2 ジャック〝ザ・グレイブ〟
女は墓守をはじめて長いが、教会でのおつとめの方がさらに長い。
今日も朝から冷たい礼拝堂の中に整然と椅子を並べ、像や柱を磨き、チリとほこりを丁寧に掃き集めていた。
と、鐘楼からごうんごうんと風向きが変わる報せを耳にし、西側の一か所だけ窓を開けにいく。
「……うん、いつものお天気」
頭衣をかぶった頭を窓から出すと、スモッグが薄く、彼方へ吹き去っていくのが見えた。
いつもどおり閑散とした大通りは、かさかさに干からびた肉、生体の破片が転がっている。今日はテムズの方へ風が吹いているから、これらも向こうまで届くのだろう。
思いつつ、彼女は大扇で堂内のよどんだ空気を追い出す。永遠に晴れない闇天の方へ、風はそよそよと流れていった。
ひとしきり体を動かして汗がにじんだ頃、開け放したまま窓を離れた。風は西に向かって吹いている、しばらくはスモッグが吹き込むこともない。
掃除のつづきに戻る。モップと、濁り水の入ったバケツを手に、こつこつと歩き出す。
そこで、やっと気づく。
「……?」
掃除しようと思って堂内東側にある懺悔室の前に立つと、ドアの隙間に濃紺の外套の端が挟まっていた。ぴろぴろと、風にそよいでいる。
少し考えてから、彼女はモップとバケツを脇に置いて、懺悔室の扉を開けた。
もちろん、外套が収まっているのではない方だ。咳払いひとつして、語り掛ける。
「もし、そちらのお部屋の方」
「…………ああ」
くぐもった声が、小窓の向こうから届く。存外、若い声だった。女より十は下だろうか。
だが不死もはびこるこの時代、声音の年齢にさほど意味はない。また、この場においては関係もない。この少年に悩みがあればきくまでだ。
「おはようございます。悩める子羊さん。早起きして来てくださっていたとはつゆ知らず、捨て置いてしまって申し訳ありません。ささ、どうぞお話しくださいな」
「…………懺悔、か」
「はい。告解を」
言いつつ、女にはだいたい内容の予想はついていた。
というのも、この部屋……におうのだ。
こもった、すえたにおい。女にも覚えのあるにおい。
時間の経った、血のにおいだった。
「……おれは、大破の時計塔の方から来た」
細々とした声で、向こうの部屋の主は語り出した。余計な茶々を挟まず、女はこれを受ける。
「なるほど。あちらから」
「昨夜のことだった。少し、疲れていて。それで……」
「それで」
「勝手と思いつつも、ここで眠ってしまった。寒さしのぎに」
「なるほど」
「…………、」
沈黙する。
語りづらい事情があったのだと察して、女は待った。
しかし待てども待てども、言葉はつづかなかった。
女はじっと待つ。
ややあって。
はっと気づく。
「……大丈夫ですよ。教会は何時だれにでも開かれています。勝手に入って眠ったとてお許しくださいます」
「そうか」
ぶっきらぼうな物言いだが、少し声のかたさが取れた。本当に、その点だけを気にしていたらしい。
へんな少年だ、と思いながらも女はそれ以上触れない。告解は自らおこなうものであり、だれかに強制されるものではない。思うところがいまはないなら、いまは必要ないというだけのことだろう。
「一泊、いただいたこと。恩に着る」
「いえいえ。ここは迷えるひとすべての家です」
ぎいと扉が開く音がする。あの外套、しわになっていないだろうか。そんなことを女は思った。
少年が去るまで待とうと思って、背もたれに体重をかける。
ところがしんとしたまま、足音もなく。ひょっとして幽霊だったのかしらなどと気になって扉をあけたところ、まだ少年はそこにいた。
くしゃくしゃの黒髪の間に、麦色のレンズをはめ込まれた眼鏡をかけ。一メートル六〇ほどの小柄な体。引きずりそうなほどすっぽりと覆う濃紺の外套。左手には、黒檀のステッキ。
薄くはちみつを落としたミルクを思わせる、少し色づいた肌は声音よりなお表情が硬く、女を見る目は鋭かった。
「ご、ごめんなさい」
女は思わず謝るが、少年はいや、とかぶりを振るだけだった。
