戸惑い
雅直が大広間に戻ると、宴はまだ続いていた。こっそり、自分の席へ戻ろうと思ったところへ、輝明に呼び止められた。
「遅かったな」
「ああ、少し酔ったので夜風に当たっておったのだ」
「そうか……」
嘘を吐くな。輝明は、座ったまま、雅直を見上げたが、そしらぬ顔で席へ戻って行った。桜が青い顔で広間を出た直後に、雅直がすっと後に続いて広間を後にした。後をつけているようで気が引けたが、気になるので輝明も外へ出た。
背中しか見えなかったが、ふらふらと足元がおぼつかない桜を雅直が抱きかかえて歩いていた。その時に声を掛ければ良かったのだ。何事もないと安心できたはずだ。しかし、雅直が桜の耳元へ顔を寄せるのを見て、驚いて機会を失ってしまった。そして、この嘘だ。何を考えているのだ。
桜どのはわしの嫁だ。
会ったばかりだが、独占欲が湧き上がる。他の男と仲良くしているのは面白くなかった。婚姻の話が来て、会うのを楽しみにしていた。しかも、桜の父から、桜も会いたくて光ヶ崎に来たと聞いた時は、どれだけ嬉しかったことか。桜の前でも平静を装うのが大変だったくらいだ。実際、桜は可愛らしく、何度か見た笑顔は、輝明の脳裏に焼き付いた。
「桜はどうした?」
桜の兄・高信が辺りを見回して桜を探した。とうに大広間から姿を消していたのに気が付かないとは、この男も酔っている。
「気分が優れぬと申して、部屋に戻ったが……。今頃気が付きおって」
高信は酔いのせいか笑っていて、雅直に背中を叩かれていた。
「そうか。しかし、桜がそんなにか弱いとも思えんがな……」
「兄なら、女人らしく成長したからではないかと思わんのか」
談笑している二人をそしらぬ顔で窺っていたが、ふっと顔を上げた瞬間に雅直と目が合った。雅直はにっこり笑って、高信と話し始めたが、輝明は雅直から目が離せなかった。やましくないなら誤魔化す必要などないはずだ。それとも、わしが聞いたら気分を害すると思って気を遣っているのか。それとも、雅直は、桜どのを好いているのか。杯を呷ったが、すでに中は空だった。くそ、わしもどうしたものか。舌打ちをして、杯を置いた。
「どうした?輝明。」
隣の父・晴明が和政との話を中断し、伺う。
「いえ、何でもございません」
すると、父はまた和政と話に戻ってしまった。わしも大概に嘘吐きじゃな。輝明は大きなため息を一つ吐いた。宴は、その後遅くまで続いた。
桜が目を覚ますと、日が大分昇っていた。上半身を起こし、目覚めたばかりの頭を働かせた。たしか、昨日は光ヶ崎に父上と兄上と来て、輝明さまとお話した。良いお人だった。
あ……縁談ではなく、すでに嫁ぐことが決まっていたのだ。しかも、知らなかったのは、私だけ。眉をひそめ、思いを巡らした。チチチッと戸の向こうで鳥のさえずりが聴こえた。今日は暖かいな。障子へと顔を向けた。
「ああっ!」
思わず大きな声を出してしまい、慌てて口を両手で押さえた。
昨夜、そこに立っていた雅直の姿を思い出したのだ。宴で気持ち悪くなって、部屋まで運んでいただいた……。腰に手を廻して…。急に恥ずかしくなり、顔を真っ赤にした。
うわぁ……何てご迷惑を……。しかも、抱えていただいて……。
そういえば、今日、どこかへ付き合えとか何とか言っていなかっただろうか。耳元で囁かれたことを思い出し、「きゃあ!」とまた大きな声を上げてしまった。
「失礼致します。姫さま、どうかなされましたか?」
障子の向こうから侍女の声が掛かった。二度も大声を出してしまったのだ、何かあったと思われるであろう。
「何でもない、すまぬ。着替えるから手伝ってくれぬか?」
そうだ、のんびりしている暇はないのだ。いつ、雅直が迎えにくるか分からないではないか。すると、すっと、障子が開けられ二人の侍女が手をつき、一礼すると「失礼致します」と入ってきた。髪に櫛を入れられて、花の飾りが付いた元結でまとめられ、薄桃色の地に赤い花柄が裾に入った小袖、帯は赤色、とりあえず誰か尋ねて来ても大丈夫なように身支度を終わらせた。朝餉を取り、一息吐いた頃、雅直が現れた。
「桜、入るぞ」
小姓を二人従えた雅直は、小姓が部屋の外で控えるのを横目でちらっと見ると、そのまま部屋に入って来た。慌てて、桜は下座に移って平伏した。昨夜のことは特に気に留めていないようで上座にすっと座った。流れるような所作で、女の桜が羨むほどだ。
「面を上げよ」
顔を上げると、雅直は桜の顔を真っ直ぐ見つめていた。無表情で真っ直ぐな視線に驚いて、びくんと体を揺らしてしまった。
