはまた別だと思っていた。
終わりがない生き物と終わりがある生き物とでは、そこに隔絶がきっとある。
ゆえにこそ、少年は剣を磨いてきたのだ。
隔絶を均すため。
「そうか」
老人は、つぶやいた。
このあきらめたような物言いが、やっぱりちょっとだけ『彼』に似ていた。
精神性が似通っているからかもしれない。
「じゃ、今度こそ」
「ああ」
さらばだ。
老人を残して路地を出て、少年ははるか昔街道だった、広い通りをひた歩む。
じきに見えてきた橋のたもとへ降り、少年は先ほど老人からもらった生体を使う。気候変動はさほど大きくない様子だったので、これなら大丈夫だろうと判断する。
立ち合いにスモッグでも流れようものなら、無粋極まるというものだ。
ごうん。
ごうん。
遠くから、風向きの変化を示す鐘楼の報せが響く。
少年は歩きながら無造作に刀を抜き、向かい風に軽く振り落とした。ぴぅんと糸を張るような音がして、今日の調子を感じ取る。
悪くはない。
この数年、研ぎ澄ましてきた甲斐はあった。
全力は尽くした。
あとは、待つだけ。
刀を鞘に納め、静かに目を閉じた。
……やがて。
長く時間が過ぎたころ、足音が橋脚の下の空間に響く。
目を開けてそちらを見やると、橋の陰にたたずむ影があった。
上背は少年よりも十センチほど低く、小柄な体躯を濃紺の外套ですっぽりと覆う。
相変わらずのくしゃくしゃな黒髪の下に、麦色のレンズをはめた眼鏡をかけ。
左手には仕込みの刃を納めた、ステッキを携えている。
「探したぞ」
低く言う相手は、右手をステッキにかけた。
「長く、長く、逃げ回ったものだ。追うのもひと苦労だ」
応じてこちらも、柄に手をかける。
「数年もかけて、ご苦労様なことだったね」
「そうだ。数年かかった。すべてはお前が、おれを売ったからだ」
ステッキから刃を抜くと、きゃり、と音がして花鍔が広がる。
「おかげで、おれは死ねん。生体の資源としての身に、堕してしまった」
「……うん」
「まあ、いまとなってはどうでもいい。どういった感情と技によって成しえたか知らんが、お前、あの甲冑の者を斬ったのだろう」
そうだ。
少年は――倉内仁は、絶対的な剣を欲した。どんな防りも切り伏せる、圧倒的な剣。
すべては。
いま目の前にいる、この男――森須喜助を、斬るためだ。
斬って死なせてやるためだ。
己の弱さゆえに、彼の武士としての生き方を閉ざしてしまったのだから。
「そうだよ。僕が斬った」
「そうか」
そうか、と反芻するように言って、喜助は左足を引いた。
右半身になって、すわった目でこちらをにらむ。
中段にて、刃を左へ峰を右へ向け刀身を寝かせる。構えた切っ先は呼吸とはちがう拍子で揺れ、出方をうかがわせない。
足幅は肩幅より少し広く、後ろ脚は外へ向けてつま先を開き、左右への移動も想定した型。
ずん
と踏み出せば、
途端に圧が増す。
喜助からほとばしる戦意がみりみりと仁の肉を押し分け、心の臓の奥深くに切り込もうとする。
本気だ。
この男もまた、数年の旅路の中で絶対の剣を窮極めてきたのだ。
「ではようやく、だな」
「待たせて申し訳なかった」
「実に。だがこれで資源と呼ばれる生が終わるなら、終われるならば。その程度は許容しよう」
もちろんだ。
そのためにここまで、磨いたのだ。仁は心の中で宣言し、これまでの漂泊の日々を思い返し、すぐに記憶にふたをした。
いまは現在に向き合うべき時間だ。
ただ、いまの己の腕のみを頼りとすればよい。
右足を踏み出し足幅を広く。どっしりと構え、まとう幅広の衣の陰に隠すよう右手を柄へ。
左足を大きく引き、相手から左半身をほぼ完全に隠しきる。