「問い忘れたことがあり、足を止めていた」
「問い?」
「ああ。ジム・クラウチという男を探している」
降ってきた疑問に、女は首をかしげた。
「存じませんね」
「そうか。邪魔をした」
きびすを返し、少年は南に面した出入り口の方へ向かった。
その背を見据えながら、女は再びモップを手に取る。バケツをどけて足下に毛を這わせ、ぐいと強く毛の部分を踏みつける。ぐじぐじと踏み躙るようにして、床の汚れに毛を押し付ける。
ような、動きをして。
強く踏みしめたまま、女は両手を柄に添えて引く。
音もなく、モップの毛はその場に残った。
たん、と間合いを踏み越える音が堂内にうるさく。
振り向きざまにステッキから抜き放たれた横薙ぎと女の槍の突きが、互いに軌道を反らしあった。
「……表情に嘘はなかったが」
「嘘はついておりません。神に誓って。けれど、その名を口にしたものを排除するようにとは、仰せつかっております」
「だれから」
「嘘はつきませんが真実を口にしない自由は何時だれにでも許されています。あなたにも、わたしにも」
間合いは五歩。全長一メートル七二センチを超える女の槍は二歩で届き、全長でも七〇センチほどだろう少年の剣は三歩半を要する距離。
少年は右片手下段。右足を前に低く腰を落とし、自らの後ろへ向けた切っ先で床をこすりそうな姿勢。女の流派では打合せと呼ばれる、剣の出を悟られにくくする構え。
対する女は中段。左半身で左手は前に伸ばしまっすぐに穂先を突きつけ、右手は臍の前。足幅は肩幅より少し広く取り、小刻みにつま先で間合いの出入りを行う盛上げの構え。
にらみ合い、少年の方が先に動く。じりじりと女を中心とした円を描くように、彼にとっての左手側へ歩いていく。
妙な動きである。左半身に構えている彼女からすれば、そちら側はむしろ狙いやすい。人間の身体は構造上、腕を外に向ける動きよりも内へ向ける動きの方が得意だからだ。
こつり、こつりと彼は移動していく。
そして東側の壁を背にしたところで、
だんと一足、強い踏み出しを見せた。
思わず女は構える。
けれど、この動きは虚であった。
前方へ一歩。この力を利用して強く踏み込み、前ではなく後ろへの推進力に変える。
跳び退った彼の背後には、窓がある。
ここへ、彼は振り向きもせずに下から真上へすくいあげる一閃を放つ。
細身の剣は垂直に両開き窓の間を通り、真ん中で二枚を押さえる掛け金を、弾き斬った。
「あっ……!」
途端窓を押し開き吹き込むスモッグ。西側の窓を開けていたため、吹く風の圧力がそのまま堂内へ流入したのだ。
白煙の内へ少年は消える――後退か、奇襲か。
いずれにも対応できるよう、女は迷わず動いた。穂先をわずかに右前方へ傾げ下げながら、するりと左の手の内に柄を滑らせ、右手と共に槍の端を握る。
槍による、右から左への払いが勢を発する。
スモッグを斬り裂いて、刃は少年を求め延びる。窓までは刃の圏内だ。
しかし手ごたえはない。
身を翻しスモッグを突き抜けてきた少年の所在は、上だった。おそらく後退の勢いそのままに窓べりに後ろの足を載せて身を引き上げ、またそこを蹴って高さを得たのだ。
大振りを放ったあとの女に回避の術はない。
真っ向から降りかかる剣筋が――先の窓への一閃と同じように、脳天へ垂直に撃ちこまれる。
ぱかぁん、と間の抜けた音を己の頭の中に聴いた。
「っちぃ……」
次いで、妙に低く響く舌打ちを聴いた。
己の、舌打ちである。
「……っぐ、」
さらに聴こえるは、苦悶の声。
頭上からの、苦しそうなうめき。
得物の先からしたたる声。
女が脳天を割られつつ振り上げた、穂先の逆。石突の先による撃ちこみを左わき腹へ食らった少年が、中空より崩れ落ちながら発した声だ。
「ち。死留め損ねました」
もう一度舌打ちしてから言って、女は距離を取る。どさりと落ちつつも剣で足下を薙ぎ払われて、引くほかなかった。
だが少年の顔に脂汗はやまず、端正な面立ちにつらさが滲む。