「うん、顔色は良さそうだな。気分はどうだ?」
「はい、おかげさまで良くなりました。雅直さまには、大変ご迷惑をおかけしまして、申し訳ありません」
「迷惑などと思っていないと言ったであろう。桜とは長い付き合いだ、今さら遠慮などするな」
そんなに迷惑ばかりかけていただろうか……。少し考えこむと、雅直が、ふっと目を細めて笑った。あ……いつもの雅直さまだ……。その笑顔が胸の中で、昨夜の雅直の曇った顔を打ち消してくれる気がした。
「桜、夕べ話したが、行きたい所があるのだが……出かけても大丈夫か?」
「はい。しかし、どこへ?」
桜は、首を傾げた。どこへ行くとも聞かされてはいなかった。しかも、河野を招いて会談の期間に、だ。大事な急ぎの様なのだろうか。それに、桜は嫁入り前の身だ。いくら、いとことはいえ、若い男と二人で出掛けたりして良いものなのだろうか。しかし、約束までして行くと言うのだから、よほど大事な用なのだろう。
「ちょっと、な」
そう言うと、雅直は今度は悪戯でも思いついた童のように、目だけは輝き、口の端を上げて笑った。
「ああ、そうか、桜はその格好では馬には乗れぬな」
立ち上がり、上から桜を見下ろすと思い出したように言った。え?馬?そんなことは早く言って欲しい……。そしたら、着替えも馬に乗れるように袴を用意したのに。桜は姫でも山育ちだ、馬にも乗れる。兄までとは行かなくても、剣やなぎなた、弓の稽古もしてきた。国境の城の娘だからと、いざという時のために両親に育てられた。
すると、控えていた小姓が廊から声をかけた。
「若さまが、ご自分の馬に乗せられれば良いと存じますが」
「そうだな、あまり時間もないゆえ、着替えておられぬ。すまぬが、私の前で構わぬか?」
「はい、かしこまりました」
と答えたのは良いものの、昨日の今日で、また雅直と触れる距離になるのが恥ずかしい。本当に自分は、どうしてしまったのか……なぜ、こんなに雅直を意識してしまうのか…桜は答えを導けずにいた。
桜は、立ち上がり部屋を出た雅直に続いた。その背中を見つめても自分の気持ちが分からない。もやもやと霧が晴れないでいるようで、気持ちが悪い。
そして、いや、やはり予想していた通り、馬に乗ると雅直に抱えられた。雅直が先に馬の背に乗り、桜の手を引っ張り上げた。雅直の前に横乗りの体制に座らされ、案の定、手綱越しに抱えられた。
「落馬でもしたら大変だからな」
と、決まり文句を言われ、雅直にしがみつくようにと桜の両腕を自分の胴へ巻きつかせた。これでは、自分から抱きついているようではないか!
「ま、雅直さま……」
堪えきれず、小さな声で呼んでみた。
「どうした?桜。ん?真っ赤ではないか、やはり、まだ具合が悪いのか?」
分かってない!桜を乗せるために馬を押さえていた小姓が、下の方で顔を背け笑いを堪えている。
「若さま、姫さまは奥ゆかしいお方ゆえ、照れておいでなのです」
うわぁ、照れているとはっきり言われてしまった。しかも、奥ゆかしいなどと……そなたの主の雅直さまには、逞しいと言われたのに。
「ははっ、桜にも姫らしい所があったのだな」
「雅直さま!あんまりでございます!」
思わず、桜は後ろを振り返って、口を尖らせた。勢いよく振り返ったので、態勢が崩れ、とっさに雅直の胸元をぎゅっと掴んでしまった。
「おっと」
雅直は、口で言うほど驚くことはなく、桜の背を抱きとめた。
驚いたのは、桜の方だ。
落馬しそうになった上、恥ずかしいと思っている相手に抱きとめられたのだ。
「あ、ありがとうございます」
「ああ」
そっけない一言で、どきどきしているのは桜だけだということを思い知らされて、悲しい気持ちになる。
悲しい?どきどきしている?自分の気持ちが掴めずに、また、戸惑う。顔を見られたくなくて、桜は顔を背け、前を見た。すると、耳元に何か近づく気配がした。
「すまぬ、からかっただけだ。桜が可愛いところがあることくらい、知っているさ」
誰にも聞こえぬ声で囁かれた。吐息が耳に当たる。くすぐったいが、胸の中が満たされる感じがした。それは……嬉しいということだろうか。悲しかったり、嬉しかったり……桜が頭に中で整理し始めたところで。
「さ、若さま。あまり猶予がございませぬ」
小姓から声が掛かった。まとまりかけた考えが何なのか忘れてしまう。
「そうだな。行くぞ」
雅直はそう言って、桜に被きをかぶせると、馬を出した。桜は考えていたことを一先ず、置いておくことにした……落馬しないために。