抜刀の体勢に、喜助は怪訝な顔をした。当然だ、彼と過ごした彼の流派にはない剣である。漂泊の日々の中、仁が己で己の中に見出した構えである。
森須喜助は小太刀の達人。真髄は受けにある。
相手の太刀筋を見切り、ときには己が優位に立てるよういざない。受け、流し、相手の硬直を突く。敵が勢を制し己が勢を成す。完全なる間合いの剣。
これを打ち破る手は、ふたつ。
ひとつは重みにて打ち砕く烈の剣。鎧断ちを成した一ツ之太刀。受けからの流しを許さず、刃ごと相手を打ち据える心根で放つ一閃。
そして。
もうひとつが、受けも流しも許さぬ捷の剣。
「……抜き打ちか」
速度にて制する。
仁の手を読んだ声音を発し、じり、と半歩にじりよる喜助。
残る距離は二歩半。喜助の構えは常より腕を伸ばし気味であるが、おそらくあれは刃を寝かせて平突きをにおわせていることまで含めて誘い。こちらが下手に切りかかればその瞬間に剣を引いて刃を天に立て、切っ先でなく鍔元で受け・そこから流して切り込んでくる。
であるなら、先手は取らない。
後の先でいく。
仁は静かに呼吸を遅くし、右肩をひくつかせるようにした。こちらも誘いをかけるのだ。
どちらが先に切り込むか、あるいは返すか。
読み合いは隙の探り合いに転じ、虚実入り混じる剣筋がいくつも浮かんでは泡沫のように消えていく。
といっても、最後に採る手は大抵、直観に従う一手である。
「――ゼっ、」
気迫一喝。
前に出していた膝の力を抜き、倒れこむ一挙動で仁の反応を上回る喜助。
さらに手首の返しで寝かせていた刃を回転させ、仁の視界を右から左へ、
切っ先で下段を横一文字に切り払おうとする。
狙いは距離的に一番近い右膝。斬られれば仁の次の太刀筋は死に、喜助の返す刀で殺される。
瞬時に、仁は右足を引いてかわした。
それは同時に、小太刀の間合いへの接近を許したということである。
ここで喜助の表情にみなぎるは、詰みへの意志。
緩めた握りで自在な切っ先の返しを実現し、また神速で握りこんでの左下からの切り上げ。腕か脇腹かはたまた首か。いずれかを斬り飛ばす所存の太刀が放たれんとする。
……しかし。
すでに。
仁は、抜いていた。
「――――疾」
歯の隙間から絞り出すような呼気のあと、
衣に隠していた右手が、抜いていた。
構えは右逆手。
間合いは伸びず軌道は限られる構え。
だがことこの一局面においては。
右足を引くことで腰を切る所作を終えたこの局面では。
その速度、喜助の神速を上回る。
「――」
もはや声も許さない。
右肘を脇腹に接したまま、刀を中ほどまで抜き。
上体を大きく右へ旋回させ、鞘つかむ左手を高く振り上げる。
中ほどまで抜けた刃を喜助の右肩に食い込ませると、
後ろで踏みしめた右足からの力で、
両腕に渾身の力を籠め、
身の重みすべてを利して、
圧し斬った。
「――、」
鞘ごと断ち割り、地面に食い込むまで振り抜かれた一刀。
斜め掛けに右肩から左の脇腹まで断たれた喜助は、
もう仁の肌に触れるところまで進ませていた切り上げの剣を中途で止め、
口の両端からごぷりと血をこぼし、どうと倒れ落ちた。
……まだ息はある。
けれどもう、なにも彼は望むまい。
ひゅうひゅうと空気が漏れ出るのは、口からか、斬られた肺からか。
どちらであっても、もう一音も発せまい。
刀を逆手から持ち替え、両手で構え。
仁は喜助の目をじっと見た。
すわった目が、徐々に安らいでいくように、見えた。
その目が耀きを失う前に。
仁は首を刎ねた。
ほかのなにものでもあるものか。
思いつつ、首を抱いて仁は歩く。
両手で掻き抱いて、仁は歩く。
喜助は喜助だった。
生きているといえなくなったって、
そのほかのなにかでは、なかった。