少年の方も完全に死留めたと思ったのだろう。そこへ反撃がきたので、予想外のダメージとなったようだ。
「いやはや、剣身が細く薄い剣で助かりましたよ」
女が頭をとんとんと叩いて言う。頭の中で、声の妙な反響などもない。不死人としての回復力はしっかりと頭蓋をふさいでくれたようだった。
少年は苦々しい顔つきで、己が誘われていたことを知る。
「……左右の脳髄の真ん中を走る溝を、斬らせたのか」
「ええ。不死人を相手にしてきた人間なら、きっと回復の芽をつむために『傷を認識』できなくなるよう脳を狙うと思ってましたので。しかしそちらもさるものですね、肝臓か心臓を破裂させるつもりで突き上げたのですが」
空中だというのに、重心の移動で猫のように身をよじり、致命打は回避していた。
本当にいい腕だと思いながら、女は再び中段、盛上げの構えで狙う。
少年は苦し気にうめきながらよろめき、なんとか右片手中段に構えなおす。
そこへ――女は鋭く突きこんだ。
左手は筒状に柄を覆うのみで、右手によってしごくように穂先を出す。
少年が弾き反らそうと反応しかけた瞬間を狙い、左手を内へ絞り込むように利かせる。しなるように穂先は軌道を変え、少年の剣をかわして太腿を刺そうとした。
たまらず後退した少年に、続けざまの刺突。連ねてらせん状に左手首を利かせ、内から外への巻き払い。
連撃に息詰まり、少年は後ろへ転がった。
「……ふ」
消極的な姿勢に笑い、女はまたも左手を滑らせる。
リーチを伸ばしての撃ちこみ。真上から叩き付ける動きに、少年は剣先を合わせる。
諸刃の穂先に沿わせるように。剣を頭上高くへ垂直に立て、花鍔で穂先を受けた。
ぎしりと重みが伝わり、威力を受け流すため彼は鍔を柄へ滑らせる。それでも遠心力のついた振り落としは絶大な重みがあったか、少年の身体がつぶされそうになる。膝が曲がる。
だが、
この上からの圧を受けることまでが狙いか。
前へ。
女の槍捌きに、力掛けに、己の剣を引き込ませるようにして。
「な、」
膝が前に出て屈する力を利して、ごく自然に前傾、疾走した。
掲げていた剣の裏刃に当たる、しかし刃のない身へと左手をあてがい。
柄を滑る勢いのまま、ばらばらと女の指をこそぎ落とした。
「あ」
「切り離せば回復もするまい」
屈んだ姿勢から、左手をあてがったまま水平に構えなおし。
首を狙う横薙ぎの軌道。ぎり、と歯を食いしばり、女は指のない右手を襟元にひきつけ首を守ろうとした。
その手首ごと、少年の剣は両断する。
「 ぁ 」
喉からか細い声が漏れる。
脳髄への血流が途絶えた。しかし、まだ生きている。
ぶらんと両腕をたらし、あえぐことさえできぬまま。
立ち尽くす女を見て、少年は不思議そうな顔をした。首を中ほどまで斬ったところで、剣が止まっていた。
「……ああ」
それからなにか理解した様子で、剣を抜く。
どさりと膝から地面に落ちて、女も遅れて理解する。
首から下げていたロザリオ。
そのチェーンと銀の十字が戦闘中に絡まって、修道服の襟の中でもつれていた。その上から斬ることになったため、わずかに勢いを削いだのだ。
とはいえ、指はなく槍は握れず。
この少年の脚力からは、きっと逃げることはかなわない。これは偶然生まれた、最期のいとまに過ぎない。
「……妙なこともあるものだ。神のご加護か」
ひとりごちて、ひゅんと剣身より血を振り飛ばす。この間にも、首の傷は癒えていく。ごほごほと、血痰を吐き出す苦しさに女は身をすくませた。
でも、それもあとわずかのこと。
「……神など。わたしには、加護をくださいませんよ」
果学を信奉し、このように死を厭う『生まれ持ったものでない身』を、けがれた身を得たのだから。
「……からだを、大事にしなかった。生き物として、ゆがんだ……その自己認識を、信仰で、ごまかそうとしただけ……」
と、そんなことを。
最期だというのに、ぼやいた。
「そうか」
少年はにべもなく。
けれど告解を受ける司祭のように。
ただ聞いてくれて、剣を肩に寝かせた。