4 ジャック〝ザ・ナイフ〟
皮膚をかすめる刃の鋭さに、青年は顔をしかめた。
まったく、厄日であった。テムズの川辺にスモッグが立ち込めていたので、周囲には気をつけねばと思っていたら――これだ。
振りかざされる暴力に応戦するべく、こちらも剣の柄に手をかける。
「お? っほほ、やんのか、やってくれんのかい!」
喜々とした声をあげるのは、先ほど青年の肌をかすめる一閃を放った男。
分厚い、刃渡り三〇センチはあるナイフを両手に構え、かつ腰には鞘に納まった同形状のナイフがぞろり。両手の分と合わせて、計六本の得物だ。
刃物男は鳥打帽のふちからぎょろりとした大きな目で、青年を捉えている。瞳孔の開ききったこわい目だ。
そのくせ着ている衣服が地味な色の背広とボトムスであることが、余計に彼の得物と表情の異様さを際立たせている。
「ほっほーっ。ずいぶんと豪奢な柄だが、まさか見てくれだけで剣がなまくらってこたぁねーよな?」
笑うと、がたがたの歯並びがのぞく。
うずうずした様子を隠しもせずに、ナイフを握った手で中指を立て、男はこちらに来るよううながしてくる。
青年はうんざりした顔をこれまた隠しもせず、男に向き合って歩きながらしゃなりと剣を抜く。刃渡り八一センチの、両刃の細身剣。レイピアである。
「……結局落ちた橋の方に生体が多く発生したと聞いて、きたのに」
ウーリッジからわざわざ歩いてきて、出くわすのが殺人鬼とは面白くもない。
思いつつ、レイピアの切っ先をまず天へ向ける。
柄を取る右手を胸の前に置き、静かに深く呼吸した。相手に向ける側、表刃を己に向ける。
雑念を、斬る。
ところがこの所作の時間にしびれを切らしてか、男は首をかしげつつ襲いかかってくる。まだ途中だろうに、と思いながら、青年はため息をつく。
「なにしてんだか? なにやってんだかな? なーんですぐに、斬りかかってこねぇ!」
口の端から泡を噴きつつ、早口で男はまくしたてる。
それと同時に振るわれる双刃。スモッグと空気が瞬時に斬り交ぜられ、彼の剣筋の異常なうねりを目に見えるように残した。
後退して距離を取りつつ、青年はレイピアをひゅん、と真下から振り上げる。牽制だが確実に首元を狙った一筋を、男はナイフの鍔元で受け流した。
「おっお、悪くねぇ。悪くねぇ剣捌きだ兄ちゃん。そーだよ最初からそう来ればいい」
「そう来てほしいのなら待つくらいはしてほしいね。私にとって剣は軽々に抜くものではない」
「つまらないこと御言いでないよ、兄ちゃん。剣なんてほーら、こんなに軽いもんじゃねぇか!」
右半身に低く姿勢を落とし、右手は下段・左手は上段。
青年の流派で二刀の勢法を学ぶ際、牡牛の型と呼ばれるものに近い。しかし先に見た変則的なうねる軌道からして、構えが似ていても同じ術理に至るものでは到底あるまい。
そもそも、不死人であるなら剣の扱いの前提も変わってくるのだが。
「まあよいよ。かかってくるがいい」
「そうこなくっちゃ! 極東の連中じゃあるまいし、剣にいちいち理由付けなんて……」
不純だ!
言って、男は左のナイフを投擲してきた。狙いは顔面。
青年は右腕をまっすぐ伸ばして構えていたレイピアの切っ先で、これを弾く。
そのわずかに動いた直後の間合いへ、右のナイフをかざしながら突っ込んできた。
この刃は剣先を弾くのでなく、あくまで触れるように捉えるように撃ちこんでくる。
「へえ」
剣筋の自在さだけでなく、存外まっとうな戦術も知っているらしい。青年は少し感心する。
ナイフは鍔元が刃からすぐそこにあるため『強い』剣を維持できる。ならば無理に相手の刃を遠ざけるよりも、触れ合わせたままにして微細な動きを肌で感知した瞬間対応する方が速い。なるほど、なかなかに性質を使いこなしての戦法だ。
そして空いた左手は、腰のナイフを抜く。読みと攻めを同時に行う器用さは本物であった。
「ッラァッ!」
狙いは再び投擲による顔面への軌道。
ひるんだ隙に右手のナイフを滑らせてくるつもりだろう。
ならばと、左手で顔を防御する。刺さるナイフとあがる血しぶきから目を守るためまぶたを下ろす。
触覚を最大限に働かせ、触れている剣先からの男の動きを予測する。
ちりちりと音を立て、男はやはりレイピアの上にナイフを滑らせてきた。
鍔元にたどり着いたらそこで急転換、喉笛か心臓に叩き込んで動きを止め、その隙にまた二刀を抜いて首を刎ねる、といったところか……。
読みを済ませた青年は、
そこでレイピアを手放す。
刃を辿っての攻めの中途でがくんと力が行き場を失い、おそらく男は困惑したはずだ。
その虚を突いて、左足で思い切り蹴りつける。
「ぐぇ、げっ」
ぱちりと目を開け、落ち行くレイピアを視認。
つかみ取ってすぐさま、青年は距離の空いた男を突く。突く。右太腿と左わき腹。順に痛覚の多い部位を突かれることで反射から身をよじった男の首の脇へ、とどめの一突きを刺しいれる。
あとは、剣身をいっぱいに用いて、引き切る。血が散り肉が舞い、男はもの言わぬ生体の資源と化した。
「……ふむ」
と、そこで声がして、青年は横を向いた。
川辺に降りるための階段中腹に、こちらを見ている影があった。
やせっぽちだし、上背はさほど高くない。いま斬った男や青年より一五センチは低い。
その少年は、濃紺の外套ですっぽりと身を多い、麦色の眼鏡をかけていた。くしゃくしゃの黒髪は、このあたりではあまり見ない。
地面についたステッキだけが妙に迫力を醸し出していて、もしかすると仕込みか、と青年は推測する。
「……もしやこのナイフ男、きみの知り合いかな」
レイピアは手放さず、左手に刺さったナイフを抜きつつ訊ねる。少年はかぶりを振って、いや、とあまり気のない返事をした。
「知らん。が、おれの探し者を知っているかもしれないから、生きていたなら問おうと思っていた」
「それは悪いことをしたね」
「いや。急ぎではないから、問う相手が少し減っても構わん。とりあえずあなたには訊いておこう……ジム・クラウチという男を」
ここで言葉を切り、ちらりと少年はレイピアを見た。
なにか警戒されているのかと思い、青年は剣を仕舞った。
「知っているか」
「名持ち、か……申し訳ないが、知らないよ」
「そうか」
だろうな、という言葉がつづきそうな、あきらめ心地の漂う声音であった。
こつ、こつとブーツの底を鳴らして、少年は川辺に降りてくる。
首を刎ねられ仰向けに倒れた男をためつすがめつして、それからナイフをじぃと見つめた。「業物だな」とだけ言って落ちていたナイフ三本を鞘に納め、男の腰ベルトに吊るす。
襟首をつかむと引きずりはじめ、階段の方へ向かった。
「どうするんだい、それ」
青年が問うと、少年は振り向きもせずぼやく。
「埋葬をする」
ずいぶんと古い概念を持ち出してきたものだった。青年はわずかに驚く。
「生体の資源なのだから、そのままテムズに沈めればいいのに」
言えば、足を止めた。
振り向いたとき、感情の薄かった少年の顔に、広がる嫌悪と忌避があった。
「斬った相手だろう」
「それはもちろん」
「なら丁重に扱え」
青年が丁重に扱わなかったからこそ、死んだわけだが。
わけがわからないことを言う少年は、そのままずるずると資源と化した男を引きずっていった。
青年はぽりぽりと頭を掻いて、左手だったため血がついてしまい、ああとうめいた。
じゃばりと淀んだテムズの水面に突っ込み、血を流してからマントの裾でぬぐう。と、ぷかぷか浮かぶ生体の球を見つけ、ぶよぶよとしたこの緑の塊をいくつか失敬した。
ポケットを探って出した触媒の液を、注射器の手持ちがないのでレイピアの先で刺しいれる。球体はにぶく穏やかに内側から光を放ち、光は水面のほかの球体に伝播した。
生体網の光信号が、周辺の気候変動情報などを伝えてきた。
「本日も晴天なり、と」
永遠に晴れない闇天を見上げながら、青年はつぶやきを漏らした。変なことを言っているとは、ほとんど思わなかった。
ちゃぽん。と、手にしていた生体を持参したガラス瓶に収める。すぐさま、内壁に塗られたタンパク質分解酵素が生体をばらばらに溶かす。
液体になっても、その『前』の状態でも、動きはしない。
先の資源と化したものとなにがちがうんだろうと思いながら、青年はウーリッジの方へ戻っていった。